昭和70年代若者は戦争を知らいない世代、フーテンも多く今よりずっと気楽で自由な社会であった。しかし、社会の矛盾や不満が若者たちを苦しめた。
序章 サンシャインコートの落日
サンシャインコートのホテルの前の海岸で落日の時間を、楽しんでいる。もう、落日から三十分は過ぎた。もうすぐ海岸線とホテル群の向こうに沈んで行く。さざなみがますます強く波をこちら側へと打ち寄せてくる。細かい波が永遠にこちら向かって来る。
子供の頃、近くの川で、眺めていたさざ波とは規模や迫力が違う。しかし何か懐かしい、落ち着いた気持ちになる。平安な静粛な地球の鼓動に包まれているような安らかな気持ちで、このままずっとここにいたい。
人間は年を加えるごとに、感性が鈍り、脳も委縮していく。そんな中でも過去の思い出だけは鮮やかに思い浮かべることはできる。これは、認知症を患っている方達でも、昔のことはよく覚えている。しかし、目の前にいる人物、いわゆる現在の事は認知できないことが多い。村山も母が認知症になったときに、「あんた誰や?」と言われた時のショックを思い出す。自分も悲しいが、それ以上に母も悲しいのだろうと思った。人間の一生なんてあっという間に終わるとよく言われる。確かに、気が付けば三十代、四十代、五十代、六十代、七十代、八十代、九十代、そして百歳超え、ああなんという日めくりだろうか。先へ先へと進めていくことはできるが、後へは戻れない。過去の自分に遭いに行くことはできない。前へ前へと進む以外方法はない。これが生きるということなのかと改めて気が付く。
どんなにゆっくり生きても急いで生きても、年は過ぎ、やがて死んでいく運命なのが人間なのか。生き急ぐことは死に急ぐことになる。昔の学徒特攻隊やもっと昔の戦国時代の若者たち、それよりずっと昔の原始時代から旧石器時代、縄文時代、弥生時代、奈良時代、鎌倉時代などすべての時代の若者は早死にしてきた。
現在人だけが長生きする。これはかつての人類が経験のしたこのことのない異常事態なのだ。誰が普通に生きれば百歳を超えられる時代が到来することなど創造できたであろうか。それが今、目の前に到来しているのである。
そんなことを考えながら、たそがれているとあっという間に時間が過ぎていた。少し寒くなってきた。宿泊するホテルへ戻り、早く温かい食べものを食べたくなった。
砂浜の前にたたずんでいる九階建てのホテルが我々が泊まるホテルである。家族でぞろぞろと砂浜から続く公園を横切り、ホテルの方へ向かって歩いた。少し暗くなりつつあったので、足元に注意しながら歩いた。ホテルに到着すると、すこし風がなくなったせいで温かく感じた。エレベータで七階まで上がり、一番端の部屋に我々が泊まる部屋がある。
娘婿が手配してくれた部屋である。三LDKで、それどれの部屋にバスルームとトイレが付いている豪華なホテルである。孫たちの部屋、娘夫婦の部屋、村山たちの部屋に分かれていた。夕ご飯はパスタと唐揚げであった。
ビールを飲みながら、食べるパスタも唐揚げも温かく、胃も喜んでいるようであった。テレビではドラマをやっていた。結構サスペンスドラマが面白く、連続して観ていた。孫たちはアイパッドやスマホでゲームをして楽しんでいた。それほどワイワイしゃべるでもなく、それどれの自分が楽しいことをやっていた。これが、日本とは違うところなんだなぁと思いながら、ジョージは異国の風習や生活を楽しんでいた。とにかく何をしても自由で気楽で気を使うことがない、この世界、この空間、この家族が最高だと思う。
明日はこのホテルを出て、ブリスベン空港へ向かう。約1時間半位かかる。娘婿が運転する8人乗りの日本製のバンにスーツケースを後部座席の横と後の荷物スペースにおいた。孫は一人で3列目に座り、その横はスーツケース、2列目は村山たち夫婦ともう一人の孫、最前列には娘が座り、ナビゲートをする。
車の中でも孫はゲームをしていた。途中3列目に座っていた孫が眠くなりやがて寝た。大自然の杉木立のような樹木が続く路を走り続けた。途中小さなタウンや集落があったが、あっという間に通り過ぎた。昔はよく栄えていたらしい。サーフィンやボート遊びが盛んな地域であったと、運転しながら義理に息子が教えてくれた。2時間近く揺られていたら、ブリスベンから飛び立つ飛行機の大きな影が見えた。もう直ぐ空港に着けそうである。
第1章 恋する革命家の夢
どうして、世間とは、こうも棲みにくいところなのだろう。会社へ行っても、学校へ行ってもどこへ行っても、僕の心はいつも虚しく、流れに押し潰される。
どうして、自分はこんなに弱い人間なのか。ときたま、僕は、いっそ死んでしまった方が良いのかと考える。しかし、例え、僕が死んだとしても、そのことによって何事も解決せず。何も回避することさえできない。ただ、今、分っていることいることと言えば、家族や友人は悲しむだろうし私を支え信じてくれたみんなに迷惑をかけてしまうことになることだけである。結局、死を選んだとしても、自己満足以外の何物でもないことに落ち着き、結局は生きることに堕してしまう。
それなら、今のこの醜い現状とそれに対応しようと努力する自分の行為を拒否した方が良さそうだ。しからば、真に人間的であるということとは、現状に生きつつ、それらから自分を逃避させずに不屈に人々の幸せを願っていくことなのか。
逃げることは卑法なやり方だ。常に前を見つめて進まなければならない。明日への架け橋はそこからしか生まれてこないのだ。
それにしても、このやるせなさはどこから来るのか。いくら観念的に頭の中だけで考えを巡らせても、実情の世界はそれを受け入れてはくれない。世間というところは、そんなに大きな器量は一切持ち合わせてはいない。
そういう結論に至った時、僕は恋人にでも振られたような深い悲しみと絶望感を感じてしまう。一体どうしたら、僕は僕らしく生きられるのだろう。頭だけ大きくて体が小さい人間のように、自分がとてもちぐはぐに思えてしまう。
ところで、今年二十二歳になってしまった僕から言わせてもらうが、昔の僕は世間受けがとても良かった。「いい子やなぁ」「愛想のええ子やなぁ」「おとなしい子やなぁ」とその僕に対する世間の人たちの評判はすこぶる良かった。
しかし、そう言われた時でさえも、例えそんな言葉を百万遍言われたとしても、僕は一向に嬉しくは無かった。
それは、その言葉の裏には、僕が貧乏人の家に生まれて、卑屈な、それで従順な性格に見えただけだと思うからだ。真実の自分に対してかけられた言葉ではなく、上から目線の金持ちたちがよく言う、聞こえのよい上辺だけのリップサービスであることに僕は気が付いていたのだ。
それで、僕は彼らの意識の中にある自分に対するイメージを、なんとか崩してやりたいということばかりを願っていたのだ。
何故なんだって言われたら、ただそこから、本当の自分らしい人生が生きられるし、明日への希望が湧いてくるからだ。自己の中にある本当の自分、頭でっかちではなく、ちょうどいい自分の寸法にあった生き方ができるからだ。
