三日後の自分から着信する非常階段
放課後の学校の非常階段で、葵は補習を抜け出し、誰もいない踊り場にしゃがみ込んで母親からの着信に出ようとしていた。雨で濡れた鉄階段は制服越しにも冷たく、手すりの錆びた匂いに、消毒液に似た湿った匂いが混じっている。ひび割れたスマートフォンの画面を親指でなぞった瞬間、発信者名が変わった。
『三日後の自分』
着信音は鳴らなかった。代わりに、閉め切られた校舎の奥から、教室中の机が一斉に引きずられる音が聞こえた。
葵は息を止めた。金属の足が床を削る、長く、重く、耳の奥を掻くような音。補習をしている教室は二階の端にある。非常階段はその反対側で、間に廊下が一本あるだけだ。誰かの悪ふざけなら、あまりにも大がかりだった。
画面はまだ震えている。割れたガラスのひびが、発信者名の上を蜘蛛の巣みたいに走っていた。
出るべきではない、と葵は思った。
出なければならない、と同時に思った。
親指が通話ボタンに触れる寸前、背後の扉が開いた。
「葵」
伊織だった。補習を抜け出した葵を追ってきたのか、片手にプリントを持ったまま、眉をひそめている。
「何してるの。先生、気づいてる」
葵はスマートフォンを胸に押し当てた。震動は止まらない。
「今、聞こえた?」
「何が」
「机を引きずる音」
伊織は校舎の奥へ視線を向けた。雨音だけがあった。屋根を叩く水音。排水管を流れる音。靴底の下で水が潰れる音。
「聞こえない」
葵は画面を見せた。伊織の表情が固まる。
「これ、誰の番号?」
「母のはずだった」
発信者名はまだ『三日後の自分』のままだった。伊織が顔を近づけた瞬間、画面に細い線が走り、通話が勝手につながった。
聞こえたのは、葵自身の声だった。
『非常階段から戻らないで』
それだけ言って、通話は切れた。
次の瞬間、校舎のどこかで机が倒れる音がした。今度は伊織にも聞こえたらしく、肩が小さく跳ねた。
「今の、誰」
「私の声だった」
葵がそう言うと、伊織はすぐに否定しなかった。その沈黙が、雨より冷たかった。
二人は非常階段の扉を開け、廊下を覗いた。蛍光灯が点いている。放課後の廊下はいつも通り、少し暗く、少し埃っぽく、掲示物の端が湿気で丸まっていた。けれど、床には机を引きずったような黒い跡が何本も残っていた。跡は補習の教室から伸び、廊下を横切り、階段の方へ向かっている。
「戻らないでって言われた」葵は言った。
「でも戻らないと、何が起きてるかわからない」伊織は声を落とした。「それに、補習にいた人たちがいる」
葵はうなずいた。怖いのは、非常階段に留まることではなかった。いつもの場所が、いつもの顔をしたまま別のものに変わっていくことだった。
補習の教室に戻ると、机はすべて黒板側を向いていた。ただし、椅子がなかった。床に散らばっているはずの鞄も、ノートも、誰かが飲みかけにしていた紙パックもない。黒板には白いチョークで一行だけ書かれていた。
三日後までに、空席を埋めること。
葵は自分の席を見た。そこだけ机の上に水たまりができている。天井から雨漏りしている様子はない。水たまりの中心に、濡れたプリントが一枚浮いていた。
伊織が拾い上げる。補習の出席表だった。
名前の欄はほとんど滲んで読めない。だが、葵の名前だけは濃く残っていた。その横に、赤い文字で『欠席予定』と書かれている。
「予定って何」伊織が言った。
答える前に、廊下から足音が聞こえた。
黒崎怜司が教室の入口に立っていた。制服の上に濡れていない黒いコートを羽織り、手には古い出席簿のようなものを持っている。葵は彼が同じ学校にいることは知っていたが、ほとんど話したことがない。成績がよく、教師からも妙に丁重に扱われる生徒。そんな印象しかなかった。
黒崎怜司は教室の中を見回し、葵の机の水たまりに目を止めた。
「出たんだ」
「何が」葵は聞いた。
「三日後からの確認だよ」
その言い方は、天気予報の話でもするみたいに平坦だった。
伊織が一歩前に出る。「何を知ってるの」
黒崎怜司は答えず、出席簿を開いた。紙は古びているのに、そこに書かれた文字だけが湿ったように光っていた。
「日常って、人数で保たれてるんだ。教室に何人いるか。廊下を何人が歩くか。放課後に誰が残るか。そういう数が毎日そろっているから、学校は学校でいられる」
