4.憂鬱な雨の日だけど恋のはじまり
リリラの目が覚めた時、いつものように窓から差し込む光はなく、部屋はまだ暗かった。
いつもより早く目覚めたのかと枕元の時計を見ると、普段の起床時間とそう変わらない。
横になったまま手を伸ばしてカーテンを開けると、窓ガラスには水滴がたくさんついており、雨が地面を叩く音がしていた。
「雨かあ……」
リリラはがっくりと寝台に伏せた。そのまましばらく動かなかったが、いつまでもこうしていられないと渋々起き上がると、寝台から下り洗面所へ向かった。
着替えを済ませて向かった食堂では、すでに多くの下宿人たちが朝食を食べ始めていた。
雨の日は皆朝が早い。この国の民は雨が好きで、雨の日には早起きしてさっさと出かける。
だが、前世の日本人の感覚が残るリリラにとっては、雨と言えば湿気が多く髪のまとまらない面倒な日だった。靴や服が雨に濡れるし、身体が冷えるためか濡れて不快だからか、晴れの日よりも疲れやすいのだ。
出かけたくないリリラがもそもそとトーストをやっつけている間にも、リリラ以外の下宿人たちは見る間に食べ終えて食堂を出て行く。その表情は一様に期待に満ち明るい。
リリラは部屋に戻ると髪をくるくるとまとめた。普段はまとめる手間を厭って下ろしているが、雨の日は髪が爆発するのでなんとか抑えておきたい。いつもより支度に時間がかかったが、長靴を履き傘を持って外へ出た。
下宿前の通りには、色とりどりの傘が踊っていた。比喩ではなく、文字通りくるくると回り、跳ね、踊っているのだ。
それは、傘を持つ人たちが雨音に合わせ踊っているからである。
ある者は水たまりを飛び跳ねて越え、ある者は傘とともにくるくるとターンする。リリラの目の前では、カラフルな小さな傘を持った子どもたちが、一列に並んでマスゲームのように傘を上げ下げしながら行進していく。
人々が跳ねまわったり傘がはじいた雨粒が、精霊の祝福の光とともに輝き、宙を躍る。精霊の光と傘の色を反射して色とりどりに輝く雨粒は、リズムを刻むかのように再び傘や水たまりに落ちる。人々はその繊細な雨音に合わせ歌い踊りながら、それぞれの目的地に向かうのだ。
リリラのいた田舎でも、精霊の祝福がないだけで雨の日はおおむね今と同じだった。
恥ずかしがりやのリリラは、人と精霊の雨のダンスを美しいと思いながらも、いつものように眺めるだけで加わることはなく、普通に歩いて学園に向かっていた。
学園まであと数ブロックというところで、ばしゃんばしゃんという、繊細とは真逆の水音がリリラの耳に聞こえてきた。
目深に下げていた傘を持ち上げると、目の前には雨に濡れたゴーレム……ではなく、ルイがぎこちなく踊りながら歩いていた。長靴を履いた足がどす、どす、と地面に振り下ろされるたびにばしゃ、ばしゃ、と水が跳ねあがる。両手に持った鞄と傘を交互に上げ下げしているが、傘が傾いているので、そのたびに大きな水塊がざばっと肩や腕に落ちてきている。そんなルイに歌を口ずさむ余裕はないようで、真剣な表情で口は真一文字に閉じられていた。もちろん精霊の祝福は現れていない。そして何より悲しいことに、雨音のリズムにはのれていない。その様はまるで子どもが水遊びをしているようで、美しさは皆無であった。
「おはよう」
ルイは踊ることに精一杯の様子で、こちらに視線だけを向けて挨拶した。
「おはよう。ねえ、無理に踊らなくてもいいんじゃない?」
リリラはそう尋ねた。ルイはしばらく余裕がないようであったが、正門にたどり着いたところで踊りを終えて言った。
「いや、俺が踊りたかったんだ。雨の日はいつも踊っている奴らを見て、俺も踊りたいと思っていた。補講で少しはうまくできるようになったと思ったが、まだまだ未熟だな」
ルイは前向きだ。リリラは思った。
リリラと違い、ルイは歌ったり踊ったりすることに抵抗がなく、いつだって皆と同じように音楽にのりたいと思っているのだ。
精霊にも治せない音痴だと判明した日は落ち込んでいたが、次の補講からは懸命に練習をしていた。今はとにかく積み重ねを増やそうと、帰ってからも自主練習をしているらしい。そして、音痴を克服しようとこうやって雨の日も一人で踊っている。
リリラには、ルイの姿がまぶしく見えた。やろうと思えば踊れるのに踊らない自分とは違う。リリラは補講を受けて単位を取れれば、それでいいと思っていた。補講の期間を穏便にやり過ごそうと考えていたリリラは、自分を変えようと努力しているルイを見て、自分と彼との間にある大きな差をひしひしと感じた。
なんだか頭が重く感じ始めたのは、雨のせいだけなのだろうか。リリラは違和感の芽生えたこめかみを押さえた。
◇◆◇◆◇◆◇
こんな雨の日に、屋内であれば晴れの日のように過ごせるかというと、そうではない。むしろ、雨で外に出られない分、室内に人が集まるのだ。
そうなると起こることはあれしかない。歌と踊りだ。
その日の一限目後の休み時間、廊下で楽器を演奏し始めた生徒たちが次第に集まり、即席の楽団ができた。
二限目後の休み時間、校舎のあちこちで誕生した即席の楽団が、スライムのように融合し大きくなっていった。
三限目後の休み時間、学内の楽団がとうとうひとつになった。
ここまで、授業時間を除いて計三十分足らずの出来事である。
