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モンドとサブ  作者: イシイノリ
1/1

(1)誓いのことば



モンドとサブ    著 イシイノリ








プロローグ               3





モンドとサブ : 誓いのことば           4





モンドとサブの救急救命チーム : 誕生秘話   59





活動指令 ファイルⅠ : あなた探し        83





エピローグ                        168



プロローグ


時は大正、処は花の都大東京。ここに名うての詐欺師がいた。

モンドとサブの名で一世を風靡した、今の時代で言えば殿堂入り間違いなしの、名コンビである。ところがこのふたり、本名は言うに及ばず、氏素性について知る者はいない。何処からともなく現れたかと思えば、誰に気付かれることもなく姿を消した。

 最初にこの稼業に手を染めたのが、モンド。ひとこと言葉を交わしただけで、誰もが一瞬で罠にはまった。それを可能ならしめたのが、その端麗なる容姿と穏やかな物腰。六尺は下らない引き締まった体躯は、上から下まで()(ギリ)()()(タリ)()か、見るからに人も羨む高級品の数々で固められている。彫りの深い顔立ちに小振りな丸いグラースを光らせて、それを気取ったカイゼル髭が一層引き立たせる。見ようによっては浮世離れした胡散臭さの塊ではあるが、大正という西洋かぶれで溢れかえったこの時代、そこまで目の肥えた者などそういるものではなかった。それに加えて、何事をも世にふれば憂さこそまされと顧みることもなく笑い飛ばす、とくれば心を奪われずにいられる者などいない。

その後を追って、三下奴(やっこ)を買って出たのがサブ。それも、まんまとモンドの騙しの術中に嵌った挙句にというのだから、奇妙な縁としか言いようがなかった。普通であれば怒り心頭というところにもかかわらず、そこがサブのサブたる所以、モンドのあまりの手際の良さに、すっかり魂を抜かれてしまったというわけだ。何とも、情けない話である。情けないといえば、もうひとつ。その容姿に触れないわけにはいかない。五尺にも満たないちっぽけな体のくせに、顏ばかりは人並み外れてデカかった。その頂は、差し詰め川原の枯れ(すすき)。道を歩くにさえ、いちいち手を当てては乱れを気にしないではいられないという有様。だったら剃り落してしまえばよさそうなものだが、そんな勇気もない。おまけに服装や持ち物などにもセンスがない。それが古かったり安物だというわけではないだけに、却って侘しさが募る。いずれにしろ、カッコウイイとかイカシテルといった評価には縁のない、惨めな男である。

ことほど左様に、サブは詐欺のさの字も知らないど素人。ところが、モンドからしてみれば、これほど重宝する相方はいなかった。主人公はひとりいればいい。相方に望むのは、たったひとつだけ。自分の輝きを反射させては、人の目を(くら)ませる鏡の役割を担うこと。サブもそれを承知で、ただただ言い成り三宝を決め込んだ。気が付けば、その絶妙なコンビネーションは、いつしか巷の語り種となっていた。


誓いのことば


 天心に懸かる満月。見れば、その冴えたる(おもて)を不穏な叢雲が駆け抜ける。

 ここは上野の広小路。都会の一角とはいえ、一歩隘路(あいろ)に踏み入れば、まだまだ情趣に富んだ息遣いが残されている。大正も十年を越したというのに、街灯の明かりからも見放され、風も入り込むことを躊躇った。

それなのに、積み上げられた時の(ひだ)から漏れ出る饐えた臭いと薄暗がりが、何故か粋人の気を引いた。

木の間越しに見る、不忍池に映る月。その前を横切る、一羽の烏。

人知れず佇む、一軒のカウンターバーがあった。

 

(一)


立ちはだかる、磨き上げられた一枚板の扉の上で、真鍮の骨組みに歪んだガラスをはめ込んだ、(さなが)ら虫籠とも見えるランプが照らす。風でも吹けば、そこに灯が入れられることはない。

夢幻を(まと)う見てくれと、淀んだ腹積もりが絡み合う罠。その見事なまでのコントラスト。都会の闇ほど、深くて怖いものはなかった。

風に啼く、甍の風見鶏。音もなく立ち上るひと筋の煙が、中空で(わだかま)る。いつの間にか、門口にモンドが立っていた。

シガーを投げ捨て、真鍮のノブを引いてモンドが中に入ってゆく。内側から、そっと指先で押し返し、扉が閉じる衝撃の響きを抑える。靴音が、(さざなみ)となって寄せてくる人の気配に割って入る。床には、たっぷりと重油の染み込んだ省線払い下げの枕木が敷き詰められている。照り下ろされるランプの炎の揺らぎを跳ね返す一列に打ち込まれた鋲の頭が、闇の中へと引き込む道のように並んでいる。空いたスツールの座面が、まるで拭き上げられた皿のように仄暗い空間のところどころに浮いている。()いてはいないが混んでいるわけでもない。モンドは半身の姿勢で、ひとりふたりと背中と壁の隙を抜けて中ほどに進んだ。重い足取りが、今宵の不首尾を覗わせる。

「どうして、こうもシケタ話ばかりなんだ」

独り言も、ここのところは愚痴ばかり。ここらで起死回生の大博打でも打ち当てないことには、二進も三進も行かなくなる。人目につかないようにと何食わぬ顔で差し入れた指先で、懐を探る。まあ、軍資金としてはこれだけあればどうにかなるだろう。貧乏くさい詐欺師ほど、仕事にならないものはない。とはいえ、これで打ち止め。ここでどうにかしないわけにはいかなかった。力を込めて「うぅーん」と唸ったところで、肩がこるばかり。さてどうしたものかと思いを巡らせながら、目の前の席に腰を下ろした。

馴染みの店とはいえ、気安く声をかけ合う者などいない。無粋ほど、嫌われるものはない。ここはそういう所なのである。

マスターが、そつ無く伸ばした左手で、いつものように飾りっ気のないシングルモルトの瓶を手にした。それに気付かぬモンドではない。それでも今日は、気まぐれが勝った。

「おっと、今日はスモール・バッチ・バーボンをロックで」

そんなことにも、マスターは動じなかった。さりげなく、格子模様に細工が凝らされたボトルに持ち替え、右手の指先で頭に被せた栓を捻る。手首の角度ひとつで、適量をグラスに注いだ。流しの横の氷室から取り出したアイスは、一瞬で霜に覆われる。マスターの手の中で立て続けに振り下ろされる、鋭利なピック。大きめの欠片のひとつが指先を滑り下り、グラスをキンと響かせた。頑なな者同士の、渡り合い。その緊張感を解きほぐすように、光を(まと)ったアルコールが白い斜面を這い上がる。氷山は揺れ、琥珀の波が渦を巻く。

マスターが、カウンターの上に置かれたコースターにグラスを載せて、モンドに向けてすっと差し出した。

軽く右目の瞼を閉じて、受け取るモンド。

別に飲みたくてやって来たわけではない。ただ足が向いただけだった。それでもそんなことは(おくび)にも出さない。ただただ、当たり前のようにグラスを口元に運ぶ。喉を鳴らせば、ことばはいらない。それが、作法と心得ている。


押し付けがましい異国の匂いが、鼻を衝く。それでも、モンドは顔色ひとつ変えなかった。視線も手元に置いたまま。意識は既にここにはあらず。視界の片隅に捉えた動きが、気になっていた。

ふと、空いたスツールをひとつ置いた奥のカウンター席に、目がいった。見慣れぬ男女のふたり連れが、並んで腰を下ろしている。手前が男で、奥が女。背を向けて何やらひとり話に興じる男の顔は見えないが、心持上目づかいで受け流す女の横顔だけは垣間見ることができた。鼻筋の通った細面。顎先から首筋にかけての線に巧みな筆さばきを見るようで、目が離せなくなっていた。それに加えて、その装いがこれまた見事だった。濃紫を基調とした手書き友禅のシックな装いながら、心持ち派手めの化粧を施している。若い女ならではの、一時の背伸び。ところが、一見危なげなその見てくれに反して、その物腰には涼やかな心根を感じさせる何かがあった。

隙のない佇まい、何気ない所作の端々に、えも言われぬ艶めかしさを匂わせている。モンドの眼は騙せない。歳の頃なら、十八、九かせいぜい二十(はたち)といったところか。瑞々しさは、見ているだけでこちらの寿命を引き延ばす。肌のきめ細やかさは秀逸で、指でも触れようものなら、吸い付いて離れなくなること請け合いだ。それだというのに、大人の女だけに許された色香をそこはかとなく漂わせ、辺りを包む。そこには、既に酸いも甘いも嗅ぎ分ける、年齢だけでは測れぬ年季を感じさせた。どれもこれもがアンバランス、そのちぐはぐさ加減が一層モンドの気を引いた。仕事と切り離された感情が、胸の底から沸き起こる。こんなことは、はじめてだった。

モンドは、さりげなく背を向けて、呼吸を整えた。

気に入らないのは、どういうわけだか、隣にちんけな男を従えていることだった。

「ああ、もったいねえ」

もっとも、従えて・・・、というよりは、付き纏われているとでも言った方が、こいつの場合は当たっているのかもしれない。それにしてもこの男、なりはけっして悪くない。それが活かされていないというだけだった。却って生来の貧乏臭さを際立たせるようで、いただけなかった。だから、これがほかの男だったらどうということもないような泥の撥ねた黒い革靴の爪先でさえ、必要以上に(みじ)めったらしさを感じせる。まるで引っ掻き傷の(かさ)(ぶた)か何かのように見えてくるから不思議なものである。

それに引き替え、この女はどうだ。仕掛ければ、ガツンと手応えがあるに違いない。一瞬にして切り替えられた仕事人の眼で、値踏みをはじめていた。これで、一気に流れを変えることができるかもしれないと、頭の中に尺玉花火を打ち上げた。

ここが技の見せ所。モンドは、たった今気が付いた風を装って、にわかに大きく首を振った。カイゼル髭の尖った先を摘まんでは、丸メガネのレンズ越しの視線をちょいと強めに投げてみた。ところがどうだ、この女、知らぬ素振りで素っ気ない。しかし、モンドは見逃さなかった。磨き上げられたチークのカウンター。幾重にも層をなして漂うシガーの煙の中で、水滴の浮いたグラスを握る女の指先が、下から上へと這い上がる。おまけに小指がツンと上を向いている。気持ちがこちらに(なび)いているのは、間違いない。眼や口はいくら心の内を隠せても、指先だけは嘘をつけない。モンドは、長い経験を通して、それが女の哀しい性だということを知っていた。

一度仕掛けた獲物は逃がさない。モンドが、心の中で呟く。

「こちらを向きたくても向けないというのが女心なら、その辛さから解放してやらねばと決意を固めるのが男の心意気というものさ。ほうらどうだ、楽になったかい」

飲み干したグラスを、少しだけ大きな音がたつように、敢えてコースターを外したカウンターの上に直接置いた。

コツン。

「えっ」とばかりに、気に障る音が女を振り向かせた。こうなればこっちのもの。

「おっと、失礼いたしました」と、詫びる気持ちを視線に乗せて、大袈裟に頭を下げた。

連れの男を使うなら今しかない。気の利いた仕事のひとつでもしてもらわなければ、ここにいる意味さえないというものである。

女が微かな目の送りで、男に合図を送る。それに応えて、おもむろに男が首を回した。

「待ってました」

モンドがその一瞬を捉えてガンを飛ばした。するとこの男、血気盛りの若者でもあるまいに、いきなり目を剥いて立ち上がった。ところが、悲しいことに背が足りない。勢い余って、スツールから転げ落ちた。これに一番驚いたのが、男の頭頂部だったかもしれない。せっかく撫でつけられた隙間だらけの長い髪が、爆ぜた焚火の炎のように四方八方に躍り上った。慌てて手を当てたところで後の祭り。脂ぎった広い額は、まるで切干大根を並べた筵のような有り様になっていた。

「ちっ」と舌打ちの音だけが虚しく響く。

呆れむ女。視線は、天井に向けられている。こうなっては、男に出る幕はない。いじいじと、ただ辺りを見回しながら頭髪を整えていた。モンドの顔も思わず弛む。

それでも、十八番(おはこ)の流し目を送ることだけは忘れなかった。あからさまというのでは相手も反応しづらかろうと、すかさずボルサリーノのトップの先を右手の掌に包み込み、軽く持ち上げた。小さな気遣い、それが一流を謳う男のたしなみと心得る。God lives in the detail.

虚を突かれた女が、目を見張る。そのタイミングを見計らって、モンドは顔の前から流れるようなラインでハットを下ろし、左の胸にそっと宛がった。

後は立ち上がるだけで、全て完了。

何が何やら判断さえつかない男。それでも、睨み付けてくることだけは忘れない。知らぬ素振りで、モンドが女に歩み寄る。女の口元からこぼれ落ちる笑み。風采の上がらない男なんかに用はない。

「ご免なさいよ」

女の耳元に、甘く囁く。

カイゼル髭が大仰と見えなくもないが、モンドが身に(まと)うのは、一年中どこに居ようと英国仕立ての三つ揃え。生地は言うまでもなくスコットランド産のグレーのツイード。イタリアのアレッサンドリアから取り寄せたボルサリーノのソフトを被り、鼻梁に乗せたスチールの丸眼鏡を光らせる。そこには、一部の隙さえ見当たらなかった。

(あね)さん。よかったら、わたくしと電機ブランでも飲みに行きやしょう」

ことばを口にしたその刹那、仕事を離れた心の疼きが、モンドの胸によみがえった。それでも、息苦しさは顔に出せない。プロのプライドが、「さあ」と二の句を継ぐことさえ躊躇わせる。その辺の小娘であれば、これだけで痺れ薬でも飲まされたかのように言いなりになったに違いない。物怖じしない女。視線を外すことなく見詰めてきた。モンドも、丸眼鏡のレンズが増幅した熱を、残さず真っ直ぐな視線に乗せた。そこには、険もなければ棘もない。だからといって(てら)いのひとつを感じさせることさえなかった。研ぎ澄まされた技というものは、心地よさだけを対峙する者に与える。これで墜ちない女は、女じゃない。

この女、スパッと心の扉を開いた。

「あら兄さん、洒落たものを嗜むんだねえ。それで何かい、まさか、あちしを酔わせてどうにかしようってぇ魂胆じゃなかろうねえ」と伝法な声音で唇を震わせる。その手は食わぬの素振りも堂に入ったものだった。

世間知らずでは面白味も半減する。好みとしては、これくらいの方がいい。モンドは、すかさず「満月が綺麗な夜には、ひとり過ごすのも乙なものかと出てみたが、月よりも尚冴えた光に当てられちゃあ、このまま消え去るわけにも行くまいよ、ってね」と、持ち上げた。

そうまで言われては、さすがの女も期待に応えないわけにはいかない。満更でもなさそうな笑みを湛えて、腰を上げた。

面白くないのは、男の方である。ここまで好き勝手をされては、酔客の戯言と放っておくわけにもいかない。突然、椅子を蹴り倒したかと思うと、「やいっ」とばかりに凄味を聞かせた。その拍子に、カウンターの上でグラスが転がり、女が顔をしかめる。そんなことにも気が付かず、男は「何を人の女にちょっかい出してやがる。とっとと失せやがれ」と言うが早いか、拳を振ってきた。


モンドとサブ。ふたりの出会いは、こんな具合だった。


 左肩を引くようにして、モンドが身を翻す。空を切った拳の反動で、男が床に転がった。脱げた靴の片方が、手前(てめえ)の額を叩く。威勢がいいのも、そこまでだった。モンドに手首を掴まれて、捻り上げられてはたまらない。こんな男のひとりやふたり、頭脳の強化に加えて日頃から体作りに余念がないモンドの敵ではなかった。

「まあ、少しくらい宜しいじゃないですか。けちくさいことを言わなくってもさあ」

 男は、開いた口を塞ぐ間も持てぬままに、力なく首を縦に振っていた。だらしない体型が災いして、暴れたとも言えないような動きにもかかわらず、シャツの裾がズボンのベルトの上から飛び出している。ゼントルマンにはあり得ない、何とも物悲しい姿を晒していた。首筋には、珠のような汗が吹き出して、ギラギラとした光を湛える。黒革靴を掻き集めては履き直し、「ごもっともで。失礼しやした」と、神妙に腰を折った。

「これも何かの縁です。よかったら、おまえさんも一緒に来ませんか。なあ、そうしましょう」

 語尾に、有無を言わせぬ強い響きを込める。だからといって、悪さをしようという魂胆があってのことではない。決める時には決めてしまう、ただそれだけのこと。これがモンドの流儀だった。

少なくとも、こんなしょぼくれた野郎を相手にするほど、モンドは落ちぶれちゃいない。あくまでも、狙いは女だ。

ところがこの男、なかなか捨てたものではなかった。何も言わずに飛び出したかと思えば、手際よく車を二台仕立てて戻ってきた。おまけに、車夫への心付けまで包んでいる。

「存外、使えるかもしれません」

モンドが気をよくしたのは、言うまでもないことだった。

車の上は、火照った顔に風が心地好い。浅草まで脚を伸ばして遊び回り、吾妻橋を渡って、ドンチャン騒ぎを繰り広げた。とはいえ、酔いにかまけることはしない。どんな時にも気を抜き切らずにいるところが、モンドの一流たる所以であった。そんな時にも、選挙で勝利した護憲三派は憲政会の加藤高明内閣が推し進める普通選挙法成立の可能性などについて語ることを、忘れなかった。

「で、ご趣味は」と男が訪ねる。モンドは、躊躇うことなく「政治に経済」と答えた。見れば、誰が捨て置いたか、傍らに丸められた新聞紙が転がっている。それを手に取り、一面の記事を指で弾いては、「世界中で進む産業の重工化が、今のところの最大の関心事です」と言ってのけた。どれもこれも、相手の度肝を抜かせるには十分過ぎた。

