27 寛容な異常者(かんようないじょうしゃ)
湊川から連絡が途絶えて一年半ほど経った頃の金曜の夜、見知らぬ電話番号から有情の携帯に電話がかかってきた。こういった電話はしばらくすると切れることが多く、たとえ出たとしてもそのまま切れるか、せいぜいどこかのマンションを節税目的で買わないかなどという営業の電話だった。有情はどうせ切れるだろうと放っておいたが、一向に鳴り止む様子がなく、仕方なく電話に出た。
「はいはい、どちらさん?」
と有情にしてはぶっきらぼうに言ったつもりではあった。しかし、それは一般的に言えば愛想よく聞こえるだろうと思われるものであった。返答はなかった。そのまま切ろうと思ったが、よく聞くとスピーカーから少し緊張したような息遣いが聞こえてきた。いたずら電話かなという考えも浮かんだが、稀に訳のわからない電話をかけてくる知り合いもいるので、こちらから誰何するにも無闇に名前を呼ぶわけにもいかなかった。すると相手は小さな声で
「先生」といった。
「れな、久しぶりやな。どないしたんや?」
「声、覚えててくれたん?」
「そらわかるやろ」
「先生、ごめんね」
有情は突然連絡を絶やしたことに対する「ごめんね」かと思い
「かまん、かまん。人には都合いうもんがある。今日はまたどないしたんや?」
と聞いた。
湊川はその言葉を聞いて堰を切ったように泣き出した。
「先生、ごめんね。先生、ごめんね」
といって泣くばかりで、全く埒があかなかった。とりあえずうちに来るか、と言いかけてやめた。こんな状態でこちらに向かってきて、途中で事故でも起こしたら大変である。
「まだ前と同じとこにおるんか?」
「うん」
「今行っても差し支えないか?」
「うん」
「ほなすぐ行くさかい、ちょう待っとり」
といって、念の為電話は切らずに、昼間仕事に着ていった服をそのまま羽織り、車に乗った。大して混んでいなかったのですぐに着いた。
来客用の駐車場に車を止め、部屋に着いてインターホンを鳴らした。鍵が開く音だけがした。有情がドアを開けるとまた湊川は近くまで寄ってきて
「ごめんね。ごめんね」
と言って泣き出した。
「ドア開けたまま、ごめん、ごめんて言われても、外にも聞こえるし、せめてドアだけでも閉めさせてくれへんか。なんや俺が悪者みたいに見えるやないか」
湊川はごく小さく頷くと少し後ろに下がり、今度は玄関に座り込んで泣き出した。
「先生、ごめんね。ごめんね」
有情はたたきの部分まで入り、室内を観察した。以前来たときと比べて衣服や雑多なものが散らかっていた。テーブルの上には哺乳瓶と何かピンク色のおもちゃが見えた。湊川はまだ床に座ったまましゃくりあげていた。見る限りでは一人親が小さな子供を育てているように思われた。とりあえず詳しい事情を聞くにしても、なんとか泣き止ます必要があった。
「長いこと連絡なかったから結婚でもしたんかと思ってたで」
と言ったら、事態を悪化させる結果になってしまった。
「そんなんちゃう、そんなんちゃう」
と言って、うぇーんと泣き出した。少しそれが落ち着いてから
「先生に迷惑かけるつもりはなかったんやで」
とポツリ、ポツリと話し出した。
「迷惑はかけられたことはないけど、わがままは散々言われたで」
「やっぱり意地悪や」
と言ってまた涙が溢れた。
「わかった、わかった。もう言わへんがな。とりあえず中入れてや」
「散らかってる」
「見たらわかるがな」
「子供がおる」
「それも見たらわかる」
「あかねちゃんはどないしたんや?」
「去年結婚して出ていった」
「元気にしてるんか?」
有情はちょっと話をずらそうとした。
「うん、翔太先生と千里山に住んでる。予備校は非常勤講師になった」
そう言った隙に部屋の中に入っていった。
「あかねちゃんの子供預かってるんか?」
「あかねんとこはまだ子供できてへん」
「ほなその子はれなの子供か?」
「そや」
「ご主人は?離婚したんか?」
「そんなんちゃう言うたやろ」
そういうことか、と有情はほぼ事情を把握した。
「一昨年の正月に一緒にお大晦日と元旦過ごしたやろ」
「ピアスの日やな」
「そう」
「あの日は機嫌よう帰って行って、その後も俺の誕生日祝うてくれたやないか。かえって高ついたけどな」
「うん。せや」
だんだん口調が戻ってきた。
「係長になるから祝いしょう言うてた時やな」
「せや。あの銃、残金なんぼやったんや?」
