エピローグ 旅立ち
目を開けると、白の幾何学模様が視界いっぱいに広がっていた。
何だこれ?
あぁ、天井の模様か。
目の前の物体を認識したところで、あやふやだった平衡感覚もようやく追いついてきた。自分の置かれている状況がやっと脳に伝わる。俺は今、ベッドの上に仰向けになっていた。
俺が今寝ているのは、レベシュタットの町の宿だ。何の因果か、前に泊まった時と同じ部屋に案内されてしまった。
俺はおもむろに首を回し、壁に目を向ける。
この木の壁の向こうの部屋では、テアが寝ている。そう考えた瞬間、俺の体温は心なしか上昇して――。
っておいおいおい、何を考えているんだ俺!
自身の中に生まれたやましい気持ちを振り払うため、俺は毛布を頭まで被った。
テアはきっとまだ熟睡しているはず! 何せ俺に魔法力を全て渡して疲れきっていたんだからな!
……そう、俺のせいで。
熱くなっていた体が、そこで急激に熱を失っていくのがわかった。
俺に全ての魔法力を渡したテアは、闇の神獣が消滅した後、立ち上がる気力さえ残っていなかった。
彼女をレベシュタットの町まで担いで戻った俺は、すぐさまこの宿へと直行したのだ。テアは俺の背で何度も申し訳ないと謝ってきたが、彼女の力を借りてしまった俺の方が申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
勉強していないから魔法力が何なのかわからないと、もうそんな言い訳をしていくつもりはない。これからは神獣使いのことについてきちんと勉強していこうと、俺はテアを背負って歩きながら決意した。
女の子一人も自分の力で守ってあげられない今のままでは、冒険者として一般人を助けて回ることなど不可能だと思い至ったのだ。きっと今からでも遅くはないはずだ。
毛布を剥いだ俺は、勢い良く上体を起こす。木製の簡素な造りのベッドが軋み音を鳴らした。頭をわしわしと掻き毟りながら、俺は窓の外へと視線をやる。昨晩の死闘が嘘のような、爽やかで青い空がそこには広がっていた。
光の神獣を纏った俺の一撃で、闇の神獣は灰のように崩れ去っていった。また魔晶石となって散らばってしまうのかと懸念したが、見た限りそのような現象は起こっていなかった。きっと闇の神獣が復活することはもうないだろう。
ベッドから抜け出し、部屋に備え付けられている陶器製の洗面台に向かう。洗面台の端に添えられた小さな宝石に触れると、蛇口から水が流れ出した。水の精霊の力を使った魔法道具だ。眠気が吹き飛ぶ冷たい水で顔を洗いながら、俺は魔晶協会に思いを馳せる。
オフティオン大陸の魔晶協会は、現在機能不全に陥っている。
それはそうだろう。魔晶協会のトップ達がこぞっていなくなってしまったのだから。
俺は昨日の内にレベシュタットの魔晶協会に行き、魔晶石のこと、マルヴァのこと、そして闇の神獣のこと。全てを包み隠さずに報告した。最初は魔晶協会側も俺の報告に半信半疑だったが、ツィロプスの洞窟から魔晶石が消えてしまったという事実を確認した途端、彼らの態度も急変した。
魔晶協会の中にはマルヴァ達の動きを不審に思っていた人もいたらしく、そういう人が集まってこれから魔晶協会の再編が行われることとなったらしい。当然、魔晶協会の名称は廃止されることになるだろう。何せ名称に使っている魔晶石そのものがなくなってしまったのだから。
ちなみに、俺も魔晶協会の再編組の一員に入らないかと誘われたのだが、それは断った。今回の魔晶協会の件は俺が起こしたことなので他人に任せるのは少々勝手かもしれないが、それでも俺は魔物の脅威に晒されている人を助けるべく、世界を回ってみたいのだ。
魔物をおびき寄せる魔晶石はなくなったが、魔物そのものが消えたわけではないのだから。
テアの話では、他の大陸では魔晶石がなくとも冒険者協会は機能している。だからきっと、この大陸でも大丈夫なはずだ。
根拠のない自信と希望を抱きながら、俺はタオルで顔の水滴を拭った。
そうそう。ヴァッサラントの魔晶協会の地下で殺されてしまった少女達も、ちゃんと教会の手で手厚く埋葬してもらった。
どうか、安らかに――。
俺は瞼を閉じ、改めて同士達に祈りを捧げたのだった。