「いったいどういうお方なのだろう」

女の目が、心に浮かんだ疑問を見つめる。モンドには、些細な挙動の訳も、手に取るように掴めていた。だからこそ、氏素性に関することについては、敢えて語ることをしなかった。そこに大きな意味があった。謎に勝る魔力はない。引き寄せる磁力、男女の駆け引きの行く先は、その謎を相手の気になる形でどれだけ多く残せるかにかかっている。そして、それは同時に相手の謎を解くための必要不可欠な手立てでもあった。苦労するのは、むしろこっちの方で、いくら目の前に本人がいるからといって、聞き出すような野暮はできない。万が一にも、不信感を抱かれるようなことがあっては、元も子もなくなってしまう。それをどう乗り越えるか、それがいつでも大きな問題となる。

ところが今回に限っては、苦労なく策が嵌った。男の顔に書かれた、興味津々の四文字。女が席を立ったところで男に探りを入れてみれば、余程のお調子者と見えて、聞いてもいないことまで、あれやこれやと知ったかぶりを披露しはじめる。

「実はさあ、・・・」

たちまちの内に、知らぬことがないといえるほどの情報を集めることができた。

「おいらも滅多に口にすることはないんだけどさ、アカネ、藤巻茜ってのが名で、三味線とお座敷舞踊のお師匠さんなんでやんすがね。自分のことより、まず第一が人のこと街のことって具合で、寺での供養だ、神社の祭りだといやあ進んで芸を披露する。それも金子は言いっこなしってんだから、どれだけみんなが喜んだことか。(わけ)えってのに、立派なもんでござんしょ」

さもありなん。物怖じせぬ、女の立居振舞。氏素性、はたまた育ちの良さがそうさせるのかと思ったが、それならなるほど周囲の空気までもが襟を正して(かしこ)まろうってものだ。

「どうりで、口にすることばのひとつからして違う」と、モンドが感心して見せれば、それに気をよくしたかこの男、「神楽坂界隈では、多少なりとも名の知れた姐さんでさあ。それなのに、豪奢な暮らしは好まねえときた」と、自慢顔を輝かせる。

「そりゃ、大したものです」

 何気ないこのひとことが、決め手となった。

「それでも、独り身の寂しさは隠せないってね」と、心の内まで暴露する有り様。

懐は豊かだが、使い道は限られる。万が一にも羽目を外したところを見られでもしては、それこそせっかくの評判に影を落とすことにもなりかねない。それで、敢えてさえない男に段取りをさせては、かりそめに身を(やつ)していたというわけだ。これでは心が満たされるはずもなかった。

だったら教えて進ぜよう、本当の喜びを。


男は腰巾着にもかかわらず、悪びれる様子も見せずに満面の笑みを浮かべては、自らをも語るのだった。それによれば、日ごろは女に取り入って、用心棒といえば体裁は良いが、使いっ(ぱし)りの駄賃で生計を立てているとのことだった。情けないことこの上ない。

「それはそれは、なかなか合理的な生き方ではないですか」

いくら機転が利くモンドとはいえ、他にことばが見つからなかった。

ところが、そんなことだけで暮らしていけるほど、世の中は甘くない。空いた時間は、もっぱら知り合いの家の営繕や、長屋の(どぶ)(さら)いといった日銭稼ぎに費やしているという。こうなると、呆れるほかはない。

それを聞いては尚のこと、何も羽振りの良さをことさら見せつけるつもりじゃないが、どこの払いも相手に持たせることはしなかった。

はじめのうちは緊張を隠せずにいた男だったが、次第に気分をよくさせられて、モンドを「アニキ」と呼ぶようにまでなっていた。

腹ごしらえは、駒形のどぜうに舌鼓を打った。


手垢に木目も塗り潰された黒い格子戸。いつ張られたものか、糊の浮きはじめた障子紙。手間をかける暇などないようだ。店は、日付を替えようかという時間にもかかわらず、客で溢れかえっていた。

木の間を縫って落ちる、月明かり。風が、泥水を散らしたような乱れ模様となって、畳表の上に揺れていた。

酔いにまかせた女が肩にもたれかかる頃合いを見計らって、モンドが「さあ、このままいったら夜が明けてしまいます。今日のところは、このあたりで終いにしておきましょう」と、身を退()くことばを口にする。これには、女も驚いた。うなじの後れ毛が、力なく項垂れる。窄めた肩が、胸から息を絞り出した。

普通の男なら、これを聞き逃すはずがない。勝負はついたとばかりに、「大切なお人に何かがあっちゃいけない。送らせてもらいますよ」とかなんとか、いきなり攻勢に転じるところだ。できることなら、モンドもそうしたかった。しかし、明日のためなら今日を捨てる、それが一流と言われる詐欺師の真骨頂だ。

「それなのに、この人ったら・・・」

 モンドには、声にならない声も聞こえる。敢えて「おまえさん、後のことは頼みましたよ」と、連れの男に言い残して立ち去ろうとする。車屋さんを呼ぶ駄賃まで握らせて。

モンドは、心の中で呟いていた。

「わたくしを甘く見ちゃいけないよ」

 女は慌てた。それでも、そんなそぶりを見せるわけにはいかない。背を立て直し、腰を上げた。伸ばした右手の指先で、着物の合わせを整える。半歩踏み出しながら、草履の爪先を揃えて向き直った。冴えた光を湛える目が静かに閉ざされ、「一時(いっとき)楽しく過ごさせて頂きました。お礼を申します」と、頭を下げた。その所作のあまりの美しさに、モンドはことばを失った。あわやというところで、負けを口にしそうになるところを思い留まった。

「したっけ、何のお返しもできないままにお別れなんてこと、できゃしませんよ。せめて、お名前だけでも」

歯切れの良い江戸っ子ことばで探りを入れてくる。この不思議なアンバランスが、モンドにはたまらなかった。

危く、そこまで言われちゃ引けないか、と心のままを口にするところだった。

モンドは、更に気を引き締めた。ここがこの日一番の腕の見せどころ。

「モンドとだけ、覚えてやってくださいまし。その気を持っていただけたのでしたら、また広小路裏のあのバーでお目にかかりましょう」と、言い切った。

この瞬間、モンドという耳慣れない響きが、忘れられない大切な符号となって、女の頭の真ん中に刻み込まれたのは間違いない。あとは、背を向けて歩き出すだけ。謎が謎を呼び、更なる魔力へと高めるためにも、ここは静かに消えるに限る。板塀が立ちはだかる突き当りを、モンドは振り返ることもなく、左に折れた。視界の端に、いつまでも後ろ姿を見送る女の顔を捉えて。


 それ以来、ふたりは広小路のバーに通い詰めた。それを知ってか知らずか、モンドは三日に一度の割合で顔を出す。敢えて強いる一時の我慢。それが、大きな喜びとなって、女の胸に色とりどりの花を咲かせた。逢瀬の期待が、情を深める。

「次は、いつ?」と、期待は嫌でも高まる。そんなある日を境に、モンドはふたりの前から姿を消した。実は、目と鼻の先にいるにも関わらず、である。

「詐欺師は、世の中の裏と表を行き来する者なのさ」

ただひとり、路地を挟んだ向かいの料理屋の二階から、格子窓越しにあの小さなバーの戸口を見下ろした。ただの民家としか思えない佇まい。看板ひとつ掲げていない。それでも商売は成り立つ。知る人ぞ知る、そんな不思議は世の中に数えられないほどある。

「ここで動いては、全てが水の泡となってしまう」

 女を先に立てて店の中に歩み入る男の後ろ姿をじっと見下ろしながらも、動かなかった。何やら危い密談だろうか、息を殺したように囁き合う隣座敷の声にさえ、ここにいることがばれやしないかとハラハラさせられる。そっと、夜の静寂(しじま)に溶け入るように料理屋を出て、そのまま闇の隙間に潜り込んだ。

「こんな日ばかりではないはずだ」

 モンドは、その日が来るまで毎日向かいの料理屋に通った。来る日も来る日も、男はあの女を連れてやってきた。しかし、いつかはその日が必ずやって来るはずだ。

「お客さん、今日もお一人ですか」

 お愛想のつもりだろうが、そんな一言が癇に障る。だからって何が悪いんだ、とは言いたくても言わない。それどころか、時には「このシケタ雰囲気がたまらなくってね」と、茶化し半分の御愛想まで口にする。何しろ、ここは他に代えられない絶好の見張り場なのだから。

「すまないねえ、ちょいと思うところがあってさあ」と、含みのあることばで、これにも意味があるのだということだけを匂わせる。代金さえ受け取れば、文句は言わない。そのうち、何のことばもかけられなくなった。

相も変わらず、ふたり連れ。たまにひとりかと思えば、それは女の方だった。女にこっちに会う気があっても、今はまだ、こっちに女に会う気はなかった。

「悪いが、もう暫く待っていてくれ」

 ただひたすら、男がひとりでやってくるのを、待ち続けた。


それから半月、ついにその日がやってきた。棚引く雲を浮かべた空が、朱に染まり群青に落ちかけた夕暮れ時のことだった。いつものように、部屋に通されるなり窓辺に寄って、向かいのバーに視線を落としていた。

そんなモンドの様子にもすっかり慣れっこになっていた仲居が、「旦那様。今日はいい金目鯛が入りましたので、煮付にでもしてお持ちしましょうか」と聞いてくる。モンドは、そんなことにいちいち構ってはいられなかった。振り向きもせずに「ああ。それと、取り敢えず燗で銚子の二本も付けてもらおうか」とだけ言って追い返す。

すると間もなく、男がたったひとりで店の前に姿を現した。傍らにいつもの女を引き連れていないからか、こちらに向けた小さな背中が、貧乏くささを一層際立たせている。足下を通り過ぎるトラ猫の方が、よっぽど堂々として見えた。改めて辺りを見回したかと思うと、飴色を深めた扉に歩み寄り、金ぴかのノブを手前に引いた。それでも今日はそのまま入ることをせず、首を伸ばしては中の様子を窺っている。

 ひょっとして、アニキと呼んだモンドの姿がありやしないかと覗き込んでいるように見えるが、そうとばかりも限らない。もしかすると、待ち合わせをした女が先に来てはいないかと確認しているのかも知れなかった。となると、追っかけ女が現れないとも限らない。そんなところに飛び出しては、これまでの苦労が水泡に帰すというものである。タイミングを誤るわけにはいかなかった。モンドは、路地を行き交う人の流れに目を凝らした。

「さて、どうする」

決断の時を前にして、モンドは自問の答えを見出せずにいた。こめかみに手を当て、考える。腰巾着の(そし)りをも(はばか)らぬ男が、女とは別にひとりでやって来た。そこに理由があるとするなら、よっぽどのことに違いない。もしも、僅かな遅れで女が来るくらいのことであれば、何も男ひとりで先にやって来る必要はないはずだ。時間を、女の都合に合わせてずらせばそれで済む。

「と、いうことは、女に来ることの出来ない事情が生じたということだ」

モンドの拳が、膝を打つ。

「それでも茜は、この店から目を離すことができなかった」

僅かとはいえモンドが来るかも知れない可能性が残されている。それで、男ひとりを送りこんできたということだ。せめて確認だけでも、というのが女心というものだろう。モンドは、自分に寄せる女の思いが冷めていないことを、それどころか、益々熱くなっているということを確信した。

「ふふふふふ」

自分の笑い声に身を(すく)めた。どうもいけない、考え事を声に出してする癖が付いていた。

「この癖は直さなければ」と、思う傍から声が出ていた。

ここで迷ってはいられない。女は来ない。そうと踏むが早いか、モンドはジャケットを鷲掴みにして、部屋を飛び出した。

「さあーて、ひと仕事だ」

ところが、こういう時に限って客の入りが尋常ではない。訳あり顔の胡散臭い連中が、次から次と階段を上って来る。中には強面が何人か含まれている。まさか、肩で押し退けるわけにもいかず、壁に背をもたせ掛けるようにしてやり過ごす。逆に迷惑そうな目に晒されながらも、どうにか下りた。店全体が、下足の片付けにはじまって、客あしらいに追われている。誰もが、こんな早くに引ける客などいるとは思っていない。

「こっちを先に済ましちゃもらえないだろうか」と声をかけるが、とても帳場にまで手が回らない。胸を一杯に膨らませて、呼吸を整え気を落ち着かせる。やっとのことで、女将がやって来た。それなのに、女将までもが悠長に、左の手の平に載せた釣銭を右手の指先で並べ合わせては間延びした送り出しのことばを口にする。

「誠にありがとうございます。またのお越しを、お待ちいたしております」

ゼントルマンが、慌てる姿を人目に晒すわけにはいかない。

「急用ができちまってさ」と言い訳だけを残して、靴を履いた。ジャケットに腕を通して、音を立てないように引き戸を開けた。

やっと来たかと、塀の上で寝そべっていたトラ猫が目を向ける。モンドは何食わぬ顔で、背中を丸めた男の横に立った。

「おお、アニキ。もうお会い出来ないんじゃねえかと、気を揉みやしたよー」と、男は情けないほどに裏返った声を上げて向き直ってきた。

「そいつは、すまなかった。実は、あれからってもの、よんどころ無い事情にすっかり翻弄されてしまって、どうにも抜け出すことが出来なかったのです。待ちぼうけを、させてしまったみたいですね」

「いやー、町中探し回っちまいやしたよー」

「そうでしたか、申し訳ないことをした。ところで、今日は・・・」

「ああ、あいつでござんしょ」と、小指を立てる。

「姐さんもアニキに会いたいってんで、毎日のようにこの店には顔を出していたんですがね。今日ばかりは行かれねえって、残り惜しそうな顔をしてやした。何でも、故郷(くに)から父親(てておや)が出てくるんだとかって」

モンドは、胸をなで下ろしていた。今さら言うまでもないことだが、狙いは女だ。しかし、女を落とすには、まず男の方を片付けておく必要があった。詐欺師モンドに、抜かりはない。こんな路傍での立ち話では、いくら相手が情けない男だからといって、次につなげる技を仕掛けることはできない。

「せっかくだ、一杯やりながら」と、店の奥へ引き込んだ。

ここが勝負のつけ所だ。そんな胸の内はおくびにも出さず、小さな声で呟いた。

国許(くにもと)から御父上が・・・」

 これは使える。モンドの目に映るランプの炎さえ、輝きを増すのだった。

「それは、残念」

口にすることばが、影を落とす。このことばだけは、仕事を離れた本心からだった。だからといって、胸の内を照らす光にも似た願ってもないことであれ、それを感じさせることはなかった。

「まあ、そういう事情では是非もない。恥ずかしながら・・・」と、ことばを切って、次のことばに気を引かせる。男が、ゼンマイ仕掛けの(から)(くり)人形(にんぎょう)よろしく、首を回して顔を向けた。さあ、(とど)めを刺してやる。

「あの日以来、忘れられなくなってしまって」

意味を問わねば、これもまた本音だった。であれば、説得力も自然と高まる。それに加えて類稀なる話力がものをいった。この日も、モンドは絶好調。とはいえ、面映(おもは)ゆさは禁じ得ず、モンドは顔が熱くなるのを止められなかった。横目でそれを見たこの男、こりゃ間違いはねえと、はしたなくも(よだれ)を垂らさんばかりに顎を落として「へへへ」とニヤつく。モンドは、危うく吹き出してしまうところだった。しかし、ここで気を緩めるわけにはいかない。あと一押し。逸る気持ちを抑えつつ、いつかは所帯を持ちたいと思っていることを匂わせた。

「あいつが聞いたら、どれだけ喜ぶことか。あれっきり、おいらのことなんかそっちのけで、アニキのことばかりを口にするもんだから、いい加減頭にもきていたところだが、相手がアニキじゃ勝ち目はねえやって、ついこの間も話をしていたところなんでさぁ」

 そこからは、モンドのひとり舞台だった。

「茜師匠にもいい思いをさせてやりたいのですが、その前に済ませてしまいたい仕事があって」と、思わせぶりの口上で、己の誠実さをチラつかせる。そのくせ、「実は、いい物件が銀座で見つかりましてね。早速買いに走ったのですが、売り手もなかなかのくせ者で、思いの外梃(てこ)()らされているというのが現状なのです」と、悪いことはすべて人のせいにする。それが相手の心を掴むコツ。男はすっかりその気になった。

「アニキは、とんでもないお大尽なんでやんすね。それなのに、苦労が絶えないだなんて」

 こうなれば、これ以上この男に気を遣うことはない。それどころか、意のままに操ることができる手持ちの駒のひとつになったことを、確信していた。

「ところが、旨くいかないときには、普段ならどうということのない予想さえもが外れるもので・・・。このくらいならいいだろうと思って、手持ちの金子(きんす)で阿武隈山系一帯の農家から早い者勝ちのお蚕様を買い付けたのが三日前。気が付けば、丁度その分だけビルの購入資金が足りないって、まったくもって間が悪い。ちょっとだけ待ってくれないか、そのくらいの額ならもうすぐ無尽の利息が入ってくるからと頼んでみたのですが、どうにも分かってはもらえません。汚い表現で恐縮ですが、ケツの穴の小さな男なのです、ふっふっふ。現金で耳を揃えて持ってきてもらわないことには売ることはできない、とか言い出しましてね」

 ここで、これ見よがしに大きくひとつ息を吐いて見せた。

「三井にでも話をすれば何ということもないのですが、借り入れだけはまかりならん、それが代々語り継がれた暖簾の掟ってやつでしてね。それなら、店のひとつふたつを始末して金に換えてしまおうかとも考えましたが、まさか番頭や丁稚連中を路頭に迷わせるわけにもいきません。ましてや、ご先祖さまから受け継いだ家屋敷に手を付けるなどということは、意地でもしたくない。それでは仕方ないということで、亜米利加辺りで捌けば何十倍のダラーに姿を変えること間違いなしの繭玉ではあるけれど、買値のままでもいいから売りに出そうと決めたのが、一昨日のことでした」

 モンドの口車に、「そりゃ、いろいろと大変だったんでござんすねぇ」と、男は何を疑うこともなく身を乗り出してきた。

「それだというのに・・・、横浜の港で、荷にして載せておいた船が丸ごと燃えてしまって、話は敢え無く振り出しに戻ったという訳なのです」

 それまでは目を白黒させながらも、ときおり相槌を打つ程度の余裕を示していた男だったが、「俺からこんなことを言い出すなんて、普段なら許されるこっちゃねえんだが・・・」と、モジモジしながら話し始めた。モンドは聞こえない振りをして、「だから明日も金策に走らなければならないのです」と、小さな溜息をひとつついてみせる。