「千八百九十五万や。それからしばらくして、ぷっつり連絡が取れんようになったんやったな」
「せや、あん時は忙しかったからストレスで生理不順になっただけや思てたんや」
「妊娠したからやろな?」
「まぁ、そう言うことや。せやけど係長になったばっかりやったから、諦めよかともおもてんけどな、クリスマスの日ぃに金メダルくれたやろ、あれかていやいや出たんとちゃうんか?」
「別にいやいやではないよ。れな喜ばせたろ思て」
「せやけど国体、辞退したやん」
「まぁな」
「A国でも襲われる直前にイノシシ撃ってくれたし、バンジージャンプ一緒に飛んでくれたし」
「あれは自分が突き落としたんやないか」
「それはまぁ、成り行きや」
この頃になるとほぼいつも通りに戻ってきた。
「そないなこと思い出してたらな、よう諦めんかったんや。ちょっと顔見たってくれへんか?」
「おぉ、ええで」
「先生によう似とるやろ?すみれいうねん」
そう言われてもどちらも吊り目で横向きに寝ている上、有情が、あくまで湊川と比較してではあるが、少し丸顔なだけで似ていると言われれば、それは似ているとぐらいにしか言えなかった。まぁ、他の娘も生まれた時はそのような顔をしていたので
「せやな、よう似とるな」
と答えた。
「産休と育休の時はよかったんや。あかねも両親も手伝いに来てくれたし。今でも時々来てくれるん」
「怒られへんかったか?」
「そら怒られたよ。まぁ、いうても両親にしてみたら自分らの孫やからいうて、そないひどうは怒られへんかった。れなが決めたことやから尊重するし、言うてもどうせ聞かへん言うてな。せやけどあかねにはえらいこと怒られた」
それは有情にも想像はできた。
「どない言うて怒られたんや?」
「聞く?」
「まぁ、一応」
「まだ係長になったばっかりで、素性はわかっているにせよ、私生児を産むなんて管理職としてなってないとか、先生の妙竹林な価値観に毒されているとか」
「妙竹林て」
「ほんで今回は諦めろとも言われた。それは絶対に嫌や言うたら縁切る言われた。でもな二、三日したら電話かけてきてくれてな、産婦人科には行ったんかとか、母子手帳もらわないかんとか色々教えてくれて、産婦人科には着いて来てくれた。せやけど一番辛かったんが先生には迷惑かけたらあかん言うて、今後絶対とは言わんけど、当分は先生に会うな言われたたことや」
「特に迷惑ではないけど」
「れなもそない思ててんけど、あかねはいっぺん言い出したら聞かへん性質やから」
「そら自分もせやろな」
「れなのそれとはまた質が違う」
「まぁ」
「そいで産休も終わってな、仕事が始まったんやけど、そうなったら一番困るのが保育所のお迎えやねん。普通に帰ってたら間に合わへんねん。延長保育もできんことはないけど、それでも8時すぎたりしたら、もうちょっと早く来れませんかねぇとか嫌味言われるねん」
「それで俺にどうしろと?」
湊川は少し屈んで上目遣いに有情を見ながら大きな目をパチクリさせて言った。
「先生、5時には仕事引けるやろ。お迎えだけいってくれへん」
「は?」
お迎えに行くだけなら簡単なことではあるが、迎えに行けばミルクも与えなければならないし、そのうち離乳食も必要になってくる。また、食べれば出すのも当然のことで、その始末をしなければ子供の機嫌も悪くなる。8時となると寝かせつける必要もある。
「そんなん言うたかて、シャーロットの散歩にもいかなあかんし、エサも遅なるがな」
「大抵6時ごろには帰ってくるから、なっ」
なら自分で迎えに行ける時間なので、嘘に決まっていた。
「ここペット禁止やないし、なっ」
それは猫や小型犬のことを指していると思われた。
「ちゃんと先生のご飯も買って帰るから、なっ」
それは湊川も夕食は摂るだろう。
「昼間は射撃に行って来てくれてもええから、なっ」
それは言われなくてもしていたし、そもそも時間帯が全く異なる。
「なぁなぁ、いちいち、なっ、ってつけんでもしはするけどやなぁ、毎日か?」
「れななんかそれをずっと毎日してたんやで」
毎日と言われても逆算して、育児休暇を引けばせいぜい3か月くらいに思えた。難色を示していると終いには
「シャーロットと自分の子供とどっちが大事なん?」
と言う始末であった。
それはどちらも大事であったし、今日のことも事前に言っておいてくれたのならそれなりに調整して無難にこなすこともできたであろうが、金曜日の晩に言われても調整しようがなかった。
