case.006「絶体絶命バッティング」
子どもの姿をした怪異。
僕にはあいにくそれが何という名称の怪異なのか。あるいは名称のない怪異もどきなのか分からないけれど、この状況がまずいことだけはわかった。
とっさに胸元のホイッスルを吹こうとして、伸ばした手が空振る。
「えっ?」
ない。
思わず思考が止まる。
「な、なんで…」
さっきまで握りこんでいたはず。首からかけて、なのに、どうして。
キラリと沈む前の赤い光がその銀色を弾いて目を焼く。
子ども怪異の手に握られていたのは、僕が探していたホイッスルだった。
「うそ、やば、」
見るとストラップが途中から何かに溶かされたように切れていた。駆け寄った時にでも触られたのだろうか。
「…逃げる、しかない!」
じりじりと後ずさり、悪あがき程度の距離を離したあと一目散に走り出す。
正直、体力なんてほとんど限界を迎えていたし足もガクガクだ。けれど、捕まるわけにはいかない。
家屋があってよかった。これがさっきまで走っていた何もない田舎道だったら死んでいたかもしれない。上手く遮蔽物を利用し、直線ではなくジグザグと走って確実に距離を稼ぐ。
「やばいやばいやばい…っ!」
もつれそうになる足をなんとか持ち上げ、ぐるぐると周囲を回る。
走るせいで上手く周囲の状況を読み取れない。ミチカケ先輩はどっちだ!?
「っは、も、無理…!!」
あっ。
ついに限界を突破した足がもつれて、地面と熱い抱擁をかわす。擦れた手がじくじく熱を持って痛む。
「あ、靴、溶けて…」
バッと何とか起こした体を引いてみれば、足元に形容しがたい色の水たまり。酸のようなものなのだろうか。久々に履いた運動靴の先が溶け、靴下が見える。
酸。
そういえば、ホイッスルのストラップも、溶けたように切れていた。
「気づけよ、僕…っ!」
ぐらぐらと揺れながら子ども怪異が近づいてくる。
ぐっと力を入れてもまだ立てない。それに、ぐるぐる回ったせいでまるで円を描くように点々と酸のサークルが出来ている。これじゃあ這いずって逃げるのも難しそうだ。手が溶けてしまう。
終わった。
絶望に目を閉じた時だった。
「よーいしょっと」
軽い声。
ぱかんっと小気味いい音を立てて子ども怪異が吹っ飛ばされる。
「み、ミチカケ、先輩…」
「ごめん、さすがに油断しすぎた。こんな初歩的な失敗をするなんて、一生の不覚かもー」
「あ…」
「だから、こっから先は先輩におまかせ、でーす」
ぐるぐると肩を回して、手に持った棒切れを握りしめる。
いや、頼もしーい!
「っしょ!てーい!」
「おあ~…」
怪異とはいえ子どもの姿。本能的に、というか道徳的に手が弱まりそうなところ、ミチカケ先輩は流石だった。
流れるように振りかぶった棒が子ども怪異を打ち付ける。薄汚れ、ボロボロだった子ども怪異はさらにボコボコにされていく。
しまいには立ち上がれなくなり地面でうごめくだけのぼろきれとなった子ども怪異。それでも攻撃の手を緩めないミチカケ先輩がその右手にバシンと強く叩きつければ、それが決定打になったのかじわじわと溶けるように薄れていき、最後には跡形もなく消えてしまった。
溶けかけて汚れたホイッスルの残骸だけを残して。
「た、助かった…?」
「いやー、それがまだだったりして」
「え?でも」
「あっち、放って来ちゃったんでー」
その言葉の通り、一段とひんやりとした空気が流れ込んでくる。ゾクゾクと寒気で鳥肌が立つ。
本来の目的。くねくねだ。
「あんまり見ないよーに。身を低くして、何か違うこと考えててー」
「…はい」
とっさに地面に視線を向けて、必死に思考を回す。
ああ、そうだ。靴、ダメになっちゃったから買い換えないと。
これって経費で落ちるのかな。
どうせ新品でもなかったし買い換えるタイミングだったのかも。
でも、これが続くようだったら痛い出費かもなあ。
そういえばホイッスルも。
流石に僕の過失じゃないと思いたいけど、油断っちゃ油断だし。
というか、あのホイッスルってなにか特別なアイテムだったのかな。
いやでもそんなこと言ってなかったし。
イヤーカフ、は着いてるな。よし。
そんな風にぐるぐる考え続けていると打撲音が止み、静寂が戻る。
「よし、おーわり。もう顔上げて大丈夫ー」
その声に恐る恐る顔をあげると、白い何かが地に伏している。その体?には金属製のなにかが突き刺さっている。
…もしかしなくとも、あの棒ってもともと農具だったのかな。
「えい」
ぺたり。
鞄から取り出したステッカーのような何かをくねくねに貼ると、くねくねは痙攣したようにびくびく震えて、そうして見るからに小さく丸くなっていく。
ころんと丸い球状になったくねくね…、元くねくねを拾い上げると無造作にチャック付きの袋に入れてカバンにしまう。
…僕は何も見てない。先輩が袋越しに球体をねじるように圧をかけていたところなんて、見てない。
「…お疲れ様です、ミチカケ先輩。助かりました、本当にありがとうございます」
「…」
「…先輩?」
じいっと見つめられている。どうしたんだろうか。
「あの、」
「ごめんね」
「あ」
さらり。頭をやわい温度が通り過ぎる。
「立てる?」
「ぐ、はい…」
「肩、貸して」
何とか立ち上がるも、ふらついてしまう。とっさに先輩が肩を持って支えてくれる。
「すみません、ありがとうございます」
「ううん。先輩として、とーぜん」
ゆっくりと一歩踏み出す。
帰りはどうやって戻るんだろうか。
あ、そういえば。
「ホイッスル。すみません、壊しちゃいました…」
「いーよ。回収した。のどかちゃんのせいじゃない」
「ありがとうございます」
「…うん。じゃあ、帰ろっか」
「はい」
ゆっくりと。
全身ズタボロだし、何もできなかったどころか足を引っ張ってしまっただけだけど。
先輩みたいに誰かを守れるように、頑張ろうと思った。




