22話 闇の神獣
「自分の心配をしたらどうだ」
目を離していた一瞬の隙に、マルヴァは俺との距離を詰めていた。そして抉るようなアッパーを俺の腹に叩き込もうとしていた。
くそっ。攻撃の手が見えているというのに、動くことができそうにない!
マルヴァの拳が俺の内臓にダメージを与える、嫌なイメージを描いた時だった。
インパクトの直前、なぜかマルヴァは攻撃の手を止め、横に跳んだ。刹那、何かが勢い良くマルヴァの腕に突き刺さる。
それは、光でできた矢だった。
矢が飛んで来た方向へ視線をやると、テアが両手を突き出した格好をしたまま立っていた。どうやら彼女が光の術で仕掛けたらしい。テアは涙目になり、激しい呼吸を繰り返していた。
あぁ、そうか。
彼女は、僧侶。本来なら人の傷を癒す方が得意なはずだ。魔物ではなく人間相手に攻撃の術を当てたのは、きっと初めてのことなのだろう。
彼女にこんな行動を取らせてしまった自分が、酷く情けなく思えてしまった。背中の痛みに屈している場合ではない。俺は歯を食い縛り、再びマルヴァと対峙する。
マルヴァは腕に刺さった光の矢を無言のまま見つめていたが――。
「脆弱な光だ」
つまらなさそうに一言呟き、光の矢を一気に引き抜いた。
なっ――!?
驚愕する俺とテアに構わず、なんとマルヴァはテアに向けてその矢を投げ返した。
慌てて身を捻るテア。その彼女の長い髪を、僅かだが光の矢が攫っていく。はらはらと床に落ちる美しいブラウンの髪。瞬間、熱が俺の全身を駆け巡った。
マルヴァの視線が、俺からテアに移る。
させない。
テアに向かいかけたマルヴァの闘気を再び俺へと向けるべく、俺は床を蹴った。そのまま踵をマルヴァの頭に向けて振り下ろす。その踵落としは、マルヴァの屈強な腕に遮られてしまった。
だが、テアから俺にターゲットを変えることには成功したようだ。今マルヴァの冷たい視線は、俺だけに注がれている。
「神獣使いなのか拳闘士なのか。中途半端な奴だ。イライラする」
顔にたっぷりと侮蔑の色を浮かべながら、マルヴァは一歩足を引き、拳闘士特有の構えを取った。
中途半端。
マルヴァが放ったその言葉は、少なからず俺の胸の内をざわつかせた。確かに今の俺を表す言葉としては、それが最も適切なのだろう。だが、その中途半端な奴こそが俺だ。それを武器にするしかない。
横目で神獣達の様子を見る。どうやらまだ、二人の神獣使いに笛を吹く間を与えていないようだ。床に倒れている男は七人に増えていた。
あと少し。
希望の光が見えてきた、その時だった。
人型で交戦していた神獣達が、次々と元の姿に戻ってしまったのだ。
「――っ!?」
同時に、俺の全身が急激に重くなる。大人二人が上に乗っているのではと錯覚してしまうほどの、重量感。俺は立つこともままならず、床に膝を付いてしまう。
ぐ……。この重さは……。
魔法力だけでなく、もう俺の体力も尽きかけているということか!?
「リュディガちゃん!?」
突如解除された術に、フラメルを始め神獣達はみな一様に目を丸くしている。
「ごめん……。やはり四体同時召喚は、きつかったみたい……」
その時だった。高らかに響き渡る笛の音が聞こえたのは――。
俺の全身から、瞬時に血の気が引いていくのがわかった。
恐る恐る、音のした方に目を向ける。金髪の子が、笛を構えていた。
俺の下手糞な笛の旋律とは、天と地ほども違う音。幻想的で妖しいその旋律に呼応するかのように、床の魔法陣が発光を繰り返し始めた。
「でかした!」
マルヴァが賞賛の声を上げる。
ちくしょう! 何てことだ!
慌てて金髪の子に飛びかかる神獣達。しかし、もう遅かった。俺には手遅れだということが、わかってしまった。
空気が、変わったのだ。
畏怖、憎悪、嫌悪、嘆き、そして、死――。
全身を舐めるのは、様々な『負』がごちゃ混ぜになった、重く、ねっとりとした空気。吐き気を催すほどの、不快感。
突如、金髪の子の体が地に崩れ落ちた。手から笛が転がり落ち、カラカラと音と立てる。金髪の子は、そのままピクリとも動かなくなってしまった。その目はまるで絶大な恐怖を前にした時のように、不気味に見開かれたままになっている。
「ふむ。やはり強大すぎる闇に呑まれてしまったか」
その様子を冷静に見つめたまま呟くマルヴァ。
「その命、私が有意義に使ってやろう。ご苦労だった」
もしかしなくても、あの子は命と引き換えに闇の神獣を召喚したということなのか!?
いや……。
きっとあの子は、命までなくなってしまうとは思ってもいなかったのだろう。だからあんな顔をしたまま――。
「リュディガ!」
ウィンが悲鳴に似た大きな声を上げた。刹那。
パシュン!
