旅立ち
「帰るところは、ない」
エルの視線はゆっくりと下がる。
地球ではない、日本ではないこの世界。ここでエルの帰る場所がある筈がない。考えるまでも無く当たり前の話で、しかし、だからこそエルの瞳は悲しみに揺れる。両親にも、妹にも、友人たちにも、もう二度と会うことは出来ないのだから。
「なら、作ればいい」
しかし、マースルはエルを真っ直ぐに見つめながら返してくる。そのはっきりとした物言いに、しかしそれが限りなく似合わない殺人鬼面に少し頬を緩めながら、エルはのろのろと顔を上げる。
「マースルさん」
「何だ?」
「ボクに何ができるのかな?」
「とりあえず、俺と一緒に冒険者になるか?いろんな場所へ連れて行ってやるぞ」
冒険者。そう、それは世界を旅し未知を探すもの。エルとしても創作の世界で言葉位は知っているそれが、この世界にはあるのかとエルは考え、そして自身の小さな手を見てマースルへと差し出して問う。
「エルフの子供だよ?」
「んむ?。ここに来た6体のロックウルフは嬢ちゃんが倒したんだろ?それだけのギフトがあれば十分実力はあるさ」
「そういえば、そうだね」
ちょっとばかりトラウマを貰った関係上忘れかけていたが、エル自身には力がある。それが十分かどうかはエルにも分からないが、マースルがそういうのならば間違いないだろうと頷いて、そして微笑んだ。可憐と評するに相応しい、晴れやかな笑顔で。
「とりあえずお風呂入りたい」
「そうだな、町についたら入れてやる」
□■□
「……追いはぎ?」
ぽつりと馬車の残骸の前でエルが首を傾げて問う。
エルの視線の先には男の死体を漁るマースルの姿。服を剥ぎ、ばら撒かれた荷物を拾い、手際よく袋に入れていく姿は、その外見も相まってどこかの盗賊にしか見えなかった。いや、そうやって見てみれば、周りに転がっている死体ですらマースルが手を下したように錯覚してしまう。
「ちげえよ!!町に向かうにも武器だって食料だって要るんだ。使えるものは何だって使うのが冒険者ってもんだ」
「ほうほぅ」
「ほらっ、これ」
感心したように頷くエルに、マースルが薄汚れた布を投げてくる。顔面でキャッチしたあと広げてみれば厚手のマントであり、少しばかりに汗の臭いに顔をしかめながらマースルを見返せば、苦々しい顔をしたマースルがエルを睨んでいた。
「森妖精の子供は裸で生活するもんなのか?」
「知らない……ん?おぉ、そういえば裸だ」
自らの身体を見下ろして思い出す。幼くなった関係で羞恥心が鈍くなっているのか、それとも自分の身体という意識がまだ薄いのか、指摘されて裸であるのを認識する始末なエルに、マースルは頭痛を堪えるようにして世間一般の常識を説明する。
「とりあえず人間の生活する場所じゃあ、裸になってるのは駄目だ。見つかったら兵士に捕まるからな……下手したら俺が」
「大丈夫、露出狂じゃないから分かってる」
「……変な言葉は知ってるんだな」
ぽつりと言ったマースルの最後の台詞を華麗に聞き逃し、ばさりとマントを羽織るエル。当然大人用にサイズが合うはずもなく、地面に擦りながら留め具を固定したエルは、仁王立ちでばさりとマントをはためかせ、うむっとばかりに満足そうに頷く。
「ぜんっぜん分かってねえな。裸を見せないようにしろってんだよ。ほらっ、紐で縛れ」
「縛ると手が出ない」
「穴開けてやるから心配するな」
そんなこんなでドタバタしながら荷物をまとめるマースルと、ひたすら邪魔をするエル。何となくそんなやり取りをマースルも楽しんでいることをエルは感じ取りながら、学生時代の友人たちとも同じようなやりとりをしたなあと嬉しくなる。
(懐かしいなあ、更衣室を覗こうとして失敗したあれとか)
男子学生とはいえ全裸徘徊するような過去は無い。今のマースルのような調子で友人の一人に怒鳴られながら皆で女体の神秘を追求した思い出。教師と女子に追いかけられ最後にはパンイチで正座させられて……と思い出した所で、腐った女子が鼻息荒くスケッチしていた事実まで思い出して、しっかりと記憶に蓋をする。
「ふむ、ボクも昔は若かった」
「年齢は知らんが、嬢ちゃんには似合わん台詞だな」
そしてマースルの肩に座り満足そうに頷くエル。
コンパスの差がありすぎるため、マースルに運ばれる形になったエルだが、それはそれとして高くなった視界で世界を見渡し、満足する。青い空、白い雲、遠くを飛ぶ巨大な鳥に、遠くを走る何かの獣。そして背後で証拠隠滅に火をかけられた馬車の残骸。これぞまさに異世界の導入イベントだと満足そうに頷いて、そして思い出す。
「お風呂って共同浴場?女湯に入ればいいのかな?」
「奴隷商人に攫われたいのか?宿で桶と湯が借りられるから、それが嬢ちゃんの風呂だ」
そして二人の旅は始まります。
「温泉探すのも良いかも?」
「そのうちに連れて行ってやるよ」
幼きエルフの妖精姫と、過去に鬼神と呼ばれた冒険者の長い長い旅の始まりが