「明日、あかねが来るから相談して決めてよ」
「はぁ、妙竹林な思想を持っとる言うとったんちゃうん?」
「あかねとは長い付き合いやから大丈夫や」
それは湊川自身のことで、有情は数回会っただけで既知の間柄というわけでもなかった。しかも新婚家庭の主婦である。それほど無理を言えるとは思えなかった。何よりも湊川の変貌ぶりは驚くばかりであった。つい一時間少し前までは
「ごめんね、ごめんね」と泣き喚いていたのに、いざことが思い通りに進みそうだと確信すると乳飲児を人に預ける計画を立てて、まぁ、有情にとっては自分の子でもあったが、落ち着いてアイコスを吸っていた。有情は今後の予定を画策せざるを得なくなった。湊川が連絡を絶っていた間に母親が亡くなり、億単位の遺産が入ったものの、自分の口座に千五百万だけ残して、残りの全部はもともと投資家である妻に投資に使うようにと渡してしまっていた。その千五百万もぺラッチの銃の残金を払ったり、車をメルセデスのAクラスに買い替えたりして、手元にはほとんど残っていなかった。こんなことなら五千万くらい置いておけばよかったと思ったが、どうせ他のことに使ってしまうだろうとも思えた。
「とりあえず今日は帰るで」
「なんでやの、れなとすみれと一緒に居とうないんか?久しぶりに会うたんやで。れな、寂しかったんやで」
「そらそうかも知れんけど、ちょっと問題の趣旨がちゃうがな」
有情はシャーロットの水を変えてやり、明日の朝は排便をさせ、餌を与えなければならなかったし、服も診察できていた服をそのまま羽織って来ていた。その点は湊川も自分も問題の趣旨が少し違うことを言っていたので、お互い妙に納得した。湊川はもちろん寂しかったのは事実ではあるが、実のところ部屋の片付けを手伝ってもらおうという意図もあった。二人とも今後は頻繁に会うことになることは容易に想像できた。
「明日は何時に来てくれるん?」
「そらあかねちゃんが何時に来るかによるがな」
「明日は翔太先生が友達と釣りに行く言うてたから昼前には来ると思う」
「ほな余野行って、昼からくるわ」
「あかんよ、こんな散らかった部屋、あかねに見せられへん」
「片付けたらええがな」
「手伝うてよ」
「ほな朝一で余野行って、そのまま来る」
「余野行くのは絶対必要なんか?」
「れな、自分は今が一番辛いと思っとるかも知れんけど、今は一番楽な時期なんや。ミルクさえやっとけば黙って寝るし、他にせなあかんこと言うたらオムツ変えて風呂入れるぐらいや。せやけどすみれは成長する。二歳、三歳になったら自我も出てきて少なくとも十歳越えるまではもっと手ぇかかるんやで。可能な限りは手伝うけど、それがこれからの日常になるいうことは認識せないかん。明日、俺がおらん時にでもあかねちゃんに聞くか、お母さんに聞いてみ。まぁ、とりあえず明日はあかねちゃんが来るまでにはちゃんと来とくから。それと、れな、おめでとう」
おめでとう、と言う言葉でごまかされたが、「絶対に余野に行く必要性」が全く語られていなかった。
「せやけど、おめでとうて。びっくりしたり、狼狽えたりせぇへんの?」
「なんで?」
「先生の子やで」
「さっき聞いたがな。しかも計画的に出産した」
「えっ?」
「すみれの誕生日は令和四年十一月九日か十日、水曜日か木曜日、その辺りや。さっき嘘言うたやろ。」
「うん、ごめん。でも何で誕生日までわかるんや?しかも、曜日まで」
「今計算した。いかんなぁ、俺に嘘ついてもバレるからつけへんいうてたがな」
「どこが矛盾してたん?」
「一つ目は、ストレスで生理不順になっただけや思てたんや、の部分と二つ目は、係長になったばっかりやったから諦めよかともおもてんけどな、のとこやな」
「当たりや。なんでわかったん?」
「天才やからや」
「それは知っとる。具体的な理由やがな」
