第5話
「あ、越村君だ」
放課後のグラウンドは、部活動の生徒で賑わっていた。
越村が所属するサッカー部も、グラウンドのおよそ半面を使い、各自がストレッチなどの自主トレをしている最中である。
その中から越村を見つけると、ひなは嬉しそうに微笑んだ。
「ねえ、ひな。そろそろ見てるだけじゃなくてさあ。……いいんじゃない?」
「いいんじゃないって?」
ミカはもどかしい思いで続ける。
「だからさあ、告白よ、告白。もう結構ウワサになってんだよ?アンタ達2人」
「ウワサ!?私と越村君が!?」
確かに最近はお昼以外でも一緒に行動することが多くなった。
ミカに連れられてではあるが、サッカー部の応援に行ったりもしているし、越村もお昼に裏庭に来てくれることが多い。だけど──
「知らなかった……」
ひなは顔を真っ赤にさせて慌てる。その様子を見ながらミカは小さくため息をつくと、ずいっと詰め寄った。
「絶対上手く行くって。あの手紙、まだ持ってんでしょ?」
「持ってるけど……」
ひなはチラリとカバンに視線を投げた。ミカはそれを確認すると、おもむろに立ち上がった。
外では丁度、サッカー部の休憩のホイッスルが鳴り響いている。
「よし!アタシが越村ここに連れてきてあげるから!」
「ええ!?」
ミカはそう言うと、教室の外へと駆け出していった。
「やめて!やめてったら、ミカ!!」
ひなは必死でミカの後を追いかけたが、猛烈なスピードで階段を駆け下りていくミカを捕まえられずに、結局1階まで一緒に降りてきてしまった。
下駄箱付近に差し掛かった時、休憩で校舎に入ってきたサッカー部員を見つけ
慌てて姿を隠す。
壁からそっと様子を伺うと、そこに越村の姿はなかった。ホッと胸を撫で下ろしたが、ミカはすでにひなの視界から消えている。
「どうしよう……」
壁に背を預け、ずずずっと座り込むと、どこからともなくセトが現れた。
ひなはセトには視線を移さず、正面の何もない空間をうつろな目で見つめながら尋ねた。
「……セトはどう思う?」
「ミカさんも言っていたようにいい時期だと思いますが」
セトの言葉が胸につつき刺さるように痛い。理由はひな本人にもわからなかった。
極度の緊張のためだろうか、それとも──
「そっか…そうだよね。セトのお得意の計算では、成功率は何%くらい?」
わざとおどけたようにそう聞く。
セトはしばらく何かを考えるように空中に視線をさ迷わせていたが、ひなの顔を見ると、自信たっぷりのハッキリとした口調で言った。
「80%程度ですね。いい数字だと思います」
ひなは小さく、ははは、と乾いた笑いをもらした。
セトの答えは、ひながずっと待ち望んでいたものだ。なのに、何か心に引っかかるものがある。
自分はこの答え以外の、何を待っていたんだろうか。何故、こんなにスッキリしない気持ちになるのだろうか。
しばらく黙り込んでいたひなの耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
再び、こっそりと下駄箱の方を伺う。
先ほどまでのサッカー部の集団はグラウンドに戻ったのか、そこには2つの人影しか見えなかった。
越村と越村に何かを叫んでいる女子の姿。
慌てて体勢を戻し、前を向く。
盗み聞きするつもりはなかったが、どうやら何か言い争っているらしく、女子のヒステリックな声が聞こえてきた。
(──あの人は確か3年の……鷹野先輩、だったかな)
一緒にいるのは、派手なメイクにきつめの顔だが、美人と評判の3年生の女子だった。
「隆二がしばらく内緒にしてくれっていうから友達にも内緒にしてるのに!同じクラスの女子と噂になってるってどういうこと!?」
鷹野はものすごい剣幕で越村に詰め寄っている。
「だから誤解だって!その子はただの友達っていうか……その……金欠で昼飯やべーのを助けてもらったっていうか……」
しどろもどろになっている越村に更に眉を吊り上げると、
「お弁当くらい私が作ってあげるわよ!だからもうその子の所には行かないで!隆二の彼女は私でしょ、もう周りにバレたっていいわよね!?」
そう言って怒りながらずんずんと歩いていった。
「待てってば、エリカ!」
越村はその場で小さくため息をついたが、すぐに鷹野の後を追った。
「こんなトコにいたの?探したんだから!」
ミカは階段の横にひっそり座り込んでいるひなを見つけると、ちょっと怒ったように言いながら駆け寄ってきた。
「ごめん、越村見つけられなかっ……」
しかしその様子に言葉を詰まらせると、慌ててひなの顔を覗き込んだ。
「どうしたの!?なんかあった!?」
その目には、今にもこぼれ落ちそうな程、涙が溜まっている。
ひなは慌ててミカから顔を背けると、ゆっくり立ち上がりながら言った。
「越村君、彼女……いたみたい。……ごめんね、今日は帰る……」
心配するミカを「大丈夫だから」と静止し学校を後にしたひなは、どこに行くともなく、無言で歩き続けていた。
セトも黙ってその後ろを歩く。
小さな公園でやっと立ち止まると、小さなブランコに腰を下ろし、小さく前後に揺らした。
もう日も暮れかけ、辺りはオレンジ色に染まりかけていた。
「……知ってたの?彼女のこと……」
隣のブランコに腰掛けたセトは、小さく頷いた。
「どうして教えてくれなかったの?」
「必要無いと思ったからです。先程の様子からも、恐らく越村君が最終的に選ぶのはあなたでしょう」
「そういう問題じゃないよ!……誰かから奪うなんて、できない……その彼女の気持ちとか、セトは考えないの?」
セトは相変わらずの無表情で答える。
「誰の元にも必ず1度は恋天使が訪れます。その人間に一番必要な恋の時に。越村君の彼女はまだその時ではなかった。どちらにせよ、壊れる恋なのです」
その答えにひなはキッとセトの顔を睨み付けた。
「人の心はゲームみたいに単純じゃないのよ、セトは人を好きになったことあるの?ないんでしょ?だからそんな簡単に言えるのよ!