人間は自己の中の自己の言うとおりに生きなければならないのだろうか。真面目な人は真面目に、従順な人は従順に、活発な人は活発に、頭の良い人は頭が良いようにユーモアのある人はユーモアのある人として生きなければ世間から変人、奇人として見られてしまうのだろうか。
とは言っても、貧乏人が社会の中で生きていこうとすれば、従順にならざるを得ない。猫をかぶったように良い人らしく、真面目に働かないと、社会は一人前の人間としては認めてくれない。
一方、金持ちの人たちはというと、たぶん生まれたときから、そんな演技も必要なく自分らしく生きられるに違いない。自己に忠実に生きられる環境がそろっているのだ。見栄を張る必要もないし、意地を張る必要もない。
僕はというと、自己の殻にと閉じ籠もることなく、社会に心を開き、素直に生きていくべきだと思う。古い観念を捨てて、新しい社会の道を歩みつつ、現状の中で媚びることなく威張ることなく素直に生きたい。
こんなことを胸に今日も、大学へと向かった。大学とは言っても、夜間の大学だ。私たち貧乏人が勉強をしたい、大学へ行きたいという願いを、自分自身の力で勝ち取れる方法が、昼間働き夜は勉強する学生を世間の奴らは「苦学生は大変やねぇ。よう頑張るわ」といつも言ってくる、あの苦学生である。しかし、世間の人たちが思うほど、苦労をした気もないし、頑張っている気にもさらさらない。普通なのだ。自分にとっては当たり前のことなのだ。それをさも貧乏人は苦労するなぁと言わんばかりの顔をして、気の毒そうに言ってくる。それが、本当はムカつくし、いい加減にしてくれ、俺たちは夜の大学でも普通の大学として感じている。十分エンジョイもしているのだ。知ったか振りをするのはやめてほしい。
阪急淡路の駅は、三和銀行側の改札口から入るが、その前の道は、結構狭い上よく車が通り非常に危険である。慌てて渡ろうとするといきなり、乱暴な車が歩行車そっちのけで突っ込んでくる。思わず、後ずさりを余儀なくされる。よくもこんな狭い所に駅を作ったもんだ、客待ちのタクシーも駅舎にくっ付いて止まっている。わざわざこんな通行の邪魔になるところに止めなくてもええやろうとぼやいてしまう。
やっとのことで、改札口を通り、これまた狭い階段を降り、小さな売店を横目で見ながら暗い通路を3メートルほど行くとか北千里や京都方面行のホームへ上がる階段がある。そこをさらに奥の方へ進むと、別の階段がある。この階段を上がれば、梅田や天六方面へ向かう電車のホームがある。夕方のラッシュ時になると、この狭いホームは、大変危険な様相を呈する。梅田方面へと向かう電車から、天下茶屋など市営地下鉄に向かう電車に乗り換える乗客と、出口へ向かう乗客とが交差する隙間を縫うように、電車に乗り込まなければならないからだ。
阪急電車は、他の電車に比べると、電車の雰囲気が良いとよくいわれる。もちろん木目調の内装や、高級スェード生地のシートなどは、高級感がある。宝塚線などの沿線はさぞかし乗客も高級なのだろう。その一方、こちらの堺筋線は、それほどでもなく、どちらかというと庶民やサラリーマンなどが多いように思える。それでも、長髪で、裾がほどけたジーンズを穿いた自分の姿はヒッピーにも見える。それで、時々は、自分が貧乏くさく、野暮ったく思われてはいないか他人の目が気になる。それでも少しは、虚栄を張って、電車の中では、本当は普通の学生なんやというような顔をして乗ることにしている。
長柄橋から見える、夕暮れ時の淀川は奇麗である。葦の葉が茂り、十三大橋の向こうの方の空に沈んでいく夕日が、淀川の川面を照らし、土手を散歩する人々を赤く照らして一幅の絵画を見ているような気分にさせてくれる。その余韻に浸っている間に、電車は地下へと潜り込んで行った。天六からは大阪市営地下鉄の領域に入る。阪急電車と相互乗り入れをしているのである。ホームの一番後ろの出口が大学に近いので、そちらの方向にむかって、ホームから上へ上がり、改札を出た後からしばらく地下の通路をまっすぐ歩いていけば地上へ出られる。地上に出ると雰囲気が一気に変わる。天六商店街から天七商店街へと続いており、居酒屋、スナック、パチンコ店、衣服店や喫茶店などが軒を連ねて並んでいる。しかし、天七商店街からは頭上のアーケードはなくなる、日本一長いと言われる天神橋商店街は一丁目から八丁目まで続くが、一丁目と七丁目と八丁目にはアーケードはない。
その天七商店街を長柄橋方面へしばらく進み、大きな道路を右手の方へ進むと、三叉路にぶつかる。そこを左に曲がるとすぐに大学が見えてくる。その周辺には学生がよく立ち寄る学生街らしい喫茶店や古本店などが並んでいる。百年以上も前にできた大学である。校門も立派な石造りである。校舎も石造りの歴史と風格が漂う風貌である。この大学の過去の卒業生は、法曹界をはじめ各界で活躍され、多くの大阪商人などもこの大学の出身者が多い。昔はここがこの大学の中心的学舎であったが、今は、この学舎は夜間部に通う学生達が主に使っている。
村山三郎は、この大学をこの年の二年後に卒業して、サラリーマンとして四十年間働き続けこの春、定年退職した。三人の子供と妻との五人家族で、平平凡凡ながら、どうにかこうにか世間並みの生活ができ、四十年間生き延びてこられた。しかし、四十二年前あの時の自分が、なにかやり残したことがあるような、成し遂げなければならない使命があったと思う。それが、普通の生活を送ることにより見失ってしまったような、すっきりしない気持ちでいる。できることならば、あの時の自分に出会って、本当に何をしたかったのか、どういう人生を生きたかったのかをもう一度その時の自分に問い質したいと思いにかられて自宅の3階の子供部屋の奥深く眠っていた四十二年前の日記を探し出した。
平成二十六年のそんな折も折、奇しくも、我が青春の汗と涙とが一杯詰まった天六学舎が取り壊されることになってしまった。この間、大学時代の古くからの友人でありかつ親友でもある西田和男から電話がかかってきて、学舎が取り壊される前に皆で記念写真を撮りたいと私を誘ってきた。断る理由もなく、二つ返事で引き受けた。大体こういう時は、西田は発起人みたいなもので実質的な事務局は、村山が連絡役を任される。九月のシルバーウィークの終わりごろが良いということになった。今から二週間で、連絡できるとことはすべて連絡することにした。取敢えず、手は打つだけ打ったので、西田には申し訳ができる。あとは、何人集まるかだけだ。
久しぶりの再会だった。何度か連絡を取り合っている学友もおれば、卒業後ほとんど連絡がなかった学友もいた。そういうことで、私たちは懐かしい天六学舎の門の前に集合することになった。何しろ、四十二年ぶりである。少し、不安を抱えて、門の前に着くと、門の向かい側のビルの前の植木を植えている花壇のコンクリートの枠の縁に座っている一人の老人に目を向けた。もしや、ひょっとしたら学友の大引君かと思い、とりあえず、勇気を出して、近付いて聞いてみることにした。「大引か?」「おう、そうや」「村山か?」「そうや!」「久し振りやなぁ。すっかり変わってしまったなぁ。」「ああ」「全然わからなかったよ」
何と驚いたことに彼は、予想通り大引義男くんであった。
