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死者ゼロの撤退戦

作者: mkttsn
掲載日:2026/09/17

三月十二日、〇四時三十七分。


硫黄島航空基地観測施設の地震計が、十七番目の警報を発した。前夜からの十二時間で、十七回。二月以降の累計は、四百三十二回に達していた。沢渡一等空佐は仮眠室の簡易ベッドから身を起こし、作業服の襟を直しながら廊下へ出た。海抜七十メートルの地下に伸びる観測通路を、革靴の音が乾いて響く。


観測室では、気象群所属の名嘉真三等空尉が、十二台のモニタの前で背を丸めていた。中央のスクリーンには、過去六時間の地殻変動グラフが映し出されている。グラフはもはや上に伸びる線ではなく、画面の枠を突き破った直線の集まりだった。


「スケールアウト、何回目だ」


「四十二回です。〇四時を回ってから、計器がまともに読めません」


名嘉真の声は冷静だったが、額には汗の筋が二本走っていた。


沢渡は、もう一度モニタを覗き込んだ。北東部観測点六番、地表隆起量、九十八ミリ。たった三時間で、地面が十センチ近く持ち上がっている。


「気象庁の見解は」


「ここ一時間、繰り返し問い合わせていますが、明確な数字は出してきません。ただ──」名嘉真は言葉を切った。「私の所見では、二十四時間以内です」


「何が、二十四時間以内だ」


「カルデラ崩壊。海底からの大規模噴火」


沢渡は、しばらく黙ってグラフを見つめた。


二月の中旬、隆起速度が前年比の十倍に達した時点で、本土への段階的帰任が始まっていた。非戦闘要員のうち四十名は、すでに島を離れている。残された九十二名を、いつ動かすか――その判断を、彼は二週間、自分の机に置いてきた。


やがて、観測室の壁にかかった航空写真に目を移した。長さ二千六百五十メートルの滑走路、その南端に伸びる擂鉢山。海面下で眠っていたものが、いま、目を覚まそうとしている。


「司令室に戻る。総監部に上げる」


廊下を歩きながら、沢渡は時計を見た。〇四時四十一分。日の出まで、あと一時間二十二分。


防衛省統合幕僚監部、〇五時十七分。


机を囲んだ将官たちは、三度同じ質問を繰り返した。


「本当に、全員撤退させる必要があるのか」


スピーカーから流れる沢渡の声は、雑音の向こうで揺れていた。衛星回線が、地殻変動の影響を受け始めている。


「センサーは限界値を超え続けています。観測担当の所見では、二十四時間以内に大規模噴火」


「気象庁は、まだ警戒レベル四までしか上げていない」


「気象庁の判断を待っていては、間に合いません」


会議室で、副大臣が机を叩いた。


「硫黄島は、太平洋防衛の要だ。先月から四十名は戻している。基地機能をすべて放棄するとなれば、政治判断の話になる。一時間、待ってくれないか」


沢渡は、回線の向こうで一度だけ咳をした。


「副大臣。一時間後、私の部下が、おそらく十名単位で死にます。私は、現地指揮官として、撤退を進言するのではなく、決定を報告しています。基地機能の喪失は、後日、私の処分で償います。しかしいまは、人員を生かしてください」


