第2話
「ミカの言うことだって、わかるけど…
ラブレター渡すなんて、すっごく勇気がいることなんだから。」
あの後3時間カラオケで歌いっぱなしでクタクタになったひなは、自分の部屋に戻ると制服の上着を脱ぎ捨て、ベッドに倒れこんだ。
天井を振り仰ぎながら、さらに独り言を続ける。
「ミカみたいに積極的だったら、私の人生変わってたかなあ。」
小さい頃からそうだ。人の顔色ばかり窺って、自分の言いたいことも満足に言えない。
この町に転校してきた時も、自分から話し掛けることができず、始めの3カ月間は、ほとんど1人で過ごしたようなものだった。
そんな時救いの手を差し伸べてくれたのが、クラスのムードメーカー的存在の越村である。ぽつんと教室の隅にいたひなに、積極的に声をかけてくれたお陰で、今のクラスに馴染むことができたのだった。
とはいえ、未だにミカ意外の人間に、素の自分を出すことはできないでいるのだが……。
枕に抱きつきながら、ゴロゴロとベッドの上を転がる。
2~3度往復した後、端でピタリと止まると、むくりと起き上がり縁に腰掛けた。
「はーあ。誰か代わりに私の想いを、越村君に伝えてくれないかなあ。」
誰にともなくそう言うと、再びバタリと上半身をベッドに投げ出し、再び枕を抱きかかえた。
「それはできませんが、あなたの力になることはできます」
ひなのつぶやきに答えるようなタイミングで、足元から、聞き覚えのない男の声が聞こえた。
(あれ?テレビつけてたかな)
その声に一瞬驚いたが、深くは考えず、リモコン、リモコンとつぶやきながらゆっくり体を起こす。しかし次の瞬間、その視線に1つの影を捉えると、小さく「ひっ」と息を呑んだ。
(──誰か、いる……!)
ベッドに倒れる一瞬前まで、そこに人などいなかった。
家族も出掛け、部屋どころかこの家に1人の筈だった。
しかし、今自分の目の前には、見知らぬ黒ずくめの男が立っている。
誰もいる筈のない自分の足元に、確かにその男は存在していた──
「×※○◆■~◇!※~!」
声にならない声を上げながら、必死に壁の方にじりじりと逃げる。
ドン、と壁に背を当てながら頭をフル回転させるが、状況が理解できない。
(この人誰!?ど、どどど泥棒!?)
男は、そんなひなの様子をため息混じりに見やると、ゆっくりとベッドに近寄った。
(こないで、こないでー!)
そんなひなの願いもむなしく、男は尚もゆっくり近寄ると、ひなの耳元でなだめるように囁いた。
「すみませんが、騒がないで頂きたい。決して怪しいものではありませんから」
この状況でそう言われて、誰が信じるだろうか。
しかし、その男の低く落ち着いた声には、不思議な安堵感があった。
ひなは固唾をのみながら、密着していた壁から体を離し、ゆっくりベッドの上に正座した。
いつの間にか、先程感じていた恐怖感が消えている。
男はその様子を確認すると、元居た場所まで戻り、その懐から1枚の紙切れを取り出した。
「申し遅れました、私こういうものです」
その言葉と共に、目の前に差し出された1枚の紙片をおずおずと受け取ると、ひなは男の顔色を伺いながら、チラリとその紙に視線を落とした。
トレーシングペーパーのように少し透けた、名刺サイズの紙。
紙と言うよりは薄いガラス板のような不思議な材質のそれには、1行だけ、こう書かれてあった。
恋天使 セト
「恋……天使?」
ひなは思わずそう声に出すと、その男──セトを見上げた。
セトは無表情で頷く。
まじまじと名刺とセトとを見つめながら、もう1度つぶやいた。
「天使……」
馬鹿げた話ではあった。
普通この状況で上がりこんで来た人間は、泥棒以外考えられない。
あまりに異常な出来事が、正常な思考能力を奪ってしまったのだろうか。
しかし、ひなは頭からこの男の話を疑う気持ちにもなれなかった。
現実問題として、自分の目の前にいる男は薄っすらと透けているのである。
よくよく観察すれば、足も地面にはついてはおらず、数センチだけ、浮いているようだ。
かといって、幽霊だの亡霊だのの類ではないようで、おどろおどろしい怖さなど、微塵も感じない。
それどころか、神々しささえ感じていた。
それは、シャープな輪郭に、切れ長の涼しげな目元、バラの花びらのような整った唇に黒々とした艶のある髪…と言った、セトの端麗な容姿のせいなのかもしれないが。
「恋天使とは、この世界の人間の恋愛を手助けする……
そうですね、あなた方の言葉で言えば、キューピッドと言うものです」
おおよそ外見とは不釣合いの『キューピッド』という言葉に、ひなは状況も忘れて、思わず吹き出してしまった。
(──なんか…キューピッドって言うよりも、死神みたい。黒ずくめだし。)
先程までの身構えた気持ちは、今の笑いと一緒に体の外に放り出されたようだった。
軽くなった心で、クスクスと笑いながらそう思った。
セトはひなの態度に、一瞬その表情をピクリと引きつらせ、咳払いをする。
「確かにキューピッドという柄ではありませんが、死神と言われるのは気分の良いものではありませんね」
まだクスクスと笑いながら「ごめんなさい」と言おうとしたひなは、はた、とその動きを止め、目を見開いてセトを見つめた。
今自分はその言葉を口にしただろうか?
