第6話
「三条、今いい?……裏庭に来てくれないかな」
セトが天国に戻って、3日目の放課後。
越村が少し緊張した面持ちでひなに話しかけてきた。
「あ、うん……」
ひなは越村と彼女のやり取りをを見て以来、裏庭に行かなくなった。自分のお弁当も作る気になれず、最近ではミカと一緒に購買で済ませている。
周りの噂も「越村がひなを振り、鷹野先輩と付き合うようになった」というものに変わっていった。
その間越村は何か言いたそうにこちらの様子を伺っていたのだが、ミカの完全ガードにより、全くひなに話しかけられないでいた。
もうミカにとって越村は完全に敵である。
ひなとしてもミカのガードがありがたかったのだが、今日は彼氏とデートらしく早々に帰ってしまったのだった。
越村のことが嫌いになったわけではない。長い間想い続けてきたのだ、そう簡単には気持ちを切り替えられない。
だが今はセトがいつこちらに戻ってくるか、それが一番気になっていることは確かだった。
(──なんだろう)
ひなは人目を気にしながら、恐る恐る越村についていった。
越村は裏庭につくと、木陰で立ち止まり、何か言いかけてはやめる、という素振りを繰り返していた。
明朗快活なタイプの越村には珍しい。
「あの、さ。鷹野先輩のことは……知ってる?」
「うん、彼女、だよね?」
越村は深いため息をつく。しかし思い切ったようにひなの肩を掴んだ。
「エリ……いや、鷹野先輩には少し前に告白されて、別に好きなヤツもいなかったしまあいいかなーって軽い気持ちでOKしちゃったんだけど……」
やはりいつもの越村らしくなく、歯切れが悪い。
越村自身、自分の気持ちを決めかねているのかもしれない──ひなは他人事のようにそう思った。
「明日さ、一緒にどっか遊びに行かないか?」
「え?」
「いや、その、友達としてっていうか……」
更にごにょごにょと独り言のように言うと「とにかく明日10時に駅前で!」と勝手に言い残して去って行った。
「ちょっと待って……越村君!」
──だってそれって、デートじゃ……
自分が待ち望んでいた事のはずだったのに、全く心は躍ってくれなかった。
それどころか、鷹野先輩の事、そして──セトの事を考えると、胸が苦しい。
「隆二のヤツ……」
その様子を影から見ていた鷹野は、そうつぶやくと、ぎゅっと拳を握った。
翌朝、ひなは自分の部屋のベッドに腰掛け、携帯を握り締めて悩んでいた。
一応出かける準備はしたのだが、やはり気が乗らない。
とは言え越村の連絡先がわからないのでキャンセルのしようがなかった。
とりあえず待ち合わせ場所に行って、断ってすぐに帰ってこよう、そう決めて立ち上がった時、ふいにひなの携帯が鳴り響いた。
突然のできごとに、きゃっと小さく悲鳴をあげる。
恐る恐る電話に出ると、ミカからだった。
「越村から伝言。今日はどうしても外せない用事ができたからキャンセルだってさ。何?デートの約束でもしてたの?」
ミカは不機嫌そうだ。
「うん、断りきれなくて……でも、ほっとした……」
それはひなの本心だった。少し寂しい思いはあるが、やはり今の越村と2人で会う気にはなれなかった。
その様子にミカは少し安心したのか「そっか」とだけ言った。
「でもなんでミカから?」
「私のカレシ経由。中学の頃同じクラスだったらしいよ。……大丈夫?カラオケでも行く?」
気を使ってそう言ってくれる、ミカの優しさが心地いい。
「大丈夫、ありがと。ちょっと一人で散歩でもしてくる」
家を出たひなは、せっかくお洒落したからと、駅前まで足を延ばすことにした。
あてもなく町をぶらぶらしながら、お店のディスプレイを眺める。
その中の黒いシャツに目を引かれ、思わず足を止めた。
──セトに似合いそう
そう思った所でちくり、と胸が痛んだ。
セトは本当に戻ってくるのだろうか。あれからもう4日も経っている。
少なくともひなの恋は成就してはいない。だからこのままお役御免ということもないとは思うのだが。
「あ」
そんなひなの背後で、驚いたような声がした。
何気なく振り向くと、そこには腕を組んだ越村と鷹野先輩が立っていた。
越村は気まずそうにしているが、鷹野は悪意に満ちた目でひなを睨んでいる。
──用事って……
ひなの思考を読み取ったかのようなタイミングで、鷹野はニヤリと挑戦的に笑いながら、ひなの元へとツカツカと近づいてきた。
「これでわかったでしょ?隆二は私を選んだの。わかったなら二度と隆二にちょっかい出さないでよね!」
昨日の2人のやり取りを見ていた鷹野は、どちらを選ぶか確かめるために、わざと今日、越村に声をかけたのだった。
ひなは何も言えずに、ただ俯いている。
鷹野はその様子を勝ち誇ったかのように見つめ、越村は焦りながら、あらぬ方向を見ていた。
──泣きたくない
俯いているせいか、目にはすぐに涙が溜まってきた。
越村が鷹野を選んだから悲しいのではない、自分が惨めに思えて情けなかったからだった。
──セトが居てくれたら……
そう思った瞬間、さらに鼻の奥がツンと痛くなった。
涙は今にも零れ落ちそうな程に、溜まってしまっている。
──もう、限界……
「こんな所に居たんですか。探しましたよ」
今、一番聞きたかった声が、ひなの耳に届いた。
信じられないように、顔を上げる。
