19 妙義(みょうぎ)
ダン、ダン、ダン。ダン、ダン、ダン、ダン。
翌朝も湊川は地響きにも似た音で目が覚めた。
「ねぇ、先生。これなんの音なん?」
「ん、ああ。見に行く?」
「うん」
「まだ真っ暗やから、もうちょっとだけ明るなってから出よ。今のうちに虫除け塗っとき。蚊がひどいから」
「わかった」
湊川はバッグからエアロガード・トロピカルストレングスを取り出して腕にスプレーして伸ばした。
手についた分は顔や首に塗った。
蚊は普段、果汁などを吸っている。日本にいるいわゆる「ヤブ蚊」はヒトスジシマカが多いが、吸血するのはメスだけである。オスは吸血しない。メスが吸血するのは産卵のために栄養価の高い血液が必要なためで、一回で十分量吸血できればそれ以上は吸血しない。また、人から吸血する際には一旦、皮膚の上にとまり、狙いを定めて吸血する。桃など表面に毛のはえた果物の果汁を吸うときにもこの動作を行う。ここの蚊は名前こそ知らなかったが、日本のヤブ蚊とは異なり、皮膚にたかるとのべつまくなしに吸血吻を突き刺してきて、刺されば吸血する。大きさも小さなガガンボほどあり、非常にタチが悪い。
有情は一応、湊川にアーチェリーを持って行かせることにした。おそらくこの「ダン、ダン」と音を立てる動物を撃つことはないと思われたが、藪を抜けたところに豚小屋があり、食用の豚を飼っている為、たまにそのおこぼれに与ろうと野生の豚が周囲を徘徊することがあった。それがいればラッキーである。朝早くなので銃は置いていくことにした。ロッジを出て、ダイニングとは反対側に足音を潜めて歩いて行った。その間もダン、ダンという音は聞こえていた。しばらく歩くと「それ」はいた。細長い顔をして注意深くこちらを見ていた。音の主はアカカンガルーであった。
「あれを撃つの」
湊川は聞いてきた。
「あれは撃ったらあかん。ワラビーなら撃ってもええ」
有情は答えた。
アカカンガルーは柴犬のような色をしていた。ワラビーはグレーである。形はほとんど変わらないが、大きさが小さい。
「ワラビーの毛はすごい柔こうて手触りがええで。ただそれ以外に使い道がない」
「そんなに手触りがええの?」
「確かにええけど、それで撃つと毛皮に穴が開く。もしどうしても欲しいんやったら、俺が毛皮に穴を開けずに撃ったる」
「いや、撃たんでもええ。どうしても毛皮が欲しなったらお願いすかもしれんけど、あれは見てるだけで十分や」
「まぁ、そういうやろとは思とったけどな」
「ほななんでこれ持ってきたん?」
「この藪でたら豚小屋があって、たまに野生の豚が餌狙うて周りおることがあるんや」
有情たちはしばらく飛び跳ねるカンガルーを観察した。そのときカンガルーより小型の違った色の動物がいた。
「あの小さいのがワラビーや。あれなら撃っても構わんけど」
「あれはやめとこかな」
「まぁ、任せる。後でかわいそうや思うても遅いからな」
「せやけど、ここの蚊なんなん?突っつき回してくる」
「これ、かなんねん。痒いし」
「よっしゃ、豚小屋見に行ってみよか」
「うん、おるかな」
「そら行ってみなわからんわ」
「あそこや。ちょっと遠巻きに見てみよか」
二人は豚小屋の周りを大回りに見て歩いた。
「おるけど、メスや」
「どれ?」
「あそこの角んとこおる」
「撃つか?」
「うん」
「方向考えて撃たなあかんで。外して矢が豚小屋の中に入ったらいかんからな」
「大丈夫や。そっちのブッシュの影から撃つ」
「こっから見とくわ」
「ちょっと行ってくるな」
「うん」
湊川はブッシュまで行き、その影から立ち上がり、一気に弓を引いた。
「れな、ちょう待ち。後ろにまだおるぞ。オスかもしれん」
湊川は弓を戻した。有情の位置から子豚が一頭見えた。
「れな、あらあかんわ。子豚連れとる」
