非日常は突然に(前編)
「こんにちは、圧延さんはいらっしゃいます?」
店主である叔父の名を呼ぶ若い女性の声を聞き、店番をしていた鋼征はドアのほうを向く。
「店長は外出中です……」
彼の言葉が途中で途切れたのは青い着物を着て白い髪を持った女性の美しさではなく、アクセサリーには見えない狐のような耳と五本の尻尾に驚いたからだ。
彼の反応を見た彼女は「あらっ?」と声をあげる。
「もしかして私の頭に生えているものが分かるの?」
狐のような赤い瞳の女性の問いに、鋼征はごまかす発想すら思い浮かばず、無言でこくこくうなずく。
「なるほど。だからなのかしら?」
女性は彼がしているペンダントを見ながら何か気づいたような顔になる。
一方、彼のほうはと言うと自分の身に一体何が起こっているのかさっぱり分からない。
(おじさんにバイト代をもらって店番をしていたら、狐耳が生えた女性がやってきたとか、漫画じゃあるまいし……)
彼の脳は必死に回転していて、何とか理解しようとしている。
「とりあえず圧延さんがあなたに店番に頼んだ理由と、あなたが何も知らないことは理解できたわ。入って待っていてもいいかしら?」
女性の問いに鋼征はおじが「誰か来たら店の中で待ってもらえ」と言っていたことを思い出す。
「はい、どうぞ」
彼が言うと同時に女性はしずしずと中に入ってくる。
普通に歩いているはずなのにそうは見えない優雅な動作であった。
思わずぼーっと見とれていると、不意に彼女と目が合う。
彼女は不快そうにするどころかにこりと微笑んでくれる。
彼は恥ずかしくなってそっと目をそらし、立ち上がってグラスに大きな氷と水を入れて彼女に差し出す。
「ありがとう。気が利くのね」
彼女のやわらかで耳障りのよい声で言われれば、鋼征は何やら自分がよいことをしたような気分になる。
(ずいぶんと不思議な人だ……人なのか分からないけど)
彼の意識はやはり彼女の耳や尻尾に向けられた。
「ふふ、そんなに気になる?」
女性は彼の視線に気づき、いたずらっぽい笑みを浮かべながら自分の耳を手で触れる。
「し、失礼しました」
上品で余裕がある彼女の態度に、彼は気おされて謝罪した。
「いいえ。見える人は珍しいから」
女性は意味深なことを言う。
(見えない人が多いのか? ……つまりどういうことなんだ?)
鋼征はすっかり混乱している。
そこへ彼のおじが戻ってきた。
「暑い。鋼征、水をくれー」
おじの圧延は濃いベージュの襟付きシャツをだらしなくパタパタさせながら、情けない声を出す。
四十になるはずなのに見た目も言動も若々しいこの男は、カウンターの前の席に座ろうとしてようやく女性の存在に気づく。
「おや、紅蜀葵じゃないか」
「おやじゃありませんよ。かわいそうにそちらの彼、何も知らないものだからさっきからオロオロしっぱなしじゃありませんか」
女性はやわらかく、それでいてしっかりと圧延を注意する。
「いやあ」
圧延はぼさぼさ頭に手をやって苦笑したが、悪びれる様子はなかった。
「だってお前さんたちのこと、口で説明しても信じてくれないと思ったんだよ。実物を見せりゃ一発だろうって」
「……たしかに私の耳と尻尾が見えた人は、あなた以来ですけれどね」
紅蜀葵と呼ばれた女性は、彼の言い分を仕方なさそうに認める。
「おじさん、どういうことです? こちらの女性は何者なんです?」
鋼征はたまりかねて、圧延に問いを投げた。
圧延は意味ありげに女性を一瞥してから、わざとらしく咳ばらいをしてすまし顔を作る。
「あー、彼女はつまりなんだ、あやかし? もののけ? 妖怪? そう呼ばれる存在だ」
「あ、あやかし? 妖怪? 鬼とか天狗とか猫又とか?」
鋼征は自分が知っている単語を半信半疑で並べてみた。
「だいたいあっておりますよ」
紅蜀葵は笑顔で肯定してくれたものの、彼は安心するどころか不安になる。
妖怪と言えば漫画やゲームではおなじみの存在ではあるが、どうしておじの店に当然という顔をして来ているのだろうか。
「ここは妖怪が気軽に来れる店なのさ。だらだら雑談したり、相談したりな」
「は、はあ?」
おじの大ざっぱすぎる説明に鋼征はきょとんとする。
見かねた紅蜀葵が深々とため息をついた。
「要するに私たちのような存在のために、圧延さんが用意してくださったお店なのです。私たちはここを【セーフティー・ネットワーク・ショップ】、略してSNSと呼んでいるわ」
「SNS……?」
彼はまたたきをくり返して、口の中で反芻する。
彼にとってSNSという単語自体はなじみの深いものだが、まさか妖怪の口から聞くことになるとは夢にも思わなかった。
「本当はもうちょっと別の名前がよかったんだけどよ、このほうが覚えやすいって言われたんでな」
圧延は頭をかきながら説明するが、鋼征の耳には入ってこない。
「本当に何もお聞きになっていなかったのね」
紅蜀葵は彼に同情的な視線を送る。
「……いやまあ、ただ言われただけじゃ受け入れられなかっただろうということだけは、どうにか納得できました」
彼は何とかそう答えた。
だが、だからと言ってすべてを飲み込めたわけではない。
「父さんにおじさんの店を見てこいって言われてたのに、なんて説明すればいいんだよ。てっきり普通の喫茶店だと思っていたのに……」
鋼征がついつい愚痴をこぼしながら天をあおぐと、しっかりと聞いていた圧延は目を丸くする。
「おいおい、兄貴のやつ、そんなことを言っていたのかよ。息子に何をやらせているんだ」
「ろくに実家に顔を出さないうえに、仕事のことをまるで説明しないおじさんが悪いと思いますよ」
甥っ子の言葉の正しさを認めたのか、圧延は「うぐっ」とうめいて言葉につまった。
「なるほど、圧延さんは家族の前でも圧延さんなのね」
聞いていた紅蜀葵はよく分かったと納得する。
「え? 紅蜀葵、それはどういう意味だよ?」
圧延の問いに彼女が答えよりすばやく鋼征は言う。
「ということはおじさんってここでもおじさんなんですね」
「おい、鋼征?」
圧延は信じられないものを見る目で甥を見る。
鋼征が裏切るとはみじんも思っていなかったのだろう。
彼らのやり取りに紅蜀葵は鈴が鳴るような声を立てて笑った。
「仲がよろしいことで何よりです」
「……今の流れにそんな感想が出るなんて、やっぱりお前さんはズレているよな」
圧延は仕方なさそうに言う。
紅蜀葵はそれに答えず、鋼征に話しかける。
「お父さまにはただの喫茶店だとおっしゃっても大丈夫でしょう。どうせ普通の方には私たちの正体は分かりません」
「あ、はい」
にわかには聞き入れられそうにない様子の彼に対して、彼女は微笑みながら言った。
「私たちの正体を誰でも分かるなら、騒ぎになっているはずでしょう?」
「あ、そうですね」
鋼征はようやく納得する。
彼女はごく普通に出入りしているのに、誰も彼女を見て騒がない。
つまりほとんどの人々は彼女の正体に気づけていないのだ。