……恋する気持ちも知らない恋天使が、人の恋愛なんて手助けできるはずないじゃない!」
セトは表情を崩すことなく、静かにひなの話を聞いていた。しかしその顔はどことなく寂しげにも感じた。
「自分が恋天使になるためだったら、私がどんな人とくっついてもどうでもいいの!?」
そう叫んでしまった時、ひなはハッとしたように口を押さえた。心の中がぐちゃぐちゃで、何を言いたいのか自分でもわからなかった。
だが、その言葉が口をついた途端、ひなの目からは、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
「もう……わけわかんない……」
そういい捨てると、ひなは駆け出した。
「ひな!」
セトはひなの後を追わなかった。いや、追うことができなかった。
ひなの涙を見た瞬間、自分の心がズキンと痛むのを感じた。今までに感じたことがない自分の感情に驚き、どう対応していいかわからなかったのだ。
「……この胸の痛みは……?」
一方ひなも、自分の感情がわからないでいた。
何故涙が出るのか、何故こんなに悲しいのか。
越村に彼女がいた事は確かにショックだったが、この涙の原因は違うように思えてならない。
セトに「道具」のようにしか思われていない事の方が悲しい──
「なんでだろう……」
***
あれから「部屋に入ってこないで」ときつく言い渡されていたセトは、翌朝になって恐る恐るひなの部屋を訪ねた。
寝不足の顔でギロリと睨まれ、一瞬ひるむ。
ひなは、昨夜一睡もできなかった。
泣き疲れて目は重いのに、心は少しも休まってはくれなかった。それは、越村に彼女がいたことについてではなく、セトに対してのものだった。
随分とセトにひどい物言いをした。
あの時の、セトの寂しげな表情が何度も頭の中を駆け巡る。だが、道具のようにしか思われていないことはどうしても許せない。
素直に謝ることができず、結局不機嫌顔でセトを迎えてしまったのだ。
「あなたの気持ちも考えずに、本当に申し訳ない。ですが今は、あなたに本当に幸せになって欲しいと思っています。今度はその為の努力は惜しみません」
ひなはきょとんとした顔でセトの言葉を聞いた。
「え?」
「ですから、今後あなたに新しく好きな人ができた場合、包み隠さずその方についてお話します」
ひなはその言葉にがっくりと肩を落とすと、しばらく黙り込んだ。
「どうしたんですか?」
「……それはつまり、次を探せってこと?」
ぶつけ所のない怒りが、再びふつふつと蘇ってくる。
セトは焦りながら付け足した。
「急げとは言っていません、もし出来た時には、と」
ひなはおもむろに立ち上がると、棚からアルバムを取り出し、どすんと床に置いた。
「わかった、次見つける!」
何故こんなにイライラするのか、自分でもわからない。
ひなは意地になってアルバムをめくった。
「この男の子、有田君は!?」
「だめですね、彼女がいるようですよ」
「じゃ、坂下君!」
「もうすぐ彼は他の女の子に告白されるでしょう」
「佐藤君!」
「両親の都合で転校になりますね」
「じゃあ、内田君は!?」
「彼は将来ハゲますが、それでもいいですか?」
極めて真面目な顔でそう言うセトに、ひなは吹き出した。
「もうやだ、セトったら。今度は厳しすぎだよ」
なんだか1人で訳のわからないことで怒っているのが、馬鹿らしく思えた。
セトもひなの笑顔を見ることができて、心底ホッとしていた。
怒らせたことへの罪悪感から、というよりは、自分の中でひなの笑顔が見たい、という気持ちがあったからだ。
「?」
自分の感情に、再び疑問が湧く。
何故、自分はひなの笑顔が見たかったのだろうか。
「とりあえず、しばらく様子を見てて」
やっと機嫌の直ったひなは、気分転換に散歩に出ていた。もちろん、セトも後から付いてきている。
川原には、初夏の清々しい風が吹き抜けていた。
「すぐには気持ち、切り替えられないもん」