湊川は有情のところに戻って来て、一緒に確認した。
「ほんまや、おるわ。後ろにもまだ二つおる」
「このままここで待機して、もしオスが来たら撃ち」
「あの親子と関係ないんか?」
「絶対とは言わんけど、多分関係ない。オスは子育てせん」
いずれにせよ、その朝は矢を発射する機会はなかった。
朝食の席で湊川は聞いた
「毛皮に穴を開けずに撃つってどうやるん?」
「尻の穴か、陰部から撃ちこんで、体表面に貫通せん位置で銃弾を止めるんや」
「
へぇ、よう考えたな」
そう言いながら有情ならできるだろうなとも思った。
「ただな、あいつらは他の動物と違って移動に大きな尻尾を使うから、そう簡単にはいかんねん。あんまり期待せんとき」
確かにその通りでもあった。しかも、見た目もかわいいので毛皮目的だけで撃つのも躊躇われた。
「いや、あれはやっぱりええわ。食べるんならともかく、かわいいし」
「まぁ、見た目の美醜で命の重さは変わらんねんけど、豚とはちゃうわな。豚なら食えるからな。ただ、尻尾のスープはうまいらしいで」
「ほんまかいな?」
「硬そうな気はするけど、煮込めば美味いって聞いたことはある。無理に食う必要があるほどうもうはない気はする」
「うん、まずは本懐を果たさないかん。今日は頑張るわ」
「せやな、それが一番や」
「このベーコンてハントした豚やろか、それとも豚小屋の豚潰したんやろか?」
「そこまではわからんわ」
「もし豚とれたらベーコンにしてくれるやろか?」
「いやぁ、短時間でできるわけやないし、難しいんやないか?バービーなら頼めば大丈夫やと思うけど、硬いかもしれんで」
「いや、硬うても食べる。先生も食べて供養せなあかん言うてたし」
「昨日の小さいのなら血抜きも完璧やし、あれなら美味しく食えると思うで」
「自分で撃ったんも食べてみる」
「背骨の内側のフィレ切り出そか」
「それって美味しいん?」
「一番柔らかいはずや。味は変わらんと思う」
「残りはどうするん?」
「牙外して、そのまま置いといたらディンゴやらハリア・ホークが食うし、場所によってはワニが食うから心配いらん。その場で抜けんかったらスタンに頼んだら煮込んで外してくれるわ。頭だけ持って帰ったらええ」
「Circle of life やな」
「ちょっと微妙やけど、まぁそうやな。それはそうと、れな。五臓六腑て聞いたことあるやろ?その五臓と六腑言うたらなんか知ってるか?」
「なんやねん、急に。五臓は心臓、肝臓、膵臓、脾臓、腎臓で六腑はそれ以外やないんか?」
「惜しいけどちゃうな。膵臓やのうて肺が五臓やな。
「膵臓って臓てついてるやん」
「まぁ、昔の話やからあれやけど、膵臓は小さいから見落とされてたんや。チャイニーズ・メディシンやから俺もようは知らんねんけどな」
「なんでそんなこと知ってるんや?」
「Verbal IQ 151やからな」
「自慢か!」
そうは言ったものの有情が単に雑学を自慢するだけにそれを言ったのではないことはわかっていた。
しかし、なぜ、今それを口にしたかがわからなかった。
「よっしゃ、ほな行こか。今日は大きいタスクを持った豚おったらええな」
「うん、楽しみや」
ハンティングツアーの二日目はそうして始まった。
行程は前日とそう変わりはなかった。狩猟用の四駆で荒野を走り回り、獲物を探すだけである。もちろん、コースは若干違っていた。「今日は水場を見て回る」とのことだった。
日本のイノシシにしてもそうだが、野生の豚もその習性は似たり寄ったりである。基本的には夜間行動することが多い。ただ暑くなると水浴びをして体表面を冷やすことはよくある。あとは藪の中で寝ていたり、逆に日向ぼっこをしていたりしている。
水場に着いて周りを見渡したが、豚の姿は見えなかった。もう少し走ると別の水場があった。そこに一頭の豚が呑気に水浴びしている姿があった。