「意味がわからない」
「一人分ずれると、別の何かが入り込む」
黒崎怜司が指で出席簿をなぞる。蛍光灯が一度だけ瞬いた。
「葵、君は三日後にいなくなる予定になっている。だから今、空席が先に発生している」
葵は喉が乾いた。母からの着信。三日後の自分。欠席予定。
「誰がそんな予定を決めたの」
黒崎怜司は薄く笑った。
「空席のほうだよ」
その瞬間、机が動いた。
誰も触れていないのに、葵の机だけがぎしぎしと後ろへ下がる。床に黒い線を増やしながら、教室の最後列へ移動していく。伊織が机を押さえようとしたが、すぐに手を離した。
「冷たい」
机の天板に霜のような白い膜が張っていた。消毒液に似た湿った匂いが強くなる。葵の鼻の奥が痛んだ。
黒崎怜司は教室の入口から動かない。
「三日後までに、自分の席に戻れなければ、君の場所は空席になる。空席は残らない。別のものが座る」
「何のためにそんなことをしてるの」伊織が鋭く言った。
「僕は観測しているだけだ。崩れる日常の境目を」
「ふざけないで」
伊織が近づくと、黒崎怜司は出席簿を閉じた。それだけで廊下の蛍光灯が一斉に消えた。非常灯の緑だけが薄く光る。
「非常階段に戻るなら今だよ。最初の着信場所は、まだ君を覚えている」
黒崎怜司はそう言って廊下の闇に消えた。
葵は追いかけようとしたが、伊織に腕を掴まれた。
「先に、あの電話」
ひび割れたスマートフォンは、葵の手の中で濡れていた。雨に当てていないはずなのに、画面の内側から水滴が浮いている。通話履歴には、母の名前はなかった。代わりに『三日後の自分』からの着信が三件。すべて同じ時刻。すべて現在時刻より三日後。
その下に、未送信の音声データがあった。
葵は再生ボタンを押した。
『机の跡を逆に辿って。出席簿を開かせないで。黒崎怜司は、空席が誰に似ているか確かめてる』
そこで音声は途切れた。最後に、葵ではない呼吸音が混じっていた。ひどく浅く、冷たい場所で震えているような音だった。
伊織は廊下の黒い跡を見た。
「逆に辿るなら、非常階段じゃなくて上だ」
黒い跡は教室から階段へ向かっている。だがよく見ると、机を引きずった跡の端には水滴が落ちていて、それが上の階から続いているようだった。
二人は階段を上がった。三階、四階。普段は使われない屋上前の踊り場まで来ると、空気が変わった。消毒液に似た匂いが濃く、雨の湿り気の奥に、白い布を長く水に浸したような匂いがある。
屋上へ出る扉は開いていた。
外は雨だった。夕方のはずなのに、空は夜のように暗い。屋上の中央に、教室の机が一つ置かれている。葵の机だった。天板の上には出席簿が開かれていた。
黒崎怜司がその前に立っている。
「来たね」
「観測してるだけじゃなかったの」葵は言った。
「観測するには、条件をそろえる必要がある」
出席簿のページには、葵の名前が何度も書かれていた。今日の葵。明日の葵。三日後の葵。線でつながれた文字の端に、小さく『空席候補』と記されている。
伊織が低く言った。「閉じて」
「もう遅い」黒崎怜司はページに指を置いた。「本人がここまで来た。空席は形を得る」
屋上の床に雨が跳ねた。その水面の中に、葵の姿が映る。けれど、映った葵は笑っていた。濡れた髪を顔に貼りつけ、口角だけを持ち上げている。
葵は後ずさった。水たまりの中の葵も同じように下がるはずだった。だが、そいつは動かなかった。
スマートフォンが震える。
『三日後の自分』
葵は今度こそ通話に出た。
耳に当てる前に、自分の声がスピーカーから漏れた。
『席に座らないで。名前を呼ばれても返事をしないで。伊織を離さないで』
雨音の中で、伊織が葵の手を掴んだ。
「聞こえた」
「うん」
黒崎怜司は出席簿を持ち上げた。「名前を呼ばれることは、存在の確認だ。返事をすれば、席は確定する」
その声に重なるように、どこからかチャイムが鳴った。放課後ではなく、朝のホームルームの始まりを告げる音。屋上の中央にある机の前に、ないはずの椅子が現れた。
黒崎怜司が出席簿を読み上げる。
「葵」
返事をしそうになった。学校で何年も繰り返してきた反射だった。名前を呼ばれたら返事をする。席に座る。授業を受ける。出席する。それが日常だった。
