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目覚めても、まだ夢の中にいるようでした。
現実感がありません、床に足がついていることが不自然なように思えます。
そのままフラフラと行きます。キッチンへ。
問いかけ止める人がいたようですが、するりとすり抜け進みます。なぜか背中が寂しく感じました。
フェルは泊まり客です、台所に勝手に入ってはいけません。それは無礼という以上に、料理を作ってくれる人への信頼を損なう行いです。
けれど、このときはなぜか、それがとても自然な、当たり前のことのように思えました。
広い入口をくぐり、見渡します。
そこまで入っても、違和感はありませんでした。
当然の、ごく当たり前の行動に思えます。
だってそこは、もう無くなったはずの、フェルの実家のダイニングキッチンでした。
午前の日差しが入り込みます、静かで忙しない気配がそこかしこで漂います。
まだ眠気に足を引っ張られながら、椅子の背をつかんで引いて、大きな音をわざと出し、少しだけ意識を起き上がらせます。
いつもやっていた行動、いつものルーティン。
よく見慣れた木の机。
黒い焦げ跡は、たしか間違えて鍋を直接置いてしまったときのものです。
すこしフェルが大きくなったからでしょうか、視点が違っていました。
こんなにも小さな机だったのでしょうか。
良い匂いがしています。朝ごはんの、いつもの匂いです。
コトコトと煮えています、その前に、人の姿がありました。
もう亡くなったはずの、母の背中でした。
ああ、そうかあ――
なぜかフェルは、とても冷静に認めていました。
きっとこれは、フェルの記憶の再現です。
少しだけ記憶を見るよ――
たしかに、そう言われました。
過去の、もう二度と手に入らない光景の再現なのです、これは。
周りを見ると、元の入り口すらありません。
なにかの結界なのでしょうか、切り離された空間にいるようです。
冒険者としては危機感を覚えるべき事態ですが、なぜか安心したまま、フェルは行儀よく椅子に座っていました。
たぶん、信頼です。
悪いことは起きないだろうという。
長く煮ているものは、よく家で作られたキャベツのスープでしょう。
キャベツを細かく切って、塩漬け肉と一緒に長く長く煮込む料理です。
時間はかかるけれど、お腹に優しいスープです。
とてもよく嗅いだ、慣れた朝の匂いでした。
昔から暴れて回っていたフェルにとっては肉も塩気も足りなくて、いつも文句を言っていた気がします。
――おねぼうさん、ようやく起きましたか?
作ってくれている人が、いえ、母が振り返り、そう言いました。
聞き覚えのあるイントネーションで。
「はい、ばっちりです」
――調子は良さそうですね。
言いながら、黒パンを温めていました。
混ぜ物が多いと文句を言う人もいますが、慣れれば味わい深いものです。
そっか……
なんとなく、思います。
この光景は、もう絶対にフェルは見れないものなんですね――
フェルが家を出る際、解体されてもうありません。
故郷と呼べる場所は、少なくともその家屋はもう存在していないのです。
この机も、椅子も、光景も、すべて記憶の中だけの存在でした。
――はい、どうぞ。
食卓に並んだのは、キャベツのスープ、黒パン、珍しく新鮮な果物でした。
母は洗い物をしているのか、まだ背中を見せたままです。
一緒に食べようと何回も言った記憶を、思い出しました。
先に片付けて起きたいのですと、その度に返されました。
「……いただきます」
そっとスープを入れ、口へと運びます。
とろとろに煮込まれたそれが、舌に触れ――
あ。
これだ。
この味だ。
よく知っています。
ずっと味わっていなかった。
昔から、子供の頃からの、変わらない――
赤い魔力がその先を伸ばして来ました。即座に振り払います、全身から退けます。
無理な魔力動作に、まるで背骨をねじ切られているような痛みが襲います、それでもなお力強く否定します。
近づけさせません。
これを味わうのは、フェルです。
損なうことは許されません。
たとえ、フェル自身でも。
塩気の少ない優しい味。
とても丁寧に作られた、なんでもない料理、けど、どんな場所でも得られなかったもの。