「おった、おった。れな降り。静にな」
「わかった」
湊川は四駆の助手席からそろっと降りた。
十分狙える距離まで行ったが、弓を引こうとはしなかった。
「どないしたんや?」
「ちょっと牙、小さない?」
「俺、よう見えへん。何センチぐらいある?」
「10cmあるかないかやで」
「体大きいのにな。でも初の獲物やから撃ってみたらどうや?」
「うーん、いや、やめとくわ。せっかく撃っても牙小さいんやったら、殺すんかわいそうや」
「もうおらんかもしれんぞ」
「いや、それも運や。大きいのしか殺らん」
「生意気な口聞くようになったな。まだ、ハンティング始めて二日目のくせに」
「へへぇ」
有情はそんな湊川の額にキスをした。塩辛かった。
『She won’t shoot him, coz tasks are too small』(牙が小さすぎるて)
『OK, she’s the boss』(おまかせしますよ)スタンは言った。
昼食は水場の外れの木陰で食べた。そのときに今後の予定を話し合った。その日の獲物いかんに関わらず、翌日は釣りをしてみることを有情は提案した。スタンはもちろん同意したし、湊川も何が釣れるのか知りたかったようであり、また、初日に食べたクロダイが本来どのような姿をしているのを知りたかったようで特に反対はしなかった。それで翌日の予定はすぐに決まった。
『もしかしたらバラマンディが釣れるかもよ』
『どんな魚?』
『日本でいうアカメ、それか有名どころで言えばナイルパーチかな』
『どっちも知らんわ』
『釣れたらわかるわ』
午後からは灌木の中の巣穴探しをしたが、営巣した形跡はあるものの本体はなかなか見つからなかった。日が傾きかけた頃、それはいた。広場のような短い草木しかないところに小さな岩山があった。その上で大きな豚が昼寝していた。少し離れたところに車を停めて、まず湊川、そして有情の順に降りていった。横から狙おうとはしたものの、V字型になった岩の間で寝ており、真正面から狙うことしかできなかった。真正面から狙うとなると硬い前頭骨を貫通しなければならない。そのためにはある程度近くまで近寄ってから矢を発射する必要がある。前回のようにこちらに向かって来さえすれば問題はないが、寝ているところを起こされては、さすがに逃げるだろうと考えられた。
「可能な限り近こう寄って、眉間の少し上を撃ちや。ただし、こっちに気づいたらその場で撃たなあかんで。せやから、ある程度近づいたら、その時点で弓は引いときや」
有情は言った。
湊川は矢を二本クイーバーから抜き、そのうちの一本を番え、もう一本はリリースエイドと一緒に握られていた。40mくらいまで近寄ることができたが、そこから先は砂利が多く、歩くと気づかれそうだったため、そこから撃つようだった。一矢目を撃つときに何故か湊川は二矢目を左手に持っていた。一矢目はほぼ真上に撃った。その瞬間、豚は目を覚ました。すぐ次の矢を番えて会を作り、豚の眉間のすぐ上を狙い発射した。カンと乾いた音がして、豚は「ピギャー」と声をあげてその場で動かなくなった。
「よっしゃ、行くで」
「先生、危ないから今行ったらあかん。動き出したときのために銃だけ構えとって」
「えっ?」
そのとき湊川の指先が空を指し、それが徐々に下がってきた。初めに放った矢だった。その矢は動かなくなった豚に一直線に落ちていき首の後ろ側に深々と突き刺さった。豚はもう一度「ピギャ」っと小さく鳴いた。
「一矢目で逃げたらどうするつもりやったんや?」
有情は尋ねた。
「そんときは先生のそれがあるやん」とライフルを指差した。
「そうなるとれなが獲ったことにならんやないか」