会議室が、しばらく静まった。


統合幕僚長が、ゆっくりと頷いた。


「沢渡一佐。撤退作戦、認可する。輸送機の手配、こちらで進める」


「ありがとうございます」


回線が切れる直前、沢渡の声がもう一度入った。


「死者ゼロで、戻ります」


〇六時〇四分、最初のC-2輸送機が厚木基地を離陸した。


硫黄島では、すでに撤退準備が動いていた。沢渡の指示は、二行だった。


「第一陣、戦闘・基地維持に直接関与しない者、全員。〇八時三十分までに集合」


「私物は持ち出すな。基地に残った命を、優先する」


医務官、給養員、補給員、整備の一部、合計六十八名が、宿舎前の広場に集合した。点呼は施設班長の三宅一等空曹がとった。


三宅は、現役二十二年の叩き上げで、声が小さい代わりに、点呼の漏れを一度も出したことがなかった。今朝も、彼の点呼は十八秒で終わった。


「六十八名、異常なし。司令、引き渡します」


沢渡は、隊員たちの顔を一人ずつ見た。若い隊員のなかには、まだ事態を飲み込めていない顔もあった。年長の隊員は、すでに自分の役割を理解していた。


「諸君に、二つ伝える」沢渡は言った。「一つ、今回は訓練ではない。二つ、生きて戻れ。以上」


〇七時三十二分、C-2が滑走路に着陸した。


機体のハッチが開くまで、六分。乗り込み、機内固定、八分。離陸滑走、開始。


最初の輸送機が機首を上げたとき、滑走路の南端で、地面が三センチ持ち上がった。


第二陣は、より複雑だった。


管制、気象、通信、施設、給油、警備──基地を最後まで動かす最小限の構成、二十四名。


そして、機密書類の処分。


司令室の奥の保管庫で、副司令の松井二等空佐が、シュレッダーを四台同時に動かしていた。紙の山が、断片になって床に積もっていく。デジタル媒体は、ハンマーで物理破壊された後、専用の溶解袋に入れられた。