セトは無言で頷く。ひなはその様子を満足げに眺めた。
「それと……私もセトにひどいこと言った。ごめんなさい」
そう言ってぺこり、と頭を下げる。やっと素直に謝ることができた。
セトは驚いてそれを見ている。
「ほら、人を好きになったことないのか、って。……セト、感情ないって言ってたけど、最近変わったよ」
「私がですか?」
「うん、相変わらず無愛想だけどね。少しだけ、雰囲気優しくなった。前みたいにとげとげしいトコ、無くなったもん」
「……ありがとうございます」
そう言ったセトの顔は、明らかに照れていた。
ひなから見ても、ほんの少し、頬が赤らんでいるのがはっきりと見て取れた。その様子を見ながら、からかうように言う。
「照れてる!」
「照れてなどいません!」
セトは慌てて訂正した。
一足先に川原を抜けたひなは、横断歩道に差し掛かっていた。
「早く帰ろー」と言いながらセトを振り返り、子どもの頃からしているように、しましまの白い所だけを踏みながら渡っている。
信号は青だったが、セトは何か嫌なものを感じ、慌ててひなに駆け寄った。
その様子に気付いたひなも、足を止める。
「どうしたのー?」
そう言って気付いた。信号の向こうから、こちらを目掛けて走ってくるトラックに。
もう横断歩道も近いというのに、そのトラックは一向にスピードを落とす気配がない。
「え……」
ひなはその場に立ち尽くしたまま、自分に向かってくるトラックから目が離せなくなっていた。
「ひな!!」
セトはそう叫ぶと同時に、ひなの手を取った。
ぐいっと引っ張られるような感覚を覚え、セトの方へとよろける。
その瞬間──
ひなの髪の毛の先をかすめ、トラックは横を通り過ぎた。そしてすぐ後方で小さな地響きと激しい音が響き渡る。
ゆっくり振り向くと、そこには信号機に突っ込み、フロントガラスが割れたトラックがあった。
辺りが騒然となる。
ドライバーは無事なようで、近くにいた人間が運転席のドアを開けるのを手伝っていた。
ひなはしりもちをついたまま、呆然とその場に座り込んでいる。
通りすがりのおばさんが、そんなひなに慌てて手を貸した。
「あなた危なかったわね!!」
改めて信号機に衝突したトラックを見て、鳥肌が立った。
(──セトが引っ張ってくれなかったら……)
ぐるりと辺りを見回してセトを探すが、その姿は見つからなかった。
「……セト、どこ?」
セトは遥か上空から、ひなを見下ろしていた。
何故、ひなを助けたのか、自分で自分の行動が信じられなかった。
恋天使は、その関わっている人間の恋愛以外のことに干渉するのはタブーとされている。
(──何故、私はひなを……)
野次馬や救急車、事情聴取の警察でひなの周りはどんどん賑やかになっていった。
書類に住所と名前を書き、事故の様子を説明しながらも、ひなは懸命にセトの姿を探していた。
(すみませんが、しばらくそちらに戻れそうにありません)
そんなひなの頭に、セトの声だけが響く。相変わらず姿は見えない。
「え!?どういうこと!?」
ひなから話を聞いていた警官は驚き、ひなの顔をまじまじと見つめる。
(私達恋天使は、恋愛以外のことに立ち入るのはタブーとされているのです。その禁忌を破った場合、それ相応の……)
「どうなっちゃうの!?もしかして、もうこっちに帰って来れないの!?」
さらに訝しげに見つめる警官を気にせず、ひなはそう叫んだ。
(──いえ、上司の小言があるだけです。三日三晩)
「小言……」
拍子抜けして力が抜ける。それと同時に、警官はたまらずひなに言った。
「君、一応病院で精密検査受けてもらえるかな」
ひなが我に返った時、周りには黒山の人だかりができていた。
思わず顔が赤くなる。
「だ、大丈夫ですから、私!」
そう言って、慌ててその場から逃げた。
一歩間違っていたら、もうこの世にはいなかったかもしれない。
(──セトが、私を庇ってくれた!)
しかし、そんな生死分ける場面を体験した割に、ひなの足取りは軽かった。