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1 卒爾(そつじ)

 有情は人混みが好きではない。大阪で生まれ、大学卒業まで同地で過ごしたが、都会の喧騒にはどうしても馴染めなかった。満員電車や渋滞に巻き込まれることを特に嫌った。学生時代はよくドライブに出かけ、市街地よりも山道や林道を走ることを好んだ。女の子を乗せることもあったが、「なぜこんな道を走るのか」と不思議がられることも多かった。今でも食事に行くなら繁華街より郊外の静かな店を選ぶ。


 その日、有情はハービス大阪で行われた医療関連の研修会に参加するため梅田に来ていた。三日間の研修のうち実務的な内容はともかく、法律の講義は京都の大学の准教授が障碍者の権利ばかりを強調するもので、有情は内心うんざりしていた。問題が起き警察まで出てくる状況で、まず治療を受ける義務の話が必要ではないのか、と思わずにはいられなかった。研修は最終日の午後三時半に終わった。


 「今帰っても誰もおらんな」


 そう思った有情は、解禁を迎えた渓流のことを思い浮かべながら、久しぶりに心斎橋のフライショップへ向かった。帰宅ラッシュにはまだ早く、地下鉄の車内はそれほど混んではいなかった。


 店内には他に客がいない。ゆっくりとマテリアルを選べる時間は有情にとって至福だった。フライフィッシングの毛鉤は、針をバイスと呼ばれる万力に固定し、糸で獣毛や鳥の羽、化学繊維を巻き付けて作る。手に取った素材が完成した毛鉤へと姿を変える様子を想像すると、それだけで楽しい。


 ぼんやり眺めていると店員が声をかけてきた。

 「竹ではなくグラスブランクで仕上げた限定のロッドが少し入ったんです。見てみませんか?」


 有情は蒐集癖がありロッドは多く持っていたが、実際に使うのは気に入った数本だけだった。それらのグリップは使い込まれて黒く変色している。


 「先生好みの短くて柔らかいモデルもありますよ」


 そう言われて振ってみると、シガーグリップの感触が手に馴染んだ。丸いブランクは落ち着いた赤色で、ガイドスレッドも同系統の濃い色。見た目も美しい。床に座って軽く振ると、グリップの奥からしなりが伝わってくる。値段は六万六千円。バンブーロッドの四分の一ほどだった。


「オイカワでも十分曲がりますよ」


という店員の一言で、結局買ってしまった。


 学生時代の有情は今よりずっと金回りがよかった。車検のたびに外車を乗り換え、クレー射撃用の銃もイタリア製のペラッチを使っていた。中古の外車が買えるほどの値段だった。しかしその生活は長く続かなかった。何より仕事への勤勉さが足りなかった。フライフィッシングと射撃に取り憑かれた有情は、山奥の渓流を求めて職場を転々とした。派遣会社の営業と組み、病院の就任一時金の一部を手に入れることさえあった。海外遠征の費用を捻出するため、高価な銃も売ってしまった。


 体力的に山奥へ入るのが難しくなった頃、クレー射撃は再開したが、以前のような銃を買う余裕はなかった。


 それでも新しいロッドを手に入れた満足感で気分は良かった。学生時代によく通った寿司屋で軽く食事をし、小瓶のビールを一本飲む。大学の同級生に連絡してもう一軒行くことも考えたが、どうせゴルフや車の自慢話になるだけだろうと思い直した。


 ふと、道頓堀川沿いのビルの一階にあった洒落たショットバーを思い出した。記憶を頼りに行ってみると、店はまだ残っていた。奥の席に座り、川を眺めながらラフロイグの水割りを頼む。水面を見てもライズリングは見えない。


 ラフロイグは消毒薬のような独特の香りがする。有情はその匂いが好きだった。医者になった頃は消毒といえばイソジンだった。そんなことを思い出しながら、これまでのフライフィッシング人生をぼんやり振り返っていた。


 その時、突然若い女に声をかけられた。


 「ちょっとおじさん、何一人で飲んでニヤニヤしてるん?」


 振り向くと、整った顔立ちだが背の高い女だった。


 「昔のことをちょっと思い出してただけや」


 そう答えると、女はケタケタ笑った。湊川というその女は少し酔っているようで、なぜか急にカレーの話を始めた。


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