最後の舞踏会
ガタガタ揺れる貸し馬車の中で、エリーゼ・ベルンハルトはそっとドレスの刺繍を指先で撫でた。
青い絹地に施された繊細な花模様が月明かりの中でかすかに輝いている。窓から入り込んだ夜の冷気が頬に触れ、張り詰めた心を少しだけ和らげた。
二年前、十六歳でデビュタントしてから、二回目の舞踏会。あの時の胸の高鳴りとは違う、重い鉛のような緊張が全身を包み込んでいた。
エリーゼは顔を上げ、窓硝子に映る自分の姿を見つめた。慣れない手つきで結い上げられた淡褐色の髪は何度も直したにもかかわらず、尚も少し乱れていた。
灰緑色の瞳には不安が宿り、白い肌は普段より一層青白く見える。この青いドレスは自分の地味な色合いとは相性が良くなかった。それでも、今夜はこれしかなかった。
(——この舞踏会が最後の機会なのだから、頑張らないと)
そう自分に言い聞かせ、膝の上で手を握りしめる。馬車が揺れるたび、エリーゼの胸の中でも何かが揺れるようだった。
けれど、会場に足を踏み入れた瞬間、空気が凍り付いた。
赤。
どこを見ても、そこには燃えるような赤のドレスをまとった貴族の令嬢たち。
鮮やかな炎のような赤が、エリーゼの視界を埋め尽くす。
ただひとり、自分だけが青。他の女性たちの間で、まるで消えゆく火のような存在感しかない。
エリーゼは石になったように立ち尽くした。
どこからか忍び笑いが聞こえる。意図的に耳に届くよう調整された、洗練された残酷さを帯びた囁き声。
「まあ、知らなかったのかしら」
「可哀想に。でも、仕方ないわね」
ひやりとした冷たい汗が背筋を伝い、ドレスの布地を湿らせた。
まるで自分だけが異邦人のように、居場所のない存在のように。
(——どうして?)
むなしく問いかける声は自分の中だけに響き、答えは返ってこなかった。
◇
母の体調が悪化し始めたのは、エリーゼが十五の頃だった。
もともと病弱ではあったが、その年の厳しい冬を越えてから急激に衰え、やがて寝たきりになった。それでも子供の前では気丈に振る舞おうとする姿に胸が痛んだ。
父は治療費を捻出するために奔走した。しかし子爵家の財産など、所詮は見栄と名前だけで支えられたものにすぎなかった。
屋敷を飾る美しい調度品、代々受け継がれてきた絵画、母の宝石類——思い出が染み込んだものが次々と見知らぬ人の手に渡っていった。足りない分は借金に頼り、エリーゼは夜な夜な父の書斎から漏れる嘆息を聞いて育った。
金を貸してくれたのはまともな商人だった。父と取引のあった古い知り合いで、困窮する貴族に手を差し伸べる気概のある男だった。
しかし彼が亡くなり、息子が後を継いでからは状況が一変した。返済が滞るたびに容赦ない高利がつけられ、請求書に書かれた額はまるで生き物のように膨れ上がっていった。
それでも母の命が助かるなら——エリーゼも父も、そう祈るような思いで耐えていた。
けれど、すべては無駄だった。ある静かな春の朝、母はエリーゼの手を握ったまま、花が散るように息を引き取った。そして父はそれからしばらくして、悲嘆のあまり床に伏せってしまった。
エリーゼには十歳の弟がいる。小さな体でいつも不安げにエリーゼの表情を窺う弟。父の代わりに家を守るのは、自分しかいない。なのに、このままではあと半年で、ベルンバルト家は終わりを迎えるかもしれなかった。
十七歳の誕生日を迎えたあと、後を継いだ息子が告げたのは『十八歳の誕生日までに全額返済しろ』という無理な条件だった。そのとき男の目に浮かんだ下卑た光に、エリーゼは身震いした。
抗議すると、彼はひどく呆れた顔で嘲るように笑った。
『金持ちの男と結婚すればいいだろう? そうすれば問題はすべて解決する』
言い捨てるような声が耳にこびりつき、夜も眠れなくなった。
『そんな男が見つからなければ、侯爵閣下のお世話になればいい。きっと可愛がってもらえる』
その名前を聞いた瞬間『ふざけないで』と喉の奥で叫んだ。侯爵は確かに裕福だったが、年齢は六十を過ぎている。しかも粗暴な噂の絶えない男だった。その名を聞くだけで、貴婦人たちの間では顔をしかめるのが常だった。
彼の愛人になれば借金は帳消しになり、さらに融資までしてもらえる。しかしその見返りに支払うのは、尊厳であり、希望であり、人生そのものだった。
そんな道を選ぶくらいなら、いっそ家など潰れてしまえばいい——そう思う時もあった。けれど、それは無邪気な笑顔の弟を見捨てることと同じ。彼にだけは、貧しさを味わわせたくなかった。
返済の催促は、日に日に執拗になっていった。「なんとかしなければ」という思いが、夜な夜なエリーゼの胸を締め付けた。けれど金のない没落子爵家に結婚相手を紹介してくれるほどの知人は、もう誰一人残っていなかった。
そもそも貴族の男たちが求めるのは、財産と家柄のある令嬢だ。持参金も用意できない没落子爵家の娘と結婚するような奇特な人間は、きっとそうそういない。
それでも、試さずにはいられなかった。もし仮に最悪の結末——愛人になるのだとしても、やるべきことをやってそれでも駄目だったのなら、運命だったのだと少しは受け入れられるかもしれない。
そんな時、かつての親友が伯爵家へ嫁いだという話を耳にした。懇願すれば、彼女の新しい家の舞踏会への招待状を分けてもらえるかもしれない。長いこと疎遠になっていたが、幼い頃は互いの家を行き来するほど親しかった。
家が没落するにつれ貴族の付き合いから自然と遠ざかってしまったのは、やむを得ないことだった。再び頼みごとをするのはみっともないことかもしれない。だが、もはやこれしか道はなかった。
久しぶりに訪ねた友人は、エリーゼを見るなり、迷惑そうな表情を隠そうともしなかった。
「本当に来るの?」
乾いた笑い声に、恥辱で顔が熱くなるのを感じた。彼女の冷ややかな眼差しが、今や二人の間に横たわる深い溝を物語っていた。
けれど、それでも構わなかった。招待状さえ手に入れば、他に求めるものはない。友人は少し考えるそぶりを見せたあと、溜息とともに「好きにすれば?」と小さな封筒を手渡した。
その指先にわずかな躊躇いがあったような気がしたが、それを深く考える余裕はなかった。その時、エリーゼはただ、感謝の言葉を口にするので精一杯だった。
財産はすべて売り払ったが、母が大切にしていた一着のドレスだけは、どうしても手放せなかった。縫い目がほつれ、少し色褪せていたものの、エリーゼは夜な夜な蝋燭の灯りの下でそれを直した。
深い青はエリーゼの地味な色合いを一層引き立たせ、自分自身の存在を薄めてしまうことは分かっていた。それでも、今夜、これを纏い、最後の機会に賭けたかった。それ以外に選択肢はなかった。
けれど、現実は——
新連載です。
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まだ連載中の前作「声を失った歌姫が、もう一度幸せを歌うまでの物語」も読んでいただけると嬉しいです。よろしくお願いします!