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トゥパクのチャスカ

作者: Ono
掲載日:2026/03/30

 ――夜明けと霜と、アルパカたちの息。


 トゥパク・コンドリは夜が明ける前に目を覚ます。空気があまりにも澄んでいるから、茅葺き屋根の向こうに星が滲むのが見える気がした。

 体を起こすと吐く息が白い煙になった。標高四千二百メートル、アルティプラーノの朝は夏でも冬のように冷たい。毛布を三枚重ねてもまだ寒さが足の指から這い上がってきた。

 彼はゆっくりと立ち上がり、ウールのポンチョを羽織る。祖母が染めた深い赤と茶のポンチョだ。その重さが肩に乗ると、ようやく体が自分のものになる気がした。


 外に出ると草原は霜で白く光っていた。東の稜線がオレンジに染まり始めている。トゥパクは小屋の裏手に回り、四十二頭のアルパカたちの様子を見る。一頭ずつ、心の中で名を呼びながら数える。それは毎朝の祈りのようなものだった。

 鼻先をくっつけてきた一頭を手のひらでそっと押し返す。

「ワイラ、まだ早い」

 ワイラとはケチュア語で《風》という意味だ。その名の通り、この雌のアルパカは群れの中でいつも落ち着きがなく、風が変わるたびに耳をそばだてた。

 大地はいつでもそこにある。人間だけが毎朝それを発見し直す。


 火を起こすのに少し手間取った。牛糞の燃料がうまく乾いていなかった。母親から教わった通りに息を短く吹き込む。やがて炎が生まれると、そこに小さな鍋を乗せた。

 コリの実をマルメロとパイナップルの皮と一緒に煮込み、クローブを加えて朝のチチャ・モラーダを作る。湯の中で紫色が広がるのを見ながら、彼は今日の行程を考えた。

 北の牧草地は使い切った。今日は少し東へ移動する必要があるだろう。岩の多い斜面を越えれば、この季節に水が湧いている場所がある。父が生きていた頃、よく連れて行ってもらった場所だ。


 ✦ ✦ ✦


 ――市場の日、チョコラトルの香り。


 月に一度、近くにあるピサックの村で市場が立つ。トゥパクはその日だけ群れを叔父に預けて山を降りた。背負い籠にアルパカの毛糸と乾燥ジャガイモを詰め、三時間かけて歩く。標高が下がるにつれて空気が柔らかくなり、肺が少しずつ楽になる。

 村の広場は色で溢れていた。赤、黄、緑、紫。女たちのスカートがひらひらと翻り、積み上げられた野菜と毛織物の絨毯が混ざり合って目も眩むほどだ。

 トゥパクは隅の方に場所を取って毛糸を広げた。


 彼女に気づいたのは、午後も遅い時間のことだった。

 向かいの列で一人の女が織物を売っている。年はトゥパクと同じくらい、二十歳前後だろうと思われる。額に細い汗が光り、一心不乱に客と値段の交渉をしていた。

 彼女の織物は他とは違って見えた。細かい幾何学模様の中に山の稜線を思わせる線が何本も走っている。

 トゥパクは自分でも気づかないうちに立ち上がり彼女のもとへ近づいていた。


「その模様、タキルカイからきたのか」

 タキルカイは南のほうの村で、トゥパクは行ったことがなかったが、山の形をモチーフにした織り方が伝わっていると聞いたことがあった。

 女は顔を上げ、少し驚いたように彼を見た。それからゆっくりと首を振る。

「違う。これは私が作った模様だ」

 彼女の名前はキジャ・ママニと言った。父と二人で南の放牧地から近くに移ってきたのだそうだ。親子の暮らしはトゥパクのそれと似ていた。

 山を同じように見てきた人間が同じ模様を布に織るとしたら、それは偶然ではないかもしれない。


 帰り道、背負い籠は空になっていたが、トゥパクの頭の中はいつになく賑やかだった。

 星が出始めた空の下を歩きながらあの雄大な稜線の模様を思い出す。キジャの手が何百回も同じ動きを繰り返してあれを作ったのだと思うと、トゥパクの指先はなにやらむず痒くなった。


 ✦ ✦ ✦


 ――雨季の始まり、ぬかるむ大地。


 雲が西から押し寄せてくる。最初は白く、いつしか灰色になり、やがて空全体が鉛色の分厚い布で覆われる。アルパカたちは水の気配を感じて落ち着きをなくし、ワイラが先頭で不安そうに鳴いた。