「れなは令和四年のクリスマスから、その次の年の俺の誕生日までは生理不順にになってない。ここでクリスマスパーティした後にうち来たとき、まず大丈夫や言うとった。大晦日にピアスと時計渡したときは妊娠はせんて言うた。ほんで大売り出しの三日目くらいに生理になるから嫌やとも言うとった。れなの性周期は29日やから確かにクリスマスの日は、まぁ、大丈夫やろ。大晦日の日はもちろん大丈夫や。そのまま予定通り生理が来たら一月四日や。確か新春売り出しの最中に生理になるいうLINEももろてたしな。次の生理は二月の二日や。そうすると排卵日は次に会うた二月の十六日から十八日、その日はなんも言わんかった。ご丁寧に安全日に避妊具も使わせたな。生理不順で子供が欲しない思うとるんやったら、その日は避妊具を使うたほうがええて言うたはずや。れなは行き当たりばったりな部分は多々あるけど、最初の決定に対してはシビアや。行き当たりばったりになるんは、その決定をしてからの対処に関してだけや。そら、何がどう転ぶかはやってみなわからんからな。ましてやいくら酔うとったにいうても子供をそんときに作るんが好ましないと思うとったら、生理不順で絶対、避妊具を使わんと性行為をするなんて杜撰なことせん。二月二日以降に生理があったかもしれんけど、その可能性は低い。内示が出たとしても一月半ば以降のはずや。れなの性格や、それを喜びはしてもストレスとして感じへん。もし感じたとしたら、そら係長になった四月以降、あるいは早うても三月以降や。まぁ、これはストレスやったかもしれんな。なんせ妊娠を隠してたんやから。しゃあけど、産前休暇は権利であって義務やない。れなやったら半年以上あったら引き継ぎしてもうて、主任か誰かに申し送りできる自信があったやろ。話はちょっとちゃうかもしれんけど、猪狩りの時に、初矢を真上に撃って、二の矢を苦しめん程度に急所から外して、しかも後から落ちてくる初矢で必殺やねんからな。係長になったあとも妊娠が原因で降格人事が行われへんこともわかっとった。そんなことしたら今の時代、マタハラやいうて大騒ぎになる。大手の百貨店がそんなことするわけない。せやから敢えて言わんかったんはその日か、次の日が排卵日やと確信しとったからや。次の生理が来んかったんときは妊娠やとわかってたはずや。生理不順のせいやとは思うてない。れなのことや三月十日に妊娠検査して陽性になってることを確認したやろ。あかねちゃんに電話したんもその頃のはずや。親友にええ加減なこと言うたらあかんで、ほんまに。そいで十八日の土曜日に産婦人科へ行ったやろ。ほんまは十一日に行きたかったんやろけど、親友の顔もたてなあかんしな。そんときのエコーの画像は母子手帳の間にでも大事にしもたあるんやろ。それと特殊な事情がない限り、計画的に作った子供を諦めるわけない。受精の日を俺の誕生日にしよ思うたことはええ心がけではあるけどな」
「特殊な事情てなんや?」
「妊娠中に特殊な血液検査したやろ?」
「うん、まぁ、三十歳超えてるし」
「先生の誕生日の日はわかっててしたんか?」
「俺がれなが決めた大事なことに水さしたことがあったか?細かいことも大概、聞いとるけどな」
「せやけど、来たときにあかねの子供かとか、離婚したんかとか言うたやないか?」
「三十一歳の女性が排卵日に性行為をして妊娠する確率は40%くらいや。それ以外の可能性を排除しただけや。しかも、連絡を絶ったりするもんやから、よけ解りづろなってもたしな」
「どの時点でわかったんや?」
「電話がかかってきた時点で大体はわかったよ。十一月九日に生まれたんならそろそろ育休も終わってる頃やしな。あかねちゃんの子供のことで泣きながら電話してこんやろし、結婚して子供ができてとっても、多分、まだ育休中か、どうかしたら産休中や。まぁ、カンファー・ビーフやら、Masazraワインでも想像できんでもなかったけどな。特にワインは意味深な名前やしな。デザインが銃と一緒やし」
「怖いわ、異常者!」
「その異常者の子供が欲しい思たんは誰や」
「頭のええ子が欲しかったんや。子供は賢いほうがええやないか」
「まぁ、聞きぃや、グレインフェッド・ビーフは十二月(令和三年)の二週目に持ってきたけど、あれはあくまで試食とプレゼン用や。せやなかったらクリスマス・ラムと重なってまう。そんな中途半端なことは、れなはせん。冷凍で持ってきたクリスマス・ラムはあくまでクリスマス・ラムとして販売した(令和三年十二月)。しゃあけど、メインの販売対象は日本人にやなかったはずや。在日のイスラム教徒、あるいは宗教上、牛肉や豚肉が食えん在日外国人が対象や。ガネーシャがええ例や。いきなりは売れへん、ええラム肉があるいうて噂が広まってじわじわくるヒットや。一年かけてゆっくり広めた。せやなかったらわざわざブランド名を『Halal Lamb』(令和五年)に変更する必要がない。その件は俺の誕生日の日にもちょっと話したよな」
「なんでそのこと知ってるん?」
