7話 羊皮紙
瞼を開くと、茶色の低い空が広がっていた。それが宿の天井だと気付くのに、随分と時間を要してしまった。ゆっくりとベッドから半身を起こす。どうやら俺は、あのまま熟睡してしまったらしい。その割に全身はだるい。
皺の寄ったシーツを横目で見ながら、俺は先ほどの夢に考えを巡らせる。
いや、今のは夢であって、夢ではない。実際にあった出来事なはずだ。
なぜだろう。今の今まで、きれいサッパリ忘れていた。俺の胸に懐かしい感覚が広がっていく。
あの少女に会った後、俺は魔物に遭遇してしまい、襲われかける。そして、拳闘士の冒険者に助けてもらった。言わば、俺の人生の転機となった日なのだ。助けてくれた拳闘士の印象が鮮烈すぎて、その直前の出来事をすっかり忘れてしまっていたということだろうか。いや、でもあの少女も結構なインパクトだと思うんだけど。
あの時に少女がくれた白いチェリーは、何か特別な物だったのだろうか。それとも、ただの果実だったのだろうか。ふとそんなことが気になったが、当然、答えなど見つかるはずがない。
「今はそれより、何か食べよう」
子供の頃食べた謎の物に、思いを馳せている場合ではない。宿に着いてからすぐに寝てしまったので、昨日の昼から何も口にしていない状態なのだ。腹の虫が激しい主張を始めている。
だが窓の外に目をやった俺は絶望してしまった。まだ夜が明けていなかったのだ。薄闇色に染まった外の世界。窓から見える範囲では、動く物は一切見当たらない。この時間だと、まだどこの食堂も開いてはいないだろう。かといって、階下の酒場に行くのも少し気が引ける。俺はまだ飲めないし、何より酔っ払いに絡まれるのが嫌だ。
肩を落とした俺は、仕方なくベッド脇に放り出したままだった荷物袋に手を伸ばす。ここは荷物の整理でもして時間を潰そう。二度寝するほどの眠気はもう残っていないし。そう考え笛を取り出そうとしたところで、ある物が俺の視界に入ってきた。
これは……。
武器を受け取った時に、同時にもらった羊皮紙だ。俺には解読できない言語が書かれていたので、とりあえず荷物袋に仕舞ったままだったのを忘れていた。俺は荷物袋から、少し斜めに折り目がついてしまった羊皮紙を取り出す。
数は三枚。どれも中央寄りに文字が並んでいる。改めて読み直してみるが、やはり何一つ読むことができない。この文字は神獣使いとして修行をしてきた人なら、読むことができるのだろうか。
だめだ。文字を見ていたら頭が痛くなってきた。元々俺は体を動かすことは得意だが、勉強は得意ではないのだ。村の子供達を集めた週に一度の勉強会で、読み書きができるようになったのは俺が最後だったほどだ。
ひとまずこの羊皮紙のことは忘れて、ここは笛の練習でもしてみようか。小さな音なら文句を言われることもないだろう。たぶん。
ミアとエルデは、笛の上手さで神獣の強化術の効果時間が延びると言っていた。これから先、スライムのような弱い魔物とばかり対峙するわけではないのだ。自分の身を守るためにも、笛のスキルを磨いていかないと。
俺は部屋の壁に掛けられた鏡の前に立ち、笛を構えた。
姿勢は間違ってはいないと思う。神獣使いになるまで楽器に触れたことはないが、演奏をしている姿は村の祭で見たことがある。となると、問題はやはり息遣いか。
拳闘士の修行で呼吸法も教わったが、それとはまったく別物なのだろう。第一、笛に空けられた小さな穴目掛けて息を吹き込まないといけないのだ。
そういえば、今までは思いっきり息を吹き込んでばかりいた。ここは一度、優しく吹いてみることにしよう。今の時間だと大きな音も出せないから、ちょうど良いだろう。
『すーーーー』
部屋に渡る掠れたその音は、口笛が下手な人が吹くその音に似ていた。
ううむ。優しく吹きすぎたか。なかなか難しいな。よし、次はもう少し強く――と考えたところで、突如俺の横から水飛沫が上がり、俺の顔を濡らした。
「冷たっ!?」
見覚えのあるこの水飛沫は、間違いなく――。
「ミア!? 何で!?」
「そんなに驚かなくても。第一、リュディガが喚んだんじゃない」
俺の反応に、出てきた水蛇は不満げに呟いた。
「いや、俺は笛の練習をしようとしていただけなんだが……」
「そうなの? リュディガの笛の音って、こっちは凄く引っ張られるのよ。こんな経験初めてよ。やっぱり男の人だから?」
「いや、そんなこと知らないし」
そもそも、昨日のように俺は『イメージ』しながら吹いてはいない。召喚しようと思っていないのに召喚してしまうのは、大いに問題アリな気がするのだが。この苦情はどこに入れれば良いのだろうか。笛を作った職人か? はたまた神獣達のお偉いさんか?