ヴァッサラントの街の外、街道から少し離れた人気のない平原に、俺とテアはいた。俺の手の中では銀のフルートが陽の光を受け、眩しい光を放っている。これは俺の新しい武器だ。
魔晶協会に報告した時に、今回の件の謝礼として幾らか貰ってしまったのだ。一文無しのままでは冒険はできないからな。貰えるものは貰っておかないと。その得たお金で、俺とテアは早速武器屋に行き、それぞれの得物を買ったというわけだ。
ようやくこれで、俺は神獣使いとしての一歩を踏み出せた気がする。晴れた気持ちのまま横へ顔を向けると、テアも新しい杖を嬉しそうに撫でていた。
武器を買ってしまったので防具までは買うことができなかったが、しばらくはこの拳闘士に見える格好のままの方が良いかもしれないな。
武器屋の親父に、「お前、神獣使いなのか!? 男なのに!?」と根掘り葉掘り訊かれそうになったことを思い出し、小さく溜め息をつく。この先至る所で、いちいち神獣使いだということを説明していかないといけないだろう。非常に面倒だ……。
ま、それは仕方がないか。
俺は新しいフルートを構え、優しく息を吹き込む。少しだけ掠れていたが、初めて吹いた時より随分と上手く鳴らせるようになったと思う。そんな自画自賛を心の中でしたところで、四体の神獣達が現れた。
「リュディガ! 無事で本当に良かった!」
そう言って俺の腕に巻きついてきたのは、ミアだ。
「本当、心配したのよ!」
続けてフラメルがピタリと大きな体をくっ付けてくる。ふわふわの毛が脚に当たって少しくすぐったい。
「どうなるかと思ったよぅ」
エルデは短い前足で俺の足先を撫でながら、潤んだ瞳をこちらに向けていた。
「……不安だった」
ウィンは俺の肩に止まり、小さな声で呟く。足の爪が肩に食い込んでちょっと痛いんですけど。
「お前ら、心配かけてごめんな。でも本当に助かったよ。俺、神獣使いとしてはまだまだだけど、これからもよろしくな」
「もちろんよ、リュディガちゃん」
フラメルが言うと、三体も大きく頷いた。
「それにしても、ご主人様が闇の神獣に叩き込んだげんこつ、凄かったですう」
目と甲羅を眩しく輝かせながら言ったエルデのセリフに、思わず脱力してしまいそうになってしまった。
げんこつって……。
子供相手に喧嘩していたわけじゃないんだぞ。俺の渾身のパンチをそんな可愛い言い方に換えないでくれ。
「そうね。もういっそのこと『殴りサマナ』って肩書きでも付けちゃえば?」
「何だよそれ!?」
ミアの口から出てきた単語に、俺は思わずツッコんでしまった。
殴りサマナって! 響きが凄く物騒だぞ!?
「確かにリュディガちゃん、力と体力馬鹿だものね」
「ピッタリかと」
俺の抗議の声も虚しく、口々に賛同する神獣達。お前ら、本当にそれで良いんだな? お前らはその殴りサマナに使役されているんだぞっ。
…………あれ?
「ちょっと待て。ていうかお前達、俺が闇の神獣を倒すところを見てたの?」
「そりゃそうよ。だって闇の神獣よ。人間界だけでなく精霊界まで危機に陥るかもしれないのに、呑気に休憩なんかしていられないわよ。だから精霊達にお願いして、人間界の様子を見せてもらっていたの」
そうなのか。神獣達はあの後も俺のことを気にしてくれていたわけなんだな。少しジーンときてしまったぞ。
「まさに、手に汗握る展開だったよう」
「俺の生死をかけた戦いを娯楽小説みたいに言うな」
ポンっとエルデの頭をはたく俺。エルデは痛いよう、と言いながらも、手が短くて頭を押さえることができないようだ。ふふん。
「しかし、リュディガちゃんが光の神獣に選ばれていたなんて……。だから男なのに神獣使いになったわけね」
「どうりで惹かれるわけだわ」
納得したようにうんうんと頷くフラメルとミア。
「え? え? それってどういう意味?」
「リュディガが食べた白い実は、光の神獣が生み出した物。あれは私達神獣にとって、媚薬みたいな効果がある」
「ええええええ!?」
ウィンの口から告げられた驚愕の事実に、俺は思わず絶叫してしまった。
……つまりアレか。俺が神獣達にやたら素敵とか言われていたのは、あの白い実を食べたことが原因だったと。俺が神獣達の好みの容姿をしているわけではなかったと!?
