14話 恩人
足音は徐々にこちらに近付いてくる。魔晶協会の誰かだろうか。
やがて足音は、俺達の閉じ込められている倉庫の前で止まった。部屋に走る緊張。俺は思わず拳を握り締める。
軽く二回、扉がノックされた。でも俺もテアも、そのノックに答えるべきか否か、判断がつかなかった。結局無言のまま、俺達は外の人物の動向を待ち続けることにした。
「入るぞ」
男の声だった。低すぎず、かと言って高すぎない、あまり特徴のない声だ。
扉の向こうでは、カチャカチャと金属の擦れる音がする。鍵を使って開けようとしているらしい。ということは、この男は魔晶協会の者なのか? もしかして、俺達はもう解放されるのか?
耳障りな軋み音を響かせながら、ゆっくりと扉が開かれる。俺は万が一の時のことを考え、テアを庇うように彼女の前に出た。
扉の外はそこまで明るくもなかったのだが、光を見たのが随分と久しぶりな俺にとって、その光量は目を細めるほど眩しいものだった。しかし、すぐさま目を見開く羽目になってしまった。
現れたのは、男が一人。胴着のような服を身に着け、両腕には銀の手甲が控え目に光を放っている。短く刈り上げられた髪は、熟れた葡萄のような色をしていた。
「あなたは……」
その男の顔を見た瞬間、雷に打たれたかのような衝撃が、俺の身体中に走った。
忘れるはずがない。
忘れようがない。
十年前、森の中で俺を助けてくれた拳闘士。その姿は俺の網膜に鮮烈に焼き付いたまま、片時も忘れたことはない。
俺が、ずっとずっと憧れていた冒険者。冒険者になるきっかけを与えてくれた、俺にとっての恩人であり、英雄――。
例えようのない大きな歓喜が全身を駆け巡り、手が震えだした。
まさか。
まさかまさかまさか! こんな場所でこの人と再会することができるなんて!
男の目元に刻まれた小さな皺が年月を語っていたが、それでもまだ四十はいっていないだろう。俺の記憶にある顔と、ほとんど変わっていなかった。
「お、俺……。ずっと、あなたに会いたかったんです」
彼が口を開くより先に、俺は思いの丈を吐き出していた。
声が震えている。でも、言葉が喉の奥から次々とせり上がってきて、止まりそうにない。
「あなたに助けてもらったから、俺は冒険者を目指そうと思ったんです」
鼻の奥の方が熱くなっていく。
あぁ、待て。堪えるんだ俺。いきなり恩人に泣き顔なんて見せたくない。
俺の恩人は扉の前に立ったままだ。俺の顔をじっと見据えたまま動こうとしなかった。きっとそんな昔のことなど覚えていないから、いきなりこんなことを言い出した俺に戸惑っているのだろう。
「俺、その、十年前に、碧守の森であなたに助けてもらったんです」
「ああ……思い出したよ。あの時の君だったのか。大きくなったな」
俺の恩人は、そこでやっと表情を変えた。控え目な笑顔。「大丈夫か?」と俺に語りかけてくれた、記憶の中の笑顔と何ら変わりない、優しい表情だった。
「――っ! はい! あの時はお礼も言わずにすみませんでした! そして、本当にありがとうございました!」
ずっと言いたかった言葉をやっと言えることができた俺は、恩人に向かって深々と頭を下げる。
覚えていてくれた。何の特徴もない少年のことを、俺のことを覚えていてくれていた。そのことが無性に嬉しくて。俺の心は、ただただ温かい光でいっぱいになっていく。
「あの、リュディガさん。お知り合いの方との再会に水を差すようで悪いのですが――」
俺の後ろから、テアがおずおずと服の裾を引っ張ってきた。振り返ると、テアは酷く不安な顔をしていた。光の下で初めて見る彼女の髪は、甘いブラウン色をしていた。目は林檎のような深い赤で、肌は身に着けているローブに負けないほど、白い。これまで異性とは全く無縁の人生を送ってきた俺にとって、ここまで『人間の』女の子と近付くのは初めてのことだった。思わず心臓が大きく跳ねる。
ぐ……可愛い、かもしれない……。
「彼とは、どんな関係でいらっしゃるのですか?」
煩悩に意識が向きかけたが、彼女の一言で冷静さを取り戻すことができた。
「あ、あぁ。俺が冒険者を目指すきっかけを与えてくれた、命の恩人なんだ」
俺の返答に、なぜかテアの眉尻が下がる。その表情の変化に俺は困惑した。俺、何か変なことを言っただろうか?