ともかく、ミアには悪いがここは還ってもらおう。休んだばかりだというのに、魔法力を無駄に使いたくはない。そう彼女に告げようとしたのだが、一瞬早くミアの方が先に口を開いた。
「リュディガ、次の笛の練習は、私を人型にする術にして」
「え。何で?」
「だって、せっかくこうして二人きりになれたんだもの。その、い、色々ご奉仕してあげようかなと思って……」
「いいいいっ!?」
頬を赤らめ、もじもじとしながらとんでもないことを言ってきたミアから、俺は後退りをして距離を取る。
ミアはいきなり何を言っているんだ!? ご奉仕!? え、これってもしかして、俺は誘われちゃってるってことなのか!?
仮に彼女が人間だったら、俺も喜んで彼女の誘いを受け入れるところだけれど。水蛇……というか、神獣だしなぁ。人型になっても、彼女の肌は水色だから人間という感覚が持てないし。
ていうか本当に何で俺、神獣にモテてんの? 俺の何がそんなにいいの!?
「リュディガ……お願い。早く……私……」
「ちょ、ちょっと待って! その前にお願いがあるんだ!」
「お願い?」
「そう。お願い。これを見て欲しいんだけど」
桃色オーラを漂わせ始めたミアに、俺は慌てて強引に羊皮紙を見せ付ける。心の準備とか人外に対する気持ちというか、そういうのが全く整理できていない状況で迫られるのが怖かったのだ。というより、困る。
「何て書いてあるのか、読める?」
ミアはコバルトブルーの瞳を僅かに細め、俺が差し出した羊皮紙に近付いた。
「あら、これは精霊語ね。一枚目と二枚目は、神獣を強化するための楽譜みたい。ただこれはあくまで一例で、アレンジしても良いみたいよ。自分が使役する神獣との連携が何よりも大切、と書かれているわ」
「なるほど……」
ダメ元で訊いてみたんだが、意外にも役に立つ情報が返ってきた。この文字は精霊語というのか。となると、精霊の力を借りる『魔法使い』でも読めるものなのかもしれない。
「ちなみに楽譜にはサン、ドウ、ゴ、ソウ、サン、コ、ズ、サン、コク――」
「いや、それはいいや。読んでもらっても、そもそも今は音階がさっぱりわかんないから……」
「そう? じゃあまた理解した時にいつでも読んであげる。ただ、三枚目だけはよくわからないの。読むわね。『核を集めよ。そなたら神獣使いは選ばれし者。白の世界の礎に必要不可欠な、黒を召喚する者』だって」
ミアが朗読した内容は俺の脳に吸収されることなく、頭の周辺をぐるぐると渦巻くばかりだ。
これは、どういう意味だ。何かの暗号か? 全く意味がわからん。
「核って何だ。白の世界の礎って何だ」
「私に訊かれても知らないわよ。でも神獣使いに向けられた言葉ってことは確かなんじゃない?」
確かに『召喚する者』という単語は、神獣使いを指しているものだろう。
他職の冒険者にわからないよう、わざわざ、精霊語で書かれたこの紙。魔晶協会は何の意図があって、神獣使いの俺にこれを渡したんだ?
「さあ、読んであげたわよ。これで――」
「解除」
俺が指を鳴らすと、水が弾ける音と同時に、ミアの姿は掻き消えた。俺が一方的に召喚を解除したのだ。昨日のうちに解除の方法を知っていて良かった。
ごめんよ、ミア。好意を向けてくれるのはすごく嬉しいけれど、恋愛経験ゼロの俺にとって、いきなり貞操を奪われるのが水蛇ってのは、ちょっとどころかかなり難易度が高い……。
俺は重い息を吐きながら、心の中でミアに何度も懺悔するのだった。