「そうかぁ。確かにどうしてご主人様に惹かれるのか、よくよく考えれば不思議だったもんねぇ」
おい。実はお前自身も疑問に思ってたのか!? だったら最初から教えてくれよ。とエルデに言おうとした直前、彼女は満面の笑みで続けた。
「私はそれでもご主人様が好きだよう。その普通っぽいところとかー」
「そうね。普通っぽいところがリュディガの良いところよね」
「普通だけど可愛いわ」
「普通」
口々に言う神獣達に、俺は軽い眩暈を起こしてしまいそうになった。俺の良いところって普通なところしかないのかよ!? もっとあるはずだろ!? こう、腕の筋肉とかさ!
「お前ら普通普通と連呼すんな! ていうかもう解除だ! やっぱり四体召喚は疲れる! 還れ還れ!」
ぶー、と声を揃えて不満声を上げる神獣達だったが、そんな態度をとっても、ちっとも可愛くない。
……いや、ちょっとだけ可愛いかもしれない。あくまで愛玩動物的に。
「リュディガ。次に喚ぶ時はもっと綺麗な音で喚んでね」
「笛はこれから上手くなる予定なんだよ! 今に見てろ!? 繊細な音を奏でて、びっくりさせてやるんだからな!」
そんな俺達のやかましいやり取りを、テアはくすくすと笑いながら見つめていた。
俺とテアは、再びヴァッサラントの港にやって来た。もう乗船の邪魔をされることもない。堂々と船に乗ることができる。キラキラと光り続ける海面は、まるで新たな旅に出る俺達を祝福しているかのようだ。
まずはどこの大陸に行こうか。乗船券売り場の上部に掲げられた案内板を見ながら、俺は思案する。しかしふと、隣で佇むテアの行き先が気になった。
「そういえば、テアは元々どこの大陸に行くつもりだったの?」
「ガルヘルム大陸です」
俺の問いに、少しはにかみながらテアは答えた。
年中暑いと言われている、あの大陸か。テアの出身のリーンガルド大陸とは、真逆な感じの大陸だ。
「俺も一緒に行っていい? もちろん、嫌じゃなかったらの話だけど」
「えっ。そ、その、どうして私なんかと?」
「俺、今回の件で思い知らされたんだ。俺は拳闘士以外のことについて、何も知らずにやってきた。いや、知ろうとしなかったんだ。神獣使いになってからも……。子供の頃から、ずっと拳闘士のことにしか興味がなかったから。でも、これからはそれじゃあダメだと思って」
あの時テアがいなかったら、きっと俺は今ここにいない。いや、この大陸が――世界そのものがどうなっていたのかもわからない。本当に彼女には感謝してもしきれない。
「テアは僧侶なのに、癒しの術以外のことも勉強している。テアのその姿勢に俺は感銘を受けたんだ。師匠にしたいくらいなんだ」
「しししし師匠だなんてそんな! わ、私なんて本当にまだまだで! 杖がないと役に立たないポンコツ僧侶ですよ! そんな私を師匠なんかにしてしまったら、リュディガさんの今後の人生に支障をきたしちゃいますよ!」
「テア……師匠に支障って、それ洒落?」
「ち、違います! わ、私はそんなつもりはまったくなくて!」
白いテアの顔が、今は真っ赤に染まっている。その様子が何だか可笑しくて、俺はつい噴き出してしまった。
「も、もう。酷いですリュディガさん」
「ごめんごめん冗談だよ。テアは本当に真面目だなぁ。でも師匠でなくてもいいから、一緒に着いて行きたいって、本気で思っているんだ」
「はい。その、もちろんです。よろしくお願い致します」
花が咲いたように微笑んだ後、ペコリと頭を下げるテア。彼女の二つの三つ編みが大きく揺れた。
「ありがとう! そうと決まれば早速手続きをすませよう!」
「あ、待ってくださいリュディガさん!」
潮の香りを含んだ風を全身に浴びて、俺は乗船券売り場に向かって走り出す。
この先、どんな冒険者生活が俺を待っているのだろうか。少しばかりの不安と期待を胸に、俺は声を張り上げた。
「すみません、乗船券ください!」
終