君の隣に②
ぼくにとって、父様はとても遠い存在だった。
ぼくの産まれる前に大病を患って体が弱く、一年の大半を病院で過ごしていた為、顔を合わせることすらめったになかったし、たまに顔を合わせても言葉を交わすことはほぼ無かった。
母様はマメに面会へ出かけているようだけど、ぼくがその場に連れて行って貰える事は無くて、置いて行かれる寂しさに理由を尋ねれば「小さな子供は入れない場所なのよ」と諭された。
小さな頃はそういうものなのかと納得していたが、成長するにつれて疑問も浮かんでくる。
確かに外部から不要な病原菌を院内に持ち込まない対処だとしても、面会室というものは存在しているはずだし、たまに自宅に帰ってきても、寝室に閉じこもりきりでめったに出てこない。
ならばと寝室を尋ねても、執事にやんわりと帰されてしまう。
かろうじて顔を合わせる機会があっても向こうから声をかけてくることもなく、そうなると、ぼくからが話しかける言葉を思いつくはずもなくて、居心地の悪さを感じながらも立ち尽くすことしかできなかった。
そんな日々を重ねるうちに、「父様はおうちにいないんだししょうがない」とぼくはあきらめることを覚えていった。
幼稚舎で友人に優しい父親とのエピソードを聞けばうらやましくは感じたが、幸か不幸か忙しすぎる習い事の日々と物理的にも遠い父親との距離が、ぼくに父親との関係を深く考えさせることを無くしていた。
だけど・・・・・・。
寂しくないわけではない。期待しないわけでもない。
その腕に抱き上げられればどんな感触がするのか、笑いかけてもらえたらどんな心地なのか。
ふとした瞬間に夢想したことは数えきれない。
一度も叶った事は無いけれど、いい子にしていれば、期待に応えていればいつか・・・・・・。
(どうして、ぼくは、ここにいるんだろう)
消えてしまいたいと、初めて、そう思った。
どんなに頑張ってもこっちを見てくれない父様。すぐに「あの子」を引き合いに出す母様。
そんなに「あの子」がいいなら、ぼくじゃなくて「あの子」をうちの子供にしちゃえばいい。そうすれば、こんなに苦しい思いしなくてもいいのに。
ヒヤリとしたシーツの隙間に潜り込んで、ぼくは、声を殺して泣いた。
泣いていることに気づかれたら、きっと「男の子が声をあげて泣くなんてみっともない」と怒られるから。
ぎゅっと枕を抱きしめて顔を押し付ける。柔らかな羽枕は僕の涙と嗚咽を吸い込んでくれた。
「あの子」の正体を知ってからも、日々は変わらず過ぎた。
まるで僕を空気のように扱おうとする父様。過剰な期待をかけ、甘やかしたかと思えば突然に激しい叱責を浴びせかける母親。
自慢の孫と連れまわしては、不特定多数の大人たちに見世物のようにさらし笑っている祖父母。
そうして、息を抜く間もないほどに詰め込まれる習い事の数々に、ぼくの精神は疲れ切っていたんだと思う。
ある日。
幼稚園に迎えに来た車に乗ってピアノ教室に向かう途中、信号待ちで止まっていた車の中からぼくは衝動的に飛び出していた。
窓から眺めていた空がとても綺麗に晴れていて、なんだか全てがどうでもよく感じたのだ。
「お坊ちゃま!お待ちください!!」
驚いたような声が追いかけてきたけど、ぼくは振り返ることなく走り出した。
混んでいる二車線道路の真ん中に、車を置き去りにする事も出来なかったんだろう。
激しいクラクションだけがぼくを追いかけてきて、それもすぐ聞こえなくなった。
なんだかむくむくと胸の奥から楽しい気持ちが沸き上がってきて、気づいたら、僕は大きな声で笑っていた。
笑いながら走る子供はかなりおかしな光景だったんだろうけど、その時のぼくにそんなことを気にする余裕なんてなかった。
ただ、初めての反抗に興奮していたんだ。
息が切れてもう走れないと思うほどやみくもに駆け抜けて、ふと気が付けば閑静な住宅街に入り込んでいた。
「ここ、どこだろう?」
ゆっくりと周りを見回しながら歩きだしたぼくの耳に、その声は飛び込んできた。
しゃくりあげる、小さな声。
「・・・だれか、泣いてる?」
悲しそうな響きに興味を惹かれて、声のほうへと足を進めた僕は、小さな児童公園にたどり着いた。
そして、そこで小さな女の子を見つけた。
ふんわりと柔らかそうな髪は光をはじいて金色に見えた。空色のワンピースが地面にひろがり、膝をついた姿でささやかな植え込みの中を覗き込んでは、何かを探しているようだった。
「ねえ、どうしたの?」
思い切って声をかければ、女の子は、はじかれたように振り返った。
涙をいっぱいにたたえた瞳も琥珀色で日本人離れした容貌に言葉が通じているのか不安に駆られる。
「are you ok?」
「・・・・・日本語で大丈夫です」
とりあえず英語で話しかけてみると、少しの沈黙の後日本語で返された。良かった。英語はともかく他の言語はあいさつ程度で自信なかったんだよね。
「なにか、さがしてるの?」
先ほどの様子から予測をつけてみると、座り込んだままの少女の瞳にみるみる新たな涙が溢れてきた。
「うわ、ちょっと、まって」
ぽろぽろと涙をこぼす少女に慌ててハンカチを差し出す。
それが、ぼくと彼女、結愛との出会いだった。
読んでくださり、ありがとうございました。