「アニキ。そいつぁ、おいらに任せてみちゃもらえやせんか」

 モンドは、さも驚いたという顔をつくりながら、心の中で高笑いを上げた。

「ここまでくれば、こっちのものだ。うわーっはっはっはっはっはー」


 ことはトントン拍子に運んだ。


翌日の夕刻、モンドは茜とカウンターバーで落ち合った。

「御父上がいらっしゃっていると聞きましたが、宜しいのですか」

 自分から、こちらの事情を話すようなことはしない。

「ええ、今日は知り合いと芝居を楽しむのだと申しておりましたから、心配はいりません。それに、明日以降も遊びの予定がいっぱいで、家になんかいやしないんです。そんなことより」と、向こうの口を借りるのが、一流の詐欺師の仕事と心得ていた。

「事情は聞きました」

男が昨日の話をどう伝えたかは知りようもないが、その目を見れば、すっかり作り話を真に受けていることがわかる。聞けば、既に男を走らせて、上野から直江津を経由して富山に入る開通間もない汽車の切符を手配させたとのことだった。父親と一緒に国に帰るその日まで、あと五日あるとのことだった。

「駄賃だよ。今晩は、これで遊んでおいで」

遅れてやって来た男の手に、気前よく五円札を握らせている。

「姐さん、いつも済まねえな」

 ニヤついた顔を輝かせて、男は後ろ手に扉を閉めて出て行った。

ここから先は、ふたりだけの時間。そうとなれば、こんなところにいつまでも居る必要はない。

「おまえと会ったその日から考えていたことだが」

モンドは、並べた枕の上でこれからの夢を語った。


茜の家が、富山県は高岡で銅器の加工職人の元締めとして、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進を続けるそれは大きな会社の創業家だということくらいは、とうの昔に調べ上げていた。そんな娘が、どうしてまた東京暮らしをはじめることになったのか。そこから先は、寝物語に今度は茜が自分の口で語って聞かせた。

祖父の代までは、それこそ伝統の上に更に時を積み上げるだけの、地方の職人集団にすぎなかったという。それでも、土地の名士のひとりに名を連ねたというのだから、努力の程が窺われる。子供は、枕から頭が離れることがなかったというほどに体の弱い娘がひとりだけ。跡継ぎにと白羽の矢を立てられたのが、後に茜の父親となる、上方で金物を商う取引先の二男坊だった。その男、婿に入ったまではよかったが、手に何の技術もなければ商売にも向いていなかった。何しろ自分勝手で、人当たりが悪すぎる。

それだというのに、何を教える間もなく、祖父は突然の火事で命を落とした。祖母とふたりで向かった冬の温泉宿での出来事だった。

たいへんな騒ぎとなったが、後に残されたものは、終わりの見えない沈黙だけだった。どれだけの日数であったかさえ記憶にないほどに、父親も母親も、そして茜までもが、ただただ気の抜けた日々を送った。

それでも、いずれ時が目を覚まさせる。この先、何をしなければいけないのか。自分で気づくより先に、周囲から悟らされた。

「それなのに、父ったら自分に課せられた責任に対峙することさえしなかった。できることはといえば、目を閉じることくらい。自分の無力さを知ってのことか、何もかもを(うっ)(ちゃ)って、それこそ朝から晩まで遊び呆けていたわ」

母親が細い体に(むち)打って、無駄に時間を遣り過ごすこともなく働き続けたというのに。

茜は、幼い娘心にも、鬼気迫るものを感じたという。

「胸にどんな思いを秘めてのことだったのか。もしかしたら、とっくに父に愛想を尽かせていたのかもしれない」

そんなふうに思わないこともなかったが、結局、母親が何かを語ることはなかった。

それは、まだ数えで七つの誕生日を迎えて間もない、冬の昼下がりのことだった。ついに、仕事場で母親が倒れた。奥の部屋に床が敷かれ、医者が呼ばれた。財にものを言わせて、ありとあらゆる手が尽くされた。それなのに、顏は日に日に色を失い、窪みに溜まった影ばかりが目立つようになっていった。それっきり、目を覚ますことはなかった。

「物心がついた時には、既にお医者と家を行ったり来たりしているような母だった。だから、これといった思い出のひとつもないんだけどさ・・・」

ただ、最期のときに目の当たりにしたことだけは、今でも忘れることができないという。

「一瞬だけ、母の顔が輝いたの。嘘じゃないわ、それこそ、雪よりも白くよ」

思わずあげた「あっ」という自分の声がまだ耳朶からも離れぬうちに、かろうじて灯っていた命の火は、揺蕩(たゆた)う一本の煙となって昇っていった。

「命って、こんなにも儚いものなの」

それなのに、母親が残したものは、どれも生きた年月の重さを物語るようなものばかりだった。

ただただ技の継承に明け暮れていた職人に、もうひと工夫加えることを覚えさせたのは、絶えず口にし続けた母のひとことだった。

「これで、本当にお客様が喜んでくれるとお思いかい」

このひとことをきっかけに、職人稼業の暖簾(のれん)がいつしか会社となり、徐々にとはいえ地域の顔と言われるまでに育っていった。人様の目を引き、誰からも喜ばれる作り物。どれも、暮らしを少しでも明るく暖かくするものばかりだった。

今までのツケが回って、今度はそれこそ死に物狂いの努力を強いられたのが父親だった。どうすればよいのか、考え一つ浮かばない。だからといって、歴史を継がずに投げ出すわけにはいかない。御内儀(おかみ)さんに代わって旦那がどこまでやるか、お手並み拝見と世間の目も厳しい。遊ぶどころではなくなった。

しかし、よくしたもので、そう簡単に会社は潰れない。

「ここでも、先への備えを怠らない賢い母に救われたの。優秀な番頭が育っていたし、経験豊富な職人もいたしさ。みんな必死に、休むことなく働き続けてくれたから」

そうなると、道楽の虫が、また頭を(もた)げる。父親は、あっという間に、元の暮らしに戻っていった。はなから、娘を手元に置いて育てる気などなかった。遊びにかまけていては、手を賭ける時間もなくなる。さてどうする。親戚縁者はもとより、田舎での人付き合いを嫌って勝手気ままに生きてきた父親に、頼る先は限られていた。次の日には娘の手を引き、東京に上った。

「連れて来られた先が、ここ、神楽坂だというのだから、開いた口が塞がらないとはこのことさ。ただの馴染みという関係じゃないことくらい、子どもにだってわかるもの」

とはいえ、いったいいつから続けてきた仲だったのか。その経緯は何も知らなかったし、この先をどんなことばで契ったものやら、たとえ知りたいと思ったところで術もない。まさか置いていかれた先に直接聞くわけにもいかない。だから、なるがままに身を任せるしかなかった。


家には、三味線を爪弾く音が絶えなかった。道楽三昧の旦那衆や、お座敷前の御稽古にやって来る芸者衆。人の出入りは激しかった。

「そんな毎日が、あたしの興味を引かないわけがない」

腕を上げれば褒められる。茜は、人に構われることの嬉しさを、この家ではじめて知った。三味に合わせて舞う日本舞踊が好きだと言えば、習わせてもくれた。

「母親を亡くしたばかりで、心の中にぽっかり穴が開いてしまったような時だったからね。寂しい田舎に籠もっているより、よっぽど気が紛れた。芸事に厳しい師匠もどういうわけだかあたしにだけは優しかったしね。刺激に満ちた東京の暮らしにも、すぐに馴染んだわ」

もとより、華やかな世界が嫌いではなかったのだろう。娘はそのまま留まった。遊びで始めた芸事も人並み以上に上達し、小粋な女に育っていった。気が付けば、「師匠にしてくれたばかりか、藤巻庵って御稽古場を兼ねた住まいまで持たせてくれた」というのだから、よほど気に入られたに違いない。それ以来、継いだ流派の藤巻を名乗っているという。

あの日、久しぶりのバーのカウンターで聞いた腰巾着の男のことばを借りれば、「江戸っ子ことばも板に付き、気風(きっぷ)の良さは人一倍だ。これで、人気が出ないわけがねえや」ということだった。

「おいらも、何度か辻で見かけるうちに、虜になっちまってた。その頃は、既に名の知れた若手のお師匠さんとして、すっかり評判だったってのにさあ、こんなおいらにまで優しくしてくれた。それ以来なんでやんすよ、用心棒が必要とあらば、飛んで行くようになったのは」

用心棒とは聞いてあきれるが、これがそもそものなれ初めとのことだった。よせばいいのに、余計なことまで語りはじめた。

「それにさ、遊ぶ金には、不自由をしない。姐さんは、めったなことでは使わぬ手だが、昔の話題を引き合いに父親をちょこっと揺すれば、幾らでも引き出せるみたいなことも言っていたっけ」

 ほーらみろ、俺様の狙いに狂いはなかった。


父親との帰省は、簡単に済ませた。茜はその足で、真っ赤に燃える丹後ちりめんの風呂敷に包んだ札束を抱いて、モンドの元にやって来た。

「一時でも早く届けたかったのだけれど、往くだけでも丸一日がかりの長旅だから」と言いながら、疲れた顔はこれっぽっちも見せない。笑顔を添えて、「何も言わずに、これを使っておくんない」と申し出た。

 額の多寡もさることながら、その心意気にモンドの心は揺れた。

「この俺様が、惚れちまったというわけでもあるまいが」

 目を閉じ、歯を食いしばって自分自身に言い聞かせた。天涯孤独は、好き好んでなったわけではない。そうせずにはいられなかっただけだ。気が付いた時からそうだったというだけだ。だから、好いた惚れたはあったにしても、その先をどうすればよいのかが分からなかった。もちろん、夫婦や家庭といったことばは知っている。しかし、その中にいる自分の姿など思い描くことさえできなかった。

「詐欺師が恋慕とあっては、それこそ恥の上塗りだ」

 景気付けのひとことだけを口にした。これにて、一件落着。


モンドにしては随分と手間がかかったが、それだけに手応えを感じさせる獲物だった。

それでも、女が路頭に迷うということはなかった。それどころか、「あちしも、間抜けだねえ」と、周りが慌てるほどの潔さを見せつけたというのだから、百戦錬磨のモンドでさえいささか度肝を抜かされた。その、粋の域を超えた生き様は、見事以外の何ものでもなかった。

ということで、形の上ではそれほど気に病むこともなく吹っ切ることが出来た。それなのに、心の中は思うように決着をつけることができなかった。仄かに芽生えた、情。これを断ち切る術を知らない。いかんせん、こんな経験は今までに一度たりともしたことがなかった。会わぬ日数に比例して、思いは募り、苦しさが高まる。とはいえ、今更のこのこ姿を現すわけにもいかない。胸を焦がし、気を塞がせた。こんな経験ははじめてだった。

しかし、どう思いを巡らせて見たところで、この先に何が期待できるわけもなかった。その後どうしているかと思わぬ日はなかったが、探りを入れるようなことはしなかった。たとえ言い訳を山と積んだところで、そんなものに納得するような茜ではない。かえって、ガッカリさせるだけだろう。よしんば赦してくれたとしても、それが何になるはずもない。その時が来たら泣くのはこっちの方だということくらい、モンドが一番よく知っていた。

「所詮、詐欺師は詐欺師として生きてゆくしかないのさ」

 そして、人知れず死んでゆくしかない。


それにしても、癖にならずにはいられぬほどに、その旨みはでかかった。


     (二)


 長年一匹狼を貫いてきたモンドだったが、このヤマをきっかけに、相棒と組んでの仕事もいいものだと思い始めていた。

「あの男、存外使えるかも知れない」

 儲けを山分けにしても、数さえこなせば稼ぎはバカにできない。いいや、それどころではないだろう、と敢えて隠れることをしないでいたら、息を切らせて男がやって来た。案の定、血相を変えている。

「何てことしやがったんだ」と、頭から湯気を上げて(わめ)き散らす。気持ちがわからないことはない。しかし、一度こうなってしまっては、なだめたところで収まるものでもない。ここは、一気に攻め落とすが肝要。

山と積んだ見せ金を前に、男に迫った。

「旨みはこんなものじゃねえ。いつまでそんなしょぼくれた暮らしを続けるつもりだ。どうだ、これも何かの縁と、俺っちに全てを任せてみる気はねえか。ああ、一気に天国まで引き上げてやるぜ」

 モンドはすっかり地のことば遣いになっていた。仕事ではけっして表に出さない、これがモンドの普段の顔だ。そのあたりはさすがに一流、切り替えは早かった。

それなのに、「何を言っていやがる」と、男は頭から湯気を吹き上げて迫ってくる。この男、情けないほどに、切り替えが遅い。

「まだわからねえようだなぁ。おまえの未来を、光り輝く黄金色に彩ってやろうってんじゃねえか。どうだ、これで文句はあるめえ」と、目の前に積まれた札束をスッと押し出す。

今更ながら、男の眼は札束に釘付けとなった。そこを見過ごさずに、モンドが細く固めたカイゼル髭の先を捻り上げてみせる。男に、それ以上のことばは必要なかった。半開きの唇の端から、よだれが垂れる。

「これで、俺っちの将来は安泰だ」

今まで、ひとりで困ったことはなかった。腕には自信がある。ところが、運を頼りの出たとこ勝負では、いつまでもおカモ様とのいい出会いが続く保証はない。実は、そこが悩みの種だった。そんな時に出会ったこの男。スジはどうかといえば、たしかに腕云々を言う以前の問題で、獲物を見極める目さえも持ちあわせてはいなかった。ところが、おかしなもので、それだからこそ使えるところがあった。使いっ走りに甘んずる、そんな間抜けさが周囲に油断を誘うのだろうか。何でこんな連中    卑下ではなく、持ち上げる意味でだ    がこいつと・・・、と思いたくなるような金蔓と繋がっていた。この付き合いの広さこそが、この男の財産なのだ。銀座のバーやクラブの女給に留まらず、そこに群がる蠅のようなスケベオヤジども。モンドは、そこに金が眠っていると狙いを定めた。

 すかさず男の肩を叩いて、「善は急げと言うじゃねえか」と、近くの縁結びの神社に男を連れて行った。

「ここは、思いを遂げられずにいる女が願を掛けにやって来るところでござんしょ」

何を勘違いしてのことかと、男が目を白黒させる。ところが、モンドに躊躇いはなかった。腰の引けた男の襟首を掴んで、「逃げるんじゃねえ」と引き戻す。

「だって、おいらにゃそっちの趣味はねえんでさ、ご勘弁」と嫌がる男。さすがのモンドも呆れ返った。物わかりの悪い奴にはこれしかないと、破れ筵のような男の頭に一発拳固をくれてやった。それでも隙あらば逃げを決め込もうとする男の背中を押して、言って聞かせた。

「要は気持ちの問題だ。なあ、ここはふたり揃って神様の前に頭を下げようじゃねえかって、そういうことだ」

このひとことで覚悟を決めたか、男が地べたに膝を折る。

「おまえは、俺っちに何処までもついて来ると、心底誓えるか」と詰め寄るモンド。すると男は何を思ったか涙を流して、「添い遂げやす」と口走り、ニッと笑顔を向けてきた。どうにも理解不能な反応としか言いようがなかった。まるでモンドの気持ちを汲んだかのように、取り囲む石塀の上に止まった烏までもが、カーと間の抜けた声で鳴いた。それで、もう一度「おまえ、本気だろうな」と問うてみる。その答がまた見事というか、予想を超えるものだった。思いがけず一発で、満点ともいえる返事をしたのである。

「アニキ、今更何を言ってるんすかい。はじめっから、アニキあってのおいらと心得てる」

「おう、よく言った。金輪際俺っちから離れるんじゃあねえぞ」

 早速、モンドという自分の名前のいわれを話して聞かせ、この道の奥義に触れた。

「俺っちが、何でモンドを名乗っているか、おまえにゃわかるめえ」

どうせわからないにせよ、真剣に考えて欲しいと期待しての問い掛けだった。ところが、この男がなかなか手に負えない。また取って置きの自慢話がはじまったとでも思い違いをしたのだろう、ただ闇雲に人を持ち上げるようなことばかりを言いだす始末。

「モンドっていやあ、時代劇の主人公ってとこじゃありゃしやせんか。おいらも舞台や銀幕に繰り広げられる見事な殺陣に魅せられて、どうして目玉の松ちゃんや伊志井寛のように役者の道を選ばなかったかと何度悔いたか知れやせん。そうすりゃ水谷八重子との濡れ場なんかも夢じゃなかったんだ」

 この癖が直らない限り、三下はいつまでも三下のままだ。上滑(うわっすべ)りな知識とその場しのぎのおべっかだけでは、どう頑張ったところで最下層の立場から一段とはいえ這い上がることはできないだろうと思わせた。

いくら何でもこのままにしておくわけにはいかない。

「そりゃおまえ、主水のことじゃねえか。声に出してみれば同じ〝もんど〟にゃ(ちげ)えねえが、俺っちのモンドは、そんじょそこらのモンドたあ訳が違うんでえ。ダイヤモンドのモンドだぞぉ。よおーっく覚えておきゃあがれ」と、からっぽの頭の中を覗き込みながら大見得を切った。ところが、男は何の反応もしない。ここでも、短い首をすくめているだけだった。暖簾に腕押し、糠に釘とはよく言ったもので、こういうときに手応えがないということほど、哀しいことはない。モンドも、ここが我慢のしどころか。

「おまえにわかれと言うことの方が無理なのかも知れねえが、俺っちが最高のダイヤモンドであり続けるということ、それは取りも直さず詐欺師として一流であり続けるということだ。それを忘れてもらっちゃあ、いけねえぞ。わかったか」と、講釈もこの男のレベルに合わせた。するとどうだ、こいつは脅かしを込めた    というほどのことでもないのだが、    「最高のダイヤモンド」という声の響きにだけ反応して、横っ面に往復ビンタを食らわされたような顔で目を白黒させた。挙げ句の果てに、まるで何処かで見た張子の赤い牛のように、大きく首を上下左右に振りながら、「ダイヤモンドでやんしたか、それも最高の。こりゃまた、たまげた。どうりで女の方から寄ってくる」と眩しそうに手庇を掲げてみせたりする。モンドは、泣きたくなってきた。

