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6 獺(うそ)

 金曜日の6時ごろ湊川は有情にあと30分ぐらいで家に着く旨をラインした。「わかった」とだけ返事が来た。家に着くと程なく有情から「家の前におる」とLINEが来た。ボストンバッグを持って降りていくとタクシーの横に有情が立っていた。


「先生、久しぶり。どこ行くん?」湊川が聞いた。


「亥子谷や。それ以上は説明が難しいけど、道はよう知ってる」


「なんのお店?」


「しゃぶしゃぶ」


「あー、れな、しゃぶしゃぶ大好きや」


「それはよかった」


などと話していると有情は運転手に「あっ、そこ左に曲がってください」と言い、タクシーは住宅街に入っていった。店はすぐ近くにあった。中に入るとジャズが流れていた。奥に座敷席もあるようだったが、カウンターに案内された。カウンターの各席には一人用の鍋が取り付けてあり、どうやら一人ずつ食べるスタイルのようだった。


 有情が「こんばんは」というと店主が「先生、久しぶりですね」と言った。どうやら有情は以前からこの店を利用しているようだった。有情は赤身のしゃぶしゃぶを注文していた。


「れな、もう少し脂の多いのがいい」と言って店主に


「もっとサシの入ったのもありますか?」と聞いていた。


「A5の神戸牛がありますよ」と言われ


「じゃあ、それをお願いします」と答えた。


「飲み物はビールでいいですか?」と店主に聞かれ、どうせ有情もビールを頼むだろうと考え、


「生二つお願いします」と言ってから


「先生もビールがいいよね?」と聞いた。


 テーブルに肉と野菜そして有情が頼んだ土手焼きが並び、ビールが運ばれてきた。


「企画通って、おめでとう」と言われ、湊川は少し照れながら「ありがとう」と言ってグラスを合わせた。


「先生がおらんかったら、あの企画は通らへんかったよ。すごく感謝してる」と初めに言い、どうやって企画を通したかなどを割と長い時間かけて話した。湊川が四杯目の生ビールを頼もうとした時に「ビールはそのへんにしといて、焼酎かワインにしといた方がええで」と言われ


「なんで?もう一杯のみたいねんけど」と言った時に店主に


「きしめんが食べられなくなりますよ」と言われた。


この店ではきしめんに自家製の出汁をしゃぶしゃぶの残り湯で割ったものに注いで食べさせていた。


「ほなおじさんのおすすめの焼酎ちょうだい」


「焼酎はよく飲まれるんですか?」店主は尋ねた。


「そんなによく飲むわけやないけど」


「お姉さん強そうやから」と言って獺祭焼酎を出してきた。


獺祭は酒粕で作った焼酎で同じ銘柄の日本酒もある。アルコールの度数は高くウィスキーと変わらないほどであった。


「まずはそのままで飲んでもらって、濃かったらお湯か氷を差し上げますよ」


「ありがとうございます」そう言ってストレートで飲んでみた。

喉がカッときたが、飲みづらくはなかった。


 やがてきしめんが運ばれてきて、少し酔った湊川は自分の出汁が脂っこいことに気付き自分で勝手に注文したにも関わらず


「ちょっと脂っこいな、なんで先に言うてくれへんかったんや」などと言いつつ完食した。


タクシーを呼んでもらい「また来ますね」と二人は店を出た。

 仕事で疲れていたのか、獺祭が効いたのか彩都に向かう間、湊川は有情の手を握ったまま少し眠った。有情に「着いたで」と言われて、ハッとして周囲を見渡した。すぐ前に有情の家の玄関があった。


「先に行ってシャーロットに挨拶してき」と言われ家の鍵を渡された。その間に有情はタクシー代を支払っているようだった。


「シャーロット、こんばんはー」と言いながら有情の家に入っていった。シャーロットも二泊三日し、マーキングまでし、また散歩の間中付け回されたことがあったので、湊川のことをよく覚えていて嬉しそうに甘えていた。ただ、湊川が「お座り」とか「お手」と言っても全く反応しなかった。


 タクシーの支払いを終えた有情が玄関から入ってきた時、湊川はまだ熱心にシャーロットに「お座り」だの、「座れ」だのと言っている最中だった。シャーロットはすぐに有情の方に移動した。頭や首をさすられて満足そうにしていた。


「先生、シャーロットがいうこと聞いてくれへん」湊川は不満そうに言った。


「そんなわけない」有情は自信を持って言った。そして


「なんて言うたんや?」と聞いてきた。


「お座りとかお手とか」


「ああ」と言ってシャーロットに


「Now she’s the commander. Obey her.」(今からこの女性が命令する。それに従え)と言い、湊川には

「英語で座れ言うてみ」と言った。


シャーロットはすでに湊川の前に来ており


「Charlotte, sit.」 と言われるとすぐにちょこんと座った。


後で聞いた話だが、シャーロットは攻撃的な訓練も受けているようで、それは誰かが発した言葉を間違って命令と勘違いしないように「極めて特殊な」言葉が使われているらしいことも知った。


