9 抱負(ほうふ)
さすがにマスだけでは夕食にならないので、二人はスーパーで出来合いのサラダと生ハム、豆腐、惣菜を二、三品買って家に戻った。有情は湊川が釣ったニジマスの鱗をスチールのたわしで綺麗に取り除き、大量の塩を使って滑りをとった。滑りが残るとどうしても生臭くなってしまう。頭を落とすと綺麗なオレンジ色が出てきた。腹を出す時にも気付いてはいたが、どうやら養魚場でアスタキサンチンを含む飼料が与えられているようだった。湊川は食器棚から器を出して惣菜類を盛り付けているところだった。有情はマスをまな板の上に置き、湊川に
「ほな変わろか」
と言った。
湊川はエッというような顔をして
「れな、魚なんか料理でけへんで」
と返してきた。
「普段は家で料理するやろな」
「いや、家ではいつもあかねが作ってる」
有情はそう言われ、仕方なくマスを三枚におろし、骨抜きをして塩胡椒し、小麦粉を振り、更に4つに切ってフライパンに敷いたクッキングペーパーの上に乗せた。しばらくたってバターのかけらを入れると香ばしいいい匂いがしてきた。湊川は料理を並べ終わり、またこんがり焼けていくマスを興味深そうにみていた。最後にレモンを絞って皿に盛った。料理は二人で座卓に運んだ。
湊川には以前から気になっていることがあった。有情のキッチンには椅子に座って食べるところがない。もちろんキッチンテーブルにはカウンター席にあるような高い椅子はあった。グラノラはそこで食べた。しかし、カレーの時は座卓だった。その座卓は高さの釣り合わないソファーの中心にあった。なぜ座卓がソファーで囲まれているかよくわからなかった。尋ねてみるとソファーは昼寝をするくらいでほとんど使われていないとのことだった。一人で食べるときは床で食べることが多く、シャーロットが邪魔をする時があるので座卓を買ったらしい。いささか珍妙なスタイルであったが、居酒屋で座卓を囲んで食べることもよくあるので不快感はなかった。ただ、「床で食べる」というのがどうにも解せなかった。
「先生、ちょっと床で食べてみてよ」
「はあ、なんで」
「床で食べるいうのがようわからへんねん」
「しゃあないなぁ」
と言って有情はちょうど食べていた冷奴を床に置き食べてみせた。
「食べにくないん?」
「F国で慣れた」
「F国って床で食べるん?」
「必ずしも床で食べるわけやないけど、ビレッジに行った時には大抵そうしてた。そもそもカヴァの儀式が床やし」
「何それ?」
「歓迎のために泥水のような飲みものを飲んで、グダグダになる飲み会みたいなもんや。カヴァ飲んだらとにかくやる気がなくなるねん。何が入ってるかは知らんけど、なんかの植物の根から作る飲み物」
「ようわからんな。飲んだらどうなるん?」
「リラックスするだけ。アルコールみたいにハイになったりはせえへん」
「ふーん。日本で買えるん?」
「さすがに売ってないやろな。あったら買うとく」
「うん、飲んでみたい」
「お酒の方が楽しいよ」
「あー、忘れてた。ビール欲しい」
「冷蔵庫に入ってるから俺のも取ってきてや」
「わかった」
と湊川はビールとピルスナーグラスを二つ持ってきた。
ビールを飲み始めてしばらくすると湊川は有情のフライフィッシングの教え方が悪いと言い出した。それに関しては有情も自覚しているようで
「人に何かを教えるのは得意ではない」
と言った。
確かに有情がフライフィッシングを始めた頃は日本でフライフィッシングをしているのはほんの一部の好事家だけで、有情もほとんど全部本から得た知識だけでやってきた。人に習ったのはほんの二、三回だけであった。それもすでにその時点では基礎が固まっていたので、大して学んだという記憶はない。また、仕事に関しても見て覚えるのがほとんどだった。後進の指導などはしたことがなかった。ただし、これに関しては一応、皮膚科学という学問なので、発疹学の用語をきっちりと使った文章を読めば、それがなんの病気かはわかった。よく図示する医者がいるが、それは全く信用していなかった。絵はどうしても客観性に欠けるからである。有情は立ち上がって書架からフライフィッシングの入門書を持ってきた。
