変わりゆく朝に祈る
〝取引〟が交わされてから七日後、エリーゼはどこか落ち着かない気持ちで食卓についた。
真白いテーブルクロスの上に並べられたカトラリーは磨き抜かれた銀製。ほんの少し前までわずかな具が浮くばかりの塩味のスープと硬いパンしかなかったその場所には、鶏肉のローストと温野菜が並び、焼きたての白いパンにはバターとジャムが添えられていた。
まるで自分の屋敷ではないような違和を感じながらも、エリーゼはそれを弟ニルスに悟られないよう、表情を丁寧に整えていた。
「今日の糧を与えてくださったことに感謝します。私たちが正しくあれますように」
食前の祈りの言葉を口にするのは、以前は母の役目だった。今はいつの間にかニルスがその役目を担っている。人並みの食事を摂れるようになってから、祈る声はどこか明るくなったように思う。
——神様なんていない。
エリーゼはそう思っている。信じているふりをするのは、もうずっと前からの癖だった。少なくとも弟の前では、信じている姉を演じることが正しいはずだ。
目を閉じるふりをして、エリーゼはそっと弟の顔を覗き見る。
手を組み、瞼を伏せるその姿は、十歳とは思えないほど落ち着いて見えた。品のある灰髪と同じ色をした長い睫毛が持ち上がる。光の角度で淡く輝く水色の瞳が、目の前に置かれたパンを嬉しそうに捉えた。
白くて丸いパンは外側こそわずかに張りを持っていたが、内側は空気を含むように軽く、指先にしっとりと馴染む。
「このパン、すごく甘いね。バターの匂いもする。ふわふわだ……」
パンを割りながら目を細めて笑うその顔を見て、胸の内に小さな痛みが灯った。
これまで大切な弟にまともな食事ひとつさせてやれなかった無力な自分が情けなくて、うまく顔を上げられない。
壁際には数人の使用人が控えており、窓の向こうでは庭師たちが草木の剪定をしているのが見えた。
かつては物音ひとつしなかった屋敷の中に、生活の気配が戻っている。床に響く足音も、扉を開け閉めする音も、誰かがこの家を気にかけてくれている証のように思えた。
彼らがブランシュタイン公爵家の名を記した封書を持ってこの屋敷を訪れたのは数日前のこと。身の回りの世話をする侍女と、厨房を預かる調理人、庭の手入れをする庭師。
みなそれぞれに挨拶を欠かさず、礼儀正しく、そして何より自然な態度でエリーゼに接した。施しを受ける者として扱われることもなく、かといって媚びる様子もなく、ただ日常の一部としてそこにいるようだった。
環境の変化に心が追いついていかないのは確かだ。けれど、それをニルスに悟られてはいけない——
「姉さま」
呼ばれて顔を上げると、ニルスが食べかけのパンを持ったまま、じっとこちらを見ていた。
「なんだか夢みたいなんだ、今の生活。お屋敷も明るいし、ご飯も美味しくて、みんな優しくて……ねえ、本当に、何があったの?」
問いかけは慎重だった。子供なりに状況を察しているのがわかる。その瞳の奥にある賢さが痛かった。
真実をすべて伝えることはできない。けれど、何も言わずにやり過ごすこともできなかった。
「……公爵様が手を差し伸べてくださって、少しだけ、状況が良くなったの。だからといって油断はできないけれど、これから、少しずつでも前に進めたらいいなって思ってる」
「それからね」と意識して明るい声で言葉を続ければ、ニルスの瞳に無邪気な好奇心が浮かぶのが見える。
「今度、あなたのために家庭教師の先生が来てくださることになったの。きちんと教えてくださる人が必要でしょう? 今までは、私が無理に教えていただけだから」
何気ない話題を装いながら、内心ではそれがどれほど大きな一歩かを思い知らされていた。
これまでは見よう見まねで教えてきた。読み書きも算術も、限られた知識と古びた本を頼りに、どうにか形にしてきたつもりだったけれど、本当はずっと不安だった。間違ったことを教えているかもしれないという疑念は、教えるたびに喉の奥で燻っていた。
「その先生も……公爵さまが手配してくれたの?」
「そうよ。ニルス、あなたには……誰に見られても恥ずかしくない、立派な人になってほしいの。そのために、私もできるかぎりのことをするわ」
ニルスはしばらく考えるようにパンを見つめ、それから顔を上げた。
「じゃあ、ぼく……がんばるよ。その先生に、ちゃんと褒めてもらえるようにする」
無邪気さの奥に、まっすぐな責任感が宿っていた。小さな子供の肩にこんなにも多くのものを背負わせてしまっていたのだと思うと、胸の奥にまた一つ、言葉にならない痛みが灯る。
いずれニルスがこの家を継ぐその日までに、子爵家を立て直さなければいけない。見栄でも、虚勢でもなく、誇りとして名乗らせてやりたい。
エリーゼが改めてそう決意したとき、再びニルスが口を開く。母と同じ綺麗な水色の瞳は、どこかエリーゼの心の奥深くまで見透かすようだった。
「姉さまは、その公爵さまのこと、信じてるの?」
「……ええ。今は、信じてみようと思ってる」
上辺の言葉だけではなく、実際にこうして屋敷を整えてくれた。少なくとも神より、手を差し伸べてくれたローレンツ・アルヘルム・ブランシュタインという男を信じてみたかった。
「姉さまが信じる人なら、ぼくも信じるよ」
信じる。たったそれだけの言葉が、どうしてこんなにも重たく響くのだろう。
脳裏にふと公爵の横顔が思い浮かぶ。確かにあれは優しさだった。けれど、差し出されたのは好意ではなく、あくまで“取引”という名の契約だった。
——取引。
心の中でその言葉をゆっくりと反芻しながら、目の前にある温かな食事へ視線を落とす。
焼きたてのパンも、彩りよく盛られた皿も、丁寧に立ち働く使用人たちの姿も、すべてはベルンハルト子爵家が生き延びるために与えられたものだ。そして、その代価を支払う責務は、ほかならぬ自分にある。
公爵から届いた手紙には、次の段階について記されていた。最初の一歩は、そう遠くないうちに訪れる。その時になって迷わぬよう、今はただ、心を整えるしかない。