 今回も玄関でキスをしたが、湊川は前回の時はキッチンとベッドルームしか見てないので他の部屋も見せて欲しいと言った。有情は同意したものの湊川にワインを注いで、チーズを渡して「とりあえずシャワーを浴びてくる」と言って寝室の横にあるシャワールームに消えていった。十分もしないうちに部屋着に着替えて有情がキッチンに戻ってきた。


「ほな見に行く?」と言って案内してくれた。一階はキッチン、ダイニング、メインベッドルーム、シャワールーム、そしてシャーロットが使う裏庭に面した小さめの部屋だった。二階には二部屋とトイレがあり、一部屋は子供部屋でもう一部屋は鍵がついており「ここは見てもつまらない」と言った。そう言われるとかえって見たくなるのが人情である。湊川は「どうしても見たい」と言ったが、有情は消極的だった。「見てもつまらない」と繰り返すだけで開けたがらなかったが、湊川の執念に根負けして、部屋のドアを開けた。部屋の左側にある窓側の奥の壁にエアコンがあり、それを中心として相対する壁、つまり手前の壁、の梁に向けて割と太いザイルがV字型に張られていた。部屋の右側の壁に面する側はかなり大きな空間なっており、手前には服屋のフィッティングルームのようにカーテンで仕切られた小さな空間と衣装箪笥が二つあった。これだけだと何か異様な部屋に聞こえるが、ザイルにはハンガーにかけた洗濯済みの服やパンツがいくつもかかっており、衣装ダンスの奥にはシャーロットの予備の餌や移動用のクリートが置いてあった。また、鳥の羽や雑多なフライフィッシングの道具も置いてあった。フィッティングルームのような空間が気になり「覗いてもいいか」と聞いたら「何もないよ」と言ってカーテンを開けてくれた。中には開けっ放しの縦長のロッカーが置いてあるだけで、ロッカーの中には何も入っていなかった。右奥にはご丁寧に洗濯機まで置いてあった。要するに洗濯場、物干場、兼物置だった。しかし、何も入ってはいなかったものの、カーテンで囲まれたロッカーだけは気になった。


「あのロッカーはなんなん?」


「あれはガンロッカー、警察の指導で囲いをつけるように言われてん」


「なんも入ってなかったやん」


「射撃場に手ぶらで行くの見たやろ。しょっちゅう行くから銃の保管を射撃場に頼んでるねん。一人暮らしやから昼間泥棒に入られても物騒やからな」


「シャーロットがおるから大丈夫やん」


「まぁそれはそうやけど、あれは見かけによらず、人懐こいからな。出る前に警戒の命令をかけていけばええんやろけど、そうしたらのんびりできんやろしな」


「そんな訓練もしてあるん?」


「一応。そう言う犬種やし」


「なんて言うたら警戒行動とるん?」


「危ないからやめとき」


「人に言わへんから教えてぇや」


これに関しては頑として口を割らなかった。

 もうええやろとせかされて湊川は階下に降りた。有情も後からついてきた。一つ不思議なことがあった。この家には有情の書斎のようなものがなかった。


「なぁ、毛針作ったりする言うてたやん。どこでしてるん?」


「キッチンの隅の方、後で見せるわ」


「うん」


キッチンに降りてくると、その片隅に畳3畳ほどの区画に座椅子とテーブルが置いてあり、テーブルの上には虫眼鏡とレンゼッティのバイス、雑多な医療器具、そして大きなパソコンモニターが置いてあった。テーブルの周りはたくさんのフライマテリアルが雑然と置かれていた。有情がキーボードを叩くと画面には三方向から撮影されたロイヤルコーチマンが現れた。よく見るとバイスの先にも未完成ではあるものの、モニターの画像と全く同じものが挟んであった。


「れなちゃんちょっと待ってな」

「うん、どうしたん?」


「プレゼント」


「なに?」


「ちょっと待っとり」


有情はバイスに取り付けたロイヤルコーチマンのハックルを巻き上げ、大、中、小のエルクヘアカディスを巻き、プラスチックのケースに入れて湊川に渡した。


「きれい、大事にする」と言ったが


「これは消耗品やからボロボロになるまで使うもんやで」と言って笑った。


 この日も湊川はシャワーを浴びさせてもらえなかった。


「あかんよ。仕事帰りやのに。先生だけ浴びてずるい」


「そうか、まぁええがな」と言われ隣接するベッドルームに連れて行かれた。


有情の手には新しいタオルが握られていた。


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