「これに一通り目ぇ通しとき。今度、ガイデッドツアーに連れてったるわ」
「うん、そのほうが良さそうな気がする」
湊川はそう言った。
この日は翌週にあるダブルデートの相談もしなければならなかった。湊川から危惧していたようなことは起こらないだろうと言われてはいたものの、とりあえずは二人がどのような人物であるかを知ってもらっておいた方が会合をよりスムースに運べるような気がしていた。白石に関しては自分がなんとか繕えそうに思えたが、万が一有情と宇都美が二人きりで話しているときに浮世離れしたようなことを言い出されたら修復が困難になるとも思った。
「一応、患者の相手をしているのだからそんなことはない」
と有情は言ったが、今ひとつ心許なかった。
以前に皮膚外科をしていたといっても今は精神科医である。患者の中には奇妙なことを言ったりする人もいるような気がした。
宇都美は基本的に真面目な男であった。有情も真面目と言えば真面目ではあるが、真面目さの質が違う。有情は「自分のしたいこと」に対して真面目であった。これだけ趣味的なことに対して真摯に向き合っている人は見たことがなかった。世界一厳しいと言われる銃規制のある日本で実際に銃を持っているのだから、それなりに自分を律しているのだろうと想像はできた。確かに酒を飲んでも多少は饒舌にはなるが、人に絡んだり、大きな声を出したり、態度が大きくなったりなどは決してなかった。最初に絡んだのは湊川の方だった。しかし、殊、仕事に関しては、実際にどのような仕事ぶりなのかはわからないが、側から見ればどうみても真面目とは言い難かった。それに反して宇都美は仕事に対して真面目だった。生徒の長所を見出しそれを伸ばす、絶対に生徒の悪口を、白石にさえ、言ったりはしない、節度を弁えて生徒に向き合うなど、常識的なことではあるもののなかなかできないことをしているというような「先生」だった。熱血教師ではなかったが、熱心な教師で生徒にも人気があった。
湊川は有情がなぜ、どちらかといえば忙しいはずの医者になったかがよくわかっていなかった。
「先生、なんで医者になったん?子供の頃の夢ってなんやったん?」
と聞いた。
「俺の夢か?小学生の頃は生物学に関連した仕事に就きたい漠然と思っとったよ。せやけど中学に入ってからはヒモになるのが夢やった」
ととんでもないこと言い出した。
「ヒモってあのヒモ?」
あまり意味をなさない質問だったが
「そう、女性のお金を当てにして生活するヒモやで。せやけど女の人が自分に興味を持ってるうちはええけど、万一、捨てられるようなことがあったら一気に生活に困るやろ。ほんで両親が医者やったこともあって医学部に行ったんや。一応、獣医学部も考えたけど、医学部の方が大病院のお嬢さんとか多そうやったし。実際に付き合ってた女の子も大きな病院の娘さんばっかりやった。そこで自分に課題を課したんや。自分自身も沖縄に行きたかったし、それについてくるようなら本気度も高い思うてな。それもお嬢さん育ちには荷が重いようやったな。一人で沖縄に行って、そのままズルズルや。」
「そんなことあかねや宇都美くんの前で言わんとってよ」
「言わんよ。敗れた夢を語ってもしゃあないやろ。それにこんなことは気ぃ許した人にしか言わんよ」
湊川は自分が「気を許した人」であると言われて心地よかった。
「両親が医者やったから必然的にそうなったとでも言うとくから心配せんでもええよ」
そう言って湊川の額に軽くキスをした。
「うん」
湊川は相好を崩した。