 雨は突然始まった。最初の一滴が顔に当たった瞬間からトゥパクは走り出す。茅葺き屋根と干し煉瓦の隙間を確認し、荷物に防水の布をかけ、火を守る石囲いを補強する。

 動き続けることが、アルティプラーノの嵐の中で心を落ち着かせる唯一の方法だった。

 夜、雨の音を聞きながら横になっていると自然とキジャのことばかり考えた。彼女もどこかで同じ雨に打たれているのだろうか。彼女の父親は体が弱いと言っていたから、雨の日には薬草を煎じて飲ませてやらなければならない。そういう細かいことを、なぜか心配していた。


 翌月のピサックの市場にキジャはこなかった。トゥパクは気づかないふりをしながら、それでも三度ほど彼女がいた場所に目をやった。知らない男が薬草を並べていた。関係ない、と胸の中で呟く。

 帰り際、村の外れで彼女に似た老人を見かけた。思い切って声をかけると、それはキジャの父のアマールだった。

「トゥパクか。娘がお前さんのことを俺に訊いていた。北の放牧地の若者だな」

 キジャはきていないのかとは聞かずに、トゥパクは黙って南の山の線を見た。アマールが笑った。歯が何本か欠けて、そこから温かさが覗いていた。

「来月、チチカカの祭りにくるか。娘も連れて行く」


 ✦ ✦ ✦


 ――湖畔の祭り、葦舟の明かり。


 チチカカ湖が空を映していた。水面は鏡のようで、どこまでが湖でどこからが空なのか曖昧な境界の上に、トトラの舟の明かりが並んでいる。祭りの夜に人々は湖の畔に集まって、ケーナの笛の音と太鼓の響きの中で踊るのだ。

 キジャは花冠をつけていた。赤と黄色の野花で編んだそれが黒い髪に映えて美しかった。彼女のポンチョの柄は市場で見た織物と同じ稜線の模様だ。キジャは着るものを自分で作る。


「寒くないか」

 会話の入口としては最悪だったと後で思ったが、その時は他に言葉が出なかった。

「あなたのほうが薄着だ」

 キジャはそう言って少し笑った。

 それから二人は舟の進む先を見ながら話をした。放牧地のこと、アルパカの病気、乾季がどれだけ続いたかという話。特別なことは何も話さず、時折沈黙が降りたけれど、その静けさも心地よかった。

 同じ大地を歩いてきた人間の言葉は少なくても足りる。足の裏がすでにすべてを知っているから。


 深夜近く、湖の向こう岸に光の束が上がった。人々が一斉に歓声をあげる。トゥパクは気づくとキジャの肩に手を置いていた。置いたことに気づいてすぐに引こうとしたが、彼女が動かなかったのでそのままにしていた。空の光が湖に落ちて、二人の足元まで波紋が届く。


 翌朝、互いの放牧地の方向が違うと分かっていても、二人はなかなか別れられなかった。アマールが焚き火のそばで居眠りしているのをいいことに湖畔を少し歩いた。

 キジャがトゥパクのポンチョの端を引っ張って、「この赤はどこで染めた」と聞いた。

「祖母が」

「上手い人だ」

 キジャはそれ以上何も付け加えはせず、熱心にトゥパクを見ていた。


 ✦ ✦ ✦


 ――雨季の終わり、光の角度。


 祭りが終わり、また季節が変わると空の光の角度も変わってゆく。

 夕方、西の空が燃えるように赤くなる時間が長くなっていた。アルパカの毛が逆光で金色に輝く。ワイラがいつになく静かに草を食んでいる。世界の色がどこかに向かって傾いているような感じがした。

 トゥパクはその月、放牧地を南に移した。特に理由はないと自分では思っていた。草の状態を確認するためだと叔父には説明した。南に行けばアマールとキジャの放牧地に近くなることは、意識の外に置いておいた。


 昼過ぎ、丘の向こうから人の声がして、アルパカの群れが一斉に耳を立てる。トゥパクがそちらに視線を向けると斜面の上にキジャが顔を出した。彼女もトゥパクを見て驚いた顔をしていた。

「こっちまできたのか」

「草が良かったから」

「嘘をつくのが下手だ」

 二人の笑い声が風に乗って山のほうへ消えていった。


 その日から、昼になると二人は丘の頂上で弁当を食べるようになった。キジャはいつも芋の煮たものを持ってくる。トゥパクは乾燥肉と岩塩を持っていった。二つを分け合うとちょうど一食分になった。

「父がお前の叔父は誰かと訊いてきた」

「なぜ?」

「お前の家族のことを調べているんだろう」

 刷毛で引いたような雲がゆっくりと東へ流れていた。トゥパクは空を見ながら「俺は一人だ」と答えた。

「叔父はいるが、別の放牧地で暮らしている。両親はもういない」

 キジャはしばらく黙ってから、「それを聞いても父は問題にしないと思う」と言った。


 問題にしない、その慎重な言葉の意味をトゥパクは山の稜線を見ながら考える。それはつまり、彼女の父がトゥパクのことを、娘の隣にいても構わない人間として見ているということだろうか。