三十分で学科も学年も異なる生徒たちが意気投合してしまうのは驚異的に思えるが、学園ではよくある光景である。
そして昼休みの今、楽団がマーチングバンドのように演奏しながら廊下を練り歩いている。
朝から閉ざされた湿度の高い屋内でズンチャカブーブーとけたたましかったため、リリラのこめかみの違和感は発達しひどい頭痛になっていた。
薬をもらおうと保健室に向かいかけたところで、廊下を埋め尽くす楽団員たちと派手に奏でられる音楽の洪水に襲われた。リリラには保健室がとてつもなく遠くに感じられ、心が絶望で満たされた。普段ならそれほど気にせずやり過ごせるのかもしれないが、激しい頭痛は人の心を狭量にし、とても簡単に闇堕ちさせるのだ。
人の密集でさらに高まった湿度により、廊下の窓ガラスが曇っているのを目にしたリリラは、「散れ!」と叫んで大量の乾燥剤をばらまきたくなった。だが、そう想像しただけでズキーンと来たので、彼女は荒れ狂う頭を抱えてじっとしているしかなかった。激しい頭痛は人を闇に堕とすが、同時に行動力を皆無にするので悪事を働くことはできないのだ。
狭い廊下に集合した中には、人間たちの他に精霊もたくさんいた。いつになく昂った演奏に精霊たちはたいそうはしゃぎ、祝福をいつも以上に大盤振る舞いした。その結果、廊下には強い閃光が瞬き、突然の強い光に生徒たちは目がくらんで手元が狂い、不協和音が建物中を駆け巡った。
演奏が止むと光は徐々におさまったが、その光は校舎の出入り口や教室の窓からも外に漏れ出ていたため、一瞬学園中が光り輝いていたと後に街の人々が噂していたそうだ。
頭の痛みが限界を迎えたリリラは放課後になると、暗く淀んだ瞳で補講を休むことをルイに伝え、よろよろと下宿に戻った。
自室に入ると緩慢な動きで部屋着に着替え、寝台に身を横たえる。窓から見える舞い踊る傘たちが目にうるさかったので、カーテンを閉めると、部屋は薄暗くなった。階下から下宿人たちが歌う声が響いてきたので、頭まで布団にもぐり丸くなっていると、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
◇◆◇◆◇◆◇
翌朝、爽快な気分で目覚めたリリラは身も心も軽く、起き上がるとカーテンを開けた。昨日の落ち込みが嘘のように晴れている。そして頭痛も治まっている。リリラは機嫌よく朝の支度をした。
学園に向かう途中、後ろから追いついたルイに声をかけられた。
「昨日は瞳が闇に染まっていた……いや、顔色が悪かったが、もう大丈夫なのか?」
「大丈夫。ちょっと頭が痛かっただけ」
「ちょっとという様子ではなかったが……治まってよかったな」
「うん。心配してくれてありがとう」
やはり雨で気分が憂鬱だっただけなのだ。リリラは昨日感じていた重苦しい気持ちを雨のせいにした。昨日ルイがまぶしく見えたのも、頭痛の兆候だったに違いない。今はこうやってルイを見てもなんともないのだから。
リリラはそう納得してうなずき、先を歩くルイの隣に並んだ。
二人が学園前通りにある花屋の前を通り過ぎた時、前に数人が集まっているのが見え、そこから速いテンポの快活な音楽が聞こえてきた。近づいてみると、人だかりの中に一匹のベージュ色の子犬がはしゃいでいる。首輪をつけているが飼い主は近くにいないようで、誰も持っていないリードが地面に躍っている。子犬は昨日の雨でできた水たまりで水遊びをしていて、跳ね回っているその様子に通りがかった人たちが音をつけ始めたらしい。そのアレグロの調べに呼ばれて精霊たちも現れ、子犬と戯れ始めた。水たまりには、跳ねあがった水滴と祝福の光が絶え間なく落ちる。
リリラが問いかけるようにルイを見上げると、彼はうなずいた。
「ちょっと試していいか」
そう断ってから、ブレザーの胸ポケットからカスタネットを取り出した。ルイは最近、新しい楽器を実戦で試したいと言っていたので、この即興演奏はちょうどよい機会だろう。
リリラは楽器を持っていなかったので、音楽に合わせて手拍子を始める。ルイはリリラの手に合わせカスタネットを叩き始めた。リリラの手元をじっと見ながらカスタネットを叩くが、どうしても手拍子にそのリズムを合わせられず、ひとつにまとまっていた演奏に雑音が混ざり始める。それにいち早く気づいたのは子犬で、ルイに向かってきゃんきゃんと吠え始めた。演奏は止み精霊とその祝福は消え、子犬はルイの足に突進してくる。
「パピオ!」
子犬の声を聞きつけた飼い主らしき人物が駆けて来た。飼い主はリードをしっかりつかむと、子犬を抱き上げた。そして足元に飛びかかられていたルイにぺこぺこと謝る。
「すみません、うちの犬が」
「いえ、俺の音が気になったようなんで」
ルイは気にする風もなく答え、カスタネットをポケットにしまった。パフォーマンスは終わりだと集まっていた人々は四散し、ルイとリリラも学園に向かった。
リリラは、校舎の入り口でルイと別れるまでぼんやりとした表情で黙ったままだった。
リリラの頭には、彼女の手をじっと見つめる先ほどのルイの姿が繰り返し浮かんでいた。その時の真剣な表情のルイは、いつもとは違って見えたのだ。まるで、昨日のようにまぶしいような、彼の周りだけひときわ明るくなったような――。
リリラはその時、芽吹いたばかりのルイへの気持ちを初めて自覚したのだった。