 それでも、「まあ、そういうこった」と、調子を合わせることを忘れなかった。するとこの男、「女じゃなくてもダイヤモンドにゃ目がくらむ。おいらも一度はこの目で拝んでみたいと思ってたところでやんすから、これで夢が叶ったってもんだ。有り(がて)え、有り(がて)え」と、わかったようなわからないようなお愛想を口にして、拝みはじめる。これにはモンドも、これから先いったいどうなることやらと、頭を抱えずにはいられなかった。

それでも、気を取り直して講義を続けた。

「なあ、一つだけ教えておこう。詐欺師は、何よりも品格を大事にするんだ、わかるか。そうよ、人間としての大きさってやつだ。バーンとした幅や、ウオーってなぐらいの奥行きが、いざというときに物を言う。おカモ様に安心と信頼を与えて、どうぞお好きなようになさってくださいなって心持ちにさせる。それが、一流の詐欺師というものだ。だから、ダイヤモンドのモンドは安っぽい技を売り物にしたことはねえ。売るのは、たったひとつ、自分自身だけってわけだ。そのためとあらば、身なりに限らず、身振り手振り、それに加えて言葉遣いなどというところにまで磨きを掛ける。こっちゃあ、この道三十年、朝夕二時間に及ぶブラッシュアップ・トレーニングを欠かしたことはねえ。何もかもが、絶好調を保つため。一流になるってことは、そういうことだ。そうすりゃ、鴨、いや、おカモ様が、自分の方からやって来るってえ寸法だ。とくりゃあ、おまえにもその技を身につけてもらわにゃならねえぞ。普段は普段、仕事は仕事と割り切る術が身に付くまでは、二人羽織の袂を預けるわけにはいかねえんだ」

とまあこんな具合に、手下の教育にも余念がないとの姿勢を見せつける、のだが・・・、どう言ったところで訳のわからない反応を示すばかりで、先行きの不安は消えなかった。これ以上は時間の無駄と諦めて、話題を、これから先この男をどう呼ぶか、そしてその呼び名の由来は、というところに転じた。

「これからは、おまえをサブと呼ぶ。いいか」と、問うてみた。

この男、「勿論(もちろん)でさあ」と言ったはよいが、何故に自分がサブなのかがわかっていない。これでは、子供を相手にしているのと変わらない。モンドは、噛んで含めるようにして言い聞かせた。そろそろ、ことばを改める頃合いでもある。

「今日から、おまえは大切な相棒だ。だから、主たるわたくしは従たるおまえを責任持って守り抜く。その代わりにと言っては何だが、従たるおまえはとことん主たるわたくしに尽くさなけりゃいけない。そんな役回りを、海の向こうではサブと言うわけです。モンドがメインで、おまえはサブ。メインあってのサブ、サブあってのメイン、おまえの役割をこれ以上に言い得た呼び方もありますまいよ」

 この男に意味が伝わったかどうか、それについては自信がなかった。それでも口を丸く開け、「おー」と感心したような声を上げている。もしかすると、意味がわからないだけに驚くしかなかった、というのが本当のところなのかもしれないが。

「さすがにモンドのアニキは、博学だ」

隣の寺で、いつもの昼を告げる鐘がゴーンと打ち鳴らされた。


まずは実践だ。ふたりは街に飛び出した。

サブが目星を付けた相手の動きに合わせて、モンドが偶然を装った出会いを演出する。

ご婦人なら「ハンカチーフが落ちましたよ」と、ポケットに予め忍ばせておいた女物の高級シルクを差し出す。受け取ろうが取るまいが、そんなことはどうでもよいことだった。それが何処かの旦那なら、(つまず)いたふりをして相手の靴の先を踏みつける。「おっと、わたくしとしたことが申し訳ございません。そこのシューシャインボーイにでも磨かせましょう」と頭を下げる。受け入れようが入れまいが、そんなことはどうでもよいことだった。

そこに、どちらとも顔見知りのサブが、それこそここでも偶然を装って、通りすがる。これは奇遇だとばかりに、互いを紹介する。そのときに、モンドを様付けで呼び、相手をさん付けででも呼ぼうものなら、貴顕紳士や淑女であればあるほどに、向こうはプライドを傷つけられた分モンドのことが気になって仕方なくなる。

これこそ、思う壺というものだった。一度記憶の中に刷り込んでしまいさえすれば、後は一流詐欺師モンドの〝技〟で如何様にも細工ができた。


とはいえ、サブの顔を利かせて出会った相手は、盛り場で浮いた沈んだを繰り返しているような女が、圧倒的に多かった。

「それにしても、どうして女ばかりが(うわ)っついた夢を見ているんでござんしょうかねえ」と、自ら疑問を口にするほどに。

「そう思うかもしれないが、これはけっして偶然ではないのです」と、モンドが解いて聞かせる。そこには理由があった。中央の激変に彩られた日本の夜明け。男を奮い立たせた明治に続いてやってきた大正というひと時の休息は、女に自立の意識を目覚めさせる時でもあった。

「同時に、それが地方にも変革の兆しを呼び覚ましたのです」

「なるほど、そういうことだったのか。それで、今まで(くすぶ)るしかなかった田舎の若い娘までもが文明の甘い香りに目を眩まされてやって来た、ってわけでやんすね」

「まさに。虐げられてきた女ほど、夢には心を奪われる。結局、大正とは、女と田舎が解放に向かって第一歩を踏み出した時代だったということです」

それでも農業一辺倒の東北あたりであれば、よほどの豪族か大地主でもない限り、そんな世界に身を投じようと考えるほどの余裕もない。それに対して、常に京阪からの刺激を受けてきた越前・越中辺りは、海運、漁業に留まらず、工業などに対する身のこなしも早かった。きっと、房総や東海辺りに比べれば、新しいものや考えに率先して飛び乗ろうとする気風に満ちていたということなのだろう。

「とはいえ、そこは所詮世間知らずのやることだ。いくら気取ってみたところで、自分ひとりで夢を(うつつ)に変えられるほどの術も頭も持っちゃいねえ」

それなのに、一度夢見た女は、都に上ればどうにかなると、そんな甘い期待に胸を膨らませる。

「だから、すぐに他人に頼る。考えるよりも先に、体の方が動いてしまうのです」

「そんな女を抱いてみたい」

「女の方も、夢を現実に変えられるのであればと、何の躊躇いもなく可能性に(すが)りつく」

「うっ、うおー。これで、おいらの夢も叶う」

ところが、それほど世の中は甘くない。そこは女だ、人も羨む豪奢な仕掛けと技をチラつかせなければ乗ってもこない。いったいサブに何ができるというのか。となれば・・・

「ここはわたくしモンドが登場しないわけにはいきません。すかさず、ポンときっかけを与えてやりましょう。それだけで、女の方から騙してくださいな、とばかりに帯を解いてこようというものです」

「だったら、おいらはアニキのおこぼれを頂戴するだけでもいいや」

「そういうわけにはいきません。おカモ様はまた野に放すのが詐欺師の掟です」

モンドとサブの御調子噺は、止まるところを知らなかった。


大正というこの時代、それまで東京・名古屋・大阪をはじめとする表日本にばかり降り注いでいた陽の光が、僅かながらとはいえ裏日本にまで差し込むようになっていた。世慣れする機会にさえ恵まれなかった田舎の娘は純で、人の言うことを疑うこともなく素直に受け入れる。無防備この上ないとはこのことである。自分を照らす光源に、何を躊躇うこともなく歩み寄ろうとする性向が強かった。モンドにとって、それは取りも直さず、擦れた都会育ちに比べれば比較にならないほどに扱いやすいということだった。どこもかしこも、そんな若い娘で溢れていたと言っても過言ではない。

「飛んで火に入る夏の虫とは、このことだ」とほくそ笑むモンドに、これっぽっちの情けも容赦もありはしなかった。取っては捨てるの繰り返し。まるでトレーニング代わりの(がん)(ろう)(ぶつ)同然の扱いだ。


サブとの息も、ぴったり合って来た。そんなところで仕掛けた罠は、久しぶりにデカイ稼ぎを期待させるものだった。

「ひとり、オノボリサンなんでやんすがね、どうやら国許(くにもと)はしっかりした家らしいってのが居やしてね」と、サブが太鼓判を押す。それは、北陸生まれの世間知らずだった。北陸、といえば思い出されるのが茜師匠。どちらにとっても忘れられない存在である。しかし、そのことには触れない、それがふたりの間で交わした決めごとだった。それなのに、「同じ北陸っていったって、茜使用とは大違い。気風(きっぷ)も何もあったもんじゃねえ」と、つい口を滑らせる。

「ほら、噂をすれば何とかってね、向こうの方からやってきやがった」

 真っ赤なリボンで結わいた髪が、頭の後ろでクルクルとトンボの目くらましのような勢いで回っている。

「あの肩に括りつけているのは、何ですか?まるで提灯のようではないですか? 随分と派手なドレスをお召しになって」と、モンドも開いた口が塞がらなかった。

「寝間着もシルクだってんだから、恐れ入っちまう。それにしても、よくもまあ、あれだけテラテラと光る生地を見つけたもんだ」

それでもサブは、「まあ、いつものことでやんすけどね」と、笑い飛ばすだけだった。

ふたりは背を向け、一旦女をやり過ごす。

「それでは、オテモヤンのような化粧でも褒めて、御近づきになるとしましょうか」

 言うが早いか、ポケットから取り出したレースのハンカチーフを拾い上げるふりをした。あとは、「ちょいと、そこのベッピンさん」と呼びかけるだけ。鮮やかに、モンド劇場の幕が切って落とされた。

段取り宜しく、(ねんご)ろになった。あか抜けない顔立ちがどうにも好きになれなかったが、声の色艶だけは人並み以上だった。だから、薄暗がりで逢瀬を重ねた。時には、考えるふりをして目を閉じた。それが女に、「教養のある都会の紳士は、やっぱり違う」と思わせた。騙されているとも知らずに、心を開き、身の上話を語りはじめた。

「京都とは地つながり。大阪の話題で溢れる毎日に、誰もがそれこそ浮かれていたわ。そりゃ、そうだわね。見たことも聞いたこともない話が、キネマの一場面を浮かび上がらせるように目の前を飛び交うんだから」

それこそ、茶屋で船乗りが面白おかしく語りはじめただけで、もっと教えろとたちまち黒山の人だかり。中でも、押し寄せる女の波はひと際大きかった。男にとって、これが面白くなかろうはずがない。付いた尾ひれが日に日に大きく膨らんで、彩りもドギツイほどに派手さを増した。そこに、行商帰りの村の者でも立ち寄ろうものなら、上がる花火を止められる者などいない。我先にと、娘たちは都に上った。

「あたし、出遅れちゃて」

恥ずかしそうに、畳の目に指先を這わせている。モンドが、すかさず「家を出られない、何か訳でもあったのかい」と、探りを入れる。

「ううん、そんなんじゃないの」

元々が、おとなしい性格であった。目の色を変えて、我先にと夢や希望に胸を膨らませては追いかけるというタイプではなかった。家は、代々の庄屋。そこに生まれたひとり娘。何不自由することのない暮らし。親許を離れて暮らすことなど、考えたこともなかった。

「それが何でまた、飛び出す気になったのだい」

「実はあたしのお家、昔は本陣として殿様にお泊り頂いた屋敷だったの。でも、時代が変わって持て余していたのね。だって、旅芸人や日傭(ひよう)(とり)相手の旅館としては、立派過ぎるでしょう。当然、値も張るわ。商売としては上がったり。そんなときだった、昨今は地の作物が都会からやって来る人には喜ばれるっていう話が、聞こえてきたのよ。お父ちゃんたらすっかりその気になっちゃって、気の利いた食材でもてなす料理屋を営むようになった」

 聞けば、時化で亭主を亡くしたかみさん連中をただ同然で働かせて儲けているという。それなのに、「すると、そっちの方が大当たりしたの」と、この娘は手を叩きながら能天気なことばを口にする。

「そいつは凄い。笑いが止まらないとは、このことだ」

調子を合わせて感心して見せれば、「そう、そう、そうなのよ」と、無邪気にはしゃぐ娘。真っ赤に紅をさした唇が、ドブ底から湧き出るメタンガスの(あぶく)よろしく、開いたり閉じたりを忙しなく繰り返している。

趣のある造りの建屋の割には、そんなゲスの腹積もりがにじみ出るのか、入りやすい。生きるか死ぬかの瀬戸際に置かれた未亡人たちは、良く働いた。相手の身なりで差をつけることなどもしない。人を寄せ付けない雰囲気など、微塵も感じさせなかった。そんな腰の低さが、行きずりの旅人あたりの足をも運ばせたのだろう。朝から晩まで都会の話題で溢れ返ったという。そこに、すっかり見違えるほどのハイカラお嬢に変身した飛び出し娘たちの第一陣が帰省してきた。取り残された世間知らずは、目を丸くした。冷静でいろと言う方が、無理というものだったということか。

「さすがに、考えちゃったわ」

そんなところに、猛威を振るったスペイン風邪。

「お友だちが、パタパタと命を落としていったのよ」

「ああ、あれはたしかに酷かった」

うなずき、視線を落とすモンド。

「きっと自分も後を追うのだろうって、不安だったなんてものじゃなかった」と、女は身をよじるようにして、自らの体験を振り返る。

「なんだか、今まで考えてもみなかったことが、急に気になり出しちゃって。あたしの人生、このままでいいのかしらって」

そこで行き着いたのが、ひとつの思いであり、覚悟であったという。

「もしも、このまま無事に不幸の嵐を遣り過ごすことができたなら、その先は好きなことをして生きていこうって、あたし思ったんだ」

 さも、たった今決心したかのように女はきつく口を結び、瞳の奥に真っ赤な炎を燃え上がらせた。

「たしかに、そう思いたくなるのはわからないでもないが、随分と勇気の入ったことだったんじゃないですかい」

 称えるような、思いやるような、モンドのことば。宙に視線を彷徨わせ、うなずく女。

「反対だって、されたんだろう」

「それはそうだわ。だって、男の人、特にうちの親や親戚なんて、そりゃ頭の固い人間ばかりだったから。口では好きにしたらいいさとか言っておきながら、自分の身内は自分の所有物と思い込んでいる。我儘を言うんじゃないと撥ね返されることくらい、ぶつかる前からわかってた」

嫌なことがたくさんあったに違いない。それでも女は、懐かしむような目つきでモンドの瞳の奥を覗き込む。

「もちろん、そんなお父ちゃんでも、生れ育った村と同じように大好きよ。一緒にここで毎日を平穏に暮らすことが、悪いことだとは思わなかったわ。でも、家族や故郷に背を向けて山に登れば、今まで知らなかったものが見えてくるってことを知ってしまった。折角与えられた命なら、一度は見てから死にたいって、もうじっとしていられなくなったの」

 そんなことばの勢いとは裏腹に、女の顔から力が抜けてゆく。顎が落ち、唇が半分ほど開いている。それなのに、眼差しだけは、遠くの一点に向けられたまま、動くことがなかった。

同じ国の中でありながら、裏日本と呼ばれるこの地では、遠くに立ちはだかる立山の峰々を越えなければ上ることもないお日様が、表に出れば何も遮るもののない彼方の水平線から登るのだという。

「それで・・・」

 言い淀むモンドを前に、女は首を竦めながらも言い切った。

「なるようになるわ。あたし、飛び出してきちゃったのよ」

若いだけに止まらない。誰が意図して仕掛けたわけでもないが、それが人生を狂わせる罠となった。

夢に向かって踏み出した、はじめの一歩。幸い、歌には自信があった。

「あたしにだって、陽が当たるようになる」

大いなる勘違いが、はじまった。とはいうものの、伝がない。途方に暮れたが、諦めきれない。

「こうなると、直談判しかないでしょう。だから、押しかけてやったのよ。一緒に歌わせてくれるまで帰りませんって」

火事場の馬鹿力じゃないが、粘り腰を発揮した。それで東京少女歌劇に潜り込むことができたというのだから、女の勢いがものを言ったのか、はたまた時代が良かったということなのか。夢にまで見た(きら)びやかな世界。光に溢れる三友館で、この世の春を唄い踊った。

「見て、みんながあたしを振り返っていくわ」

三年の月日が、矢のような速さで過ぎていった。

「でもね、トントン拍子はそこまでだった」

現実が背中を向け始めたことを肌で感じて、「怖い」と、心の底から思ったという。

長引いた第一次世界大戦がもたらした恐慌の余波は国中に広がり、思わぬところでくすぶり続けた。上野の旅館に、東京相撲の力士や行司が籠城して、用労金の引き上げなどを要求したことなども思い出深い出来事だった。同様に、アジア諸国でも人権意識が一気に高まり、中国の抗日運動も激しさを増すばかりとなった。

都会は、職を求める人で溢れた。気が付けば、後輩たちとの競争にまで敗れ、劇場を追われていた。都会育ちの娘たちと違って、狂いはじめた歯車を上手に戻して回転を修正する術を持っていなかった。最早、夢などを追っている場合ではない。

「誰か、助けて」

そんなところに差し出されたシルクのハンカチーフ。目を閉じることなど、できるはずがなかった。

これが最後のチャンスと、必死でしがみついた。手が届きそうな距離でちらつく誘惑。それに抗う理由を見出そうとする心の余裕さえ、持ち合わせていなかったに違いない。

「これが最後かもしれない」

うかうかしてはいられない。俯いた隙に逃げてしまいやしないかと、そっちのことばかりが気になったという。


 さもありなん。全てはモンドの読み通りであった。

「さあーて、ここからが本当の仕事です」

モンドは、女の夢そのものへと姿を変えた。

「迂闊でした。どうやら、店の者に見られてしまったようなのです。せっかく揉めることなくお前を迎える段取りを整え始めていたところだというのに、下手をすると思わぬところから騒ぎにもなりかねません。今の内に、金でも握らせて口封じでもしておかないと、とは思うのですが、ことが事なだけに、家の金を当てるわけにもいかず、困ったものです」と言われては、女に手持ちの金を差し出すことに躊躇っている理由はなかった。

