狂智の書
みぃんみぃん。
蝉だ――
じぃわじぃわ。
あれは――蝉の声だ――
石造りの階段をぎちり、と踏みしめる。
階段――
そうだ、ここは階段、だ。
俺は俯くようにしながら階段を登っている。
うつむき、下を、ただ、下を見ているだけのまま。
だからか。
だから、蝉の声しか聞こえていない。
ここが何処であるか、いまがいつなのか、そういったものが一切、わからない。
ぎちり。
また、ひとつ上の石段に足をかける。
どうしてこうも緩慢なのか。
なにもかも。
脳味噌が動く速度さえも。
ぎちり。
足元に黒く染みが落ちる。
汗か。だろうな。蝉が鳴くのなら、それは夏なのだろうし。
ぎちり。
どこ、だ。
緩慢に、緩慢に、わざとそうするよう、頭をわずか上げた。
桜――?
吐き気を催すほど、大量の、桜――
いままでそれが有ることに気づかぬことが不自然であるほど、濃密な匂い。舞う花弁の量。
なによりも――
みぃんみぃん。
蝉、が――
じぃわじぃわ。
なぜ――蝉が桜で――啼く――
不自然だ――これは――いや――すべてが――
ここにあるものすべてが不自然だ。
然、し――
ぎちり。
また、一歩を。
其れを本当に不自然と想ったか――?
条理が遍く成らないものなら、俺は、なんだ。
俺こそ、不自然であり、不条理であり……。
ここにあってはならないものではないのか。
なら、ば――
ぎちり。
ならば……それらを不自然と断ずる筈もなく――
ぎちり。
只只――歩む――登る――のみか。
ぎちり。
全ては後付けのこと。いまの俺が想うことであるはずがない――
なぜなら――なぜ――なら――?
ぎちり。
俺の脚は、俺の考えを赦さない。
ぎちり。
ただ、只、あゆめよ、と。
ぎ――
石段が
――ちり。
終わる。
開けた場所だ。桜に、そして蝉に塗れ……。
それでいて遮るものなく開け、ホワイトノイズさえ聞こえるくらいに静謐な――
はぁッ――はぁッ――
息が、荒い。
はぁッ――はぁッ――
あれだけ急いで駆け上がったのだから……。
汗が溢れるほど急いだのだから……。
はぁッ――はぁッ――
宜なるかな。
然、し――
何を、急いだ。どうして、駆けた。
あれほど――なにを――いったい――
はぁッ――はぁッ――
まだ息が荒いのか。
はぁッ――はぁッ――
ちが――う。
これは、疲労しての事じゃない。
知ってる。もう、知ってる。
階段を駆け上がった俺は、もう、知っている。
後付けた感覚に酔うまでもなく……。
ただ、事実としてだけ知っている。
「お――ぉ」
乾いて裂けた唇から、聲が漏れ出た。
「お――おぉ――」
赤い――あまりに赤い鳥居の下、膝を折る。
ぽたり。ぽたりと……。
石畳をぬるい汁が濡らす。
乾けど乾けども、足元に。ぽた、と。
神が宿る社のまえ――そこに――
「う……あ……ぁ……」
それは嗚咽か。
「あ……あぁぁぁぁ……!」
慟哭か。
その社のまえに、彼女は、いた。
胸に大輪の薔薇のような赫を飾り――いた。
「また――か」
大層に美しく――
「また――俺――は――」
何も映さないままの、その面差しのまま。
「俺――は――!」
守れなかった――のか――
※ ※ ※
はや――
く―――!
俺はそれが蝉の聲などではないと、もはや判っていた。
「早く――!」
ここが桜の中でも、石段を緩慢に駆け上がった先でも、鳥居や社のもとでも……。
「何をしているのッ!」
ましてや……誰かの骸の前でもないということ、などは。
「早く……私を守りなさい!」
彼女が命じる。
ルール・オブ・ハート――
咎利――生ける死者である俺の、あるじの少女。
ここは路地だ。薄汚い、路地裏。
全てを識るに値する資格者、叡血の中において、絶対の高潔を冠するハートの女王たる彼女を長く置いておくにべき場所ではない。
俺たちの視線の先には、二人の影。
一人は俺と同じ、咎利。そしてそれを操る叡血。
「……分かっている、ヨミ」
すべきこと、などは。
彼女を、ヨミを守る。文字通り、命に変えても。
「分かっているのは当然。私を守るべきなのも当然」
彼女は俺に一振りの刀を鞘ごと押し付ける。
「命令は……『早く』という所よ」
「ああ」
冥府刀、赫鋼――そう、彼女が名付けた俺の咎利としての『力』だ。
柄を握り、腰を落とし構える。
ザ……ザザッ……。
それを合図に、俺たちと敵の間にノイズに揺れた半透明の男が現れる。
『狂知の百科事典争奪戦、お互いに合意と見てよろしいダスね?』
タキシードにサングラスを身に着けた立体映像の男が無機質な声で問いかける。
互いに頷き合う、二人の叡血。
『ではこの死合、ビッグ・ベンがここに承認するダス』
バサッ――
刹那、何かが俺たちの睨み合う間をすり抜け、判定者――ビッグ・ベンの映像を僅かに揺らした。
「フフ……」
影は勢いのままビルの壁面を駆け上がり……その屋上に座して悠然と見下ろすようにしてみせた。
「P・G……!」
自然、柄に力が篭もるのを隠せない。
自ら「最も卑しい家畜」と「最も賢い獣」を組み合わせた通称を名乗るその金髪碧眼の男は、かつて何度も俺たちの邪魔をしてみせ……。
そして時には何度も何度も助力するような真似もしてみせた。
「いまはP・Gはいいわ。邪魔をする様子でもなさそうだし」
「了解」
もとより意識を分けて勝てる相手とも思えない。俺は目の前に集中する。
『では……バトルスタートダス!』
開始の合図と同時に、俺は赫鋼をゆっくり抜き放つ。
別の次元を開き『ヤツ』を呼び出すためには慎重なコントロールが居る。しかし、遅すぎても意味を成さない。
幸い、敵はまず俺の出方を見ようとしているようだ。
ズ……ズズ……。
重く不快な音を響かせ、ゆっくりと次元の狭間が開いていく。
「出番だ――」
薄暗い路地のなか、まるで闇が染み出すように、『それ』は現れる。
死を司り、心を喰らう、殺意の象徴たる別次元の女神――
「殺女――!」
『殺すナリよー』