君の隣に⑥
ゆあと別れた後、ピアノ教室へと向かった。
昨日もサボったのに、今日も遅刻してしまって、ちょっと居心地が悪い思いで、先生の家の門をくぐる。
先生の名前は、ライアン=ベルンシュタイン。
6年前にある世界的ピアノコンクールで優勝し、その後デビュー。
麗しい見た目も相まってファーストアルバムはクラシックにあるまじき枚数のセールスを叩き出した。
世界中をツアーで周り、ひと段落ついた所で、自分の中に4分の1だけ流れる血のルーツに触れてみたいと日本にやってきたそうだ。
まだ30になったばかりで自分も発展中なのに人に教える気は無い、と少しの間でも良いから、とコネを頼りにやってくる人達を蹴散らし、のんびり休暇を楽しんでいた彼が、なんでピアノを始めて1年ほどのぼくを受け入れてくれたのかは、未だに不明だ。
だから「ピアノ教室」っていうとちょっと語弊があるかな?
だって、先生が教えているのはぼくだけ。
教室というより、自宅のピアノで一緒に「遊んでる」に近い。
課題は毎回気まぐれ。
先生に渡された楽譜をまず先生が弾いてくれて、それをなぞる。
弾けるまで何度でも。
指の動き怪しいから、と基本の動きだけひたすらさせられることもある。
って聞くと、真面目にやってるように聞こえるけど、実情はかなり緩い。
なにしろ、全ての動作に先生のおしゃべりが付いてくる。
ピアノに触らない、なんてこともざらだ。
何をしてるかって?
先生オススメの映画を見たり、時には課外授業と称して演劇場や美術館に付き合わされる。
先生曰く、「感性を育てることも大事な事」だそうだ。
分かるような、分からないような。
だけど、ギチギチに詰め込まれた習い事の日々の中、先生との時間がぼくの救いになっていたのは事実だ。
「いらっしゃいませ、秀一郎様。主人はピアノ室に居ますので、そのままお上がり下さい」
建物はそう大きく無いが、庭は広々と取られ見事な日本庭園が広がっている、今時珍しい瓦屋根の和風建築。
築100年越えしているらしい玄関を入れば、金髪碧眼のスーツ姿の男性に三つ指ついて迎えられるという、とてもシュールな光景が広がっていた。
初日に驚きすぎて固まったのは良い思い出だ。
「お邪魔します」
お辞儀を返して靴を脱ぐ。
すかさず揃えて出されたスリッパに足を通せば、ピアノ室へと促された。
近所迷惑になるから、とその一室だけが防音の洋室へと改装されたピアノ室。
そっと扉を開ければ、途端に音が溢れ出してきた。
(めずらしい。真面目に弾いてるや……)
扉を閉め、ピアノと対極の位置に置かれたソファーへと腰を下ろす。
包み込まれるような優しい音色は、先生のオリジナル曲だ。
目を閉じ、音の世界に浸る。
自分ではとても到達できない領域にある音色。
普段どんなにふざけた態度を取っていても、彼がピア二ストとして超一流であることの証だ。
時に甘く、時に切なく。
多様に色を変える音色は一貫して包み込まれるような優しさに溢れていた。
そして、それが先生の音の特徴でもあるらしい。
「いらっしゃい。来てたなら声かけてくれて良かったのに」
ふと気づくと音が止み、先生の声が降ってきた。
「そんなもったい無いこと、できません」
首を横に振れば、クスクス笑われてしまった。
ぼくの練習に付き合って軽く弾くことはあっても、本気モードの音はなかなか聞かせてもらえない。
貴重な時間をいくら笑われても、自分から止めるわけが無い。
「………目が赤い。泣いてたのかい?」
そっと手が伸ばされ目尻に触れられた。
「少し。でも、大丈夫です」
心配そうな瞳に笑顔を返せば、しかめっ面をされた。
「本当に、大丈夫なんです。それより、遅くなってすみません」
心配性の先生にさらに笑顔を向ければ、ため息の後、ニヤリと笑われた。
「って事は、素敵なレディーにちゃんと会えたんだね。それは、良かった」
「………なんでそれ」
からかわれ、思わず動揺のままに声をあげればニヤニヤ笑顔が酷くなる。
しまった。
「優秀な運転手さんが連絡くれたからね〜。で、何か進展はあった?連絡先くらいゲットした?」
完全デバガメになってる先生の好奇心を逸らすのは以外に大変だった。
だいたい5歳児に何を求めてるんだ。
大人って……。と、いうか、この人は、もぅ。
その後、先生のからかいを交わしながらどうにかレッスンに持ち込み、一心に音を追う。
今の所、ぼくに目指す音は無い。
楽譜通りに指を動かすので精一杯だ。
だけど、引っかかる事なく最後まで弾けた時、音の先に何かキラキラ光るものが見える時はある。
たぶん、それがぼくの辿り着きたい場所なんじゃ無いかな……とは感じる。
あまりにも遠くて、自分でもそれがどんなものかはよく、わからないのだけど。
「秀一郎、ゆあちゃんの事を思い出しながら弾いてみてごらん」
無心で音を追いかけていたぼくの耳に、先生の声が滑り込んでくる。
途端に、脳裏にゆあの笑顔が浮かんだ。
ふわり、と胸が温かくなる。
笑顔のゆあ。泣き顔のゆあ。泣いているぼくを慰めてくれていた顔。短い時間の中で知ったゆあのいろいろな表情がぼくの脳裏で踊る。
最後の一音が消えた時、ぼくを包んでいたのは幸福感だった。
いつの間にか口元がほころんでいた。
静かな空間に先生の拍手の音が響く。
「素晴らしい。綺麗な色がついたね。さくら色、かなぁ〜」
めずらしい褒め言葉に、目をまたたけば、先生の嬉しそうな笑顔。
「その気持ちを忘れなければ、秀一郎はもっと上手になるよ」
「………もっと………?」
その言葉に不思議な高揚感を感じる。
もっと……もっと上手くなれば、ぼくも先生みたいな唯一の音を手に入れられるかな?
読んでくださり、ありがとうございました。
……ゆあちゃんが遠い。なんでこうなったのか。
そして、秀一郎君はどこに向かってるんだろう……。