すっかり容貌も変わっており、雰囲気も学生時代とは全く異なり、想像でき難いぐらいであった。学生時代は小柄だががっちりとした体格で、筋肉も鍛え上がれて、胸も厚かった。しかし、今目の前にいる大引は、小太りで、特に頭のてっぺんあたりの毛はほとんど無くなり残っている毛も白髪が大半であった。目の前にいるのが、あの元気で筋肉質の小宮山かと、私は不思議な感動を覚えた。
その余韻に浸る間もないぐらいに、次から次へと学友達が集まってきた。皆、どの顔も笑みがこぼれ、久し振りの再会の喜びを全身で表わしていた。女性陣は、老けたとか、皺が増えたとか、お互いの風貌から話に入っていってから近況やら家族やらについてあれこれ話がすぐに盛り上がっていた。一方、男どもと言えば、まず、頭も毛の多さや白髪が増えたかどうかという話題から入り次第に学生時代の思い出について話はじめていた。
ある程度時間が来たので、ぞろぞろと正門から学内の奥へと歩き始めた。警備員には、私たちが卒業生で、今回取り壊す前に最後見ておきたいことを伝えた。すんなりと了解してもらえた。昔と殆ど同じ佇まいの学舎に同窓生から歓声が上った。
体育会系の部室があった場所、堀田とよくバトミントンをした、部室前の中庭、休講の時によく学友と政治、哲学や文学などについてあれやこれと、駄弁りまくった喫茶店がある有隣館。野球部がキャッチボールをしていたマウンドとネット、掲示板があった中央の入口。あれやこれら懐かしい気持ちでもう一度あの昔に戻りたいと思った。
取り壊される直前の、青春時代の思い出が一杯詰まった学園。できることならば、村山は一人で、この匂いや景色や雰囲気に溺れていたい気分であった。そして、四十二年前の自分と出会いたかった。しかし、次から次へと記念撮影をしなければならないために、そんな余裕はなかった。他の学友たちが、歓声を上げたり、思い出話に笑ったりする声が、学舎に跳ね返ってこだまして聞こえてきた。村山はそのこだまを聞きながらも、四十二年前の自分を探していた。あの時の自分は、どうしてあれほど熱く、政治に関心を持ち、のめり込みデモにも参加して機動隊とぶつかったのか。マルクス・エンゲェルスを勉強したことは、正しかったのか。
フォークソングにはまり込み、「友よ」「今日の日はさようなら」「戦争を知らない子供たち」「遠い世界に」などをよく歌ったりした。しかし、卒業後は、ほとんど歌っていないのは何故なのか。下山良郎や南原浩一らとフォークソンググループ「白い羽根」を結成して、京都放送のアクションヤング大丸に出演して、歌を歌った時は、どういう心境だったのか。
いくつもの疑問が生じてくる。できることならば一九七〇年代の自分に聞いてみたい。四十二年後の平成二十六年の今の私が、なすべきことはないのか。やり残したことはないのか。夢は叶ったのか。もし、今の私が死ぬ前にできることがあれば教えてほしい。
ある程度、予定通りの撮影ができた。校舎のなかでも。正門でも参加者全員の記念写真が撮れた。これだけでも今日集まった甲斐はあった。大成功であった。しかし、村山の心だけは、冴えなかった。
記念写真撮影も終わったところで、皆で、天六商店街を天四方面へと歩いた。この商店街も通学で、何度も通った道である。店は大分様変わりして、昔の焼肉の焼く匂いや、居酒屋から聞こえてくる歓声は聞こえない。そのようなべたべたの大阪らしい店は影をひそめ、洒落たファションやアクセサリー、携帯ショップなどが目立つ。途中、西田はカメラ屋に立ち寄り、本日中のプリントアウトと写真のデータをCDに落として欲しいと若い女性店員に依頼した。二時間後に出来上がるらしい。それまで、あらかじめ予約していたJR天満駅前にある大手の居酒屋で、飲食会を持った。どの学友も四十二年前の学生時代に心がタイムスリップでもしたかのように、青春時代の苦い思い出や苦労話も交えた会話に花が咲き、それどれのおグループごとに笑い声が上がった。
その盛り上がった宴会の場においても、村山は、一体、自分は、なんのためにあんなに苦労してまでも夜の大学へと通いそこで何を学びどれだけ成長しそれがその後の人生にどんな影響を与えたのかを知りたかった。しかし、昔話は面白おかしく語るだけの宴会の場でそれを求めるのは所詮無理なことであった。村山は、早く家に帰って、押入れの奥から見つけ出した四十二年前の日記を読みたいという気持ちで一杯であった。そして、青春時代の自分に会いたいという想いを抑えることができなくなっていた。しかし、その場は、面白い顔を取り繕って、仮面の男として振る舞った。学友たちは村山が、そんなことを考えていたとは、露にも思わなかっただろう。
二時間が過ぎたので、西田が、先ほどプリントアウトを頼んだカメラ屋へ戻った。しばらくしてから戻ってきて、全員から飲食代と写真代との合計五千円を徴収しながら、写真とCDを配った。それぞれ、記念の写真を大事そうに仕舞い込んでから、解散することになった。これで、天六学舎取り壊し記念の同窓会は、終わった。また、やりたいとう学友たちの声に村山は、気のない声で、そうやなぁとだけ答えておくことにした。
第2章 クロスロードが聞こえる
黒く塗り付けられた過去の影が、村山三郎に不意に襲ってきた。明日を生きる村山の人生を責めてくるように思える。このコールタールのような過去の塊を村山は払い除けようと、必死の形相になり腹這前進を試みるが、その塊はさらに一層粘り強さを増しながら幾条もの線状のものを村山に絡みつかせて離そうとはしない。それでも村山は、何度も前へ前へと這いずりまわろうと、あらゆる姿勢や力に入れ加減を変化させながら逃げようと足掻く。すると、この黒い塊野郎はさらに強靭さを増しながら、村山を暗闇の世界へ引き摺り込もうするかのように、黒い糸を次から次へと吐き出しながら村山の体に絡めるように纏わりついてくる。払い除けても、払い除けても纏わりついてくるこの黒い塊に、村山はなす術もなくただ耐え続けるのみである。
その時、村山には、BBキングの「クロスロード」の泣くような旋律と寂しい歌声が聴こえてくるように思えた。エレキギターから絞り出されるように飛び出してくる苦悩するメロディーが村山の耳にははっきり聴こえていた。そのリズムに合わせて腹の底から叫ぶように、時々飛び出してくる悲しい歌詞もはっきり聴こえてくる。得体のしれない社会や人生の圧力に抵抗しながらも我慢強く生き続ける魂の叫びが聴こえてくるようで、村山は思わず体が震えるのを感じた。
村山は、この黒い塊の正体は、きっと自分自身の過去の影であり、また過去からの宿業の
ようなものであるように思えてくる。そして、とにかく今にできることは自分にはどんな思い影であろうと宿業であろうと前へ進むしか生きる術がないことも知っている。それでそれらの影を払いのけながら、自分の求めるべき光源を求めて暗闇の中を歩き続ける。たとえ黒い影が自分を引きずり込もうと企てようが、村山は反対に自分も決して負けずに光源に向かって歩みを止めようとは思わない。それらのしつこく粘りついてくる黒い塊を引き摺りながら前進するのみである。そうすれば必ず甘い香りが漂う生活が行く先に待っているに違いないと確信しながらひたすら歩み続ける。
