case.002「出向フラッシュバック」
翌日。
スマホの地図アプリにピンを刺しておいたおかげで、どうにか迷うことなくたどり着けた。
「…ここ、か」
夜に見た時とはまた違って見える朝のオフィス街。目的地のビル。
時刻は9時40分。15分前には到着できる、早すぎないベストな時間。
「…よし」
正面のエレベーター、ではなく隣の階段。一歩足をかけて、ふっとこれまでからの出来事を思い返す。特に、僕の日常が崩れた昨晩から今朝にかけての出来事を。
なんとなくで入った会社は、案の定というか、ブラックだった。同期も先輩も後輩も、抜けては入りで入社2年。社会人としては歴が浅いけれど、弊社の中ではそこそこの入社歴。…なんて、地雷っぽいか。
もはや惰性で働き続けているといっても過言ではないけれど、転職するほどの気力も時間もスキルもない。学生時代、もっと何か真剣に打ち込んでおけばよかったな、なんて。
安物のスーツと革靴、どこにでもいる疲れた社会人のひとり。歯車のひとつ。
昨日もいつものごとくサービス残業。くたくたになった帰り道で、ふといつも通らないルートを通ったのが運の尽き。
疲れ切った頭でははじめ気づけなかったけれど、夏の夜、蒸し暑いはずなのにぞくりとするほど寒くなった。そこからは坂道を転げ落ちるような、変化。恐怖。
振り返って見渡しても何も見えはしないのに、足を留めればおしまいだという根拠のない確信だけが強くあった。
追い立てられるようにがむしゃらに走って、電話ボックスに避難。無我夢中で持ち上げた受話器、つながった不思議な電話。冷たさ、手形、ジャージメイド。五十万円。仕事。
何もかも急であわただしい解散から1時間ほど。ふらふらしつつもなんとかたどり着いた我が家、古びたマンションの一室。なにもかもなかったことにして気絶したかったけれど、いつの間にか染みついた社畜根性がそれを許さない。一方的とはいえ、目上というか代表取締役社長という社会的地位のありそうな肩書の相手からの指示には逆らえない。
時間と服装と場所を指定されてしまったし、ありえないと思うのに、なんだか彼の言葉通りになるような気もして落ち着かない。
とりあえずジャージを洗濯機にぶち込んで、ごうんごうんと音を立てる洗濯機の前に座り込んで深呼吸。洗剤のにおい。
ぼうっと目を閉じていると軽くトリップしてしまっていたようだった。ピーピーと鳴る洗濯機に目を開けて、ぐっと力を込めて立ち上がる。なんとか濡れたジャージを引っ張り出して乾燥機に入れ、また待つ。今度は立ったまま壁に寄りかかる。ぐるぐる回るジャージ。前の住人の置き土産にここまで感謝したことはないかもしれない。なんて。
乾燥が終わりほかほかのジャージを手に取ろうとして、汗だくの自分にやっと気が付いた。ざっと熱いシャワーを浴びて、雑にタオルで拭いた髪を乾かし切らないままなんとかスウェットに着替えて布団に倒れこむ。あ、ジャージ。
明日は筋肉痛かもしれない。3階分の階段なんて登れるかな。ああでも、こんな当たり前みたいに、明日あそこへ行くことを考えてる。そんなこと、ありえないのに。朝起きたらいつも通りの毎日が続くだけなのに。
「かいしゃ、いかな、きゃ…」
瞼が重い。走ったせいでお腹空いた。でも…。
アラームの音で目が覚める。
疲労感の抜けきらない重い体を無理矢理に動かして、うつ伏せで眠ったせいか軋む肩を軽く回す。アラームを止めれば画面にぽこんと通知が出る。
「…え」
パッと開いたメールには、ほとんど関わりのない上司の名前。味気ない社用メール、内容はそっけなく簡潔で、でも絶対にありえないはずの出向命令。
「…うそだ、本当に?」
理解しきれないうちに追撃。ぶるぶる震えるスマホ、開いた2通目には「本日より出向。期間未定。詳しくは出向先の指示に従うように」との文言。いや、雑。
じゃなくて!
あわてて昨日もらった名刺を出す。そこにかかれた社名と出向先の社名が同じことを確認したらじわじわと実感がわいてきて、変に乾いた寝癖だらけの頭を振って目を閉じては開く。
何度目を閉じても、こすっても、表示された文字が変わることはない。
「は、はは…」
から笑いが漏れ出る。
現在時刻、6時20分。
弊社の就業時間であるところの8時30分にはあと2時間ほど。でも通勤で40分。さらに掃除と朝礼でサービス出勤1時間。いつもならもう急いで家を出なければいけない時間だ。
けれど。
「10時、って言ってたよな…」
マップを開く。推定移動時間は1時間。早めに着くことを考えても、あと1時間は余裕がある。
朝、出勤、10時、ジャージ。
回らない頭でこれ以上深く考えることをやめ、のっそりと動き出す。
「久しぶりに、ちゃんと朝ごはん食べるか…」
開けた冷蔵庫には、真っ黒なバナナの残骸と水のペットボトルしかなかった。
タンッと床を弾く音。足が止まる。
回想のうちにいつの間にやら最上階、3階に着いていた。きゅっとゴムの擦れる音を立てて廊下を進む。止まる。昨日ぶりのドア。透明なその向こうは、きっと僕の知らない世界が待っている。
取っ手に手をかける。
さあ、行こう。