「主税が持ってきた(令和五年五月)。あいつはI国とか、P国とか、そのあたりに顔聞くからな。あんまりあいつと深う関わらん方がええで」
「なんでや?」
「俺の子供やし、俺が言うのもなんやけど、あれはほんまの異常者やからな。普通に関わる分にはええ。しゃあけど、絶対深入りしたらあかん」
「なんの仕事してるん?」
「公認会計士となんか農業系の会社持っとる」
「なんで公認会計士が危険なんや?」
「公認会計士が危険なわけやない。本人が異常なだけや」
「どう異常なんよ?」
「簡単に言えばサイコパスや。よそで言うたらあかんぞ」
「レクター博士みたいな?」
「人は食わん」
「誰かに言うたらどうなるん?」
「どうにもならんとは思う。誰も信じへんだけや。表面上は真面目な会計士や。腰低いしな。けど付け回したりしたらあかんぞ。そもそもれなは人つけるん下手からな、俺に見つかるぐらいや」
「覚えてたんか?」
「あかねちゃんまで使こてつけたやないか」
「まぁ、せやけど」
「れながつけたからいうてなんもせんやろけど、他のやつに頼んでつけたらどうなるかわからんぞ。いうても後ろに回られて肩ツンツンされるだけやろな。あいつも頭ええからな。主税の話はええわ。話がずれてもたやないか」
「ごめん」
「一回目のクリスマス・ラムは冷凍やったけど、Halal Lambもチルドやった。二回目のクリスマスのときは煮込みにしてあったからわかりにくかったけど、チルドやいうとったやないか」
「なんでわかるんや?」
「せやから主税が持って来た言うとるやないか」
「いや、なんで冷凍とチルドの違いがわかるんや?」
「わかるからチルドに変えたんやろ。東野圭吾も小さい頃からいいものを食べている人は違うって白夜行の冒頭で言うとるやないか。まぁ、もう一つ目的があったんやろけどな」
「なんやのそれ?」
「わかってるくせに。カンファー・ビーフや」
「うん、まぁ」
「あれは間違いのう日本人向けや。口の肥えた日本人相手や、冷凍では輸入でけへん。しかも、低価格で国産牛に対抗するんやったら、絶対にチルドで入れる必要があったやろ。その定期的な輸送を確保する必要があったはずや。その前置きにHalal Lambや。それで味がどれぐらい違うかやら、輸送費がどれぐらい違うかやらみときたかったから失敗しても損害の少ないラムで試した。結果が上々やったから、その後、おんなじコンテナに販売用のカンファー・ビーフも積んできたんや。地下で試食会してんの見に行ってきたで。反応は上々やったな。さすがに食品の試食会や、指輪はしてへんかったけど、ピアスはつけとった。」
「なんで声かけてくれへんかったん?」
「れなの決定は尊重する言うたやないか。その時点で連絡を絶った理由はまだはっきりとはわかってなかったからな。ブランド名でまだ俺のこと気にはしてることわかって嬉しかったわ」
「先生、意地悪や」
「そらお互い様や。こっちは事情知らんねんから。まぁええ、そのカンファー・ビーフで係長の座は確実になった。俺はよその店舗で買うたけど、うまかったぞ。そやけどそれだけやったら、足らんかったはずや。その後になんかヒット出さな係長なったあと、すぐ産休とった間抜けな下級管理職になってまう。せやからMasazraワインはその後に取っといた。いずれにせよ葡萄の収穫が三月ごろになるから、製品として出来上がるのはもっと後や。とりあえずソビニオン・ブランとピノ・ノワールの新酒なら出せるやろけど、それだけやったらリーファーコンテナの元が取れへん。Nouveauは当たり外れが大きい。失敗こいたらMasazraワインに影響するさかいな。それは絶対にしとうなかった。産後休暇前の置き土産か、その後の手土産にするつもりやったんやろ。いずれにせよその年のワインの出来がどうかきっちり確認してからの輸入や。自分で行ったか、バイヤーに行かせたかまではわからんけど、多分、自分は飲めん体やからソムリエ連れてったんやろ。主税がHalal Lamb持ってきたんが四月の終わりか五月初めぐらい(令和五年)やったから、行けるかどうかは微妙な時期や。せやけどNouveauも味見できるし、一昨年のクリスマスに持ってきたラベルの付いてないあれとも比べられるええ時期や。多分、ワインヤードとの交渉もせないかんから行ってるはずや。樽買いで命名権も手に入れなあかんしな。ほんで産休前にちゃっちゃと試飲会とプレゼンして通ったら、まず、本店やなしに千中の店に出した。俺がそこにしか滅多にいかんからな。千中でそこそこ売れたから本店に出すことなって、ほんでバタバタしたから、すみれの面倒見きれんようになったんやろ。産前の置き土産と産後の手土産の一石二鳥や。正行の名前は生まれてくる子供が男でも女でもどっちでも関係なかった。語呂も良かったしな。もっとも男か女かは妊娠中の検査で知っとったやろけどな。楠木正成には男の子しかおらんかったしな。どや、大方おうとるやろ?せやけど、なんで銃の象嵌は女の子やったんや?あれだけはどうしても関連性がわからん」