思えば、あの西中・トンプソンさんへの限りない思慕を覚えた昨年の秋から、早くも年が変わり数か月が過ぎてしまった。それなのに、村山の心はまだ依然として、あの時の自分の気持ちと寸分も違わずにあることを感じる。進歩がないのか。人間というものは、自分の影を引き摺りながら生きる動物なのか。いや、日々刻々とそれらの影を引き摺りながらも、どんどん前へ前へと光源を求めて歩き続ける存在だと思う。
今日の彼、彼女、そして自分と貴方は、昨日のそれとも明日のそれとも違う。常に流動的でありながら、それでいてその場面、その場面において自分の光源を探し求めながら、その光源に向かって歩き続けなければならない存在なのである。
しかし、村山の西中さんへの立ち位置や、その他の生活や政治や人生の立ち位置は、果たして流動的に移動しているのであろうか。少なくとも村山にはどうも移動しているとは思えない。少なくとも、進む時間の速さに苛立ち、今日から明日への日が変わることに苛立ち、果てしないぐらいの様々な苛立ちを持ちながら生きている。今日の日が明日へと繋がることを夢見ながら。BBキングの名曲が、過去の影に脅えて苦悩に沈む村山を優しく包み込みながらも、一緒に強く生きていけと叫んでいるようにも感じた。
村山三郎は今晩もまた夜鳴きそばの屋台を引っ張る親子連れの姿を見かけた。阪急淡路駅の駅前のいつものように、夕方の六時頃にどこからともなく現れてくる。爛れたような板を打ち付けただけの屋台。暖簾は油汚れが付いたのか黒ずんで靡いているようである。今にも崩れ落ちるのではないのかと、見るものに余計な心配を掛けさせてしまうような屋台小屋。その屋台を引っ張っているのが、頭の毛を後ろで束ねて簪で止めているだけの中年の女で、か細く背丈も一五〇センチぐらいに見える。この母親の横には年のころ五歳から七歳ぐらいの小学校か保育所へ通っているぐらいの二人の小さな子供たちが纏わりついている。母親を手伝ってここまで一緒に重い屋台を引っ張ってきたのかと想像するだけで悲しくなってくる。さらにその母親の背中では乳飲み子が頭をのけぞらせるようにして眠っている。現実の母親の生活闘争のことは何も知らずに大きな口を開いて寝ている。これらの風景を見ているだけでも、この家族の人生の辛酸がや苦渋が想像できて辛くなってくる。
この四人だけで家庭を形成しているのであるろうか、それとも酒に入りびたりの父親もいるのであろうかとつい憶測してしまう。どちらにしてもこの家族の生計の大部分がこの屋台から産み出されていることは間違いないように思えた。
二人の子供たちは屋台の後ろに隠れてうつむいて何かをしているようであった。暗闇のせいか子供たちの顔からは、笑顔は消えていた。母親の怒りと羞恥の混合されたような表情からして、甲斐性のない旦那への怒りや社会への憎しみが伝わってくるようであった。このような親子の姿は見るに堪えない。それと同時に、このような家族をほったらかしている社会や政治への復讐心が、ふつふつ湧きあがってくるのを、村山は抑えられないでいた。そして、この世界には彼らを救える救世主がいないのかと大きな声で怒鳴りたくなった。村山には、マリアの顔からは笑顔が消えて、モナリザが微笑みながら、屋台の親子連れを冷たく見つめているようにも思えてくる。
村山は、この親子に、せめて一夜だけでもテレビを見ながら、笑いのある家庭の温もりを与えてあげたいという衝動に駆られる。しかし今の自分では、到底それは不可能である。自分という存在すら持て余している自分に何ができるというのか。救世主は夜鳴きそばの屋台を引っ張る親子連れには笑うことはないのかと考えると、深い絶望の淵へとわが身が突き落とすような悲しみが、村山を襲ってきた。
今夜の授業は実用英語の講義であった。村山たちはその終了後にその講師であるサミュエル・グロウムズ先生を誘い、フランドルというパーラーへ立ち寄った。参加したメンバーは、ディーン、トム、パックマン、スタンド、リバーランドと村山などがその面々である。この講師には英語しか通用しないので、なかなか話しが通じない。トムが日本式映画で、うまく対話を行った。また、通訳として来てもらった、教育学部のパックマンさんも、流石、流暢な英語を喋ってくれた。
グロウムズ先生は日本に来てからもう四年目らしい。奥さんは日本人で由美さんと言うらしい。彼は、日本へ日本文学を研究するためにやって来たという。村山が、下手な英語でいろいろ質問をした。アメリカでもっとも有名な日本人小説家は誰ですかと聞いたら、三島由紀夫を答えてくれた。夏目漱石も結構有名らしい。驚いたことには、現在作家のこともよく知っていたことである。安部公房なども知っていた。村山が小説を書いていると言ったら、頑張ってくださいと言われた。
その帰りに、村山はこの屋台小屋の風景を見たのである。貧乏学生の村山は、他人の不幸を見逃せないようなところがある。先程までの英語の授業のことや、グロウムズ先生とした文学の話しなども遠い昔のことのように思えた。今は、この目の前にいる壊れかけた屋台とその家族に心を奪われてしまっている。こんな可哀そうな家族をこんな夜遅くまで、どうして働かせるのである。ゆっくりとした夕餉と家庭の温もりを与えてやれないんだと、心の中で、怒りながら叫んでいた。
近頃、村山は体調が最悪のコンディションである。すべてが倦んでいるように見えてくる。体中が気だるく、何もする気が起こらない。その分、眠ることだけはできる。昨夜も十二時間も寝てしまった。いつ寝ていつ目覚めたのかも定かではない。気がついたら、眠りこんでいた。
心身とも倦怠期にでも突入したのであろうか。左足の痛みは、昨年の六月頃すごく痛んでどうしょうかと悩んでいたが、次第に収まったのでほったらかしにしていたが、今、再び村山に襲いかかってきた。一歩歩く度に、左足を本能的に庇おうとするため、余計な筋肉を使わなくてはならず、相当の力を必要とする。その上、お腹の調子も今一良くない。一昨晩には、盲腸と思うほど、切り切りとした痛みが右下腹を刺して来た。昔から、胃腸が弱く何度も病院へ駆け込んだこともある。次に痛くなったら、盲腸か大腸炎か何かの病気だろう。その時は、治療するしかないと用心はしていた。ついに来たかとも思えたが、まだそれほどではないと思えたので、放っておくことにした。
一方、精神状態と言えば、西中さんから受けた衝撃が大きく、まだ立ち直ることができないでいた。青春の悩みはいつまで続くのかとも思え、早くこの苦しみから逃れることができるならば逃れたい気持ちであった。
全ては、切って落とされた。もはや待ったは掛けられないところまで、村山は押し流されてきた。こうなれば、激流であろうと、大きな滝があろうと、敢えて闘いを挑むしか、村山の進むべき道はない。
二回生の講義はすべて終わってしまっていた。もう二度とは戻れない。前へ進むしかない。滝の向こう側には、きっと、地上には青く高い空が広がり、静かな川面には緑の山々や木々の緑を映し出し、穏やかで平安な日々が待っているのであろう。それらの情景を頭の中に浮かべるだけで、もう村山は居ても立ってもいられないぐらい新しい力が湧いてくるのを覚える。この不思議な危機回避能力と言える力が、村山の長所でもあり短所でもある。
