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7 使役(しえき)

 翌朝、湊川が目覚めると隣のベッドに有情の姿はなかった。時計を見るとまだ六時前だった。どこへ行ったのだろうとキッチンの方へ行ってみたが、そこにもいなかった。


 キッチンを見回すと、昨日の鳥の巣のような作業場に隣接して大きな書架があった。上の方には古いフライフィッシング関係の成書やパターンブックなどがあり、その下には銃器関係のトレーニングブックや写真集が並んでいた。中段には雑誌類が雑多に詰め込まれている。下段には趣味や教養の本、小説や文庫本が並んでいた。


 井伏鱒二、三島由紀夫、森鴎外といったいわゆる文豪からライトノベルまであり、並びには統一感がない。乱読する人間の本棚という印象だった。京都を舞台にした少し風変わりな小説も何冊か揃っている。


 湊川はそのうちの一冊を手に取ってページをめくった。自分が通っていた大学が舞台になっている章があり、懐かしさからそこだけ読んでみた。通学していた頃の風景が頭の中によみがえってくる。


 その時、バタバタと音を立ててシャーロットが帰ってきた。水飲み場で激しく水を飲む。ほぼ同時に玄関の方から有情が入ってきた。


「どこ行ってたん、って散歩か」


「せやで。今日はちょっと遅かったから人がおった」


「そらおるやろ」


「いや、普段は四時ごろに行くから大概誰もおらんで」


「はぁ、四時!なんで?」


「仕事行く前に二度寝したいから」


「二度寝するんやったら、ゆっくり寝てから仕事行く前に行ったらええやん」


「いや、その頃になったら通勤する人が多くて落ち着かんのや」


 大阪市内に通勤する人の時間を思えば、確かにそうだろうと湊川は思った。


「ところで何読んでたんや?」


「あっ、勝手に読んでごめん」


「そらかまへん。見られて困るようなもんはあらへんし」


 湊川は手にしていた本を見せた。有情の表情が一瞬だけ硬くなったような気がしたが、すぐにいつもの顔に戻った。


「大学の話が出てきてびっくりしたよ」


「そういう章もあるな」


「よう覚えてんなぁ」


「その本、何回か読んだことあるからな」


 湊川はなぜ有情がその本を何度も読んだのかはわからなかった。


「それより朝食どうする?」


「昨日いっぱい食べたから軽くでええよ」


「またフルグラでええか?」


「うん」


「飯食うてちょっとゆっくりしたらマス釣り行こか?」


「そのつもりで来たよ」


「よしゃ、ほな用意するわ」


 朝食を終え、シャーロットを横に寝かせたままテーブルでくつろいでいると、有情がさっきの本のことをしつこく聞いてきた。


「なんでその本読んでたんや?」


「京都が舞台やったから、ちょっと懐かしくて。前に読んだことある本と似た雰囲気やったし」


「内容どこまで知ってるん?」


「大したことは覚えてへんよ」


「ほなええわ」


 何が「ええ」のか湊川にはわからなかった。


 ふと映画の場面を思い出した湊川は、冗談半分でシャーロットに向かって言った。


「シャーロット、ピティライアシス・ロゼア(Pityriasis rosea)」


 その瞬間だった。


 床でくつろいでいたシャーロットが突然立ち上がり、低い姿勢で身構えた。いつでも飛びかかれるような体勢だ。牙がわずかに見えている。ただし、誰を警戒すればよいのか分からないらしく、周囲を鋭い目で見回していた。


「れな、違う。解除はそれやない」


 有情は小声で言った。


「レミッシオ・カンクリ(Remissio Cancri)って言え」


 湊川は戸惑いながら叫んだ。


「レミッシオ・カンクリ!」


 次の瞬間、シャーロットの体から緊張が抜けた。ゆっくりと元の場所に戻り、前足を舐め始める。


「あー、びっくりした」


 有情はそう言ってシャーロットの頭を撫でた。


「Good girl, Charlotte」


「私もびっくりしたよ」


 湊川は半ば泣き笑いのような顔で言った。


 シャーロットにとって「座れ」も「攻撃せよ」も単なる命令にすぎない。解除されれば、またいつもの穏やかな犬に戻る。それが湊川には不思議でならなかった。


 そして、有情がどこか奇妙な物語から思いついたような言葉を実際の犬の訓練に使っていることに、妙な親近感を覚えた。


・命令の言葉は著作権保護のために変えてあります。


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