テアは俺の服から手を離すと一歩前に出て、俺の隣に並んだ。テアの纏う雰囲気が、穏やかな春の風から、真冬の凍てつく吹雪のように変わったのがわかってしまった。そして鋭い視線を、俺の恩人に刺す。
「あなたは、ここに何の目的があってやって来たのですか?」
テアの質問に、浮き足立っていた俺の心は瞬時に冷却されていく。
確かにそうだ。
テアの言葉を信じるのならば、ここは魔晶協会の地下倉庫。ただの冒険者が立ち寄る場所ではない。それに、彼はこの倉庫に『鍵を開けて』入ってきた。それが意味することは、つまり――。
いや。
俺は頭に浮かんだ考えに、首を振って否定する。
彼はどこかで鍵を手に入れて、幽閉された俺達を助けに来てくれたんだ。きっとそうだ。そうに違いない。
……そんなこと、普通ではありえないとわかっている。でも、万が一という可能性も捨てきれない。いや、捨てたくなかった。
湖畔に石を投げ入れた時のように、俺の心に漣が立っていく。その心に呼応するかのように、額から嫌な汗が滲み出てきた。
「お礼を言いに来たんだよ」
微笑しながら『恩人』は言う。しかしその声には抑揚がなく、感情を汲み取ることができない。
「そこの彼に、ね」
そして俺に視線を送ると、小さく首を傾げた。
「お礼?」
一体何のお礼だというんだ? 俺はお礼を言われるような行動を何かしたか? まったく心当たりがない。そもそもあの日以来、俺はこの人と会ってはいない。
「君が朝に持って来てくれた、魔晶石」
『恩人』の口から出てきた単語に、俺は思わず肩を震わせてしまった。
魔晶石。
換金額が少ないと喚いたあの大きな魔晶石が、どうしたってんだ。
「素晴らしい大きさだ。おかげで予定より随分早く、復活に必要な力が集まった」
何を言っているのか、意味がわからない。
頭の中が益々混乱すると同時に、俺の全身に粟が立つ。
あることに、気付いたからだ。
魔晶協会に預けられた魔晶石が、その後どうなるのか――。それを全く知らなかったことに、俺はようやく気付いたのだ。
魔物をおびき寄せる、瘴気を放つ魔晶石。そんな物騒な物、他に使い道などない。だから魔晶協会に持ち込まれた後は協会の中で処分されているものだと、俺は勝手に思い込んでいた。でも、それが間違っていたとしたら?
「我らの悲願が、ついに達成される時がきた。本当にありがとう。感謝している」
満ちたりた顔で『恩人』は両手を広げる。ぞくりと背中に走る悪寒。幼い俺を助けてくれた両の腕は、今は得体の知れない魔物の翼に見えてしまった。
「間もなく、この世界は闇に包まれることになる。闇の神獣の復活だ」
「闇の……神獣?」
神獣使いが召喚することができるのは、火・水・風・土の四大属性の神獣だけなはずだ。四大属性の神獣は複数存在するのに対し、光と闇の神獣は一体しか存在しないという。それくらいは俺でも知っている。
しかし、闇の神獣の復活とはどういう意味だ? テアなら知っているだろうか。ふと彼女の方を振り返ると、テアは奥歯を強く噛みながら『恩人』を睨んでいた。
「そんなに怖い顔をするな。既に手遅れだ」
にこにこにこ。『恩人』は不気味なほど笑顔をこちらに向けてくる。その態度が癪に障ったのか、テアが何かの詠唱を始めた。
「光よ!」
間を置かず、力強いテアの言葉と同時に、『恩人』に向けて光の矢が走る。しかし威嚇のつもりなのか、光の矢の軌道は直撃しないものだった。だったのだが――。『恩人』は、左手を伸ばし、手甲で光の矢を受け止め、そのまま腕を横に振るった。
パシュン!
小さな破裂音と共に、光の矢は呆気なく掻き消える。
「なっ――!?」
「穏やかではないな。残念だが、私一人を倒したところで事態は変わらない。私にはたくさんの同志がいる。もっとも、武器を徴収されている君達に、私が遅れを取るとは到底思えないが」
そこで『恩人』は嘲笑うように鼻を鳴らす。
……まだ、ついていけない。
どうなってるんだよ。何なんだよ、これ。
だって、この人は俺を助けてくれて。凄く強くて。俺にとっての英雄で――。
テアと『恩人』の顔を交互に見比べることしかできない俺だったが、しかしどちら側に付くべきなのかくらいはわかっていた。頭ではわかっていた。でも、心はまだ納得しない。
俺は再びテアの前に立ち、『恩人』から目を逸らさないまま構えを取る。
「テア。闇の神獣の復活ってどういう意味だ?」
「闇の神獣は広く知られてはいませんが、実はかつて精霊界を闇に染めようとした神獣らしいです。闇の神獣の食事は、『負』の混じる感情全て。それら全てを食すつもりだったと。そして五百年ほど前に、こちら側の世界にも現れました。ですが勇気ある討伐者らによって、封印されたのです」
闇に染めようとした!? 食事!?
テアの口から出てきた物騒すぎる言葉に、思わず俺は目を丸くしてしまった。
「でもちょっと待って。俺、今までそんな話は聞いたことがないぞ。そんなに恐ろしいことをしようとしていたのなら、伝承として残っていてもおかしくないと思うんだけど」
「はい。闇の神獣は、こちら側の世界に来てすぐに封印されることとなったのです。だからその存在は知られていても、闇の神獣が何をしようとしていたのかは、一部の者を除き、世間に知れ渡ることがなかったのだと。私は修行時代に精霊の歴史を学んだ時に知ったのですが、書物には闇の神獣の目的はぼかされて書かれておりました。それも一、二行程度です」
そんな恐ろしい存在の説明が、たった一、二行で済ませられているなんて。読み飛ばしてもおかしくない文量だ。
「簡素な説明なのは、詳しく知る者がいなかったからだとその時は思っていたのですが、どうやら別の理由もあったようですね」
「別の理由?」
「いつかそこの彼のように、闇の神獣を利用しようとする者が現れるかもしれない。そんな人間に情報を与えないためという意図もあったのだと思います」
テアはそこでさらに『恩人』を睨む。しかし『恩人』はそのテアの睨みを、一笑に付した。