「その通りや、先生大好きや」
と言ってキスをしてきた。
「大泣きした後で息が臭いぞ、歯ぐらい磨いてこいや」
「またそんな意地悪言う」
「冗談や。で象嵌はなんで女の子なんや?いくらなんでも産み分けはできんやろ?」
「先生はお花摘みしたことがあるか?ないやろ。女の子は綺麗な花見たら摘みたなるんや」
「それだけか?」
「せや」
「花いうたら謂わば哺乳動物の生殖器や。女は小さい頃から異種生物の性器をもぎ取るのが好きやいうことやな?」
「真面目な顔して何アホなこと言うてんねん。小さい女の子がそんなこと知る訳ないやろ。もうさっさと帰り。明日は早よ来てや」
わかった、と言って有情は一旦家に帰っていった。
翌日、有情はシャーロットの散歩に行き、二度寝をしてから射撃場に行き、1ラウンドだけ撃って湊川の家に行った。白石はまだ来ていなかった。それはともかく部屋も片付いていなかった。
「ほら昨日は寝てたけど、すみれやで」
「おー、かわいいなぁ。お母さんみたいな別嬪さんになるで」
そうは言ったものの有情はあまり小さな子供は好きではなかった。何人か子供はいたが、かわいがりだしたのは大抵少しでも意思の疎通が取れるようになってからだった。それまでは黙々とその時にしなければならないことをこなしていたという記憶しかなかった。もちろん、言葉を覚えさせなければならないので必要最小限の声かけはしてはいた。どうしても自分の言葉に対して無反応なのは苦手であった。触ったり、声をかけて笑ったりしてからでないとどうも苦手であった。
「なんや、全然片付いてないやないか」
「どっから手ぇつけてええかわからへん」
「まず、自分で洗濯出来るもんは洗濯機に入れて、洗濯屋に出すもんはなんかの袋に入れたら終いやろな。食いもんかてほとんど惣菜やねんからケース、ゴミ袋に入れたらええがな」
「今すみれ抱っこしてるからやってよ。れなかて疲れてるねんで」
「れなは去年(令和五年)の11月から、いや三月か、全部の状況知ってるけど、俺は昨日知ったばっかりやねんからな」
「ええから早よしてよ。あかね来るやん」
「この会社に着てく服、全部洗濯出すで」
「ええよ、そうして」
「そうしてて、どこに洗濯屋あるんや?」
「桃山台の駅にある」
「ほな明後日、仕事行く前に出せばええやないか」
「まぁ、せやな」
有情はスーツやシャツを袋に入れてまとめて玄関先に置いた。
「洗濯カゴはどこにあるんや?」
「トイレの向かいの風呂場の横に洗濯機があるから、その前に置いてある」
見にいくとカゴはカジュアルシャツや下着、ジーンズで一杯だった。
「これいっぱいやないか」
「まぁ、せやな」
「あかねちゃんが来るまでに間に合うわけないやないか」
「せやから早よ来ていうたやん」
「ここまで酷いと知らんかったがな」
ただ、有情と関わりだしてからは普段着が基本的にアメカジになっていたので、自分の服を洗うのと大差ないので助かった。ジーンズはポケットの中を確認して裏返して洗濯機に入れ、シャツはそのまま放り込んだ。下着に関してはわからないので湊川に来させ、どうすれば良いか聞いた。
「そのままで大丈夫やで」
と言われ、上から順に入れていったが、底の方になると陰部に当たる部分の変色が強いものがあった。
「このパンツいつからここに入ってるんや?カビ生えてるやないか」
「そんなわけあるはずないやないの」
「うわっ、臭っ。絶対カビや」
「ちょっと臭わんといてよ」
「せやかて一緒に洗われへんやないか。これ捨てた方がええで」
「洗たら大丈夫やよ」
「ちょう、臭てみぃや」
「うげっ、ほんま臭いわ。この三つは捨てるわ」
「その方がええと思うで。いつから入れてたんや?」
「多分、産休終わってから」
「そら臭なるわ」