だが、今その日常は、葵を空席にするための形をしていた。
伊織の手に力がこもる。
葵は唇を噛んだ。返事の代わりに、ひび割れたスマートフォンを机の上に投げた。
画面が天板にぶつかり、割れ目がさらに広がる。着信画面が滲み、スピーカーから机を引きずる音が溢れた。屋上ではなく、校舎全体から聞こえる。何十、何百という机が、同時に動く音。
黒崎怜司の表情が初めて崩れた。
「やめろ。境目が乱れる」
葵は机に近づき、開かれた出席簿を掴んだ。紙は氷のように冷たい。指先の感覚が消えていく。それでも葵はページを破ろうとした。
破れない。
紙なのに、濡れた皮膚みたいに伸びるだけだった。
伊織が横からスマートフォンを拾い、画面を出席簿に押し当てた。ひびの中に溜まっていた水が、出席簿へ染み込んでいく。
「葵、もう一回電話して」
「誰に」
「三日後の自分に」
葵は一瞬だけ迷った。未来の自分が本当にいるのか、それとも空席が葵の声を真似ているだけなのか、わからない。けれど、最初の声は非常階段から戻るなと言った。今の声は伊織を離すなと言った。
少なくとも、葵を一人にしない声だった。
葵は通話履歴を開き、『三日後の自分』へ発信した。
雨音が消えた。
世界が息を止めたみたいに静かになった。
数秒後、通話がつながる。
向こう側で、葵の声が言った。
『返事をしなかったんだね』
「私は消えるの」
『まだ消えてない』
「三日後、何があるの」
長い沈黙。そこに、教室の椅子を引く小さな音が混じった。
『私は返事をした。だから、席に座った。座ったら、みんな私を見なくなった。母の電話にも出られなかった。伊織の声も、途中から聞こえなくなった』
葵は息を詰めた。
『黒崎怜司は、空席が人に成り代わるところを見たがっている。でも、空席は誰かに似るんじゃない。返事をした人の、返事だけを残す』
黒崎怜司が出席簿を奪おうと手を伸ばした。伊織がその腕を押さえる。雨に濡れた床で二人の足が滑る。
スマートフォンの向こうで、三日後の葵が言った。
『名前を返して』
葵は出席簿を見た。何度も書かれた自分の名前。その一つ一つが、黒い水のように滲み始めている。
「どうやって」
『自分で呼ぶの』
黒崎怜司が叫んだ。「やめろ。それは出席じゃない。そんな確認は成立しない」
葵は彼を見た。雨に濡れないはずのコートが、いつの間にか重く水を吸っている。観測者の顔は消え、ただ何かを失うことに怯える顔になっていた。
葵は出席簿に向かって言った。
「葵は、ここにいる」
声は小さかった。雨に消えそうだった。けれど、伊織が続けた。
「葵は、ここにいる」
その瞬間、出席簿の文字がほどけた。紙面から黒い糸のようなものが立ち上がり、屋上の水たまりへ落ちていく。水たまりに映っていた笑う葵の顔が歪み、口だけが残り、やがて雨に叩かれて消えた。
机が大きく震えた。天板の上のスマートフォンから、最後の声が聞こえる。
『明日、補習を抜け出さないで』
通話は切れた。
屋上の扉が風で閉まった。チャイムも、机を引きずる音も消えた。残ったのは雨音と、濡れた制服の重さと、伊織の手の温度だけだった。
黒崎怜司は膝をついて、空になった出席簿を見ていた。ページにはもう何も書かれていない。
「境目が……閉じた」
「もう終わり?」伊織が尋ねた。
黒崎怜司は答えなかった。ただ、濡れた紙を抱えるようにして笑った。悔しさではなく、別の何かを見つけたような笑いだった。
葵はその笑いが嫌だった。終わっていない、と直感した。けれど、少なくとも今、葵の机は屋上から消え、スマートフォンの画面には母からの不在着信が一件だけ残っていた。
非常階段へ戻ると、鉄階段はまだ雨で冷たかった。消毒液に似た匂いは薄れ、代わりに濡れた土の匂いがした。葵は母へ折り返そうとして、手を止めた。
画面のひびの奥に、一瞬だけ別の通知が浮かんだ気がした。
『明日の自分』
葵が瞬きすると、それは消えていた。
伊織が横から覗き込む。「どうしたの」
「何でもない」
葵はそう答えた。嘘ではなかった。まだ何も起きていない。まだ、日常は壊れきっていない。
ただ、非常階段の下の暗がりで、どこかの机が一つだけ、ほんの少し動く音がした。




