君の隣に④
先生のおかげでぼくの逃亡劇は家族に知られることなく終わった。
いつもより少し帰宅が遅くなっただけで、幸いその後になんの予定もなかったため問題無し。
先生からも「指導に熱が入りすぎて申し訳ない」、とのフォローの電話まであったようで、ピアノを頑張っていることに対して喜ばれ、少し申し訳ない気持ちにすらなったくらいだ。
機嫌よく会話をする祖父母と母様にホッとしながら夕食をとる。
偶に振られる会話に答えながら、ホロリと崩れる白身魚の煮付けに舌鼓。うん、おいしい。
それは、いつもの食事風景だった。
日本酒でほろ酔いのお爺様がとんでも無いことを言い出すまでは………。
「そういえば、秀一郎にそろそろ婚約者を探さねばならないな」
こんやくしゃ?
一瞬言葉の意味が取れずに首をかしげ、ようやく理解した僕は目を見開いた。
婚約者って事?結婚する人?
意味は分かっても理解が追いつかない。
だってぼくはまだ5歳で、結婚なんて言葉は知っていてもそれが自分と結びつく事なんて無かったから。
目を白黒させているぼくを置き去りに、場は盛り上がりを見せた。
「まぁ、素敵ですわ!どんなお嬢さんが良いかしら?」
「この家の未来を担っていただくのですもの。しっかりしたお家の方を探さなければいけませんね」
母様のはしゃいだ声。
お祖母様のどこか冷静なでも、楽しそうな声。
お爺様が幾つかのか家の名を上げていく。
どこもぼくでも名を知っている名家で、同じ年頃の女の子がいる家だった。
連れまわされた社交の場で何度か顔を合わせた子たち。
あれは、こうなる未来を予測しての顔合わせもあったのだろうか?
ぼくの未来がぼくの知らない所で決められていく。
その現実が胸を押しつぶし、息が苦しくなっていく。
勝手に押し付けられた習い事と同じ軽さで将来の相手まで勝手に決められてしまうのか?
不意に脳裏に昼間会った少女の顔がよぎった。
くるくると変わる無邪気な表情。
幼いのにしっかりとした言葉遣いは、だけど、偶に上手く発音ができずにかんだり鈍ったりしていてそのギャップが可愛かった。
「まだ、早いです。ぼくは5歳ですよ?そんな未来の話……」
気がつけば、ポロリと言葉が溢れていた。
やばい、失敗した。
自分たちの会話に水を差され、お爺様の眉間にシワが寄るのをみていた。
後悔しながら、「大人」の会話に口を挟んだ無作法を叱られる覚悟を決めて唇を噛む。
「子供がよけいな心配をせんで良い」
「そうよ、秀一郎さん。お爺様たちはあなたのためを思って骨を折ってくださっているの。全てお任せすれば、間違いは無いのだから」
しかめっ面で断じるお爺様に、母様がやんわりと言葉を重ねる。
(だって、ぼくの事なのに)
言葉に出せない不満は、無意識に表情に出ていたのかも知れない。
お爺様の顔がどんどん険しくなる。
「なんだ、その生意気な顔は!もう、いい!部屋に戻って今日の反省でもしていろ!」
言い渡され、ぼくは無言で席を立った。
食事はまだ半分ほどしかすんでいないけれど、言えばまた不興を買うだけだ。
無言で頭を下げ、静かにその場を後にする。
(夜中にお腹空くかな?何か貰えると良いけど……)
押し殺したため息は冷たい凝りとなって心の底に降り積もった。
翌朝の食事の席で、お爺様に近々、婚約者予定の少女と顔合わせの席を作るので心しておくように言い渡された。
この展開の速さから見るに、とうの昔に候補は絞り込まれていたのだろう。
ぼくの想いなんてどうでもいいんだ。
わかっていた事でも、改めて突きつけられれば心が痛む。
自分がこの「家」の為の道具なのだと言われている気持ちだ。
いっそ、何も考えられない道具になってしまえたらいいのに。
表情を出さないようにぺこりと頭を下げ、その場を後にするのが精一杯だった。
口を開けば、情けない言葉が溢れてきそうだったから。
昨夜から満足に食べれていない胃がシクシクと痛んだけれど、気付かないふりでぼくはカバンを持って車止めへと急いだ。
この家から、少しでも早く離れたかった。
今日は土曜日で学校は休み。
その代わり、朝から習い事の予定が詰まっている。分刻みのタイムスケジュールが今はなんだか嬉しかった。
忙しくしていれば、余計なことは考えなくてすむ。
いつもよりも早くやってきたぼくに賀川さんが驚いたように少し目を見開いたけど、何も言わずに扉を開けてくれる。
滑り込んだ車内はほんのりと爽やかな香りがしていた。
適度に柔らかいシートに体を預けると、知らないうちに入っていた力がすっと抜けるのを感じた。
言葉をなく静かに出発した車内にピアノ曲が流れだす。
「これ……」
聞き覚えのある音に思わず呟くと「いただきました」と小さな声が返ってくる。
それは、先生の音だった。
多分、自宅でお遊びで弾いたものを自分で録音したんだろう。
有名なクラシックがジャズアレンジされていた。少し雑音が混ざっているけど、楽しそうな先生の音がそれに損なわれることはなかった。
「………凄いもの貰ったね。先生のファンが知ったら大騒ぎだ」
「そう、なのですか?車内でかける音楽を探していると言ったら譲ってくださったのですが」
不思議そうな声音は本当にこれの価値が分かっていなさそうで、少し笑ってしてまった。
こんな彼だからこそ先生もコレを譲ってくれたんだろうな。
「良く分からないですが、楽しい曲ですよね」
素直な感想にクスクス笑いながら同意の声を上げると目を閉じた。
楽しげな音に包まれて、ささくれていた心が少し落ち着いた気がした。
読んでくださり、ありがとうございました。