ところが、直後から女は事の成り行きばかりを気にかけるようになり、三日もすると、祝言の日取りまで口にするようになった。

「当然、そう来るだろうとは思っていたさ」

ここで慌てるようでは、詐欺師などやっていられない。吐く息に、フーと敢えて神経に障るほどの音を載せては、背を丸め肩を落としてみせる。瞼からそっと力を抜き、瞳に陰りを漂わせることも忘れない。その姿は、まるで、夜店に並ぶ魂の抜けた木偶のようだった。

「ご実家を見ればお分かりのように、商売は、ひとりだけで成り立つものではないでしょう」

唐突。それまでが理性に模られていただけに、女は息を呑まざるを得なかった。ことばの真意を測りかね、思わず「えっ」と、声を漏らした。全神経はモンドに向けられている。これほどに効果を期待させる状況はない。

「周りの問屋だ仲卸だといった連中と助け合ってこそ、はじめて成り立っているのです」

「ええ」

 女の顔に浮かぶ混乱の色が、面白いように深くなる。

「どこの誰から聞きつけたかは知りませんが、きっと、このまま放っておいては、自分たちにも影響が及びかねないと危機感を募らせたのでしょう。連中にも守らなければならない生活がありますからね。昨晩のことですが、徒党を組んで、やって来ました。何を日本橋の老舗の御曹司が馬鹿なことを考えてるんだ、にはじまって、仕事も手につかなくなっている番頭や手代をまずは落ち着かせてからにしてはどうだと、どうにか掴みかかってくることまではせぬものの、突然の別れ話に反対することばの勢いは大変なものでした。どうせ裏で金目当ての女が手を引いているに違いないと決めてかかるものだから、話にもなりません」

「そんな・・・」

やっと自分にとっても捨てては置けない話なのだと気が付いたか、目を丸くしている。「こっちに店を潰す気がないだけに、これからも助けてもらわなければならない大切な取引先からこう言われてはお手上げです。でも、ちょっとの間です、辛抱してくださいよ」 

事がそう容易には運ばぬことを印象付ける。そうかと思えば、頃合いを見計らって「心配は無用です。連中だってばかじゃない。こんなこと、どうにかするのは容易いことですから、あまり気を揉んではいけませんよ。身体を壊しては、元も子もありませんからね」と、優しい声をかけてやる。これを喜ばない女はいない。これが、甘美な幻惑へと引きずり込む、モンド十八番のピリッと苦味を効かせた甘い囁きというヤツだった。

(とりこ)。すっかり心を奪われた女は、逸る気持ちを抑えられなくなっている。機会(チャンス)。このまま指をくわえて、見ているだけでよいのだろうか。焦りを覚えはじめた女がすることといえば、自分に出来ることはないかと必死になって考えることくらいのものだった。しかし、それだけの財が、今の自分には残されていない。だから、次の一歩が踏み出せない。あと少し、あと少しでいいから背中を押して。声にならないことばが、モンドの耳には届いていた。

そこに、すかさず次の駒を張る。日を当ててやったら、影を落す。最後は、そっとその影に寄り添えばいい。

「実は、女房への手切れだけでは済まなくなっているのです。弟たちは、代々引き継いできた商いやビルヂングの権利譲渡を迫ってくるし・・・。売り払った金を分け与えてしまえばそれで済むのでしょうが、おまえを幸せにしてやるためにも、手放すわけにはいきません。だから、それに見合った金子を調えて渡してやらなければならない。さて、どうしたものか」

 陽は翳り、影さえもが身を隠す昼下がり。まるで時を見計らったかのように、一陣の風がふたりの間に割って入り、握った手と手に力を込めさせた。お天道様や、雲や風さえ味方に付ける。モンドが、一流と言われる所以である。

 苦渋に満ちたモンドの眼差しに、女が耐えられるはずはなかった。段取りは整った。

「あたしがどうにかする」

とは言ったところで、ことがそう簡単に進むはずがなかった。田舎に帰る女を上野駅で見送った。日数はあっという間に片手を超えた。そろそろかと思ったのが、二日前。それが、八日となり、十日たっても戻ってこない。さすがのモンドも、自信が揺らぎそうになった。

あと三日だけ、それを過ぎたらこの件からは手を引こう。グズグズは命取り。もしかすると、企みを読み解いた親が、追っ手を放とうとしているのかもしれない。そうなったら最後、逃げる間もなく敢え無く御用。後ろ向きな想像は膨らみ、不安は募る。

これまで以上に速い速度で時は経ち、一日二日と日は変わる。

「これでこの話も・・・」と、最期のことばが口を突いて出そうになった丁度その時だった。女がモンドの前に姿を現し、大きな木箱に詰めた札束を、添えた両手で畳の面を滑らせた。

完了。これで、暫くは遊んで暮らせる。


ふつふつと泡立ち湧き上がるすき焼き鍋。立ち昇る、甘い香りが武勇伝を語るモンドをいつになく饒舌にさせた。おまけに、ことば遣いの封印も解いていた。

「女を見送った上野駅でのことだ。任せておくれとばかりに、あいつが横綱よろしく四股を踏んだと思いねえ。その上、薄っぺらな胸をひとつ叩いてさ、汽車に乗り込んでいきゃあがったんだ。そりゃあ、見事なもんだったぜ。はっはっはっは。これで今日までの苦労も報われるって、確信したのは嘘じゃねえ。それなのに、どういうわけだか胸の奥がスッキリしねえ。ほら、どう言やあいいんだ、えも言われぬ不安ってやつがムクムクと顔をもたげやがる、そりゃ嫌な心持だった。焼きが回っちまったかと、不安にもなった。もしかしたら、この取り組み、決着がつかないんじゃねえだろうかってさ。一度そんな思いに取り憑かれると、簡単には振り払えなくなるもんだ。だって、そうだろう。丸い土俵の上なら、押し込んじまえば、あと一押しで勝負はこっちのものだが、上った先が上野駅の二本並んだレールの上ってんじゃ、何処まで行っても平行線だ、いつまでも勝ち負けは定まらないってことじゃねえか。なあ、サブ、そうだろう、いやー、まいったぜ」

日を追う毎に、不安が高まり追い詰められる、そんな心持ちにさせられた。それでも、ことは予想以上の成果を上げた。

「一緒になったら必ず返す」と約束した。その時の、女の嬉しそうな顔が忘れられない。

「そのことばに偽りはなかった、嘘じゃねえ。何しろ、一緒になる気なんかはじめからありゃしねえんだから、返す必要もないってこったろう。なあ、嘘なんざひとつもついちゃいねえんだ、そうだろう。はあーっはっはっは」

面白おかしく語られる成り行き噺に、サブも「アニキにかかっちゃ、線路も終着駅では輪を結ぶってか。田舎娘を手玉に取るなんざ、造作無()え」と、おどけてみせる。すき焼き鍋の底を突いているだけで、笑いが込み上げてきて止まらなかった。


しかし、事はそれだけでは済まなかった。巻き上げられたことにやっと気付いた女の気が触れた。モンドという名を何度も唱えては、夜の町を彷徨っているとの噂を初めに耳にしたのは、モンドだった。

「あれでも、随分手を抜いてやったつもりだが」

久し振りのでかいヤマだっただけに、浮かれなかったと言えば嘘になる。

「何も水を差さなくてもよかろうに」

モンドとはいえ、気が滅入る。サブでさえ、「このままじゃあ、狂い死にってとこですぜ」と、心中穏やかならざるところを隠せずにいた。それでも、「よもや」と気に留めることをしなかった。そんなことにいちいち気を揉んでいては、詐欺師稼業などやっていられない。

「ふたりで血の汗を流して磨いた技が与えてくれた稼ぎじゃねえか、つまらねえことを気にしてるんじゃねえ。せっかくのピン札が、萎えちまわあ」と地の声を荒げて息巻くばかりか、「これも勲章みたいなものだ」と(うそぶ)いた。

ところが、程なく更に重たいみぞれ交じりの風の便りがふたりの耳を震わせた。女が、国に帰ったその足を東尋坊にまで伸ばしたらしいとのことだった。

「これを機に身を固めて、この現実から抜け出すんだ」と、「無理」一点張りの親を押し切って工面した金だったのだ。出自を辿れば、百万石の基盤を支えた加賀一番の庄屋にまで遡る家柄。とはいえ、時代の波は容赦しなかった。いつでも右から左に流せる金子が手元に置かれているわけではない。程なく、かろうじて守り残された田畑も借金の形に取られて、人手に渡った。泣いたのは、女ひとりでは済まなかった。

仏さんが上がったという話は聞かなかったにしろ、さすがのモンドも、落ち込まないではいられなかった。どうしていたなら、そこまで追い込まずに済んだのだろうか。時間を忘れて、モンドは何度も考えた。しかし、今更いくら考えてみたところで、それが何になるわけではないということも知っていた。時間は戻せない、もう遅いのだ。

傍らに立ち尽くす、茫然自失のサブ。この男にとっても、この一件は衝撃だった。それはモンドの目にも明らかだった。いつもの軽口が、ここのところすっかり影をひそめている。調子に乗って手を貸しただけなのに、こんなことになるなんて。

傍らを走り去る舶来の自動車。弄ばれる残り少ない髪にさえ、手を当てることを忘れたサブが、道端に(うずくま)る。

「おいらにゃ何もねえ。それに引き替え、モンドのアニキには天が与え賜うた才がある。はじめから、アニキあってのおいらと心得てる」などと調子のいいことを口にしながらも、モンドと一緒にいるということの本当の意味を理解していなかったのかも知れない。この男は、命をさえも弄ぶ。サブは、冷たく塞ぐ胸を両手で抱きしめた。

「鬼か」

 そんなサブの手前、モンドとしてはまさか狼狽(うろた)えるわけにもいかなかった。目を閉じ、「すまないことをした」と、胸の中で手を合わせた。本当は、こんなことはもうこれっきりにしたかった。景気が良いとは言えないが、時代は大きなうねりの中にある。新しい事業を起こすには、もってこいの時かもしれない。探せば、何かひとつくらいは見つかるはずだ。幸い、手元には幾何(いくばく)かの金ならある。サブにしても、きっと反対はしないだろう。それくらいのことは合点していた。それなのに、この道へと誘い込んだ身からすれば、「こちらから言い出すわけにもいかないしなあ」と、勇気を奮うことができなかった。それどころか、「所詮、人の一生などというものは、儚くも虚しいものなのです」などとわかったようなことを口にして、サブに対して「おまえだって、いつどうなるかわかったものじゃないのですよ」とプレッシャーをかけるそぶりまでチラつかせた。

こうなると、サブは、ケツをまくるよりしかたなかった。どうせ、どうあがいたところでポン引きまがいの身の上に、まともに生きていく明日が開かれるとは思えなかったから。

 ここでもサブは、何度も自分自身に言い聞かせてきたことばを、改めてモンドに向かって言うだけだった。

「あんときの誓いのことばにゃ、嘘はねえ」


それ以来、ふたりの結束は一層強まった。より高度な連係プレーに磨きをかけるため、日々のトレーニングを怠ることはなかった。これで仕事がうまくいかないはずがない。

「そろそろお帰りになりませんと・・・」

 影のように寄り添うサブが、頃合いを見計らって仕掛けのことばを耳打ちする。

「綾小路様が、いらっしゃるお時間でございます」

「ああ、そうであった」

身なりには一点の隙もなく、何気なく放たれることばにさえ無駄が感じられない。品格漂う物腰など、遠の昔に身につけていた。たちまち周囲が騒ついた。

「そんなに偉いお方とは存じ上げませんで、大変失礼いたしました」

カモが口にすることばはいつも同じ。こうして、一度「このお方はどういう人物だ」と思わせてしまえばこっちのもの。あとは、心を奪い、懐のものを差し出させるだけ。

寡黙を装うサブが、「ご主人様」とひとこと声に出せば、モンドのワンマンショーの幕が切って落とさるのだった。

出口へと誘うサブの手を押し留め、すかさず「こんなところで、そんな呼び方をするものではありません」と叱ってみせる。その声に、目を見開き縮み上がるサブ。声も出ず、項垂れるばかり。

これだけで、ジ・エンド。心を奪われない者はひとりとしていなかった。もちろん、女だけではない。フロアを取り仕切るマネージャーや、カウンター越しに客の品定めに余念の無いバーテンダーでさえ、知らぬ間にモンドという名の怪人の虜となっていった。


 不思議なことに、身の周りに金を巻き上げられた上に捨てられた女が出ても、誰も同情することさえしなかった。ただ「馬鹿な女」と揶揄されて、不釣り合いを笑われるだけだった。それでも懲りずに獲物、おっと失礼、おカモ様の方から身をすり寄せて来るというのだから、この商売、一度やったらやめられない。それこそ、モンドにしろサブにしろ、それが仕事なのか遊びなのかさえわからなくなるほどに、舞い上がらないではいられなかった。


この日は、噂を耳にした資産家が、土地を転がしてひと山当てたいと相談を持ちかけてきた。さすがのモンドも不動産相場には疎かった。しかし、そんなことを言ってはいられない。何よりタイミングが肝要。思い切りよく、口から出まかせをぶちかます。

「都のど真ん中からというのが、これまでの常識でした。しかし、これからはその常識を捨てることができる者だけに勝利を掴むチャンスが巡ってくる。田舎とまでは申しませんが、郊外が狙い目です。わたくしは斯様(かよう)に考えますが、如何でしょう」

 都心は、目先の利く人間で溢れている。今も尚旨みが転がっているのは間違いのないことなのだろうが、新参者が簡単にその恩恵に与れる程に甘くはないと心得る。ましてや素人に何ができるというのか。とても、賢い選択とは思えなかった。根拠はそれだけ。それに、どうせ口にするなら突飛な方が面白い。踊りたがっている相手に、当たり前の講釈を垂れたところで、腰を振りながら立ち上がるはずがなかった。大胆さは欠かせない。どうせ言うからには躊躇わない。それが、モンドの流儀だった。

「これまた思い切ったことを・・・」

どれだけ田畑(でんぱた)を買い漁ったところで、儲けは高が知れている。相手は開いた口を閉じることもできないままに、黙り込んでしまった。ところが、「それが常識を捨てるということです」と、モンドは一歩も引くことをしない。力が抜けたのであれば、もうひと押しして進ぜよう。

「常識。従来は、それが判断の拠り所というものでした。そこに頼っていれば、失敗の心配はない。その代り・・・」

語尾に力を込めてことばを切った。ふたりの視線がぶつかる。おもむろに、モンドが「そこには」とことばを繋げば、相手は釣られて「大成功もない」と、自分から口を滑らせる。こうなれば、こっちのもの。あとは開いた地図の町と町とを結ぶ適当な平地にでも指先を置き、「わたくしなら、ここら辺りの土地を買い叩きます」と言い切るだけ。

見れば、どうにか曲がりくねった道が一本引かれてはいるものの、丘陵と荒れた畑地が広がっているだけ。相手は何処に目を留めればよいのかもわからずに、パチクリ瞬きを繰り返すばかりだった。

それでも、やっとのことで「山林や田畑では、値が上がるまで待つ間の、管理や手入れだけでも手間がかかりすぎると思うのですが」と、返してくる。ところが、そんなことばを相手にするモンドではなかった。

「ですから、それはこれまでのこと。しかし、考えてもご覧なさい。同じ額であれば、何十倍、いやいやそれどころか、百倍にもなろうかという面積の地べたを手に入れることができるのです」と胸を張り、二本の腕を左右いっぱいに伸ばしては、「内に溜まった力を外へと広げようというこの時代、旨みは地方にこそあると思いませんか」と、目力に溢れる視線を浴びせかけた。

驚いたことに、苦し紛れの出まかせが、的を射た。

一年もしないうちに、都心と小田原を結ぶ電気鉄道の会社が設立され、近々レールが敷かれるという話が聞こえてきた。おまけに、それが引鉄となって、大手の工場や倉庫などが先を争うようにして沿線に建設計画を持つようになった。住宅地の整備も進められている。

資産家は、巨万の富を手に入れた。

「お力がここまでとは、正直に申し上げて、思っておりませんでした」と、大金を捧げ持つ手を更に高々と掲げて、深々と頭を下げるのだった。

それを目の当たりにして、「おいらたちでその土地を買っときゃあ、大儲けだったのに」と、サブの繰り言は絶えない。痛いところを突かれたモンド。しかし、モンドはそんな軽口を許さない。

「おまえには、詐欺師の矜持ってもんがないのかい」と叱り飛ばした。つい、「いちいち後悔したりするものではありません。これも次の騙し事の準備だということが、わからないのですか」と、返すことばにも激しさが増す。その突然の豹変ぶりに、サブは何も言えなくなっていた。

「相手を喜ばせる。そうすりゃおカモ様がもっとでっかいネギを背負って、向こうからやって来る。そうなりゃ、こっちのもの。稼ぎが稼ぎを生んで、次の稼ぎを呼び込むことになるんだ。これこそが詐欺師の真骨頂、一流の証というものさ。あれほど信用構築が何より大事だと、口を酸っぱくして言ったのに、お前はいったい何を聞いていたんだ」

 モンドが悔しくないはずがない。しかし、それを言っちゃあ、お終いだ。続く詐欺師は育たない。それで、ついつい叱る声も大きくなる。


そんなこんなで、モンドとサブが組んで仕事をするようになってから、早いもので、そろそろ十年にもなろうとしていた。

ふたりとも、歳を取った。


(三)


遂に焼きが回った。


身体の衰えは、隠しきれない。何をするにも、「よっこらしょ」を必要とする。今朝も、どうにか部屋は出てみたものの、やる気が起きなかった。こんな時には、カフェ・バウリスタの一杯の深煎りブラジルコーヒーが欠かせない。早速ソファに身を沈め、仕事を前に頭の回転を整えようとするのだが、やっぱりアイデアひとつ浮かばなかった。