空気が破裂するような音と共に、四体の神獣の姿が掻き消える。
尽きてしまったのだ。俺の魔法力も、体力も。
もう、手も足も動かない。動くのは目だけだ。その俺の目は、深い紫色を映し出していた。
巨人のように大きな、紫紺の体躯。髪のない人間のような形をした頭には、禍々しい二本の角が天に向かって伸びている。背中には悪魔を彷彿とさせる、巨大な四枚の羽。
金色の目はぎょろりと動き、この神殿を模した洞窟内を見定めていた。
これが、闇の神獣――。
『うぬらか』
それはこの世のものとは思えないほどの、直接俺の脳を抉ってくるような、不快な声だった。
「はい。ダルクヘイス様。お待ちしておりました」
マルヴァは片膝を付き、闇の神獣に頭を垂れた。
ダルクヘイス――。
初めて聞く名前は、そのおぞましさだけで俺の背筋を凍らせた。
闇の神獣、ダルクヘイスは表情一つ変えることなく、続ける。
『我を再びこのような形態にしてくれたこと、誠に感謝する。約束通り、褒美を取らせようぞ』
「では、我らに永遠の命を。朽ちることのない肉体を」
『その希望は変わらぬか。うぬらは、老いから逃れたいと申すか』
「はい。ダルクヘイス様なら、その程度のことなど容易いかと。どうか我らの願いを」
どうやらこのやり取りから想像するに、マルヴァ達は以前からダルクヘイスと話だけはしていたらしい。どうやっていたのかは、当然俺が知る由もないが。
『上手いこと言いよる。環境は整えてやる。あとはうぬら次第だ』
「ありがたき幸せ」
マルヴァが再び頭を下げると、ダルクヘイスは今のやり取りを黙って見守っていた『同志』達の方へと向きを変えた。
立っているのは、三人。だが、床に沈んでいる男達も死んでいるわけではない。神獣達はそのあたりはきちんと加減したようだ。
ダルクヘイスは立っている剣士の男に向けて、腕を一本突き出し、掌を広げた。紫紺の長い爪が不気味に煌く。
『まずはうぬからだ』
剣士の男は歓喜の笑みを顔いっぱいに広げた。
ダルクヘイスが拳を握る。瞬間、その剣士の体は、淡い紫色をした球体に包まれていた。まるで大きなシャボン玉のようだ。しかしそんなメルヘンな物ではないということは、剣士の酷く歪んだ顔で一目瞭然だった。
「ぐっ――苦しい――」
剣士は口を押さえ、球体の中で膝を折る。目を剥いたまま喉を掻き毟り、もう片方の手で球体を叩き続ける。しかし球体にはヒビ一つ入らない。男は骨が粉微塵になってしまうのではないかと思うほど、激しく拳を叩き続けた。それなのに球体は音一つ立てることがなく、ただ悠々と男を中に閉じ込めているばかりだった。
何なんだ。
何なんだ、あれは――。
凄惨な表情で球体の中を暴れ回る男を、ただ呆然と眺めることしかできない俺。そしてテアも、ただ体を震わせていた。
一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。おそらく、それほど時間は経っていない。だが永遠とも感じられるほど、長い時間のように思えた。ついに男は息絶えてしまったのだろうか。うつ伏せに倒れたまま、男はピクリとも動かなくなってしまった。
「ダルクヘイス様……。これは一体、どういう意味なのですか」
低く抑えた声で問うマルヴァの声は、僅かに震えていた。血の気が引いているのか、先ほどよりも顔色が白い。
そしてダルクヘイスは、マルヴァに向かってゆっくりと信じられないことを告げた。
『うぬら地上の生物が時間と共に朽ち果てていくのは、世界に蔓延している酸素のせいであろう。老いとは即ち『酸化』。酸素がなければ、うぬらが酸化することもあるまいて』
「なっ――!?」
『言ったはずだ。環境は整えてやると』
口元を軽薄そうに歪ませる、ダルクヘイス。
絶句するマルヴァを尻目に、ダルクヘイスは再度腕を上げた。
次々と無酸素の球体に包まれていく、魔晶協会の人間達。気を失って倒れていた者も、ダルクヘイスを召喚しようとしていた黒髪の神獣使いの子も、等しく球体の中に閉じ込められていた。そして皆、苦しみ悶えながら次々と息絶えていく。
それはさながら、死のシャボン玉。
惨い……惨すぎる……。
目の前で命が失われる様を見るのは初めてではなかったが、それでも到底、慣れるものではない。こんなの、慣れたくない。
「ダルクヘイス様! 何故です! 何故このような仕打ちを!」
口泡を散らし、マルヴァはダルクヘイスに叫ぶ。同志達の死を目の当たりにした彼は、先ほどまでの冷静さが嘘のように取り乱していた。
そんなマルヴァとは対照的に、ダルクヘイスはただ悠々と立っていた。
『あぁ、わかっておる。うぬの気持ちは我も充分に理解しておるつもりだ』
巨体を全く揺らすことなく、彫像のように佇み続けながら、ダルクヘイスはマルヴァに告げた。
『だが、うぬらは人間だ』
声のトーンが落ち、金色の瞳がスッと細くなる。
『異変が起こるとすぐに分別を忘れ、慌てふためく。自分の利益のために他の生物を利用する。平気で過ちを犯す。利己的で、愚かで浅ましい、人間だ。全ての生物は何かしら愚かである。が、人間の愚かさは群を抜いておる』
まるで、神の言葉を聞いているかのようだった。ダルクヘイスの言葉は俺の脳内を貫き、全身に痺れを起こさせる。
ダルクヘイスは、呆然とするマルヴァに腕を向けた。
やめろ――。
そう叫びたかったのに、その言葉は喉の手前で止まってしまった。
確かに俺は、彼に失望した。子供の頃からずっと憧れていたのに、その想いを打ち砕かれてしまった。
それでも。
それでも、彼が俺の英雄だった過去は変わらない。嫌な奴かもしれないけれど、憎しみすら感じるけれど。昨日まで憧れを抱いていた人間が目の前で死ぬ様など、見たくはなかった。
見たくはなかったのに。
俺は動けなかった。声一つ、出すことができなかった。マルヴァが静かに球体に包まれていく様子を、ただ見ることしかできなかった。
一つの命の灯が、また、球体の中で消えてしまった。