そうだ、試験の後には、美しい青春の香りと輝きが待っている筈である。とにかく、俺には、美しい青春ドラマのような恋愛なんか経験できる筈はない。そういう人間なのである。そういう風に作られているのであると自分に言い聞かせる。しかし、その一方、それと同時に、この闇の向こうには、茜色の夕日に向かって青春を叫ぶ自分の姿があることに気が付く。どこまでもロマンティストだなとも思える。
今、俺は、あの太陽の柔らかい光線を一杯浴びて、顔を赤く染めながら、フォークソングを歌っている自分を想像する。これでいいのである。これが村山の精神状態を支え、人生を勇気付けてくれているのである。今は、すべては、あのどんよりとして分厚い雲に遮られているが、その雲を突き抜けた先には、明るく光り輝く世界が広がっているように思える。
依然、後期試験の勉強も調子が出ず、波に乗れていない。相変わらず、胸の奥と腹の底にべっとりとした黒い塊が、粘り強く絡んでくるように感じる。不思議にも、昨夜は眠りにはすぐつけた。あまりにも深く眠りこんでいたのかなかなか目が覚めなかった。昼の正午ごろになってやっと起き上がることができた。
それから、溜まっていた洗濯をして、掃除をしていると、あっという間に三時になってしまった。あまりにも、お腹がごろごろと唸るので、飯を食いに外に出た。一月の下旬とは思えないぐらい暖かい陽気が町全体を包みこみ、気持ちが良かった。
腹の虫が収まったところで、これと言って用事もなかったが、尼信満のアパートへ足を向けた。誰とでもいいから話をしたかったのである。
尼信満のアパートには、先客がいた。尼信満と同じ独文の郵政活動であった。この二人とは、いつも天六から乗る電車が同じであったうえ、校舎でもよく出くわしたので、すぐに親しくなったのである。二人とも身長が高く尼信満は百八十二センチ、郵政活動は百七十五センチである。どこを歩いていてもすぐわかる、特に尼信満はいつも頭一つ突き抜けているから、商店街の人ごみの中でもすぐに見つけることが出来る。
郵政活動は昨夜から泊まり込んでいたという。尼信満の得意な話題である結婚の話が出てきた。尼信満も家庭的な奴だ。なぜか尼信満が羨ましく思えてきた、顔も整っているし、背も高いし、公務員なので生活の安定力もある。郵政活動も郵便局員であり、安定している。俺だけが不安定な上に、背も中背で、人並み、顔はあまり整っていない、いや、醜いといつも自分では思っている。そんな自分にとって結婚の話しは遠い非現実的な世界のことのように思えて、あまり気が乗らなかった。ただ、夢見る自由は俺にはあるので、自分の顔や脊格好や生活のことは棚に上げて、話に加わることにした。
俺も結婚はしたい。いや、まず、普通の若い男女のように恋愛をしたいよ。西中さんが俺に村山さんのことが前から好きだったってことを言ってくれたなら、俺の恋愛の悩みも解決するかもしれないが。そんなことある筈はない。
今日も、村山は、後頭部から肩の筋にかけて、何か硬い鉄の塊のようなものが覆いかぶさっているように感じる。その上、甘ったるくべっとりとした粘液が、喉の奥から胃腸の奥まで、溢れているようで、気持ちが悪い。そんな最悪のコンディションのなか試験は始まった。昨日の専門英語Ⅲの試験などは、全然勉強をせずに臨んだ。産まれてきてこの方、一度も試験勉強をせずに試験に臨んだことは記憶にない。
頭はどんよりとして眠気が襲ってくる。どうもすっきりしない。熱があるのか、頭全体が何か高温物質によって占領されているような、変な気分である。
下宿に帰ってきてからも、勉強をしようと机に向い本を広げるが、頭が付いて来ない。頭だけは先ほどまで温まっていたホーム炬燵のなかに残してきたかのように、身心がバラバラで動いているようである。こんな自分が、なにか切なくなってきた。
そんな心の不満足感ややるせない気持ちは、いつの間にか、村山の人生問題にまでも発展してきている。でもそれでいいと思う。人間が生きているから痛みや苦しみ、悩みがあるからである。何もない方がおかしいのである。そのである。この試験が終われば、でっかい青春を楽しめばいいではないか。思い切り恋愛をし、本を読み、詩を歌いながら生きて行けばいいのではないか。
積み上げられた試験勉強が多く残っているにも拘わらず、村山は、相変わらず、人生や恋愛や将来についての悩みが絶えなく続き、その思考は留まり落ち着くところがない。恋愛とは一体全体何なのであろうか。異性との一体感をもとめるものであると堀秀彦氏がその著書に書いていたのを思い出した。確かにそうであるとは思う。一方一体感を求めるとはどういうことなのか。そこには、少なからず、いや大々的に、性欲から出たと思える精神的なものが働いている。人間と言ったところで、他の動物と何ら性の営みに関しては、原点が同じで、子孫繁栄は共通の目的であろう。
ところで、恋愛は人間だけのものであって、犬や猫や猿にはないと思える。ただ、性欲があるだけの話というようなことを、やはり、堀秀彦氏がその著書に書いていた。これも果たしてそうなのであるろうか。
村山には、人間以外の動物にも、恋愛の原始的形態のようなものがあると思う。詰まる所、性がありその目的を達成するために恋愛感情のようなものがあると思う。堀秀彦氏の言いたかったことは、人間は同性同士でも愛を保ち続けることができる。これは、俗にいうホモとかレズというだけのことではなく、もっと大きなものである。人類愛ともいえるものである。そこに、他の動物たちとは違う人間だけにしかない独特の恋愛がある事を、堀氏は言いたかったのであろう。
人間の恋愛は、高度な精神的営みが性と絡み合いながら生じてくる。しかし、究極のところ、やはり性欲から発していることには違いない。これは必然のことで、村山がこの点について一抹の不安を感じようがどうしょうもないことである。
とにかく、人間は他の動物にはない高等な恋愛形態を有していることは間違いない。精神的なものであるけでも人間同士は結びつきあうことができ、その精神的な恋愛に性欲を従わせるという、トルストイの恋愛観が理想であると思える。
これをトルストイ的恋愛観と呼びたい。この恋愛観には、果たして、外面的な美は完全に抹消されているのであろうか。否、やはり人間であることからは逃げられない。外面的な美しさにまず導かれてしまう。そこから、精神的な愛へと発展していく。どうしてもまずは外面の美貌が大事ということになる。それを無視した完全なる精神だけの愛を求めることはかなり難しい。
最大の難関と思っていた二回生の後期試験の前半戦も、フランス語と英語のほとんどの科目を落としてしまったかもしれないが、どうにかこうにか悪いながらもクリアできたようである。風邪や歯痛そして腹痛までも重なり、肉体的には最悪の状態であったことや、失恋による精神的ダメージなどの苦痛を克服して、やり終えたことによる満足感と爽快感の方が上回っていた。
後は、結果を待つのみである。試験というのは残酷である。その時の体調やハンディを考慮は一切してくれない。冷酷無比ともいうべき、結果主義である。
