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Aは新宿歌舞伎町の、両側に居酒屋や風俗店が入った雑居ビルが立ち並ぶ、細い路地を歩いていた。雨に濡れたアスファルトはあいかわらずケバケバしい電飾やネオン、そして欲望とエゴを反射していた。Aはこの街のギラギラした渦のなかに身を沈めるのが嫌いではなかった。通り過ぎていくだれもが私を見ていない、だれも私に関心がない、しかし私はお前たちをよく知っているし、殺すことすらできる、と。Aは透明な観察者であり、死刑執行人だった。
しばらく歩いたところに十字路があり、そこに一人の女が立っていた。まるで霞ヶ関の官僚のような無個性な白ワイシャツと黒スーツというスタイルが極彩色のこの街の中では逆に目立っていた。女の視線は行き交う人ごみを貫いて、まっすぐAへと向けられていた。不快だった。透明で見えないはずの私の姿があの女にだけ見えている。観察する側の私が観察されている。こんな不愉快なことはなかった。
Aは1ミリ秒の逡巡すらなく「女を殺す」という選択肢をえらぶ。すぐに女の電脳にハッキングをしかけるも、しかし、まったく侵入することができなかった。「そうだった」Aは思い出す。毎回同じようにあの女の電脳内に侵入できなかったことを。
ああ、これは夢か──。
Aはいま自分がいる場所が夢の中なんだと自覚した。いわゆる明晰夢の状態だ。
次の瞬間、あれだけ通りを往来していた人々の姿が消えた。はじめから無人だったかのように通りは静まり返り、無音だった。ただ、あのケバケバしい電飾だけは瞬いたままだ。
明晰夢は時として自分の都合にあわせて夢を改変できるという。Aはそれを行ったようだ。
いま、この通りにはAと女だけ。目撃者は一人もいない。夢の中で目撃者を気にするのも変だが、とAは自分を笑った。
Aはゆっくりとした足並みで女のほうへと歩みを進めた。女は逃げる素振りもなく、Aが女の首に手をかけてときも微動だにしなかった。視線はAに向けたまま。Aは両手に力を入れた。女の首は思ったよりも細かった。女は苦しくないのか、まったく表情を変えない。Aはさらに力を入れたがふわふわとした感触が強くなるばかりでうまく力が入らなかった。
女は声を震わすこともなく言った。「たとえ目が覚めたあとでも、あなたは私の顔を忘れることはできない。そうでしょ?」
目が覚めたとき全身から汗が吹き出してベッドのシーツがベトベトとまとわりついていた。Aは毛布を蹴飛ばすようにしてベッドから跳ね起きた。怒りと首回りの筋肉のこわばりが夢の残留物としてあった。
夢の女。ちかごろ毎夜のようにあの女があらわれる。「録画」しておいた昨晩の夢から例の女の画像をトレースし、外部にバックアップしてあるAの「記憶」に検索をかけても夢の女はヒットしなかった。つまり現実世界では会ったことのない女、ということだ。しかしAの脳内でつくりあげた人物にしてはやけに鮮明な細部と重厚な存在感をもっていた。
さらにネットで「女の顔」を検索にかけてみたが、ひとつもヒットしなかった。「ひとつも」ヒットしないこと自体があり得ないことだった。生まれて一度も自分の画像をネットに晒さない人間などまず存在しないからだ。やはりあの女は夢の創造物でしかないのか──。