8 会心(かいしん)
その日の午後、湊川は有情に連れられてマス釣りに行った。天気がよかったので人が多いとも思ったが、何組かの親子連れやカップルがいるだけでさほど混んではいなかった。マス釣り場は川を石で堰き止め、いくつかの区画を作り、そこに魚を放流してくれる釣り場だった。受付で入漁券を買って再度車に乗り移動した。
「どこ行くん?」
湊川は聞いた。
「向こうのほうに練習するのにちょうどいい流れのゆるいところがあるから」
有情はそう言って別の駐車場に車を停め歩いて行った。実際そこには長方形に川を区切られた流れの緩い釣り場があった。
漁協の人が
「ここでいいですか?」
と言って魚を放流してくれた。
有情は二人分の釣具を用意した。湊川には少し長めのカーボンロッド、自分は先日買った短いグラスロッドを持ってきていた。ライズリングはほとんど見られなかったが十五mほど先に小さく水面が割れた。有情の両手が奇妙に動いた。動きに合わせてラインは綺麗な弧を描き、ちょうど水面が割れた一mほど上流に何かが落ちる波紋ができた。次の瞬間波紋の中心が大きく割れると同時に有情の竿が大きくしなった。30センチを少し超えるくらいのニジマスが有情の足元に引き寄せられ、ほとんど魚体に触れられることなく、口にかかった釣り針をモスキート鉗子で外され元気に川の中に帰っていった。その後、有情はフライのついたリーダーを切り糸だけの状態にして
「下の方に行こう」
と言った。
放流された直後のマスたちは下流に滞留する性質がある。時間が経つにつれて本来の性質を取り戻していく。有情の釣ったニジマスはおそらく誰かが釣り残したものだった。
本来ならフライフィッシングのキャスト(投げること)の練習はフライを着けずにすることが望ましい。できれば最初はリーダーもつけない方が良い。しかし、それでは魚が釣れないので、あまり面白くはない。湊川は5フィートほどの簡素なリーダーとティペットの先に女性が化粧に使う化粧用のパフを丸めて作ったフライをつけてもらっていた。ウキをつけようかと思ったが、絡むと面倒なのでやめた。有情の教え方は非常に下手だった。
「ラインが後ろまで伸び切った時の重さを感じてから前に振れ」だの、
「肘だけ曲げて振るな」
だの素人の湊川にわかるはずがなかった。できなければ
「ちょっと貸して」
と言ってロッドを取り上げられて、
「よく見て、ここはこう、そしてこう、最後にこう」
などと言って投げてから竿を湊川に渡す始末である。
それでも何回に一回かは魚のいそうなところまで、と言っても五mくらいだが、飛ばせるようになりはした。フライが着水し少し沈んでいったところで一瞬ラインがツンと前に出るように動いた。
「今のが魚が食ったしるしだから」
と言われたが、湊川には皆目わからなかった。
普通、マスはフライを口の中に入れた時にそれが本当の食べ物でないと認識してすぐに吐き出す。ただ、その時湊川が使っていた柔らかい素材で作られたフライに関してだけいえば食べ物と認識してそのまま喉の方まで入れてしまうことがある。初めてフライフィッシングをする湊川にどんな方法でも良いので一匹は釣らせないといけないと思い、自分は使うことのない化粧パフのフライをつけていた。
何度も下手くそなキャスティングを繰り返し、有情の役に立たない指導を受けた湊川であったが、その時はたまたま川幅の中頃まで飛ばすことができた。しばらく待っていると流れの方向とは全く違う方向にラインが動いた。マスが餌と勘違いして口の奥までフライを入れたのである。ラインはそのまま弧を描くように動いていった。有情にマスがフライを飲み込んだと言われ引っ張ってみた。今までロッドを振っていた時とは違う重みが伝わってきた。
「この状態なら魚は外れないから自分で対処してみて」
と言われたがどう対処してようかわからず、ラインを押さえていた指を離しリールを巻きだした。
瞬く間に足元にあった余分なラインが引き出され、マスは区画の中をより縦横無尽に泳ぎ始めた。
「右手のラインは離してたらあかんて最初に言うたやろ」
と言われたが覚えているはずもなかった。
太いティペットを使っていたので切れる心配はなかった。湊川は一心不乱にリールを巻いていたが、有情はもちろんリールの使い方など教えているはずもなく、手を離してしまってラインを出したり、マスが逆方向に泳いでいるのに無理に巻こうとしたり、で釣り上げるまでに大層時間がかかった。
「あんまり巻いたらリリースでけへんで」有情は言った。
「リリースって何?」
「川に放すことや」
「もう巻かんでええ、ロッド立てたら寄ってくるから」
やっと話が聞ける状態になっていた湊川はマスを足元の浅場まで寄せた。40cm近い大きなニジマスだった。
「ほな、放すで」
と有情はモスキート鉗子を手に取った。
「初めて釣ったマスやから、れな、これ食べたい」
「また釣れるがな。最後のを持って帰れなええ。しかも大きすぎる」
「初めてのやから食べたい。二人で食べよ」
その気持ちもわかる気がしたし、後で湊川にムニエルにでもさせようと思い
「ほなそのままちょっと待ってて」
と言って車から念のため持ってきたクーラーボックスとナイフを持ってきた。
有情は魚を陸にあげフライを外して、手頃な石で頭を叩き、ナイフを鰓の上部に刺して、再び水の中に戻して体内の血液を流した。用水路につながる排水溝で下顎の下を切り裂き、一気に鰓と内臓を取り出しゴミ入れ用のレジ袋に入れた。最後に腹の一番上にある赤紫色の部分を指でしごいて綺麗に取り除いた。湊川は興味深そうにそれを眺めていた。
「今取り除いた赤紫のはなんなん?」
湊川は聞いた。
「これ腎臓や」
「うそー、腎臓って二つあるやん」と言われたが、腎臓は腎臓なので
「いや、そうやねんて」
と答えた。
その後、湊川は何匹かのマスを釣ったが、これらは全部放した。日も傾いてきたので帰り支度をして荷物をまとめた。しかし、なぜか有情は一回だけしか使わなかった自分の道具に大きめのエルクヘア・カディスを結んでから
「ほな帰ろか」
と言い、用水路にそって歩を進めた。
五十mほど進んだところに用水路にかかる橋を見つけ、有情はそこからしばらく用水路を見つめロッドとモスキート鉗子だけを持って
「ちょっと待ってて」
と言い、逆方向に三十mほど用水路の対岸を歩いた。
姿勢を低くして更に十五mほど進むと低い姿勢のままロッドを振った。フライを投げ入れて五秒もしないうちに有情はロッドを立てた。ロッドは大きく弧を描いていた。用水路脇の畦道を前に後ろに移動しながらかがみ込んで取り込み、口の中に指を入れて持ち上げ、魚を湊川に見せた。五十cmはありそうな立派なニジマスだった。丁寧に針を外し、再びマスが泳ぎ出すのを確認してから小走りに湊川のところまで戻ってきた。満足そうな顔をしていた。