「私の…心が…!?」
セトも何かに気付いたかのように、少しだけ目を見開く。
だがすぐに元のポーカーフェースに戻ると、淡々と言った。
「失礼しました。あなたが無防備に心をさらけ出している時に、私があなたの心を読もうと思えば可能です」
ひなは真っ赤になって、思わず胸の辺りを両手で隠した。
意味がない行動だとはわかっていても、どこを隠したらよいものかわからない。
ぐちゃぐちゃになった心の中で、ただ必死に「読んじゃダメ!」と繰り返した。
「じゃあ、読もうとしないで下さい!」
やっとの思いで、口に出してそう言う。
セトは相変わらずの無表情で答えた。
「あなたがそう望むなら。」
ひなは真っ赤な顔でセトを睨みつけながら、怒ったように口を開いた。
「それで、天使が私に何の用なんですか?」
これは夢なんだ。
そう思い込もうと決めたひなは、強気に出ることにした。
夢の中でまで、言いたいことを我慢する必要はないからだ。
セトはやっと本題に入れたことに気をよくし、少しだけ表情を崩した。
そして、後ろにあった勉強机の椅子に腰掛けると、長い足を組んで極めて真面目な顔で話し掛けた。
「あなたの恋愛成就の手助けに来ました」
ひなは怪訝な顔で聞き返す。
「どうして私なんですか?」
純粋な疑問であった。自分のような平凡な人間に、こんな非凡な出来事が起こるなど考えられない。
実際にセトと会話をしている今でさえ、夢の中の出来事だと思い込もうとしているくらいだ。
セトはその言葉で、思い出したように懐に手を入れると、一通の手紙を差し出した。
その手紙を受け取ったひなは、すぐに再び顔を真っ赤にして慌て始めた。
「この手紙、私の……!」
「昼間あなたが喫茶店の前で落とされた手紙です。その手紙であなたに決めました」
ひなは大切そうにその手紙を両手で持つと、チラリとセトに視線を投げた。
セトはその視線に応えるかのように、再び口を開く。
「あなたのご指摘にもありましたように、私はこういった風貌です。
あなた方が想像する天使やキューピッドのように愛想も良くなければ、
要領も良くありません。その為か、恋愛成就の成功率が他の恋天使よりも
格段に低いのです」
確かに『恋天使』と言われても、あまりにミスマッチな様相だった。
黒ずくめの格好のせいだけではない、セト自身が作り出している、人を寄せ付けない
独特な雰囲気から、恋愛のイメージが全く湧かないのである。
「……実はこれは私にとって最後のチャンスなのです。
今度、つまりあなたの恋愛が成就出来なかった場合、私は恋天使を除名されてしまうのです」
「除名されたら……どうなっちゃうの?」
ひなは恐る恐る尋ねる。
セトは眉間に深い皺を作ると、難しそうな顔で言った。
「他の任に回されます。おそらく、魂の回収などでしょうね」
「それって、死神みたいなもの?」
「いえ、死神はその人間の魂を強引に連れ去るのです。『回収』とは、天国へ帰る魂の水先案内に過ぎません」
そこでセトは言葉を区切ると、椅子から立ち上がりひなに背を向けた。
そしてベランダから見える、薄っすらと星が輝き始めた空を見上げ、続ける。
「……人間の死の現場には様々な想いが漂っています。
残された人間の、悲しみや不安や絶望。
私は……そういった人間の激しい感情というものが苦手なのです。
私自身に感情が無いからなのかも知れませんが」
ひなは、セトの薄く透けた背中を見つめながら聞いた。
「天使は……みんな感情がないの?」
セトは再び部屋の中に視線を戻すと、ひなの目をまっすぐに見つめながら応えた。
相変わらずの無表情だが、ひなにはそのセトの視線が、少しだけ寂しげなものに感じた。
「いえ、天使と言えども、感情の点においては普通の人間と大差ありません。
……私は欠陥品なのだと思います」
ひなはセトにかける言葉が見つからず、変わりに努めて明るい声で言った。
「じゃあとにかく、あなたは私の恋の手助けをしてくれるのね?
それで、私の恋が上手く行けば、あなたも恋天使を辞めずに済んで
全てが丸く収まるのね?」
「はい」
ひなは微笑みながら、ベッドから立ち上がった。
そして右手を差し出す。
「じゃあ……これからよろしくお願いします」
セトは少し驚いたような顔をしたが、同じように右手を差し出した。
ホログラムのようなセトの手に触れることはできなかったが、2人は気持ちの上で、硬い握手を交わした。