いつからか、「ほら、あれ(、、)だ」や「どこ(、、)でだった(、、、)か、あいつ(、、、)がさ」が当たり前のようになり、具体的な物や人の名前すら出てこなくなった。サブにまで「モンドのアニキは、何を言っているのやら、おいらにゃさっぱりわからねえ。口癖の絶好調が、聞いて呆れる」と、笑われる始末だった。

「さあ、そろそろ出掛けるとしやしょうか」

威勢よくサブが、立ち上がった。それを、恨めしそうに見上げたモンドが、「出て行くばかりで」と、摘み上げた伝票にまで愚痴をこぼす。サブが肩をすくめる。しけた顔が、今のふたりの状況を見事なまでに表していた。

荒稼ぎが仇となって、どこも怪しいふたり組の噂で持ちきりとなっていた。ここのところ、目に見えて鴨    最早、おカモ様などと言い直している余裕はない    は減っていた。出て行ったところで、空振りは目に見えていた。だというのに、今更生活のグレードは落とせない。銀座の真ん中に隠れ家を持ち、相も変わらず三食流行りの西洋料理や鮨だ鰻だといった美食に舌鼓を打つ。

「慣れというのは、恐ろしいものです」

苦渋の決断を迫られる。それだけはまずいと承知しながらも、つい、飛び道具に手を出そうかと考えてしまう。言うまでもなく、鉄砲や機関銃のことである。もちろん、いくら大日本帝国陸軍が十一年式軽機関銃の採用を決めた矢先のこととはいえ、まさか国を相手に商売をはじめようというつもりはない。法の裏で生きるその筋の人間や組織にこっそり持ち込んでやれば、きっと飛ぶように売れるのではないかといった思いつき程度の話である。幸か不幸か探すまでもなく、客となりそうな連中を知らないわけではなかった。詐欺師稼業でのもめ事を、丸く収めてもらったことが何度かある。

それに、仕入れにはサブのネットワークが活きるはずだ。

「そういえば、サブ。ことばが通じないのは難儀だが、手に入らない物はないという何(、)と(、)か(、)いう(、、)元締めが最近幅を利かせているって、いつ(、、)だった(、、、)か言っていませんでしたか」

「ああ、国から(まが)い物やら出所不詳の官制品なんかを持ち込んでは売り捌いてるっていう、あの怪しげなヤツらのことでやんしょ」

そんな連中にとっても、槍だ鉄砲だとなれば、かなりのヤバイ橋を渡ることになる。サブのことばを借りれば、「まさか、連中を相手にするつもりじゃねえでやんしょうね。生半可な覚悟じゃ、やり切れませんぜ」とのことである。

「それに」と、勢いだけなら誰にも負けないサブでさえ、既に腰が引けている。

「がめついあいつらのことだ、どれだけの額を吹っ掛けてくるか、わかったものじゃねえ」

こんな時だけは、頭がよく回る。

「あんなおかしな連中を仲間に引き入れたら、それこそ嘘をつかれた上に裏切られて泣きっ面に蜂ってとこがオチでやんすよ」

言われてみれば、あまりに危なすぎる。そんな(やから)を相手にしてよいものか、モンドは迷った。さて、どうする。苦渋の色は深まるばかり。

そんな様子をチラチラと横目で見ていたサブにまで、「とはいうものの、一度頭ん中に描いてしまったぼろ儲けのイメージは、そう簡単に消せねえってか」と、心の内を読まれていた。慌てて、「そんなことはありません」と強がってはみたものの、諦めきれない。どうにかならないかと、考えた。考えに考えて、また考えた。しかし、いくら考えてみたところで、ひとつもアイデアが浮かばない。まるでポップコーンが弾けるように、いくらでも悪知恵が働いたあの頃が懐かしい。

「考えてみたんだが」と、モンドがサブに詰め寄った。ところがサブも、近頃ではそんなことばをまともには受け取らない。

「昔と違って、いいアイデアが浮かばないってんでやんしょ」

 このまま引き下がっては、モンドの面目丸つぶれ。ここは、リーダーシップだけでも示さないことには立つ瀬がない。

「とはいえ」と、一歩踏み出してみたが、「このままじゃ、御飯(おまんま)の食い上げだ」と、あっさりいなされた。

それでもめげずに、モンドが「ここは」とことばに勢いをつけた声を発すれば、サブも「ふたりでやるっきゃねえ」と、受け止める。

どうにか、話はまとまった。

それでも、今日のサブは慎重だった。不安を口にしないではいられなかった。

「奴らを相手に、(オイラ)(アンタ)なら指でさせばわかるかもしれねえが、高すぎるから安くしろってな交渉は、どうすりゃいいんでやんすかねえ」

尤もだ、と頷くモンド。それではどうする。考えたところで、何も浮かばないのは同じこと。

「今から中国語を勉強したところで、追いつかないでしょうし」

というわけで、日夜身振り手振りの練習に勤しんだ。

「これならわかるか」

「そんなんじゃあ何がなにやら」

「だったら、これはどうだ」

いくら励んでみたところで、そう簡単には実を結ばない。こうなると、頼るは度胸と勘しかなかった。

「どうにかなるだろう」と、奴らのシマに乗り込んだ。


ここは唐人町の路地裏。指定の六時を回っているとはいえ、夏の太陽はまだまだ高い。電信柱に(もた)れたモンドが、上着の内ポケットから口の開いた紙箱を抜き取る。すかさずサブが、マッチの炎を口元のシガーに寄せた。紫煙が、風に(もてあそ)ばれるように渦を描いて昇っていく。

「もうじきやって来るはずでやんす」

すると、どこからともなく足首まで隠す(チャン)(パオ)をまとった男が近付いてきた。佇むモンドに背中を合わせるような格好で、何やら鳥がさえずるようなことばを呟くが、何が言いたいのやら皆目見当がつかない。どうにかボルサリーノを手に取って、挨拶代わりに首を折るので精一杯だった。相手が、表情一つ変えずに歩き出す。ふたりは、目を見合わせて後を追った。

隘路(あいろ)に一歩足を踏み入れた、その瞬間だった。音もなくやって来た男たちに、両側から挟まれた。有無を言わせず、腕を背中で捩じ上げてくる。乱暴に髪を鷲掴みにされたかと思えば頭陀袋を被されて、お先真っ暗。背中を押されながら歩かされ、右に左に何度か折れたところで、目隠しが外された。両側を塀に閉ざされた一角の、破れ長屋。

「ここが、アジトなのですね」

「たぶん」

 モンドは思い知らされた。サブなら連中のことは何でも知っていると思った自分が、甘かった。

ギッギギー、不安を一層掻き立てるような音を立てて、扉が開いた。昼だというのに、やけに暗い廊下が伸びている。戸が閉められれば、それこそ一条の光さえ射し込まず、手探りで男の後について進むしかなかった。突き当りを折り返すと、忍者屋敷の梯子にも近い狭くて急な階段が設えられていた。

一段目から足を滑らせたサブが、「うわっ」と声を上げる。踏み板がガタンと揺れ、モンドも思わず顔を顰めずにはいられなかった。

二階の壁には窓が並んでいたが、内側から何枚も重ねられた新聞紙が張られているため、行燈ほどの明るさにもならない。やけに静かで、息がつまりそうだった。先を行く謎の男は、相変わらずひとことも話さない。

突き当りの扉が音もなく開かれ、押されるようにしてふたりは中に入った。暗さにも目が慣れてきたのか、奥の壁を背に中国服に身を包んだ五人の男たちが立っているのが見える。全員が黒ずくめ。小太りで上唇の両側から細い髭を垂らしている中央の男が、首領に違いない。何やら聞き取れないことばを口にしたかと思うと、上に向けた手の平をこちらに伸ばし、指先を静かに丸めた。

「用があるなら、早く言えってことでやんすかね」

サブが言うとおりかもしれない。先を促しているなら答えるしかない。モンドが、口を開いた。

「わたくしどもに、お手持ちの銃や弾薬を少しばかり御譲りいただけませんでしょうか」

しかし、相手は横に並んだ者同士が顔を見合わせるばかりで、返事をしない。闇の世界では、日本人でもそうそう耳にする言い回しではない。聞き取れなかったのではないだろうか。そうであれば、モンドとしても奥の手を使わないではいられない。人差し指と中指を縦に合わせて伸ばし、あとの三本の指を握って突きだした。

「鉄砲だよ、てっぽう」と声を張り上げながら、「バーン」と指先を跳ね上げて撃つまねをした。

ここまでやれば、そこは手広く商売をしている連中のこと、ことばを理解したかどうかという前に、少なくとも意味くらいは汲み取ることができただろう。声は届かないが、顔を寄せて相談しはじめた。

 突然、端の男が「あしたあした」と早口で叫ぶように言った。どうやら、少しは日本語を話すらしい。それに合わせるように、真ん中の恰幅のよい男が、手の平を反し、三度ほどモンドとサブに向けて指を伸ばす仕種をする。

「今日のところは、帰った方がよさそうです」

間抜けなことに、ここでもサブは階段を踏み外し、危うく転がり落ちそうになっていた。後ろから、笑い声が追いかけてくる。


昨日と同じ電信柱に身を寄せて、モンドとサブは中国人が現れるのを待った。ところが、なかなかやって来ない。七時を回り、日も暮れはじめていた。上から照らす電燈の光を受けて、ボルサリーノのつばがモンドの顔に影を落とす。サブも、「たしか、明日って言ってやがったはずだが」と不安を覚えはじめていた。そこにひとつ、歩み寄る人影。(チャン)(パオ)のせいで、顏だけが空間を泳いでいるように見える。よく見ると、まだまだ若い。歳の頃なら十八、九といったところか、微かにとはいえ、目元に子供らしさを漂わせている。使いっ(ぱし)りに違いない。

モンドが、握った左手をちらつかせる。なけなしの二十円金貨が三枚、指の間で街灯の光を跳ね返している。思わず力が入ったか、男が「うっ」と、喉を詰まらせたような声を発した。慌てて、右手に握った油紙の包みを、ズシッとばかりにモンドの股間に押し付けてくる。そこにことばはいらない。すかさず歩き出し、同時に回れ右をしたかと思えば、何食わぬ顔でまた歩きだした。すれ違いざま、指先だけで互いの持ち物を交換する。どこでポリスが目を光らせているかわからない。間抜けなそぶりは命取り、現行犯で臭い飯を喰わされることになってはかなわない。ふたつ目の路地を左に折れる。あとは、闇にまみれて消えるだけだった。

ハイリスク・ハイリターンは、どの時代でも同じこと。

「これで、一息つける。それにしたって、コルトが五丁とは恐れ入った」

モンドが広げた包みを覗き込むサブ。そのことばに、モンドが目を丸くした。

「五丁ですか、それに玉が五百発。これは破格ではありませんか」「と言われても、おいら鉄砲の相場までは知らねえからなあ」


「売り捌くのは、おいらに任せておくんなさい」とサブが買って出た。どうせチンピラ相手の手売りだと、高を括っていたサブだったが、思いのほか手を焼いた。身なりひとつ整えられずにいるろくでもない奴らに限って、何かといえば牙を剥きたがる。胡散臭そうな目で見られるだけならまだしも、噛みつかれでもしようものならたまったものではない。そんな若造を相手に、「お兄さん」と声をかけなければならないのも癪だったが、そんな奴らほどひとたび(ぶつ)を目の当たりにすれば、魂が抜かれたようにおとなしくなる。面白いものだと思った。

場末の物陰にもかかわらず、たちまち人だかりとなった。五丁のコルトは、あっという間に売り切れた。早速追加を仕入れ、五割高値にしたにもかかわらず、飛ぶように売れた。

「これで当分は遊んで暮らせる」と、モンドといえども、浮き足立った。

それでも、「いいですか、下手(したで)に出れば足元を見られる。売り急ぐがために安売りに走るようなことだけは、禁物ですよ」と、釘をさすことを忘れなかった。

「ガッテンだ」

勢いよく、サブはあの町この町の暗がりへと飛び出していった。

次から次と売値を吊り上げ、ついには三倍の高値で売り捌いた。うまく話を持ってさえいけば、時に十倍も夢ではなかった。


瞬く間に、街のチンピラの手に行き渡った。これで事件が起きないはずがなかった。あちらこちらで無駄な殺傷沙汰が繰り広げられた。そうなると、官憲の目が厳しくなる。微妙な上下関係を楯に集団をまとめていたその筋からも「あいつら、勝手な真似しやがって」と目を付けられるようになった。これでは、以前のように気楽な商売を続けるというわけにもいかない。

「アニキ、もうどうにもなりゃしませんぜ」と、息を切らせてサブが逃げ帰ってきた。

気が付けば、再び厳しい暮らしの中に逆戻りしていた。


そんな時のことだった。

「コロッケやカツレツが懐かしい」

老舗の洋食屋を覗き込んでは腹の虫を泣かせていたサブに、昔馴染みの男から声がかかったのは。

影を落とすほどに深く刻まれた右頬の傷を引き()らせ、「器用な商売をしているようじゃねえか。どうだ、アヘンは手に入らねえか」と、聞いてきた。

早速モンドの元に走り戻ったサブが、「ねえ、モンドのアニキー」と語尾を引きずった甘い声音で、「もっと大口を狙いやしょうよ」と煽る。

「また何を言い出すやら、調子に乗るとしっぺ返しを喰いますよ」

「ここのところ、ろくに(おまんま)も喰っちゃいねえんだ。喰えるものなら、しっぺ返しだろうが何だろうが望むところでござんすよ」

貯えも底をついては、モンドとはいえ、言い返すこともできない。

「ん?何か、いい案でも思いついたのですか」と、訊ねずにはいられなかった。

サブは、そんなモンドに「実は、若いころに一時草鞋(わらじ)を脱いだことのある闇の組織がありやしてね」と、事の次第を話して聞かせた。銃器の次といえば、薬。薬と書いてヤクと読む、危ない(ブツ)のことである。それなのに、ついこの間までのことで言っても、明治政府が国内外におけるアヘンを独占的に購入して許可薬局のみの専売として利益を独り占めにしていたあたりの経緯もあって、その扱いは、まだまだいい加減なものだった。

「それがさあ、近頃やたらと法律が発布されてるのを見ると、政府とはいえ思うようにいかなくなったってことのようなんでさあ。そうなっちまっては、何処を脅したところで出てきやしねえ。ってわけで、ここはひとつ」

自分たちで出してやろうというのだった。乗るしかないと、サブがモンドを盛んに煽る。

一度取り憑かれてしまった者からすれば、たとえ高額だろうと、はいそうですかと諦めることなどできるはずがない。どんなことをしてでも欲しい。となれば、更なる闇に潜って手に入れることも厭わない。聞けば、中国辺りに渡って直接手に入れている中毒患者さえいるという。

その手間を省いてやれば、市場はもっと開かれるはずである。

「ん?待てよ。中国・・・」

 モンドの頭に、閃くものがあった。

「あの連中がどこまで絡んでいるのかはわかりませんが、一度確認してみるだけの価値はありそうです。もしかすると、存外容易に手に入れることができるかもしれません」

既に、モンドはその気になっていた。自分が溺れるようなことさえしなければ、その旨みは格別。値は張るが、儲けもデカイ。

「それにしても、いつからこんなことになってしまったのでしょうねえ。わたくし、もとはただの詐欺師なんですけど」

そろそろ怖くなってきたというのが、本音だった。とはいえ、今更悔いたところで、後の祭り。ここは、一山当てる方に賭けるしかない。

早速、サブを中国人のアジトに飛ばした。

暫くして戻ってきたサブが言うには、「話には乗ったって」とのことだった。ところが、「でもね」と、それで終わらなかった。

「実は、道の途中で、最初にこの話を持ってきた男に偶然出会ったもんだから、おいら聞いてみたんだ。ところで、どれくらいのアヘンを期待してるんだってね」

「それで」と、モンドも膝を乗り出した。

「するとさあ、ちっぽけな取引をする気はねえって言うんでやんすよ」

 これはいい話になりそうだと、ほくそ笑む。

「で、どれだけあればちっぽけじゃないというのです」と、更に前屈みになるモンド。それなのに、「それがさあ、偉そうなことばかり言うんだよなあ」と、言いにくそうにことばを濁すサブ。

「そ、れ、で」と、要を得ないサブの物言いに、モンドがそろそろ苛立ち始めた。それに気付いたサブが、ついに覚悟を決めたか、結論を口にした。

「一斗缶に詰めて持ってきやがれって、そう言うんでやんすよ」

「いっ、一斗缶」

あまりのデカさに、さすがのモンドも目を剥いた。

「それで、サブ。おまえ、まさか受けたんじゃないでしょうね」

「それがどっこい、受けやした」

「なっ、なんということを」

「だって、そうすりゃ、麹町に家の一、二軒も立とうかという金をくれてやるって言うもんだから」

その足で、サブは例の中国人のアジトを訪ねたのだった。すると、首尾よく「話に乗った」と、了解を取り付けることができた。

「話はたしかにデカすぎるが、それならどうにかなるでしょう」と、モンドは胸を撫で下ろした。中国人に支払いを少しだけ待ってもらえば、それこそ濡れ手に粟のぼろ儲けだ。

 ところが、それだけで済まないのが、裏社会での取引。取り分け、中国人相手の取引は、注意が必要。一度乗ったと言っておきながら、舌の根も乾かぬうちに言を翻す。聞けば、謎の中国人にも、そう易々とそれだけのアヘンを手に入れることは出来ないとのことだった。精製前のものとはいえ、どう頑張ったところで六分目がいいところだと言い張る。