弱く、非積極性は小学校のころからずうっと指摘され続けてきた。通信簿には、いつも先生のコメントがもっと積極的に取り組んでくださいとのことであった。表に現れた村山の態度は積極的に見えるかも知れない。しかし、それは偽善といえると思う。本当は消極的性格なのである。それを隠すためにわざと派手に振舞い積極的な人間化のように見せているだけなのである。多分、この態度が人に誤解を受ける最大の原因なのであるろうと考える。
村山はできることならば、自分に正直に生きたい。正直に生きる勇気がほしい。そして、本当の積極的な生き方をこの手に掴みたい。
そんな試験の前半戦からの開放感あふれる中、久しぶりに、尾西と会うことにした。イギリスの小説家ジョゼフ・コンラッドの日本語版の小説を入手するためである。尾西の勤務する大阪府立図書館が北浜にあり、日曜日なのであるが、尾西は出勤することになっていたのである。約束の四時に彼を訪ねて図書館へ行った。そのあと、二人で梅田に向い、雑談をしながら食事をし、そのあと、旭屋書店と紀伊国屋書店へ順番に足を運んだ。しかし、コンラッドの小説はどちらの書店にもなかった。悲しい気分で店を出た。
せっかくなので、二冊本を買った。椎名麟三の「生きる意味」と村野四郎の「現在詩を求めて」である。このうち椎名氏の本には感動を覚えた。一気に半分を読み終えた。人生に意味があるのかの解答を、椎名氏も苦悶しながら挙句やっと見つけたようである。人生の生きる意味を村山に教えてくれる、尊敬する人物の一人が村山の前に現れたようで、尾西と梅田に行けたことが、無駄ではなかった。
今日から二月に突入した。月日の経つのはすごく早く感じる。昨日購入した椎名麟三の「生きる意味」を昨夜は半分、今日はすべてを読破した。村山の彷徨える魂に、一条の光を与えてくれた。彼との出会いが、これからの人生に大きく影響してきそうで、コンラッドの小説がなかったことが皮肉にも椎名出会うきっかけになるとは、何と奇跡じみている。もし、コンラッドの本が書店に正々堂々と並べられておれば、村山は椎名に出会うことができなかったかも知れない。
椎名氏の言う、生と死の実存的な問題から。愛人への人間的な問題までの筆の運びは、より一層、椎名という人間と思想を村山に訴えかけてくれる。
「人は誰からもまた誰にもホントウに愛し愛されることはない。それ故、愛の中に人をますます生かしめ、さらに、多く生かしてくれるのである。」
彼の言葉を借りて、村山に感動した部分をまとめると、このような文になった。
村山は、このカギ括弧の中の分に、自分の醜さから、西中さんへの愛を諦めなければならないと思っている自分に対して、どれ程の言葉を持っても言い尽くせない、言葉にはできない感動を覚えた。
昨夜、名山勇、わが英文科における唯一の文学青年と認める人物、自称「デカタンス」が、村山の下宿に泊まった。彼とは、昨年の秋までは、ただの気の合う友人に過ぎなかった。学内で出会ったりした時は、「おっす!」と声を掛け合う仲であった。ところが、昨年の秋の学園祭の前夜、彼から文学が大好きであることを聞かされた。その時、俄かには信じられなかった。何故なら彼は結構粋で、派手ともいえる格好をしており、しゃべり方も気障に覚えるほどであったのである。
彼は、自分より一歳年上である。しかし、その差を感じさせないぐらい、気さくで、大阪人らしい人なつこく、庶民的でさえあった。しかし、彼は大阪の名門高校である今宮高校を病気のため中退し、それでも大学への進学をあきらめきれずに、大学検定試験に合格して、この大学に来たという。凄い、自分など一年浪人生活を送ったとはいえ、そんな苦労は足元にも及ばないように思えた。
「俺には、生きる意味は分からない。人生に価値があるとは思えない。だだっ広い文学を楽しみながら、のんべんだらりと時を過ごしたい。」と名山は薄い唇を尖らせながら、村山に話をした。
「俺は、デカタンスな生き方が好きなんや。あくせく生きることは嫌いや」
こういう、とりとめのない文学や人生や青春について、深夜遅くまで、あれやこれやと話をした。楽しかった。
次の日の夜は、堀田学君の下宿に泊まった。中之島和男、遠藤修一郎と四人で泊まった。一緒に試験勉強をするためである。自分一人で勉強するには限界が来ていたので、皆と一緒に勉強した方がよく勉強出来ると考えた。最近なかなか、悩みがおおく雑念が生じてばかりで、試験勉強にもてが付けられていなかったのである。自分は本当に弱い一本の葦である。
だが、村山は、闘争心だけは他の誰にも負けないと自負している。その性格が弱い自分を支えてくれているのかも知れない。
しかし、村山の求めるべき文学において、果して、その性格はプラスになるのかどうかは分からない。弱いままの方が真の自分であり、自分が求めるべき存在であるようにも思える。こんなつまらない事を考えながら、ふと気がつけば、皆は一生懸命試験勉強に打ち込んでいた。自分も負けずに勉強をした。とにかく、今回は助かった。皆に助けられた。
どんより暗く厚い雲に覆われた昨日と打って変わり、今日は心地良く晴れ上がった。昨夜から、松田健一君が村山の下宿に泊まり込んでいた。今日、村山は京都市美術館で催されている「ゴヤ展」を鑑賞しに行くことを宣言していた。
淡路からは特急が出ていないので、梅田から座っていこうと思い、松田君と二人で梅田へと向かった。彼は、欲しい本があるので買いに行くと言って、人混みに消えて行った。村山は独りで京都へ向かった。
京都は底冷えして寒かった。河原町駅の向こうの山には雪が積もっているのが見えた。河原町から京都市美術館まで三十分ほど歩いた。近くには岡崎公園があり、その隣り合わせに建っていた。
簡単に入場できるものと考えていたが、そうは問屋が卸してはくれない。日本人いや万国の人々は絵画を観るというより、雑踏に押されるように観なければならないという、不思議な現象が生じている。今日もまた、五百メートルぐらい人の流れができていた。
一時間余り並んで、やっとのことで入場できた。中は暖かく嬉しかった。あの万国博覧会の時の人ごみを思い出す。あの時も倦んだりした。一時間は当たり前、二時間以上も並ばないと、パビリオンには入れなかった。嫌な思い出を思い出しながらも、人並みに押される様に中へ中へとどんどん進まざるを得なかった。ゆっくりとゴヤの絵画を鑑賞する余裕などなかった。どうせならば、名画集でも購入して家でゆっくり鑑賞した方がましかも知れないと思った。村山はゴヤという名前を見るために、はるばる京都までやって来たわけではない。絵画を楽しみに来たのであると少し腹立たしいぐらいに思えた。
三十分ほど人混みにもまれながら大格闘をしながら、やっとのことで外へ出られた。もう二度とは名画なんか観に来るのではないなと思った。
再び、少し悔しさを引き摺りながら、梅田へと戻った。夕刻六時を過ぎていた。実は、我が旧友、永田美栄子さんが、急に結婚をして、北海道へ向かうことになっていたので、その出発が六時三十分であったのである。間に合ったと思い、国鉄大阪駅の中央口に向かった。そこには数名の学友が集まっていた。その中に永田さんがいた。
