最終話
「……あれ?」
奇妙な感覚に目を覚ました。
まるで重力が感じられない。浮いているような感覚。
「あれれ!?」
完全に目を覚ましたひなは、本当に自分が浮いていることに気づいた。
そればかりではない、空中から、ベッドで寝ている自分を見下ろしていたのだ。
「これ、何!?」
「落ちついて下さい」
気付くとそこには同じように浮いているセトがいた。慌ててセトの側まで泳ぐように寄る。
「あなたに来て頂きたい所があるのです。しばらく目を閉じてください」
セトはそう言うと、ひなの額にゆっくりと手をかざした。一瞬、吸い上げられるような感覚がひなを襲う。
「どうぞ、目を開けても結構ですよ」
そう言われゆっくり目を開けた先は、普通の商店街のような所だった。
しかし、何か違和感を感じる。
よくよく見ると、そこにいる人々の服装がちぐはぐなのである。まるで、いろいろな時代の人間が混ざっているような光景だった。
「ここは?」
セトはクスリと笑う。
「あなた方が言う、天国のような所です」
「て、天国!?こんな庶民的なトコなの!?」
「次の転生の時まで、皆ここで思い思いに過ごすのです。大体、自分が生きていた時に一番楽しかった頃の姿になるようですよ」
それでいろんな歳格好の人がいるのだ、と一人感心した。
「えーっと……じゃあ私、死んだってこと?」
「正確に言えば、仮死状態です」
その言葉に、ひなの表情は青ざめた。セトはその様子を見て、慌てて付け足す。
「安心してください、私が責任を持って下界にお帰ししますから」
その言葉に安心すると、改めて周りを見渡した。時代がちぐはぐな事以外、下界と何も変わらない。人々も、実体があるかのように歩いている。
そう思ったところでハタと思いついた。踵を返してセトの元まで戻り、その手をぎゅっと握り締める。
「体が……触れる?」
「先日は下界で失礼しました。ここでなら、心置きなくデートが出来ると思ってお呼びしたんです」
セトはそうサラリと言ってのけた。ひなはその言葉に、真っ赤になりながら慌てる。
「デ、デートって、だってセトは……」
その様子にはお構いなしに、セトは歩き出した。
「どこか行きたい所はありますか?」
しばらく納得いかない風にセトを見つめていたひなだったが、何はともあれせっかくセトとデートできるチャンスだから、と気を取り直して言った。
「……じゃあ、この町を見て周りたい!」
町は、やはり不思議な様相だった。
鉄筋コンクリートもあれば、木造の古い建物もある。スポーツカーが通り過ぎたかと思えば、人力車とすれ違ったりもする。
ミニスカートを履きこなしている若者も居れば、着物姿でしゃなりしゃなりと歩く婦人もいた。
「すごい、本当にいろんな人がいる。……セトはこの町に住んでるの?」
「いえ、私達天使は下界にいることがほとんどですから。ですが……そうですね、仕事がない時にはここでブラブラしていることもあります」
「私も死んだら、ここに来れるかな?」
「これからの行い次第です」
ひなはぷうっと頬を膨らませると、拗ねたようにそっぽを向いた。
セトはそんなひなの様子を見ながら「ひななら大丈夫ですよ」と柔らかな口調で付け足した。
今日のセトは優しい。
下界にいる時には、張り詰めた空気が周りを漂っていて、笑顔もロクに作れなかったのに。今自分の隣にいるセトは、自分の感情を素直に表現しているように見えた。
そんなセトに、どうしようもなく胸が高鳴るのだった。
「ひな、私の気に入っている場所があるのですが。一緒に来てもらえますか?」
しばらく町を散策した後にセトが連れてきてくれた所は、小高い丘だった。
上まで登って先を見渡すと、そこには限りなく広がる雲海があった。飛行機の分厚い窓越しにしか見る事のできない光景が、自分の前に悠然と広がっている。
セトはひなの手を取ると、行きますよ、と小さく声をかけた。
足元をすくわれるような感覚に一瞬バランスを崩したが、すぐにセトが後ろから支えてくれた。
そのままゆっくりと雲の上に降り立つ。
「お、落ちちゃう!!」
恐る恐る1歩を踏み出すと、まるで綿菓子の上を歩いているような、不思議な弾力が足下を包んでくれた。
楽しくなって思わず駆け出す。そして雲の切れ間を見つけ、覗き込んだ。
「あれ、私の町!?」
セトもすぐにひなに追いついて、一緒に覗き込む。
見下ろした先にはひなが住む町が広がっていた。昔航空写真で見たのと同じ形をしている。
「はい、ここはあなたが住む町の上空にあたります。……と言っても、実際の空に存在しているわけではありませんが」
子供のように無邪気に、町の1つ1つの建物を指差す。
「あれが私達の学校でしょ、で、あの辺が私の家。カフェ・クリエはあそこかな?……すごーい、全部見えるね!」
セトはその様子を、ただ黙って見つめていた。その優しい表情に、ひなの心は締め付けられるように高鳴った。
真っ赤になってしまった顔を見られまいと、慌てて顔をそらす。
そんなひなを、セトは優しく抱き寄せた。
「私は……あなたの事が好きです、ひな」
その行動と言葉に、ひなは目を見開く。そして信じられない、という表情で、ゆっくりとセトの方を向いた。
「……正直、自分にこんな感情があったとは驚きました。でも、悪いものではないですね」
そう言って、照れたように微笑む姿は、本当に素敵だった。
声を上げて泣き出したいほど、胸が締め付けられて苦しい。ひなはその目に涙をいっぱいに溜め、セトの顔を見つめた。
セトはそんなひなの頬に、ゆっくりと手をかけた。
「あなたの全てが好きです。そのくるくるとよく変わる表情も、少し怒りっぽい性格も。もう、離したくない程に」
ひなはその言葉を聞き終える前に、その胸にしがみついた。
涙が止まらない。
「私もセトが好き……大好き……」
セトの鼓動が聞こえる。セトのぬくもりを感じる。もう、このまま離れたくない──
セトもひなの背中に手を回し、愛しそうに、壊れ物を扱うように抱きしめた。
そしてややすると、決心したかのように、ひなの体を自分から離した。
「だから、あなたには幸せになってもらいたいのです」
「……え?」
セトがそう言うと同時に、その体を金色の光が包み始めた。
「どうやらお別れの時が来たようです」
「お別れって……!?」
以前、セトが言っていた。
『誰の元にも、必ず1度は恋天使が訪れます』
なのに何故、人間はこの天使の存在を知らないのか。今、はっきりとわかった。
「人間の記憶を……消しちゃうの……?」
「あなたのお陰で、一人前の恋天使と認められたようです」
セトはひなから顔を背けると、わざと話をはぐらかすように、そう言った。
セトは、全てわかっていた。
この恋が成就する時が、別れの時だと。
「嫌!セトと一緒にいたい……!!」
ひなは零れ落ちる涙を拭おうともせず、セトの胸を叩き続けた。
しかし、セトは身じろぎ一つしない。
「……じゃあ!もうわがまま言わないから、記憶だけは消さないで!