もっとも、それでも普通ならとんでもない量である。

「そこを何とか」を身振り手振りで表現するのは至難の業だったが、サブもここは頑張った。それでも、両の手の平を顔の前で振られては、諦めるしかなかった。

「さて、困った」

一度請け負ってしまった仕事だ、どうにかしないわけにはいかない。少なくとも日本のこの世界に、変更や見直しということばは存在しなかった。

期限は、一週間後の夜。四方八方手を尽くしてはみたものの、追加で得たものはせいぜいコップ一杯程度の量だった。いくら考えたところで、当たる先はもう思い浮かばない。一日二日と、時間ばかりが過ぎてゆく。やむを得ず、「取り敢えず、ごまかしちまいやしょう。金さえ手に入れば後はどうにかなるんじゃねえですかい」との、サブのことばに乗った。それは、覚悟を決めたということだった。

「その足で高飛びだ」

 豪快と言えば言えなくもないが、サブが立てた計画は、それはあまりにもいい加減なものだった。

 早速、ふたりで近くの乾物屋からメリケン粉を買ってきた。それに松脂、塩、砂糖をいくらか加えて、てんぷら油を混ぜて火にかけた。

夏の夕暮れ。閉め切った窓には、鎧戸までもが下ろされた。部屋の中には、真夜中とはいえ、夏の熱気がそのまま残っている。暑いというより、息苦しかった。水を口に含む程度では、喉の渇きは癒せない。纏わりつく汗が、次から次と流れ落ちた。おまけにとんでもない悪臭ときては、我慢も限界。それでも、気を失いそうになりながら作業を続けた。

焦げ目がついて、それらしい見てくれにはなったが、適度に固めるには水飴が不可欠だった。しかし、やたらと指先に纏わりついて煩わしい。ためしに、片栗粉を振ってみたりもしてみた。

こうして出来上がった不気味な塊を、準備しておいた四角いブリキ缶の底の方に敷く。その上から、買い付けてきた本物のアヘンを被せた。上辺だけでなら、どちらも飴状で見分けがつかない。これならば、上げ底でごまかすよりはばれにくいだろう。ちょっと焦げ臭いのが気にはなったが、なかなかの出来映えである。

「よし、完璧です」

 いよいよ受け渡しの段となった。

ところが、ここに来てサブがおかしなことを言い出した。

「向こうの意向を汲んで、相手の素性を知っているおいらひとりが行くってわけにはいかねえでやんしょうかねえ。どうやら、あまり顔を広げたくないみたいなんでさあ」

サブも存外頑固で、一度言い出したら引くことをしない。それもそうかと思わないこともなかったが、麹町に家が立とうかという金額の取引である。何事もなく、ここまでやって来た相棒とはいえ、「それはそうだ」と任せてよいものか。途中で事故にでもあったらどうする。相手に脅されて空手で帰ってくることにでもなったら、中国人への支払いだけが残されて、それこそ目も当てられない。モンドの心労は尽きなかった。

「騙されているということも、考えられないことではない」

そう思った刹那、思考は思いもしない方向へと向かった。

「騙される・・・」

もしや、騙されているのは自分ひとりではないだろうか。それも、あろうことか相棒のサブに。

「よもや、ひとり占めにしようという魂胆ではないでしょうね」

モンドは、思いのほか心配性で、その上疑り深かった。一度勘繰りはじめると、いくら振り払おうと努めても、蜘蛛の巣のように絡みついてくる不安から逃れられなくなる。

まるで、長年連れ添った妻の不貞を疑いはじめる、それも何の根拠もなしに、そんな男と同列にまで成り下がったようで、我ながら情けなかった。しかし、どうにもならない。


そうこうしているうちに、受け渡しの約束の時だけが刻一刻と近付いてくる。

今の今まで、サブが自分を裏切ったことなど、一度もなかった。愚かしいほどに純朴、サブはそれだけが取り柄のような男だ。

「もしもこれがただの思い違いだとしたら、裏切ったのはわたくしの方ということになってしまう」

それだけは避けなければならない。モンドは、最後にひとことだけ確認した。

「おまえひとりで、本当に大丈夫ですか」

本音を言えば、「実はアニキ、おいら悪いことを考えておりやした。どうか赦してやっておくんなさい」と言ってほしかった。そうすれば、赦してやる。モンドは、心にそう決めていた。

結局、疑っているのは変わらない。

返ってきたサブのことばは、「おいらだって、このくらいのことならひとりでもできまさあ」だった。自信に満ちた声で答えるばかりか、ひっくり返るんじゃないかと思えるほどに胸を反らせてみせるのだった。そう言われてしまっては聞き返すのもおかしかろうと、手を(こまぬ)いたままに見ているより仕方がなかった。普段から要らぬくらいに口数の減らないモンドではあったが、肝心要のときに限って舌が(もつ)れる。それでも、どうにか「頼んだぞ」のひとことを添えて見送った。

茜色に染まった雲間を抜けて、陽が、建ち並ぶビルの谷間に落ちてゆく。

下ろしたばかりの開襟シャツをひっかけて、サブが縄で縛った一斗缶をリヤカーに乗せて南へと下ってゆく。

相変わらずのツイードの上下で身を包み、モンドは、程よい距離を保って後をつけた。そうせずにはいられなかった。


受け渡しの場所は、追浜の港。

 静まりかえった桟橋の一角に、その倉庫はあった。剥き出しの梁から下がる裸電球。その下で、事は何の問題もなく進んでいるように見えた。

積み置かれた荷物の陰に隠れて、モンドは成り行きを見守った。

サブが、受け取った札束入りのボストンバッグを手にぶら下げて、そそくさと席を立つ。カツーン、カツーン。靴音だけを響かせて、こちらに向かって歩いてきた。麹町に立つ家一軒、それがいくらするものかは知らないが、半端な額でないことくらいは察しが付く。バッグは重そうに膨らんでいた。サブの足が、ふらついている。

モンドは心の中で、「もう少しだ、頑張れ」と、声にできないことばを投げかけた。するとサブが、「まいったなぁ」と呟くなり足を止め、おもむろにバッグの両側の持ち手に左右それぞれの腕を通して、「よっこらしょ」と、リュックのように背負い直した。こんな時にも、乱れた髪を整えることを忘れない。

再び歩きはじめた速度が、幾分早くなったようにも見える。もう、モンドの目と鼻の先まで来ていた。行く手には、ぽっかり口を開けた小さな出入口があるだけだ。

 そこに突然、奥から声がかかった。

「おい、ちょっと待ちやがれ」

 モンドは、「ヤバイ」と思って腰を浮かせた。見せかけだけのメリケン粉の塊を詰めながら、「ばれたら殺されちまうだろうなあ」とか何とか言いながら、人差し指で自分のクビを引き裂く真似をしていたサブのことだ、ここは迷うことなく出口に向かって走り出すと思った。ところが、サブは「何すか」と返事をしながら、振り向いた。自分がどういう事態に陥ったかということを、理解していないようだった。

「サブ、こら、馬鹿、すっとこどっこい、行っちゃダメだ」と、呼び止めた。その声に一度は振り向いたサブだったが、そのことばの意味を解する前に、モンドがそこにいることに驚いて「ひっ」と喉の奥で息を詰まらせた。モンドは、口の前に人差し指を立て、声を出すなとサインを送った。これ以上時間をかけているわけにもいかない。

「早いとこ、逃げねえか」と促したが、騒つきはじめた奴らの声にかき消されたか、サブには聞こえていないようだった。何を考えたかおもむろに、「よっこらしょ」と同じかけ声で背中からバッグを下ろして床に置き、小走りに戻って行ってしまった。

 目の前に置かれた、札束満載の黒いバッグ。サブと連中の様子を覗いながら、モンドは腕を伸ばして引き寄せた。そこに、ドスの利いた声が「この焦げ臭いネチネチした塊は何だ。ふざけたことをしやがって、ただで済むと思うなよ」と響きわたった。その直後、辺りは一瞬静まりかえった。そして、何かがドサッと倒れる音がした。心臓をひと突きされたか、はたまたクビを()ねられたか。サブは声一つ立てることも出来なかったようだ。

「これはまずい」と、足音を忍ばせて、出口に向かった。何を躊躇っている暇はなかった。とても、「重い」などと言っている余裕もない。後ろを振り返ることなく、必死で走った。

そんなモンドの背中を追うように、「おーい、モンドのアニキー、助けてくれえ。おいら殺されちまう」と、サブの絞り出すような声が港の古い倉庫の闇を震わせた。


モンドは全力で走った。

「何でしょう、あの馬鹿、まだ生きていたとは。こんなところで、わたくしの名前なんか呼ぶやつがありますか。もう少しで旨くいくところだっていうのに、まったく。これじゃあ、隠れていたことがバレてしまうじゃありませんか」

 ここまでは、罵ることばもまだ冷静だった。それが、倉庫の出入り口を潜り抜け、走り続けるうちに限界を迎えた。心臓が喉を昇って飛び出しそうだった。

「アッ、アニキーッ」

思わず「呼ぶんじゃねえって、言ってるだろうが。おまえなんぞは、早いところ死んじめえ」と、モンドとは思えぬ冷静さを欠いたことばを吐いていた。寄る年波には勝てない。五十歩も行かないうちに、足がもつれはじめた。もしも奴らが気付いて追ってきたら、まず逃げ切ることはできないだろう。何せ、札束を入れたバッグが重すぎる。金を取るか、命を取るか。もう迷ってなどいられなかった。咄嗟に、ひと気のない(はしけ)のデッキめがけてバッグを放り投げた。もうこれ以上愚かなことは出来ない。まして、自分が育てた手下のサブのドジが元で殺されたとあっては、せっかくここまで高めたモンドの名声に、申し開きが立たなくなる。ここはどうしても逃げ切らないわけにはいかなかった。

「あいつのせいで、とんだ一日になっちまった」と、最後までサブに責任をなすり付けた。

 オーン、オーンと悲しげに泣くサブの声が、次第に遠ざかってゆく。背後では、倉庫の大扉がゴゴゴゴゴォーと錆びたレールを削る大きな音を立てて、開かれようとしていた。中で、車のエンジンがかけられ、ドドドドドーンと爆音が轟いた。キュッとタイヤを軋ませて、黒塗りのパッカードが飛び出して来る。咄嗟に、桟橋の取っ付きで朽ちかけたままに捨て置かれた物置小屋の裏に回った。左手でボルサリーノのトップを押さえ、右手で鼻を摘まんで、波間に揺れる満月の真ん中めがけて足から飛び込んだ。岸壁から垂れ下がる縄を頼りに、海中に身を隠す。

「こりゃ、捕まるだけで済む話じゃねえぞ」

いよいよ年貢の納め時かと、天を仰いだ。収まらぬ震えを海水の冷たさのせいにしながら、息を殺して追っ手が行き過ぎるのをひたすら待った。

 東の空が微かに白み始めた。ガッシャーンと、引き込み線のポイントを切り替える音が、闇を切り裂く。

 プォーッ。

遠くで、朝一番の汽笛が吹き上げられた。

あちらこちらを探し回っていたギャングどもだったが、埒が明かないと踏んだか、建ち並ぶ倉庫の間に残された洞穴のような闇の中へと潜り込み、何処かへと走り去っていった。

「本当に、ヤベェところだった」

 力なく、桟橋の上にしゃがみ込むモンド。自慢のカイゼル髭もだらしなく垂れ下がり、見る影もない。海風に吹かれた塩っ辛い(しずく)が口元を汚す。それが、鼻水なのか涙なのか、ただの海水でないことだけは明らかだった。詐欺師の矜持を語ったあの頃が懐かしくさえ思える。こんな惨めな自分を、認めたくはなかった。だから、せめて口先だけにでも、勢いを付けたかった。

「サブのおかげで、こっちまで殺されるところだったぜ。やっぱり、馬鹿を連れての仕事には、いいことなんかねえってこった」

十年以上連れ添った女房役を、罵るようなことばで言い捨てる。そんなことでしか、己の過去を肯定できない自分。哀しいが、それが現実だ。

 こんなところで、いつまでもウロウロしているわけにはいかなかった。連中が戻ってこないという保証はない。間もなくこの辺りも動き始める。腰を上げ、桟橋を戻る。逃げる途中で札束の入ったバッグを投げ入れた艀に飛び移った。バッグは、まるでとぐろを巻いた蛇のようにも見えるロープの陰に転がっていた。

「サブ、おまえのために苦労させられるのは、もうこりごりだ。ここまで面倒をみてもらっただけでも、有り難く思うんだぞ、この野郎」

 この期に及んでの捨て台詞が、桟橋の上を飛んでいった。底なしの闇も、今では白く漂う靄に取って代わられている。ふと、倉庫へと続く板張りの通路が気にかかる。何かが、風を孕んで膨らんだり萎んだりを繰り返している。

一度気になると、持って生まれた貧乏性が、そのまま捨て置くことを許さない。何か金目のものかもしれない。よせばよいのに、歩み寄る。と、それは倉庫から這い出してきた虫の息のサブだった。モンドは慌てて口に手を当て、「うわっ」と飛び出そうとする叫び声を、のどの奥へと押し戻す。

「ううっ」と詰まる喉。それが耳に届いたかどうかは知らないが、サブがいきなりピクっと痙攣をして、モンドを驚かせる。恐る恐る覗き込んだ顔は、既に原形をとどめていなかった。たじろぐモンド。その右の足首を、サブが最後の力を振り絞るようにして掴んだ。

「なっ、なっ、何だこら」と言いながら、蹴り上げてみるが手は離れない。こちらを見上げる光を失った目。顔中に飛び散ったどす黒い血は、まるで蜘蛛の巣のような模様で既に乾いた瘡蓋となって張り付いている。思わず、左足で一歩後退った。気のせいか、握る手に更に力が込められたようだった。それが最後を告げる合図だったか、そのまま固まったように動かなくなった。顎を引き、身を反らせながら二度、三度と足首を振って外そうとしてみるも、節くれだけが際立つ五本の指はちょっとやそっとのことではびくともしない。これでもかと力を入れて右足を手前に引けば、ぼろぼろになったサブの体もズルッと乾いた音を引きずってこちらにやってくる。これには肝を冷やさずにはいられなかった。何度試みても埒が明かない。思い切って手を伸ばした。血の通わぬ指を一本一本摘まんで剥がすのは、とても勇気の要る作業だった。それでも、どうにか五本の指を開くことに成功した。見れば、ゆっくりとその掌が内側に向けて閉じられてゆく。それが、まるでこっちに来いと手招きしているようにも見えて、さすがのモンドも背筋が凍る思いをさせられた。

「もう、ふっ、ふっ、ふざけるんじゃありません」

 震える足の爪先で骸と化したサブの背中を蹴った。岸壁から落ちたサブの体が、覗き込むモンドの顔にまで泡にまみれた飛沫を跳ね上げる。

小さく寄せる波が、くの字に折れたサブの体を海の底へと呑み込んでいった。


(四)


銀座とはいえ、表通りから一本奥に入った路地裏に、人影はない。巨大な墓標のように立つ、六階建てのビルヂング。震災にも倒壊することなく持ちこたえたが、レンガを積み上げた外壁は周囲からの火に捲かれた痕跡が黒い焼け焦げとして残っていた。裏口かと見紛うばかりのうらぶれた扉がひとつ付いているだけ。奥へと真っ直ぐに突き抜ける薄暗い廊下の先は、くすんだ石の階段になっていた。真鍮の手摺りが、上面(うわっつら)だけ磨き込まれて、黄金色の光を放っている。最上階の一番奥、隠れ家として詐欺師のふたりが身を潜めて暮らすには、もってこいの部屋だった。

淀んだ空気に押しつぶされる。それでも、こっそり屋上に上がれば、気が晴れる。宮城のお堀端には、ここまでは届かない清らかな風が流れているに違いない。

万が一のことを考えると、部屋の明かりも灯せなかった。

「今回はどうにか()(おお)せましたが、次に見つかったらどうなるかわかったものではありません」

 弱気が、口にすることばの勢いにまで現れていた。いつまで続くとも知れない逃避。それを思うと、増々気が塞ぐ。時折、響き渡る嬌声にも身が縮む。宴を終えたヨッパライどもだろうか、どっと湧き起こる歓声が壁を這い上がって部屋の空気を震わせる。

「よもや、連中では」

いちいち身構えていては、気も休まらない。モンドは、背中から倒れ込むようにしてベッドの上に横たわり、天井を見上げた。時間だけが過ぎてゆく。

このままこの街にいるわけにはいかない。奴らにとっては、組織の沽券に関わる一大事である。必死に探し出そうとするに違いない。何しろ、麹町に立つ家一、二軒分の金だ。頭にこない方が、どうかしている。

それだけではない。一斗缶に六割程度とはいえ、仕入れた際の支払いもまだ済ませていない。こちらの相手は中国人だ。懸賞金を掛けてでも、見つけ出そうとするに違いない。かといって、のこのこ出向くわけにもいかなかった。ここは早いところずらかるしかない。

「都落ちとは情けないが、命には代えられません」

もう二度と、この街の土を踏むことはないだろうと覚悟を決めた。それも、中途半端な距離では、隠れおおせるかどうかわからない。何が何でも、ここまでは来ないだろうと思えるところにまで逃げる必要があった。

「海を渡るか・・・、そうは言っても、喋れるのは嘘っぱちの英語くらいのものだしなあ」

考えただけで、気が滅入る。

「ほとほと、疲れ果てました」

 独り言を口にしては、天井の一点、陰気に広がる染みのグラデーションを睨み付けた。

 忘れていた子どもの頃の思い出が、脳裏によみがえる。背中を向けているから顔までは見えないが、星空を見上げながら、両側から手を握ってくれているのはオヤジとオフクロだ。蝦蟇(がま)(ぐち)から小銭をくすねたのがばれたかと、気を揉んだ。顔色を確かめようと、そっと、視線を向けてみた。すると、スーッと消えて無くなった。指の間をすり抜けて、ふたりはどこかへと行ってしまった。

「俺様の人生って、いったい何だったのでしょう」

 慌てて辺りを見回した。そこで目に留まったのが、畑の中で見え隠れしている三つの頭のシルエットだった。それは、言いくるめては忍び込ませた、近所の悪童どもだ。まだ、試しの栽培がはじまったばかりのトマトの畑。人目を忍んでやっと手に入れたというのに、そのあまりの不味さといったらなかった。思わず顔を顰めずにはいられなかった。