とても信じられなかった。彼女が嫁いで北海道まで行くことなんて、あまりにも唐突で、あまりにも衝撃的ですらあった。そして、深く悲しみが湧きあがり、寂しさが胸を突き上げた。なぜか、彼女の顔は嫁いでいく喜びが感じられなかった。むしろ寂しそうな顔をしているように思えた。彼女にとっても意外な、思いもよらない展開で嫁いで行くことになったように思えた。
ひっきりなしに人が通り過ぎていく改札口を一時間ぐらい見ていた。やがて、永田さんとの別れの時がきた。プラットホームに入っていった。村山たちは肩を組みながら「花嫁」の歌を歌いながら、見送った。最後は「今日の日はさようなら」を歌いながら、走り続ける汽車のデッキで、頬に涙を光らせ拭っている彼女を、村山はどこまでも追いかけて走った。元気でまた会いましょうと言いながら。これも青春の感傷的な一ページの出来事で、そのヒーローでもあるかのような気持ちになり、村山は涙を止めようとはしなかった。
年を加えるごとに人は悲しみの蓄積が増えるものなのか。人生の諸事情の奥に潜む悲しみをだんだん知ってしまう。別れの辛さは、愛別離苦とも言い誰でも知っているが、本当にその事実に直面したときに、その真意を理解してしまう。会うは別れのはじめなりと昔の人はうまく言ったものである。年をとる度にそれらの持つ言葉の意味の重さを知ってしまう。
永田さんとの突然の別れも、本の小さな友情でさえすら、結婚して札幌へ行くという人生の非常なまでもの事実によって引き裂かれていってしまったのである。その引き裂いたどうしょうもない怪物のような人生の皮肉に村山は押し潰されそうになった。
ああ、日々の生活のなかで、友情という小さな幸せを見逃しているような気がする。しかし、この寂寥とした気持ちも、日常的な繰り返される生活の中に埋もれていき、やがては泡のように虚しく消え去っていくのであろう。鴨野長明の「徒然草」の無情感が理解できるような気がする。今も昔も人の営みや悩みは変わらないのか。
とは言っても、この無常観の中に溺れてしまっては駄目である。この世が無常であればあるほど、最大限強く生きなければならない。むしろ、この人生という枠の中で最大限自分のできることをやらねばならない。
今日、銭湯にいくお金を忘れたので、家に戻るのも大儀に思えたので、尼信満のアパートへ行き、金を借りた。尼信満は快く貸してくれた。そして、一緒に銭湯に行った。彼と永田さんとの別れについて語りながら、友情というのは、一生続くものではないのか思え、辛くなった。今日という日を大切に、友情を大切にしたいと思った。
村山は今、短い人生の中で何をなすべきかを考えている。学で立つのもよいが、具体的なはっきりとした目標が欲しい。それを探しながら、今日も、古本をひっくり返して読んでみる。そこに何か指針があるかも知れないと思うからである。
しかし、人は皆同じ程度の目標には、誰でも達成できるものであると思う。持つものは皆同じようなものであるからである。要するに、違うのは時間と頭の上手な使い方で、その人は速成もするし、成功もする。逆に下手な人は、なかなかその目標には達成できない。
いよいよ後期試験も終盤戦に差し掛かった。あと余すところは二教科だけである。今日は、日本国憲法の試験があった。昨夜、左程熱心に勉強したわけではないし、授業にも真面目に出たこともないが、まあ何とか答案用紙を埋めることはできた。日ごろの読書のお陰かも知れない。
村山は、自分の答案が殆ど書き尽くされ黒々としていることに満足していた。三十分経過したのでベルが鳴ったので、答案を書き終えたものから教室を出ることができる。ぼつぼつ、学生たちが答案用紙を教壇の机の上に置き、帰り始めた。村山の周りにいた友人たちも殆ど退散していった。村山は、西中さんと同時に教室を出ようと考えた。それでまだ答案を書きあげていないふりをして、その時を待った。ふと斜め後ろを見ると西中さんが、柔らかくふっくらとした白い頬を紅色に染めながら、答案用紙に向かって筆を走らせていた。
村山は、一瞬、自分の筆を止めるふりをして、彼女の方に目を向けたが、彼女は知らんふりであった。村山は、慌てて、自分の答案用紙を仕上げているかのような演技をした。村山は、もう彼女のあとを追いかけるような仕草はやめて、自然を装おうと考えた。それで、しばらく答案用紙を見つめながら、のそのそと答案用紙を提出しに行くことにした。彼女はまだ、カバンの中へ筆記用具を直しこんでいる最中であった。村山は自分の答案用紙を提出した後で、もう一度彼女の顔振り向いて見てみた。その頬は赤く染まり、輝いていた。彼女と視線が合えば、一緒に帰ろうというシグナルを送ろうと彼女の視線をがこちらを向くのを待った。
しかし、残念ながら彼女の視線が村山に向けられることはなく、この計画は失敗に終わった。結局、村山の方が彼女の先を歩いて教室を出るタイミングになってしまった。後は、西中さんの方が村山の姿に気が付いて、後を追いかけてくれることを期待しながら教室を出た。
ドアを出ると、ドイツ文学科の郵政活動が待っていた。また、大阪府教育委員会職員の仲間である堤さんも誰かを待っているようであった。しばらく彼らと雑談を交わしながらも、村山は、なかなか出てこない西中さんのことが気になって仕方がなかった。早く彼女が出てこないのかと教室のドアが開くのを恨めしそうに眺めていた。あまり遅いので、一歩ずつ帰り始めたころ、幾人かの学生たちに交じって頬を紅に染めた西中さんが出てきた。郵政活動とも親交があるので、まず郵政活動が西中さんに近づいて声を掛けた。村山はその様子を五メートルほど離れた位置から見つめながら、彼女に声を掛けた。
「どう? できた?」
「う~ん。ぼちぼちや!」
「俺は圧倒的にガバッと書いたよ!」
「うん。知っている。ものすごく書いていたね。」
「そうやろう。あれで、可は間違いないやろう。」
「そうりゃ、あれだけ書いていたら。絶対大丈夫やわ。」
「あっはっはっはっ。どうや。他の試験はうまくいったかい?」
「う〜ん。それが二教科受けられへんかったんや。ドイツ語を。」
そんな会話を繰り広げながら、村山はふと、この階段で、ちょうどあの秋の学園祭の時に、彼女に腕を抱えながら登っていったことを思い出した。彼女は努めて、村山に近づいてくれていたあの時ように今日も優しかった。村山には、彼女があの去年の秋の学園祭の時の事を思い出してくれているかどうかは分からなかったが、今日話ができたことだけで嬉しく思った。
外は雨が降っていた。彼女はその雨の中クラブへと消えていき、郵政活動と村山の二人は「頑張れよ!」とだけ声を彼女へ掛けて、立ち去ることにした。春雨は冷たく村山の肩に落ちてきた、何かもの寂しい気がした。彼女への燃えるような恋慕の情も、この春雨に流されて消えてしまいそうに感じられた。