セトのこと、忘れたくない……お願い!」
セトは苦しそうな表情をしながらも、ハッキリとした声で告げた。
「あなたはこれから愛する人と出会い、幸せな人生を送る。
私という存在は、あなたのこれからの人生に邪魔なだけなのです」
ひなはぶんぶんと頭を左右に振った。
「いやよ!セトのこと忘れるくらいなら……このまま死んじゃいたい……」
「ひな!!」
セトはその言葉に、今までにない程声を荒げた。
ひなはビクリと体を震わせ、セトを見上げる。
セトは再び苦しい程にひなを抱きしめた。
「あなたには家族もいる、友達もいる。あなたを愛しているのは私だけではありません」
涙が止まらない。
セトも苦しんでいる事が痛い程伝わってきて、声が出ない。
「……本当は、ずっとあなたの気持ちに気づかない振りをしてあなたの側に居たかった……けれど……」
それは、セトの本心だった。
ひなは血を吐くような思いで出された、セトの言葉に我に返った。
自分はセトのことを忘れてしまっても、セトは自分を忘れることができない。それがどれだけつらいことか。
愛する者の記憶から自分が消えていく様を、黙って見守らなければいけないその苦しさを思い、再び涙が溢れてきた。
「ごめんなさ……い……」
声にならない声で、懸命にそう伝えると、全てを覚悟して目を閉じた。
セトはゆっくりとその額に手をかざす。
暖かい光が、ひなの頭に満ちてくる。朦朧としてきた意識の中で、ひなは懸命にセトの手を握った。
「……それでも、私は……」
その言葉にセトの手が一瞬止まる。
ひなは目を閉じたまま、その頬に行く筋もの涙を流し、言った。
「セトの事、忘れない。記憶は消せても、心に刻まれたこの想いは絶対に消せないもの……何度生まれ変わっても、何百年かかっても、セトのことを思い出してみせるから……」
その言葉に、セトの頬を暖かいものが伝った。
ひなはゆっくりと目を開けると、セトの頬に優しく触れた。そしてセトの涙をその手のひらで受けとめる。
セトは限りなく切なく、暖かい微笑みを浮かべると、最後に言った。
「それでは私はいつまでも待ちましょう。この空で、あなたを……」
そう言って、その唇をひなの唇に優しく重ねた。
お互いの体が消えるまで、ずっと──
***
ピピピッ、ピピピッ!
ひよこ型の目覚まし時計が、いつもと同じ7時30分に鳴り響く。
日頃あまり寝起きのよくないひなだが、この日は何も言わずに、むくり、と起き上がった。
そして、目覚ましも止めずに、放心状態になる。
「なんか……夢、見てたと思うんだけど」
起きる直前までは覚えていたのだが、今はキレイさっぱり、その夢の記憶がなかった。
何か大切な夢だったような気がして、何か大切なことを忘れているような気がして、心がモヤモヤする。
起き上がろうと手を付いた時、ひなは自分の右手に何かが握られていることに気づいた。
そっと指を開いてみる。
「きれい……」
そこには、真珠ほどの大きさの、七色に光る小さな石があった。しかしすぐに、その石は音も無く粉々に砕けてしまった。
セトの涙の結晶──
今のひなにはその正体はわからなかったが、その石を見た途端、ひなの頬に一筋の涙が伝って落ちた。
自分の意思とは関係なく零れ落ちる涙に、慌てる。
「え?なんで……?」
拭っても拭っても、涙は止まらなかった。
もう一度手のひらを見つめる。
その手の中にはもう何もなかったが、心に何か暖かい光が灯るのを感じた。
セトはその様子を確認し、空に向かった。
1度だけひなの部屋を振り返り、満足げな、しかしどこか寂しそうな表情を浮かべながら、空気に溶けるように消えていった。
──いつまでも待ちましょう。あなたの心が起こす、奇跡を信じて──