「あれ以来、心から満足したことなど一度としてなかった。ひとつも変わっちゃいない。挙句の果てが、このざまだ」

 人を騙して、毎日面白おかしく暮らしてきた。いいや、正直に言えば、そう思おうと自分自身に言い聞かせて、今日までの道程(みちのり)を歩いてきたという方が当たっている。

「そりゃ、まともな道を歩きたかったさ」

人を騙す。そんなことはできることならしたくなかった。しかし、天涯孤独の嘘つきを相手にしてくれるところなど、いくら探しても見つからなかった。だからこんなになっちまったと、時代や人のせいだけにするつもりはない。

「それでも、そうするしかなかった・・・」

おまけに、頑張ろうにも、何をすればよいのかさえわからなかった。

(くじ)けちまった自分がいけないだけだ」

人の顔色を見て、口を開いた。気が付けば、ひと目で相手の心の内が読めるようになっていた。嘘でも人は喜ぶものだということを、その時になってはじめて知った。おまけに、駄賃や褒美までくれる。

「これだ」と思った。

それ以来、自分の心にも嘘を言い続けて、無理やり胸を張って生きてきた。

神楽坂の茜師匠の顔までが浮かんできては、哀しげな笑みを投げてくる。

「今頃、どうしているのだろう」

それでも、あの頃ならまだやり直せたのではなかったか。

「できることなら、まともな道を歩いてみたかった。しかし、ここまで来ちゃあなあ」

今更心を入れ替えたところで、ひとりでやり直すなんてことが、可能なはずがない。

「あーぁ、誰か助けちゃもらえないだろうか」

つい弱気な声を発していた。そんな時に限って、こちらの心情はお構いなしに、突然響き渡る表の歓声。鬨の声にも似て、モンドの心臓を鷲掴みにする。

「勘弁してくれよ」


モンドは、もしも自分に〝この先〟があるのなら、助けられるより、人を助けるような生き方をしてみたいものだと思った。しかし、先を見渡してみたところで悔いの上塗りとなるようなものしか見当たらなかった。

「自業自得というものだ」

思うだけで気は重くなり、考えるだけで頭が痛くなる。

加えて、どういうわけだか、右の足首も痛かった。

「ああっ」

見れば、最後の力を振り絞って掴んできたサブの指の痕が、紫色の痣となっていた。おまけに、食い込んだ五つの爪痕が、真っ赤に腫れ上がっている。

「な、何という執念」と目を見張らずにはいられない。(さす)ってみたが、痛みが退くことはなかった。

ところが、サブの執念はそんなに甘いものではなかった。翌朝には、足の熱が嫌な感じで体全体にまで広がった。モンドは、遂に起きていられなくなった。悪い菌でも入ったか、悪寒に震えた。頭から蒲団を被って膝を抱えた。

こうしていると、外からの音も遮られて、ビクビクしないでも済む。ホッとした刹那、今度は耳鳴りに悩まされた。オーン、オーンと次第に音は大きくなる、と思ったら、それは、あの時に最後の力を振り絞って助けを求めたサブの、喉から絞り出された泣き声だった。

「おーい、モンドのアニキー」

幻聴か。こうなっては、横になってもゆっくり眠ってなどいられない。いくら耳を両手で覆っても、あの「アニキー」というサブの叫び声が聞こえなくなることはなかった。

何も、あそこまですることはなかった。モンドは自分の非道を、心の底から悔いた。

煩悶は尽きず、モンドの体から、今度は粘りつくような汗が流れはじめた。気のせいか、あの日の潮の香りまでもが漂ってくるように感じられてならなかった。

時間がたてばたつほどに、右の足首の腫れは増し、触るまでもなく痛みは酷くなるばかり。蒲団の重さでさえ耐え難い。夜中でも、眠っていられなくなった。思わず、投げ捨てるように剥いでいた。

そこで目の当たりにしたのは・・・、信じられない光景だった。

「うわっ、うわわわわわあああああああぁー」

 それ以上に声は出なかった。薄暗がりの隅に、一層深く沈むひとつの丸い陰があった。濡れたぼろ雑巾かと見紛うばかりのサブが、足元に蹲っているではないか。

傷だらけの腕を伸ばし、指先の爪が、モンドの右の足首に食い込んでいる。

嫌でも目に飛び込む、壁の鏡に映った自分自身の顔。髪は逆立ち、目も口もこれほどに大きかったかと思わせるほどに、開かれていた。それなのに、そこにはサブの姿が映っていない。

背筋を流れる汗が、一気に凍りついた。


モンドは、両手を腰の後ろに回して突っ張ってみた。もがくように後ずさりを試みたが、体がどうにも動かない。サブの目が、どす黒く腫れ上がった瞼の下で、こちらに向けられている。嗄れた細い声が、腫れあがった唇をすり抜け、シーツの上を這ってくる。それは、空気の振動を感じさせないほどに弱く、頭の中に直接染み入るような悲しい声だった。

「モンドさんえ。いやさ、ダイヤモンドの()(あに)ぃさんえ」

 何を思ってのことか、サブは舞台で聞き覚えた口上を真似て、続くことばを発した。

「俺を守ってくれるって、アニキ、そう言ってくれやしたよねえ。だから、おいらはアニキから離れないって心に誓ったんでさぁ」

「サ、サブ、わかっていますよ。ここまで来て、今更何を言っているのです」

 どうにか、足元に向けてことばを返した。

「おいら、どんなことがあっても、アニキと一緒にいるべきだったんだ。それなのに」

 おや、何かが違う、とモンドは感じた。ひょっとすると、恨みつらみを並べようというつもりではないのか。それにしても、いったい何が言いたいのかがわからない。

モンドは、心の中で「それはそれとして、なあ、その手を離せ。話はそれからだ」と念じつつ、必死にサブの手を振り払おうと足を蹴り上げた。それでも埒が明かず、「そんなことを言い出して、どうしたというのです。おまえはいつも一緒にいてくれたではありませんか」とサブに合わせて、当り障りのないことばで返した。

それなのに、サブは「アニキ。おいらはアニキから離れちゃいけなかったんだ」と、相変わらず後悔とも取れることばを繰り返すばかりだった。凹んだ眼窩の奥で黒目だけを上に向けて、モンドを見据える。モンドも、サブの瞳を覗き込んだ。不思議と目が離せない。そうこうしているうちに、どういうわけだか、体の芯を震えさせた恐怖さえ、徐々に薄れていくように感じられるのだった。

「それなのに、アニキ。おいら取り返しのつかないことをしちまった」

 涙まで流している。やっとモンドも気が付いた。なるほど、サブはモンドのことを恨んでいないばかりか、あの日のことは自分の軽はずみだったと悔やんでいるのだ。

「だからといって、いい大人がそう泣くものではありません。言いたいことがるのなら、何でも聞きますよ。さあ、言ってごらん」

「何でもって・・・、おいら、ちょっくら調子に乗りすぎた」

「そうかあ。そんなことは、ないでしょう」

 モンドは、話している最中も、不思議な気分を味わっていた。不気味どころか、いつになくサブが、可愛くさえ思えるのだった。

「おまえひとりで来いって、あいつらに言われた時にゃ、おいらすっかり舞い上がった。そん時に、おいらが何を思ったかを知っても、アニキ、おいらのことを赦してやってくれやすか」

「サブ、おまえを赦さなかったってことが、一度だってありますか。なあ、わたくしとおまえはいつだって、ガッチリ手を組んだパートナーだったではありませんか」

 サブが何を言いたいのかは、想像が付かないでもなかった。それを思えば尚のこと、自分が犯した裏切りにも似た心の迷いが、更に大きな悔いとなって思い起こされるのだった。後ろめたさが尖った針となって、胸の奥を突く。それでも、とても口には出せなかった。俯き加減のサブの瞼が、ゆっくり上目遣いにせり上がる。

「アニキ。信じていいんでやんすよね」と、ホッとした気持ちを込めてサブが言う。

「サブ、あたりまえです」

 モンドは、柄にもなく感極まっていた。

「それじゃあ白状しやすが、あんときゃおいら、思い上がってた。これで、おいらもアニキの世話にならずに済むって。でっけえ仕事の締めをおいらひとりでやり切ることができれば、きっとアニキもおいらを認めてくれるに(ちげ)えねえって。それだけじゃないんだ、もしかしたら兄貴を出し抜けるかも知れねえって、おいら心ん中でウキウキしてた。たとえそれが無理でも、ダイヤモンドがアニキなら、おいらもルビーやサファイヤくらいにはなれるんじゃねえかって、見たこともねえ宝石に(なぞら)えては(やに)()がってた」

 サブは一層肩を落として話し続けた。

「以前だったら気にもしなかったことが、いつからかやけに癪に障って仕方なくなるってこと、ありやすよね。おいらにとっちゃ、ほら、鉄砲売り捌いて浮かれてたときに耳にした、チンピラどものひとことがはじまりだった。高すぎる、もっと値を下げろとの要求に、いちいちアニキのお伺いを立てていたおいらに奴ら言いやがったんだ。サブじゃ話にならねえ、モンドを出せって」

「そりゃ、連中の勘違いというものです。いい加減な値付けは信頼を失うから、最初から安値で売らないようにと言ったのはわたくしですが、幾らにしろといったことなどありません。サブ、おまえは二度三度と確認しに来たことはありましたが、最終的にはふたりで決めたルールを忠実に守っただけではないですか」

「そうかもしれねえが、事ある毎にモンドは一流だって、それに比べりゃおいらは三下野郎だって、奴らバカにしやがって」

「それで、起死回生とばかりに、今度はひとりでデカイ山を踏もうと思ったと、そういうわけですか」

「とんだバカの上塗りでやんした」

 サブは、これ以上に小さくなりようがないほどに、身を縮ませた。

「それに、あのどこのどいつとも知れぬ闇の組織の連中は、おまえの顔見知りです。その関係を考えれば、おまえひとりのせいとばかりも言えないでしょう。奴らはあまり顔を広げたくないと思っていた。だからサブ、お前ひとりで来いと言ったわけで、わたくしがおまえの立場だったとしても、同じように自分ひとりで出向いて行くしかなかっただろうさ」

「実はアニキ、そうじゃねえんだ。連中、おいらひとりで来いなんて言ったかどうか、実はおいらもハッキリとは覚えちゃいねえんでさあ。それくらいにおいら、浮き足立ってた」

「ということは、あれですか。おまえのハッタリだったって、そういうことなのですか?」

 サブの首が、ガックリ折れる。

「おいらはサブの本分を忘れちまってた。嘘なんかつかずに、おいら、アニキと一緒にやるべきだったんだ。出し抜こうだなんてことは思わずに、アニキの言う通りをやってりゃよかった。誰が何と言おうと、おいらは、誓いを守ってアニキについて行くべきだったんだ。それだってのに、アニキは・・・、そんなおいらの(ごう)(がん)不遜(ふそん)な振る舞いを、咎めさえしなかった。その上、気にかけて追って来てくれた、オイラを守るために。それに引き替え、おいらといったら。いってえ何てえことをしてるんだと、思わされやした。取り返しの付かないことをしちまって・・・」

 それは、心から悔いている男の姿だった。

「おいらにだって、あそこは逃げを決め込む場面だということくらい、わかっちゃいたんだ。それなのに、アニキと一緒にずらかることが出来なかった。だって、そうでやんしょ。アニキに合わせる顔がなかったんだからさあ」

「それで、わざわざ捕まりに行くようなことをしたというのですか。サブ」

「そうしたら、本当においら、捕まっちまった。そして、ボコボコにされた。おいら、アニキに頼る資格もねえくせに、つい、アニキに助けを求めていた」

「だというのに、わたくしは助けに行くことをしなかった。それだけではありません・・・、サブ」

やはり、ここを話さずにおくわけにはいかない。

「サブ。赦してもらいたいのは、こちらの方です。実をいえば、わたくしはおまえのことを疑っていたのです。相手がひとりで来いって、そう言うんだから仕方がないとおまえは言うが、実は稼ぎを独り占めにしてドロンを決め込む魂胆ではないかと」

 頷きながら、サブが顔を上げた。

「そりゃあ、おいらが悪いんだから仕方がねえ。先に、パートナーの誓いを破ってひとりで出て行こうとしたのはおいらの方なんだ。アニキにゃ、何の責任もありゃあしやせん」

 いくらそう言われても、相棒を疑い、終には見捨てるようにして逃げ帰った自分が赦されるはずがない、とモンドは思った。それなのに、たとえこちらの言っている意味が掴みきれないにしても、サブは恨み言を口にするどころか自らの非を認めてひたすら詫びている。これには、正直、胸が締め付けられた。

あの闇取引の際に、もう少しだけでも自らの思うところ感じるところをサブに話し、サブがどんな考えで、何をしようとしているのかを聞いてやっていたなら・・・。モンドは、今更ながら我が身の勝手と至らなさを恥じた。

「後の祭りとはこのことか」

こうなると、まともにサブの顔も見られない。そんなモンドに、サブは尚も心の内を語り続けた。それは、モンドにも思いのよらぬひとことだった。

「おいら、随分とアニキには世話になった。だから、恩返しがしたくって、いろんな技の習得に挑戦してみたこともありやした。だけど、おいらにゃ所詮無理だった。というよりも、おいらにゃはじめから向いてなかったんだ。明日咲くために一所懸命生きようとしている蕾のような娘を泣かせたり、爪に火を灯すようにしてやっとこさ今日まで生きてきた爺婆をこの期に及んで途方に暮れさせたりと、おいら、もうあんな毎日を送りたくはなかったんだ」

さすがのモンドも「そうですか、わたくしのせいで。済まないことをしました」と、しんみりせざるを得なかった。元を正せば、そのどれもこれもが自分の企みが引き寄せた悲劇だった。サブはそれに手を貸しただけなのだ。それなのに、サブは、あの日縁結びの神社で誓ったことばを忘れなかった。それどころか、心の奥の思いを隠して「今度こそ、添い遂げやす」とは奇妙な宣言だが、口先だけとは思えぬ誓いの言葉を繰り返したのだった。死人となってしまった者の気持ちを、どう言い表せばよいのかは不明だが、そこには必死(、、)の覚悟が込められていた。自分を殺して(、、、)でも、命がけ(、、、、、)でサポートし続けるとの思いは本物だった。それに引き替え、今も生き続ける自分はどうだ。死んでも守り抜くと誓ったあのことばはどこへ行った。

「ねえ、モンドのアニキー」と、足から離した手で、サブが袖を引いた。

「これからはスポットライトを浴びようだなんてことは期待しないで、ただ静かに暮らしやしょうよ。今までのお礼に、今度はおいらがアニキの面倒を見させていただきやすからさあ」

 いったいどうしようというのやら、モンドには皆目見当が付かなかった。それでも、こんなところで燻っているよりはよっぽどマシに違いないと思った。大体が、どう持て囃されようが詐欺師に明るい未来など、あるはずがない。そんな稼業に未練はなかった。ここはひとつサブの口車に乗ってみるのも面白いかも知れない。ただ、こいつが何を言いたいのか、ここに至ってもまだ、モンドにはその手の内が見えなかった。

 いったい、サブに何ができるというのだろうか。死んでしまったくせに・・・。と、死ということばを頭に浮かばせただけで、また胸の奥を鷲掴みにされるような怖さが何処からともなく湧き起こる。こうなると、ブルッと足下から揺すぶるような震えはもう止められない。とても、口に出すことなどできるはずもなかった。モンドは、金輪際思うことさえしないと、心に決めた。

「最後の大博打になるかも知れねえが、まあ、それもよかろう」

もしかしたら掴み損ねた真っ当な世界への入場券を手にすることが出来るかも知れない。こんな歳になってもまだ、そんな夢に(うつつ)を抜かすことができるなんて、これほどに素敵なことがあるだろうか。モンドは心底喜んだ。

「面倒を見るだなんて、サブ、そんな水臭い言い方は無しにしようではありませんか。苦労をさせてしまったのは、わたくしの方なのですから」

 モンドは、サブの純真さに照らして、自らの非情を詫びずにはいられなかった。

「すまなかった、サブ。わたくしだって、こんな毎日、もうこりごりです」

それは、叫びにも似た声だった。

「サブ。おまえは最高だ」

 モンドは、サブを力一杯抱きしめてやりたい衝動に駆られていた。しかし、サブのその見た目のあまりの酷さが、それを躊躇わせた。それを知ってか知らずか、サブが自分の方からモンドの胸に飛び込んできた。

「アニキ。おいらはアニキといられて幸せでやんした」

 最後は、もう泣き声になっていた。

「これからも、ご一緒できやすよねえ」

声につられて、血と涙と鼻水が一緒になって、ふたりの膝に滴り落ちる。さすがのモンドも、その不気味さに目を閉じないではいられなかった。それでもどうにか、「今さら何を言っているのです、あたりまえではないですか」と、笑顔を向けた。

「おいら、おいら・・・」

 サブの視線が、モンドの瞳、その一点に注がれて、微動だにしない。

「それじゃ、行きやしょう。いいところにご案内いたしやすよ」

 苦労して手に入れた札束入りのボストンバッグが、視界の隅に引っ掛かった。つい腕を伸ばしそうになったが、思い留まった。

「こんな紙屑」

今となっては、使い道さえ思い浮かばなかった。

「さあ、何処へなりと連れていっておくれ。ふたりなら、どうにかなるだろうさ、なあ」

「そう、そうでさぁね。アニキと一緒なら、何の不安もねえや」

鎧戸を開け、並んで窓辺に立った。見下ろせば、何処(どこ)彼処(かしこ)もが静かな闇に呑み込まれていた。何の動きもなく、音ひとつ耳に届かない。一歩だけ、たった一歩だけ足を踏み出す。ただそれだけのことだった。一瞬、緑の葉影が視界を過ぎった。銀座の柳に替えて植えられた銀杏の樹。開いた扇のような葉が一斉に、(おぼろ)げなガス灯の(まある)い光の中で夜の風に揺れた。

 

 モンドとサブ。ふたりは肩を並べて楽しそうに語り合いながら、この世の住処を後にした。


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