君の隣に⑦
息を吸って、吐いて……。
深呼吸を繰り返して、どうにか鼓動を落ち着ける。
いつの間にか握りしめた拳が汗ばんでいて、ぼくは自分がどれほど緊張しているのかを知る。
それはそうだ。
ぼくが今からやろうとしている事は、言うなれば、反抗期第2弾。
前回の脱走は先生のフォローのおかげで事なきを得たけど、今回は、下手したら叱責ではすまないだろう。
チラリと駐車場で待っていてくれてる賀川さんを思い浮かべる。
先生家からの帰り道、寄り道先を告げればひどく驚いた顔をしながらも、何も言わずに連れてきてくれた。
ぼくじゃ他に移動手段がなくて頼ってしまったけど、賀川さんまで、責められる事になるかもしれない。
自分の行動が人の運命まで巻き込んでしまう事に心が怖じ気づくけど、ぼくはぎゅっと唇を噛んで目の前の白い扉を睨みつけた。
ぼくなりに、考えた。
どれほど拒否しようが、ぼくの言葉では母様達を止める事は出来ないだろう。
あきらめて受け入れる事も手だけど、脳裏にちらつく面影がぼくにあきらめるという選択肢を拒否させる。
だったら、無茶でもなんでも、ぼくの打てる手なんて、1つしか思いつかなかったんだ。
持ち上げた手が震えているのに、なんだか笑いたくなりながら、ぼくは目の前の扉をノックした。
「………どうぞ」
男性の低い声。
扉越しのその声は、記憶の中にあるものと同じだっただろうか?
そんな事すら朧げになるほど、遠い男。
「しつれいします」
不思議な事に、声は震えていなかった。
そして、あれほど緊張に強張っていた身体も、何故だかスムーズに動く。
引き戸の扉は音もなく滑る。
目隠しのための衝立はこんな場所にふさわしくないほど精緻な彫りが施された螺鈿の物だった。
それを避け中へ入れば、広いベッドに半身を起こした男性と目があった。
艶やかな黒髪に整った顔立ち。
いつも変わる事のなかった表情が、ぼくの姿を目にした途端驚きに変わるのを、不思議な気持ちで見ていた。
「こんな時間に突然訪ねてきてすみません、父様。今日は、お願いがあって来ました」
その表情が嫌悪に変わる事が怖くて、一息にそう言うと、ぼくは頭を下げた。
沈黙が部屋に満ちる。
下げた頭を上げる事もできず固まったぼくを救ってくれたのは、少し掠れた声。
「………こっちへ」
その声に勇気を出して顔を上げれば、表情を消した黒い瞳がじっとぼくを見据えていた。
まだ動けないぼくに父様は手招きをしてきた。
それに、そろそろと近づいたぼくはまるで警戒心の強い猫のようだったと思う。
「1人で来たのか?」
少し掠れた低い声。
コクンと頷けば、そうか、と短く返された。
何か考えるようにぼくから視線を外し虚空を見つめる父様に戸惑う。
(そういえば、こんなに声聞いたの、初めてかもしれないな)
母様達と話している所を見ている事はあっても、2人きりでぼくに向けられた言葉、という意味では最高新記録だ。
その事実になんだか悲しくなるよりもおかしくなってきてしまう。
たったコレだけの会話とも言えないようなやり取りですら、最高新記録。
ぼくと父様の距離がよく分かるってものだ。
不謹慎な笑いをかみ殺して、ぼくは改めて父様の様子をうかがった。
顔色はそんなに悪くない。
色が白いのは元々のものだろう。
ベッドをギャッジアップしてクッションを積み上げたところにもたれるように座っている。
手元には伏せられた本。
カバーが掛けてあり内容は不明だけど。
時間的に、夕食後の暇つぶしに読書をしていたってところかな?
体を起こして読書できるなら、体調はだいぶ良いんだろう。
「で、わざわざやって来てどんな「願い」だ?」
冷たくさえ聞こえるような感情のこもらない淡々とした声。
もっと小さな頃、ぼくはこの声が怖かった。
ぼくに対してなんの興味も無いのだと知らしめているような気がして。
だけど、今ではそれは勘違いだったのだとわかる。
父様は「ぼく」に興味が無いんじゃない。
あの「家」に関わるもの全てに興味がないんだ。
そう、気づいてしまえば、もう怖くなかった。
元々の期待度が0なのだから、これ以上下がる事はないだろう。
後は、せいぜい「きまぐれ」を起こしてくれることを願うばかりだ。
「………お爺様たちが、ぼくに婚約者をあてがおうとしている事はご存知ですか?」
切り出せば、黒い瞳が僅かに眇められた。
「ぼくの本意ではありません。どうか止めて下さいませんか?」
「………なぜ、私が?」
まっすぐに斬り込めば、心底不思議そうに返された。
まぁ、そう返ってくるとは思ってたけど。
本当にぼくに興味がないんだな。
こみ上げるため息は失望か呆れか。
とりあえず、それを飲み下し、覚悟を決める。
これから吐くぼくの言葉は、確実に爆弾になるはずだ。
それが、自爆になるか、障害を吹き飛ばすことになるかは、ぼくにも分からないけど。
「意に沿わない相手をあてがわれる苦痛を、誰よりも理解しているのは父様でしょう」
ピクリと父様の眉が上がる。
そのまま、たっぷり1分ほど、沈黙が流れた。
ぼくも父様も動かない。
無言で見つめ合う(にらみ合う?)時間を崩したのは、父様だった。
クックッと喉を鳴らし、面白そうに笑いだしたのだ。
突然の変化に、ぼくは先程とは別の意味でカチンと固まった。
「………面白いことを言うな。意に沿わない相手、か」
読んでくださり、ありがとうございました。
ようやく山場。お父さんとの直接対話です。