具材の多いスープを、よく噛んで、飲み込みます。
お腹に温かいものが広がります。
美味しい、というよりも、満足を得られる味。
これからがんばると、そう思える朝食。
静かに、静かに食べます。
朝の時間は変わりません。
外から騒がしい音もしています。街が起きようとしているのです。
面倒だなあ、という気持ちと、少しのワクワク。
会話もなく、けど、本当に少しだけ前向きになろうかなと思える時間です。
「ごちそう、さまです」
気づけば、フェルは食べきっていました。
お腹は――満腹になっています、魔力変換がなければフェルは、実は少食だったようです。
――おそまつさまです。
振り返り、素っ気なくそう母が言います。
これも、いつものやり取り――
「母さん」
――なんですか。
「フェルは、頑張っています」
――そうですか、それは良いことです。
「母さんの期待には、応えられなかったかもしれません」
――そうでしょうね。
「それでも、なんとかやっています」
――無理だけは禁物です。
なにか、違和感があります。
記憶の再生の、偽物に対する違和感ではありませんでした。
言葉を探し、言いあぐねていると。
――これでもういいのです、ええ。
母が言い、風景がゆっくりと崩れます。
瞬間、背中がぞっと冷えました。
悪寒ではありません、気づきでした。
なにを?
たしかにフェルは今、なにかを発見しました。
見過ごしていたものがあることを、決して逃してはいけないものがあることを。
了解、あなたの願いを、たしかに家は聞いたよ――
この家は、たしかにそう言いました。
まだフェルが願いを言っていないにも関わらず。
かなり変則的だけど――
変則的、なにが変則的だというのでしょう。
望みの叶え方として、そこまでおかしなことではないと思います。
何が、いえ、変わっているのは、願いを叶えた結果ではなく、叶える人の方が――
「え……」
見ます、目の前の母を。
素っ気なく、当たり前のような顔をした人。
少しだけ困ったような顔をしていました。
あ、そうか、あまりに、あまりにも「当たり前」すぎたんです。
フェルの記憶を参照したというには、まったく美化されていません。
なにも変化の無い、ごく普通のやり取りでした。
完全に記憶通りだからそうなった、というのもおかしいです。
朝食に果物がついていました。
周囲の人達と折り合いが悪く、出てくるのは夕食のときだけだったはずです。
なにより、フェル自身が食べたいと思っていませんでした、そう願ったことがないのです。
そして、目の前の人の言葉に応えるように景色が薄れています。
願いの主体がフェルにありません、コントロール下にありません。
この家は言いました、「あなたの願い」を聞いたと。
それは本当に、フェルの願いだったのでしょうか。
寮でほとんど生活をしていない、思い出を持たないフェルの望みなのでしょうか。
そうではなく、あの場に見えないだけで近くにいた、その人の願いを――
「母さん!」
椅子を蹴りたて、その顔を近くで見ます。
そこにある魂を。
母は少し息をついてから、
――もう一度だけ料理を作ってあげたいと、そう願ってしまったのです。まさか、叶うとは思いませんでした。
表情を柔らかく変え。
――お腹を空かせないようにしてください……
それは、病状での、母の最期の言葉でした。
そうフェルは願われました。
――どうか、健やかに……
それは言われていなかった言葉で、けど、きっと伝えたかった想いでした。
フェルは母を抱きしめました。
強く、強く。
それでも消えていきます、無くなっていきます、音が、机が、台所が、風景が、母が――
ああ、ああ、どうしてどうして――
後悔しかありません。
どんな痛みよりも鋭い、身の破滅を願うほどの後悔。
ああ、どうしてフェルは、負けてしまったのでしょう。
絶対に勝たなければいけませんでした。なにをしても手に入れなければいけませんでした。十秒でも一秒でも、母を生かすために、それは必要なものだったのです。
諦めていい瞬間など、どこにもなかったのに。なぜ、どうして、フェルは――!
頭を、柔らかく撫でられました。
それを最後に、すべてが消えて行きました。