「俺も、父に聞けたらよかった。お前の親父さんのことを、どう思うかと」

 キジャが彼の横に、今までよりも少しだけ近くに座り直した。それが彼女の答えだった。


 ✦ ✦ ✦


 ――風が子を産んだ夜。


 ワイラが子を産んだのは風の強い夜だった。

 夕方から様子がおかしかった。他のアルパカから離れて忙しなく地面の匂いを嗅ぎ回っていた。トゥパクは焚き火を小さくし、横に座って見守った。

 出産は三時間かかった。夜中の二時過ぎに新しい命が地面に生まれ落ちた。真っ白な毛に覆われた子で、すぐに立ち上がろうとして何度もよろけた。ワイラが振り返って匂いを嗅ぎ、静かに子の体を舐め始める。

 トゥパクは泣くつもりはなかったが、目頭が熱くなって拳で頬を拭った。生き物が生まれる瞬間を見るたびにいつもこうなる。言葉にならない何かが喉の奥に詰まる。


 翌朝、早くキジャに報せたくて丘の上まで走った。

「うちにこい、子供が生まれた」

 キジャは何も聞かずについてきた。乾いてますます白くなった子のアルパカのそばにしゃがみ込んで、キジャは「チャスカという名前がいい」と言った。ケチュア語で《星》という意味だ。

「白いから」

「そうだ。チャスカにしよう」

 名前を与えることでそこが彼らを育む家になる。


 夕食を共にすることになり、アマールが二人の様子を見ながら何も言わずに焚き火を大きくした。鍋にスープを足して三人で食べた。アマールは昔の話をしてくれた。四十年前に渡った山、その頃は今よりも雪が多かったこと、コンドルが低いところを飛んでいたこと。それに、若かった頃のトゥパクの祖母のこと。

 トゥパクは彼の話を聞きながら、火の向こうにキジャの顔を見た。炎が揺れるたびに彼女の表情が変わった。彼女の横顔は山の稜線に似ていると思った。


 ✦ ✦ ✦


 ――移ろう空に同じ星が輝く。


 一年が経ち、トゥパクとキジャは互いの放牧地を半分ずつ共にするようになっていた。正式な約束は何もしていなかったが、アマールがいつの頃からかトゥパクの家の隣に自分の荷物を置いておくようになった。老人はそういう形で了解を示した。

 春のはじめに二人でチャスカの毛を刈った。生まれて一年の毛は特別に柔らかく、商品としての価値も高い。キジャは素手で毛を梳きながら「これは何にしよう」と言った。

「お前が決めるといい」

「じゃあ、あなたのポンチョの修繕に使う」

 トゥパクのポンチョは肘の辺りがほつれ始めていた。祖母が染めた赤と茶の毛糸とチャスカの白い毛糸が混ざれば、新しい模様になる。それは祖母の仕事とキジャの仕事が重なる布になってゆくだろう。


 アンデスの夜空は澄みきっていた。標高が高いと星もまた近い。手を伸ばせば触れられそうなほど、大粒の星が低いところまで降りてくる。ミルキーウェイが帯になって、南から北へ流れている。キジャはトゥパクの隣で空を見上げていた。

「去年の今日、何をしていたか覚えているか」

「市場の日だった。お前が稜線の模様を売っていた」

「あなたが変なことを言いにきた」

「変なことなんか言ってない」

「タキルカイからきたのか、は変なことだ」


 二人して笑う。ワイラが近くで寝息を立て、チャスカがその隣で丸くなっていた。アマールの鼾が遠くから聞こえた。大地は濡れた草の匂いがして、風が北から吹いていた。

「来年も、再来年も、こういう夜があると思うか?」

 トゥパクは空を見たまま、少し考える。

「分からない。もっと雨がくるかもしれないし、草が枯れるかもしれない。アルパカが病気になるかもしれない」

「そうだな。同じ夜はこない」

「でも、同じ星は出るだろう」

 キジャが彼の腕に寄りかかった。その指先の温度がポンチョを通して伝わった。遠い山の稜線を染める雪が、月明かりに白く光っていた。


 アンデスの人々は、大地を《パチャママ》と呼んだ。すべてを産み、すべてを受け取る偉大なる母。

 コカの葉を少し土に返しながら、彼らは一日の始まりに大地に感謝を捧げる。そして一日の終わりに、同じ星を見上げて眠った。

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