「先生、勘違いせんといてや。そらスタンも含めて、皆一緒にれなに狩らしてくれとることには感謝しとるし、楽しいし、うれしいで。でもな、こうやって先生とおんなじ時間を共有しとることが一番幸せなんや。早よ行って記念写真撮ろ。れなの初の獲物やで」
「お、おぅ」
そう言って息絶えた豚の元に走って行った。有情とスタンは後から車で獲物の近くまで来た。
湊川はまず岩山の上にいる豚と一緒に写真をとり、三人で岩山から引きずり下ろして再度写真を撮った。有情も一緒に入るように言ってまた一枚、今度はスタンと一枚撮影した。有情はどうも違う方向から矢が刺さっているのが気になり背中の矢を抜こうとした。
「そっちは抜かんといて。抜くんやったら頭の方抜いて」
「致命傷はこっちやで」
「ちゃう、致命傷は首の矢や。一番近くで見とったからわかる」
「ほんまかいな?」
「ほんまや。二の矢は死なんけど、動けんようになる程度に外してある」
確かに矢は有情が伝えた位置より少し上に当たってはいた。そういえば一の矢が当たった瞬間にも小さな声が聞こえた気もした。
「まぁ、たまたまやけどな」
「れな、一つだけ聞いてええか?」
「一の矢で豚が起きんかったら二の矢は撃ったか?」
「状況によるがな」
「どんな状況や?」
「二つ聞いとるやない。風が急に吹いたり、一の矢を失敗してたりしたら撃った」
「なんであんな打ち方思いつたんや?」
「三つ目や。あれは昔、なんかのドキュメンタリーでアマゾンかどっかの原住民が亀、矢で撃つんみたんや。小舟で川進んでてな、亀見つけたら上向いて撃つねん。それが百発百中やってん。せやけど、そんな撃ち方できるとこはなかってん。弓道場は構造上でけへんし、先生の裏山ならできんこともなかったけど、あの時はコンパウンドボウ使うの初めてやったし。
「当てる自信はあったんやな?」
「四つ目。堂射は120mやで。D大学はT流や」
「大学でもやっとったんか?」
「いくつ聞くつもりや。堂射だけ参加してた」
「一晩中、何百発も撃つあれか?」
「いや、一発だけや」
「何撃つんや?」
「袋に藁かなんか詰めた人形や」
「百三十メートルはなれた人形をか?」
「まぁ。それなりの場所狙わなあかんけどな」
「ゴルゴ13か」
「失礼やな、れなはテロリストやない。それ前にあかねが先生のこと、ゴルゴ13か、言うから、先生はテロリストやないて、かばったったんやからな。」
「いや、びっくりしただけや。れながテロリストやないことぐらいわかってるがな。そやけど、なんかちょっと勘違いしてるぞ。ゴルゴ13は確かに人殺しかもしれんが、それは漫画の話や。普通にゴルゴ13言うたら褒め言葉の意味合いの方が強いと思うで」
「まぁ、ええわ。頭の矢抜いてええか?」
「そら構わんけど、それなりの穴空いてるぞ」
湊川は矢を反時計回りに回してブロードヘッドを頭に残し、なるべく血が出ないようにして抜いた。
「先生、首に巻いてるタオル貸して」
有情は首に巻いたタオルを湊川に渡した。そのタオルで顔や頭についた血をきれいに拭いて
「これで顔を横に向けてやな、こっち側に座って、穴にさりげのう、手ぇ当てて、顔上向けたら首の一発で仕留めたみたいに見えるやろ」
とぶつぶつ言いながら大きな豚を抱き抱えた。その写真がステーションのホームページの「Wild Boars」の先頭に載ったことは言うまでもなかった。
有情はその後、先述の通り内臓を取り出して、背骨の内側にあるヒレ肉を切り出し、胃のあたりにある細長い臓器を取り出し、内臓を覆う脂肪組織でくるみ、ヒレ肉はタオルで包み、内臓片はZiploc に入れて「君の膵臓が食べたい」などと冗談を言いながらZiploc に入れた方だけ湊川に投げてよこした。
「これが意外にうまいんや」
湊川はこの時、初めて 朝食の時に五臓六腑の話をしたか理解した。