「松井、間に合うか」


「あと四十分で、全カテゴリ完了します」


「三十分でやれ。二陣のC-2が一時間後に来る」


「了解」


松井は、シュレッダーの音に負けない声で答え、また紙の束を機械に押し込んだ。


その間に、三宅は施設班の若手三名と、滑走路の状況を確認して回っていた。


擂鉢山の北側斜面に、新しい亀裂が二本走っていた。幅は三センチ程度だが、三十分前にはなかったものだ。三宅は腕時計を見て、無線で観測室に報告した。


「擂鉢山北麓、新規亀裂二本。〇八時四十七分確認」


「了解。隆起速度、加速しています。三宅班長、退避目安をいつにしますか」


三宅は、自分の足元の地面を、靴底で軽く踏みしめた。砂地の下から、低い、しかし確かな振動が伝わってくる。地下数キロで、何かが膨張している。


「一時間後までは、滑走路に亀裂は出ません」


〇九時三十六分、第二陣のC-2が着陸した。


積み込みは、十二分で終わった。重機の固定、機密物資の搬入、人員の搭乗。三宅の班員のうち、二名がこの陣で離脱した。


「班長は、第三陣ですよね」


「ああ、最後だ。お前らは先に行け」


「向こうで、待ってます」


「来るな。家に帰って、嫁さんの顔を見ろ」


C-2は、〇九時五十一分、離陸した。


このとき、基地に残ったのは、沢渡を含め、十一名だった。


司令、副司令、管制三名、気象一名、施設班三名、警備二名。これで、最後のC-130を迎え入れ、自分たちも撤退する。


予定では、〇九時三十分にC-130が厚木を発ち、一二時頃に硫黄島着。乗り込みと離陸を含め、一二時三十分までに撤退完了。


その予定は、一〇時十四分に、崩れた。


擂鉢山の中腹、海抜百八十メートル付近で、水蒸気爆発が発生した。


噴煙の柱は、毎秒三十メートルで上昇し、三分後には高度四千メートルに達した。爆発の衝撃で、滑走路の南半分に、噴石と泥流が大量に降り注いだ。


観測室のモニタが、一斉に赤に染まった。


「司令、滑走路汚染、深刻です」名嘉真の声が、初めて震えた。「目視で、最低でも泥は五センチ、噴石は最大三十センチ大」


沢渡は、無線のスイッチを切り替えた。


「厚木、こちら硫黄島。滑走路、現在使用不能」


回線の向こうで、厚木の管制官が、一拍置いて答えた。


「硫黄島、こちら厚木。C-130、引き返し検討中。指示を待て」


司令室に、三宅が入ってきた。作業服の肩に、火山灰が積もっていた。


「司令、状況は」


「C-130、引き返しの判断中だ」


「滑走路は、私が直します」


沢渡は、三宅の顔を見た。


「無理だ」


「直さなければ、ここで全員死にます。直せば、死なずに済むかもしれません」三宅は淡々と言った。「お選びください」


沢渡は、しばらく三宅の目を見つめていた。


三宅は、二月の最初の警報が出てから、ブルドーザーの整備時間を倍にしていた。いつ動かしても、すぐに使えるように。沢渡は、そのことを知っていた。


「重機は、何が使える」


「ブルドーザー二台、グレーダー一台、まだ動きます。燃料も持ちます」


「人員は」


「私と、施設班の二人で行きます。三人で、四十分以内に、千八百メートル分だけ整地します」


「千八百で足りるのか」


「C-130のSTOL性能なら、千五百あれば下りられます。三百は安全マージンです」


沢渡は、無線を取った。


「厚木、こちら硫黄島。滑走路復旧作業、開始する。一時間以内に、千八百メートルの使用区間を確保する。C-130、予定通り、進入準備を継続されたい」


回線の向こうで、しばらく沈黙があった。やがて、別の声が割り込んだ。C-130機長、黒木二等空佐の声だった。


「硫黄島、こちらラッキー〇一。了解。進入を継続する。着陸時刻、一二一五を予定」


ブルドーザーは、降り注ぐ灰のなかを走った。


視程、五十メートル。火山灰の混じった泥が、滑走路の表面を覆っている。三宅は、運転席で、無線の声を聞いていた。


「班長、北側のひび割れ、まだ広がっています」


「補修材、どれだけ持ち出した」


「速乾性のものが二袋、樹脂注入剤が三本」


「灰泥を剥がせ。亀裂は最小限の補修でいい。タイヤが滑らなければ、降りられる」


ブルドーザーのワイパーが、灰を擦り取っていく。視界は、それでも晴れない。三宅は、自分の手で滑走路の縦線を覚えていた。基地に着任して五年、毎週この滑走路を歩いた。目を閉じても、どこに排水溝があり、どこに継ぎ目があるか、わかる。


灰のなかで、彼の手はブルドーザーの操作レバーを、迷いなく動かしていた。


一二〇四分、C-130は硫黄島の北十海里に達した。


黒木は、操縦席の風防越しに、前方を見ていた。


風は、北から南へ吹いている。擂鉢山から噴き上がる噴煙の柱は、機体から見て右前方、南南西の方角に、巨大な傾いた塔のように立っていた。塔の頂は、すでに高度一万二千メートルを越え、風下に流された灰が、長い灰色の帯となって、太平洋の南へ伸びていた。


あの中に入れば、終わる。


黒木は、噴煙の風上側にぎりぎりまで進入経路を取った。塔の縁から、四海里。これ以上は近づけない。降下しながら、機体は徐々に右へ旋回し、滑走路の北端に正対する。


「フラップ、五十パーセント。降下率、毎分千フィート」


「五十パーセント、千フィート」


無線から、硫黄島の管制官の声が入った。若い声、しかし、揺れがない。


「ラッキー〇一、こちら硫黄島タワー。地上視程、滑走路東端で八十メートル、西端で六十メートル。地表付近、降灰の舞い上がり激しく、上空は澄んでいます。風向、不安定。地表で東風十五ノット、上空二百フィートで南風八ノット」


「ラッキー〇一、了解」


悪視程は、噴煙そのものではなかった。水蒸気爆発で吹き飛ばされた灰と泥が、地表近くを漂い、東風で攪拌されている。空気の柱としては、上は澄んでいる。ただ、地面に近づくほど、見えなくなる。


「計器進入で行く。目視は、最後の二百フィートだけだ」


機体は、降下を続けた。風防の向こうに、黒い島影が、灰色の薄霧のなかから、徐々に姿を現してきた。


ブルドーザーの音が、滑走路の上を行き来していた。


三宅は、最後の確認を、自分の足で行った。


千八百メートルの区間を、端から端まで歩いた。歩きながら、滑走路の表面を見た。完全ではない。ひび割れの何本かは、まだ口を開けている。しかしタイヤは沈まない。これで、機体は着地できる。