それから有情は惣菜の食べかすとケースをまとめて袋に詰めた。
「ちょっと分別せな持ってってくれへんよ」
「うちの病院の廃棄物に捨てるからそれは気にせんでええ」
「もうすみれ寝とるからベッドに連れてって、散らかってる服やら下着集めて」
湊川はすみれをベビーベッドに連れて行き、上向きに寝させようとした。
「上向きに寝ささん方がええで」
「なんで?」
「絶壁になる。昨日、横向きに寝しとったやないか」
「そら髪の毛伸ばすやろから、男よりは目立たんけど、横向きに寝したほうがええで」
「そうなん?」
「せや」
「気ぃつけるわ」
「その方がええ」
その時インターホンが鳴った。ドアが施錠してなかったので、白石は
「れな、入るよ」
と言って玄関に入ってきた。
たたきにコンバースオールスターと右のつま先の汚れたジャックパーセルが並んでいるのを見て、湊川が有情に連絡して来させたことにすぐに気がついた。
「お久しぶりです、白石さん、あっ、今は宇都美さんですよね」
有情は言った。
「もう一年以上になりますね」
宇都美夫人が答えた。
「れなに呼ばれたんですか?」
「昨日の晩、連絡がありまして、電話口でずっと泣いてるものですから、気になって来ました。昨日は急だったので着の身着のまま来て、犬の散歩や餌やりがありましたし、今日は宇都美さんが来られるとのことで出直してきました」
「驚きませんでしたか?」
「多少は驚きました。以前に初詣に行った時に「恋愛成就」のお守りを買っていたので、てっきり結婚したのかと思っていました。それよりも部屋があまりにも汚かったので、そっちの方が驚きました」
「うーん、その「恋愛成就」の「恋愛」って多分、「有情先生との恋愛」のような気がしますけど。ていうか、そんな他人行儀な話し方しなくてもいいですよ。以前通り「あかね」でいいです」
「はぁ、まぁ」
「れなは手が一杯になると散らかすんですよ。前からそう。私がおる時や妊娠中はまだ良かってんけど、いざ出産してしまうと育休中でも無茶苦茶やったよ」
「なんかご迷惑かけてすみません」
「私はええんよ。時間のある時に来てるだけやから。それよりいっぺん連絡してもうたんやったら、覚悟したほうがええよ。絶対何からなんでも頼ってくるから」
「いや、まぁ、自分が蒔いた種ですから」
「それが発芽したわけやね」
「あかねさんもそういう冗談言うんですね」
「有情先生がいつまでも固い話し方するからやん」
わかりました、やめますと言っていつもの調子で話そうとしたが、余計に話し方がギクシャクしてしまった。
「ところでれなは先生になにせぇ言うたん?」
「六時ごろには帰るから迎えに行けとか、ここはペット禁止やないからシャーロット連れ来ても大丈夫やとか、晩ごはんは買うて来たるとか、射撃には昼間行ってもええとか言うてたけど」
「そんなん六時に帰ってこれるんやったら自分で迎えに行けるやん。あんな大きい犬連れてきたらあかんよ。ペット可やいうても猫とか一番大きいいうても豆柴ぐらいしかおらんのに。晩ごはんは自分も食べるから買うてくるかもしれんけど。射撃て、それは全然関係のない時間やん」
「それについては私も全く同じことを思いました。そもそもれなは今が子育ての一番楽な時期やいうこと自体わかってへん思います。そいで今日、あかねちゃんがくるから二人で相談せぇ言うとりました」
「ちょっとあかね、先生、何こそこそ話してんの。すみれが泣き出したやないの」
「シッコしたんちゃうか?」
「おシッコしたんやないの?」
ほぼ同時にそう言った。
有情が行ってみるとすみれは結構な量の排尿をしていた。手際良くそれを片付け、新しいオムツをつけてやるとすぐに泣き止んでまた寝息を立て始めた。その日は宅配のピザを取って食べた。湊川は千里中央でランチを食べようと言ったが、
「そんなことしたら今日、私が来たんが無駄になるやないの」
と宇都美夫人に一蹴された。
「れな、あんた分かってる、子供が出来たから言うてずっとミルクあげてたらええわけやないんよ。そのうちご飯も食べささなあかんようになるし、そうしたら保育所に行くか幼稚園に行くか決めなあかんし、小学校、中学校、高校、大学まで行ってやっと社会人なんよ。あんたもご両親に大学まで出してもろたやないの。大体、保育所と幼稚園の違いわかってる?」
「そんなんどっちも似たようなもんやんか。子供が昼間遊ぶところや」
宇都美夫人は有情の方を見た。