そこにはいつもよりハッキリと見える、セトがいた。慌てて駆けてきたのか、息が上がっている。
「喫茶店で待っていてくださいと言ったのに」
状況が飲み込めないひなに、セトが言った。
「……こちらの方は?」
そう言われたところで、改めて越村と鷹野の様子を見た。
2人は、明らかにセトで視線を止めている。他の人間には、セトの姿は見える筈がないのに。
よくよく見ると、周りを通り過ぎる人間も、その容姿に目を留めていた。
「セト、どうして……」
セトはひなに目配せして、その先の言葉を遮ると
「待たせてすみませんでした、行きましょうか。──では、失礼」
そう言うと越村と鷹野に一瞥をくれ、ひなの手を引き、歩き出した。
何が起こったかはわからないが、セトがここにいる。それだけで十分だ。
ホログラムでもなんでもない、ぬくもりがあるセトの手が自分の手を引いてくれている。
ひなはその感触を確かめるかのように、さらにぎゅっと手を握った。
「ありがとう、セト」
「どういたしまして」
手をつないで歩いている間、それ以外なんの言葉も交わさなかったが、ひなは幸せな気持ちでいっぱいだった。
いつもの自宅近くの河原まで戻って、青草が茂る川のほとりに腰掛けた。
セトもその隣に静かに座る。
草がしなる音がして、本当にそこにセトがいることを実感させてくれた。
「もうお小言は終わったの?」
「はい、散々でしたよ。私の上司は口うるさいことで有名なので」
本当に懲り懲りだ、という様が見て取れて、ひなは思わず吹き出した。
「でも今回は大丈夫なの?また助けたりして」
「これは恋愛絡みですから」
よく理屈はわからないが、セトがそう言うんだから、と勝手に納得した。
そしてゆっくりセトにもたれかかると、クスリと笑った。
「こんなことしても通り抜けないね」
セトもその様子に表情を和ませる。
越村と鷹野を見た時は辛かった。でも、セトが来た途端に、嘘のように心が軽くなった。
もう、越村のことは大丈夫──ひなはそう思った。
それと同時に、確信した。
自分は、セトのことを──。
そう思った瞬間、セトは突然立ち上がった。体を預けていたひなは、思わず倒れそうになる。
「ど、どうしたの?……セト?」
立ち上がったセトを見上げたひなは、言葉を無くした。
その顔には何の表情も浮かんでいなかった。出会った時と同じ、完全なポーカーフェイス。
セトはまっすぐ前を見つめたまま、静かな声で言った。
「……その気持ちに答えることはできません」
その言葉に、ハッとする。
「私の……心……」
「……」
セトは何も答えなかった。
ひなの心のどこかに、この気持ちに気付いて欲しいと思う心があった。
そしてセトもまた、ひなの心を知りたいと思ってしまった。
上手く合わさってしまった2人の心が、セトにひなの想いを読ませた。
「や、やだ、そんなヘンな意味じゃないってば!ただ、ほら、セトと一緒に居たら楽しいから、それで……」
言っていて、悲しくなる。
初めて好きな相手に伝わった想いは、全面的に拒絶された。心臓をえぐり出されるような胸の痛みに、悲鳴をあげそうだった。
何度見ても、セトの表情は固い。
「……そ、そうだよね。私みたいなのに好かれたって、迷惑なだけだよね」
今にも泣き出しそうなひなの表情に、セトの心も締め付けられるように苦しかった。
「ひな……私は……」
そこまで言うと、突然その場にガクリと膝をついた。
「セト!?」
苦しそうに、その場に2つ折りになるようにして倒れたセトの額には、大量の汗がにじんでいる。
「セト!セト?!」
そしてひなが見ている前で、セトの体は徐々に透け始めた──
「すみません」
自宅に戻ったひなは、セトを自分のベッドで休ませた。セトの体は、もう元の半透明に戻っている。
実体化は随分と力を消費するらしい。
「ごめんなさい、私が無理させちゃったのね」
セトはその言葉にゆっくりと首を左右に振った。
「すみません、しばらく力を補充します」
しかしやはり辛いのか、そう言うと静かに目を閉じ、すぐに眠りに落ちた。
ひなはその様子を確認してベッドの横に座り込む。
目の前には端正なセトの顔がある。寝息こそ聞こえないが、その切れ長の目は固く閉じられていた。その顔色は、ひなにもわかるほど悪い。
──ごめんなさい。セトは私のためにこんなに一生懸命になってくれているのに。困らせるようなことばかりして、本当にごめんなさい。
何度も何度も心の中で、そうつぶやいた。
少し身を乗り出してセトの頬に手を添える。そして、ゆっくりとセトの唇に自分の唇を重ねた。
もちろん、ぬくもりも感触も感じることはできないが、気持ちの上では違う。切ない気持ちで胸が張り裂けそうに痛い。
「ごめんなさい……でも、好き……」
ひなは再び大粒の涙をこぼすと、静かにドアを閉めて出て行った。
ひなが部屋を出たと同時に、セトはゆっくりと目を開けた。苦しそうな表情で、かすかに唇を動かす。
「あなたの気持ちに答えたら……私は……」
セトはもう夕方も近い頃、目を覚ました。
部屋の中には、暖かいオレンジ色の光が差し込んでいる。
いつの間にか部屋に戻ってきたひなは、ベッドの側で眠っていた。頬には行く筋もの涙の跡が見える。
セトはそんなひなを見つめながら、ある決心をした。