5.お山とか昔話とか
「零、言ってる意味がわからないんだけど」
「それは……」
「でも、もっとわからないことが起きた」
「え?」
私は自分からは正面の、零からは背後に当たる方向を指さす。
そこに在るのは、今まさに話題に上っていた場所、つまり――お山、だ。
「な……」
振り返った零が唖然とする。
黒い靄や霧はいつものことだが、明らかに見慣れない色が山頂を覆っていた。
暁のあわいに輝く陽にも似た、鮮やかな朱色が立ち昇る。
「……何が」
「御神体に手を出したのかなー」
「何だって!?」
「ふーん、ああなるんだ」
「おい……」
ちっとも慌てた様子でない私を、零が奇異の目で見る。
「何をそんなに落ち着いて」
「いや、だって別に困りはしないし」
言われると逆に醒めてしまう私は天邪鬼だろうか。立っていることすら億劫になって、杉の枝にそのまま腰を掛ける。
「鬼浦という人は、今日部下とおぼしき男数名を連れてお山に入ったようだよ」
「お前……」
「抜け駆けなんじゃない? わざわざ登校日に合わせるなんて」
「知ってたのか。それでわざと、俺を」
否定はしない。
お山の妖どもから、鬼浦が零を伴ってここ数日出没していたのは聞いていた。山頂に到達できそうな獣道を見つけたことも。
「零がずっと調べてたんだよね。襲われる危険もあるお山で、力が強くないと長く居続けられないお山で、帰れないかもしれないお山で」
「帰れなかったことなんてない」
「今まではね。それに零だったからまだ良かった」
これは明かしたくないのだけれど、納得しないのであれば仕方がない。
「手控えられてたんだよ。もし今、鬼浦と行動を共にしていたら、どうだったかな。彼女が勝手に事を起こして却って助かったね」
「き……鬼浦さんは、どうなって」
零は人の子には過ぎた眼でお山を観察する。
空に吹き上げるように朱炎が波打つ。もちろん現実の火ではない。
「呑まれたか……まあ、術者ならまだ生きているかもね」
「――行く!」
「は?」
私は本気で驚いた。
止める間もなく、零は杉の枝から飛び降りる。
かなりの高さなのだが、そこは拝み屋としての術を行使して問題ないようだ。数秒後には地面に下り立ち、そのままお山の方向へと駆けて行った。
+ + +
さて、ここで昔話をしよう。
当然だが、お山は今よりずっとずっと古い時代からそこに在った。
さして高い山ではない。頑張れば軽いハイキング仕様でも登頂できる高度でしかない。けれども人間が侵入することは稀であった。
お山には神様が居た。
神様は遥か彼方、天の向こうから落ちてきた燃える石だった。
現代的に言えば隕石――である。
「ありきたりだよね」
「なんで今、そんな話をする!?」
「いや、落ち着けよと思って」
突然お山へと向かった零に余裕で追いついて、私は空気も読まず背中から話し掛けていた。
では、昔話を続けよう。
隕石は力場――パワースポットの超強力版――と結びついて、神的存在となり、山全体を呑み込んだのだ。
何者もお山には近寄れなかった。
霊的な炎と熱の噴き出す場に、人間はおろか妖さえも踏み込めるはずがない。
その姿を以って火鳥山といい、独り山という。
「ひとり山」
零はお山に入ると、獣道を迷わず進んだ。
自らが登ろうとする場の名称を呟く。
「あの日……お前と会った日に聞いたな」
「そうだね。よく憶えていた」
私は懐かしさに目を細めながら、零の後ろを歩く。小さかった背中は、見上げるほどに成長した。
「背、伸びたね」
「当たり前だろ。……おい、裾を掴むな。だいたいなんでお前まで来てるんだ」
別に構わないと思うのだけれど。
昔話はまだ続くのだから。
ひとり山には神様が居た。
炎の化身で、唯一の者だった。
長い長い時間、神様はただそこに在った。
ある日、人間の女が迷い込むまでは。
「その女は……そうだね、零のような人間だった。特別な力を持っていて、そんな状態のお山にも立ち入ることができた」
「霊能者ってことか」
「うん、そんな感じだったよ」
「知った風に」
「まあね。知ってるから」
「……?」
歩を進めながら、零は神妙に昔話を聞く。
何だかんだで素直な奴だとは思う。
「女は神様を祀った」
「社でも建てたのか?」
「いや違う。ただ山頂でお祈りしただけ」
「何だそれ。……あ、くそっ」
面白くもなさそうに零が舌打ちする。
道が途絶えたのだ。
「……諦める?」
「まさか」
どうやら先に訪れた鬼浦が目眩ましを仕掛けたらしい。なるほど、零が従っていただけあって、見かけによらず相当の実力者のようだ。
不思議な呪文と奇妙なお札で、零は先人の術を一掃する。才能はこちらの方が恵まれているのかもしれない。
「勉強したんだね」
「必死だったから」
「なんで?」
「……それは、お前を」
零は言葉を濁す。
何だろうなあ……さっきから。何故に私が零の行動指針に関わるのだろう。
「いや、いいだろう、別に。話の続きはどうしたんだ!?」
「え、聞きたいの?」
「気になるだろ!?」
「しょうがないな」
「何だか理不尽な気がするんだが」
まあ、いいや。
昔話はもう少しで終わる。
そんなに愉快な内容でもない。
女は神様に祈った。
――が、祈りは届かなかった。
「はあ?」
急に振り返った零は、慌てて足を踏み外しそうになる。転倒直前の身体を私が何とか支えた。
「危ないよ」
「すまない。……いや、でも」
「ああ、続きね。うん、だからね、女は身籠ってたんだよ」
「唐突だな」
「で、子どもがちゃんと産まれるよう神様にずっと祈りを捧げていた」
けれど、哀れなるかな。
子どもは女の胎内で息を引き取った。死産だったのだ。
そして――そのとき神様が何を思ったのか知らない。人間のような感情があったのかもわからない。
「どうしたんだ?」
「神様は女に気づかれないよう、魂の抜けた胎児の中に己の分身……力の欠片を代わりに押し込んだ。端的に言うと乗っ取ったんだね」
ここまで話せば、どんなに鈍い者でも理解すると思う。
「それが始まり」
「……何の」
「私の」
「だから私は、妖であり人間でもある訳だよ」