「れな、そらちょっとちゃうで。幼稚園は学校教育法で定められた教育施設や、せやから管轄も文部科学省や。保育所はなんらかの理由で親が面倒見られへんときに通所させて保育をしてもらうとこや。児童福祉法で決められた児童福祉施設や。せやから管轄は厚生労働省や。どっちも小学校で勉強がスムースに行えるようになるように「配慮」はするやろうけど、就学前の教育は基本的に保育所にはない」
「有情先生の方がまだまともやないの」
とつい言ってしまい、宇都美夫人はハッとして
「すみません」
と有情に謝った。
「ほな、すみれは幼稚園に行かす」
「あんた、幼稚園て何時に終わるかわかってるん?だいたい三時ぐらいに終わるねんで。誰が迎えに行くんよ?」
「先生に行ってもらう。昼間に射撃に行けるんやったら行けるやろ」
いや、それとこれとでは話が違う、と言いかけたところで宇都美夫人が言った。
「それは有情先生が仕事の暇な時に行ってるだけでしょ。毎日、毎日、暇とは限らんやないの」
「なんやのさっきから二人して、人のこと悪もんみたいにいうて」
「あんたが不倫して、奥さんが外国におるのええことに子供まで作ったからやないの」
こっちの毛色も悪くなってきそうだったので有情が口を挟んだ。
「まぁまぁ、その辺は私の方からいいふくめておきますので、まずは現時点の問題から解決していきましょう」
「そうやねえ、そこが問題やからね」
と素直に引き下がってくれた。
「昨日の晩考えてんけど、うちに夕方だけ家政婦入れて、俺とれなの夕食を作ってもろて、その間にシャーロットの散歩に行ってくるんはどうやろか?迎えに行くんは行けるからシャーロットの散歩の間だけすみれ見といてもろたらええし。それやったら多少、れなが遅なっても家から車で迎えにきたらしまいやし、飯も食うてけばええし」
「それやったらすみれ連れて、ご飯持って先生がここにきてよ」
「れな、ええかげんにしいよ」
「その辺は臨機応変にするがな」
結局、その日は幼稚園に行くか、保育所を続けるかといった先の話はせずに、有情が終業後にすみれを保育所に迎えに行き、家政婦を探すという結論に至った。宇都美夫人も何かの折りごとに成長に合わせて話し合いをし、その都度湊川に選択肢を与えて決めさせ、自分も早めに出産したいのですみれの成長を一緒に見守っていくとのことだった。しかし、家政婦が見つかるまでの間はどうしても有情がすみれを保育所に迎えに行った後、一旦桃山台の家に待機し、湊川が帰ってくるのを待たなければならないし、見つかったにせよ有情の家に、暫定的であるにせよ、育児道具を一揃い揃えなければならないことに変わりはなかった。また、そろそろ離乳食も与えなければならず、それも揃えなければならなかった。まさかと思ったが、ロタウイルス以外の6か月の予防接種に行っておらず、有情はすぐに有給休暇を取り小児科に連れて行った。医療従事者なのになぜ放っておいたのかと散々小言を言われた。その後家政婦も見つかり、すみれは順調に成長した。ちゃんと行くか怪しかったので、十か月検診も有情が連れて行った。やがて一人で立てるようになり、一歳の誕生日くらいにはほんの数歩ではあるが歩けるようになった。一歳の誕生日(令和六年)は有情に家で行った。せっかくだから桃山台でしようと言ったが、散らかっているからと却下された。この時には宇都美夫婦も来てくれて、一緒に祝ってくれた。さすがに宇都美(夫)もこの頃にはすみれの生まれた経緯を知っていたので、少し気後れしたが、宇都美夫人のほうがきっちりとフォローを入れてくれていたため
「有情先生もすっかり主夫ですね」
とからかわれる程度であり、悪印象を持たれている感じは全くなかった。その上、宇都美夫人も妊娠したようで嬉しそうに報告を受け、エコーの写真も見せてくれた。湊川は能天気に、乾杯しよう、と言ったが、妊婦は飲めないと本人から言われ
「ほな翔太先生と先生とれなで飲む」
と追い討ちかけた。
初め宇都美(夫)も妻の手前
「今日はちょっと遠慮します」
と言ったが、湊川に
「すみれのお祝いの酒が飲まれへんの?」
と半ば脅されるような形で結局結構な量を飲まされる羽目になっていた。
バブルで始まり、ビールを飲み、例の「Masazra」ワインを2本開けた。
「今日はれな、先生のうちに泊まる」
と言った。
その状態で一歳児を連れて帰る姿を想像し、その場にいた全員が同意した。