無線で、沢渡に報告した。


「司令、千八百メートル、確保完了」


「ご苦労」


「もう一つ、報告です」


「なんだ」


「あと、二十分が、限界です」三宅は静かに言った。「擂鉢山の南面、本格的に崩れ始めています。二十分後には、滑走路の南半分が、たぶん、なくなります」


沢渡は、一瞬、答えなかった。


「了解。三宅、お前はもう戻れ。司令室の前に集合」


「了解」


三宅は、ブルドーザーから降り、走って司令室に向かった。


その背後で、滑走路の遠い南端から、低い、地鳴りに似た音が、上がり始めていた。


十一

C-130は、最後の二百フィートで、地表の灰霧を抜けた。


黒木の視界に、灰色の滑走路が現れた。


灰色のなかに、無数の亀裂が黒い線を描いていた。完全な滑走路ではない。それでも、降りられる。彼の長い経験のなかで、これほど醜い滑走路を見たのは初めてだった。同時に、これほど美しい滑走路も初めてだった。


「ラッキー〇一、着陸する」


機体が、滑走路に接地した。タイヤが灰泥を噛み、機体が一瞬、横に流れた。黒木は、ラダーで姿勢を立て直した。


逆推進は使わない。ブレーキだけで止める。


機体は、千六百五十メートルで停止した。残り、百五十メートル。


滑走路の前方では、地面が、ゆっくりと波打っていた。


十二

ハッチが開いた瞬間、十一名は機内に駆け込んだ。


最後に乗り込んだのは、沢渡だった。彼は、機体の昇降扉の前で、一度だけ後ろを振り返った。


司令塔、観測施設、宿舎、整備格納庫。すべてが、灰の幕の向こうで、もはや形をなくしかけていた。


二十年、この島の上で人が暮らしてきた。これから、もう人は暮らせない。


沢渡は、敬礼をした。基地に対する敬礼ではなく、おそらく、ここで死ななかった隊員たちと、ここで死ぬはずだった自分自身に対する、敬礼だった。


「全員、搭乗完了」


機内で、副司令が答えた。


「総員、十一名、異常なし」


「離陸」


C-130は、灰を蹴り上げながら、波打ち始めた滑走路の上を、加速していった。


機体が宙に浮いた瞬間、後方で、巨大な閃光が上がった。


十三

機内の小窓から、隊員たちは、それを見た。


擂鉢山が、内側から崩れていた。


海面が、円形に陥没していた。


直径二キロ、深さは見当もつかない。海水が、その穴に向かって滝のように落ちていく。落ちた水は、瞬時に水蒸気となり、白い柱になって、垂直に立ち上った。


その柱は、機体の高度をたちまち追い越し、成層圏まで届いた。


機内では、誰も、声を上げなかった。


ある若い隊員が、小さく頷いた。それだけだった。


沢渡は、自分の腕時計を見た。一三時二十二分。日の出から、九時間二十分。


十四

厚木基地、一六時四十七分。


C-130は、第四滑走路に着陸した。


ハッチが開き、隊員たちが、一人ずつタラップを降りた。全員、作業服が灰で灰色になっていた。


タラップの下では、統合幕僚長が、自ら出迎えていた。


沢渡は、最後に降りた。彼は、タラップの最後の一段で、立ち止まり、機体を振り返って敬礼した。それから、地面に降りた。


統合幕僚長の前で、彼は姿勢を正した。


「報告いたします」


統合幕僚長は、軽く頷いた。


「硫黄島基地より、全人員、無事撤退完了しました」


沢渡の声は、震えていなかった。


統合幕僚長は、答礼の手を、しばらく下ろさなかった。


機体の脇では、整備員が燃料計を覗き込んでいた。一人が、もう一人に、低い声で言った。


「あと、三十分だ」


その後ろで、地上勤務員たちが、整列していた。三宅の班員、第一陣で離脱した若い隊員、第二陣の管制官たち。彼らの目は、タラップを降りてくる仲間たちを、ひとりずつ、数えていた。


数える必要はなかった。


十一人。


数は、合っていた。


(了)

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