誰とも話をしたくない、木枯らしの吹きすさぶような冷たい村山のこころは、空洞のように虚しい。いつものように、そんな自分のネガティブな気持ちを少しでも和らげようと 仕事からの帰り、本屋へ立ち寄った。この虚しさを少しでも紛らわせることができるのならばと考えての行動である。そのあと、パチンコ屋にも立ち寄った。これまた、村山がよくとる行動パターンである。大阪に出てきてから、パチンコは息抜きと最大の娯楽とも思える。もちろん少しでも稼ぎたいという気持ちもある。この気持ちが強すぎるとうまくいかない。あまり負け越すと生活に影響を及ぼすから、ある程度、お金の限度額を決めてからパチンコを打つことにしている。今日は五百円までであった。
ところで、何か自分を虐待したい気持ちに駆られることがある。自分を壊した後に新しい何かが見つかるのではないのかと空想してしまうのである。生活も、本当はもっと苦しく、辛くなるまで落としてしまいたいとも考える。もちろんその後に訪れるであろう、未だ見たこともない、楽しいことや幸せなことが待ち構えているような気がするからである。これを、幸福期待型の破滅的人生と自分では思っている。村山の人生の癖、どうしようもない生き方かも知れない。
次の日、昨日までの憂鬱な気分が晴れないまま、まだ残る心の重圧に引きずられるように会社へと向かった。職場の先輩達は、村山の仕事のミスを注意した。ただそれだけのことでも、村山にはぐさりと心に突き刺さった。人間とは弱い者である。これだけのことで、村山の心は動揺し、落ち込んでしまう。なんと弱き心よと自分の壊れやすさを呪った。
心の弱さは、戦前の軍国主義の時代では、生きていくことができない。確かに今の世の中でも、良く似たようなところがある。要領よく、役者みたいに立ち振る舞いできる人は幸せな人と思える。別に役者が要領がよいと言っているのではない。心の強き人間は徳である。図太い人間はどんな世の中でも強く生きていける。その反面気の弱い人間は、いつも潰されてします。
でも、村山は、心の弱き人の方が好きである。その人には人間性の美しさがあるように思える。繊細な神経を持ち、物事を深く丁寧に考えられる人は美しい。女性のような、母のような、想いやりや優しさがある。
しかし、果たして、今の世の中、いや昔からかも知れないが、心の真の強さとは、外面的な強さではない。それは、真剣に思考し判断して人生を見、考えられる人である。三島由紀夫氏は心が弱かったのであるろうか。外面的には、体を鍛えていたり、武士道を愛していたり、強き人間のように思える。しかし、内面は優しい気の弱き人ではなかったのかと考える。彼の幼少時代は、坊ちゃんのようなおとなしく優しい、生まれと育ちの良い、繊細な人間のように思えるからである。
ところで、心の弱さ、強さは一体どんな基準でどのように測ることができるのであるろうか。一般的には、神経質で、優柔不断で、真面目そうな人に限って、心が弱い人のように思われる。臆病そうに見えるのであろうか。
村山が、心が弱いと先ほどから言っているのは、この一般的な意味からである。村山は、外観で人を判断したくない。普通誰でもそうであろう。村山の心は、真の強さを人間らしさの度合いで決める。人間らしいという言葉自体にも、その定義にはいろいろ難しく問題点もあろうが、とにかく人間らしい人である。人生を真面目に考え、行動する人は真に心の強い人と思う。心弱き人よ立ち上がれ、勇気を出して、前向きに生きて生きて生き抜くんだ。それしか生きる術はない。
今日のテレビは、新軽井沢のとある楽器店に連合赤軍が立て籠った事件の報道ばかりであった。赤軍派が国家権力に対して最後の抵抗を試みていた。しかし。テレビの報道番組は、待っていましたとばかりに連合赤軍を悪役仕立てたシナリオ通りの組み立てで、画面構成も偏り過ぎたような報道を繰り広げていた。連合赤軍の非人道的な行動は許されない。しかし、彼らの叫びや訴えも聞いてやって欲しいと思った。その延長線上には、戦後アメリカで行われたレッドバージン旋風のような、権力側からの赤狩りともいえる思惑があるように見てとれる。
連合赤軍は最初から悪役、そして、赤系統はすべて悪党の一味というシナリオが出来上がっている。政治やマルクス革命などを知らない一般市民に赤は恐ろしいというイメージを刷り込もうとしているように思える。無知な市民は赤を悪党として憎む、その主張や目指すものは伝えようとしない。その暴力性を際立つようにカメラワークを行う。
ともかく、時代は何時でも、奢れる権力と弱い庶民との戦いが行われる。一般市民は悪政に対して声を上げ非難を始める。その時、一般市民達は、その命を賭す。命を賭ける以外に武器はないのである。国家権力とは恐ろしいものである。市民を懐柔する方策をいくつも用意している。悪いことはベールで覆い隠し、見えないようにする。真実は伝えられないのである。無知な民衆は何も知らずに、今の世の中を平和でよい時代だと思い込んでいる。そのことが一番恐ろしい。
このような偽善政治のもとでは、必然的に赤軍のような行動が湧きあがってくる。その時、権力は一般庶民を味方につけ、あいつらは恐ろしい人間たちだ、あいつらの思想は非道で自己中心的なものであると宣伝をする。それもそのはず、資本主義社会では、国家と資本家とは強く結び付いている。その資本家のもとにある報道機関は、国家の手下になる以外に生き残れないのである。国家権力の立派な片腕になっているのである。
連合赤軍のニュースの報道が終わってしばらくしてから、ニクソン大統領の訪中の模様が大きくテレビなどで報道された。当時の北京は零度を切る寒さである。その上空にアメリカ大統領ニクソンンが乗り込んでいる合衆国特別飛行機が飛んでいる。地上では、このアメリカ大統領を歓迎するために中国側は準備万端の姿勢が整えられていた。
やがて、ニクソン大統領を乗せた特別機が北京空港に直陸した。タラップが飛行機から降ろされ、そのタラップの前には中国側の要人たちが整然と整列している。タラップからニクソンが現れた。ニクソンの顔はいくぶん緊張しているのか寒さのためか、すこし青色気味で余裕がないように見えた。続いて彼の奥さんであるファーストレディーが登場した。その後にアメリカの要人たちが続いて降りてきた。彼らは、寒さで凍り付くような顔を引きつりながらも必死で笑顔を作り、中国側の要人たちと握手を交わしていた。
長年、国交のなかった中国とアメリカがどこでどのような接点を見つけたのか。まさか、ニクソンが中国を訪問するなと、誰も考えられない中での今回の訪中である。ニクソンは反共の闘士である。そんなニクソンを中国がどうして迎え入れたのか。あえて敵の中に飛び込んで行くことも、また敵に陣中を見せることもどちらも考えにくい。それには、深い歴史的意味が隠れているのであろう。後世の時代でそのことが検証されることになるであろう。
ニクソンは、アメリカ帝国の東南アジア進出を容易にしたい。周総理は、ベトナム戦争を早く解決したい。東南アジア、強いては世界平和をもたらしたいと。
ところで、今日、田舎の母に電話をした。別に用事があったわけではない。ただ、毎日曜日には電話を入れて心配させないようにしているのである。昨日電話できなかったから今日したまでのことである。
最近は、以前のように母の声を聞くたびに、自分の人生に対する姿勢を反省させられることはなかった。しかし、今日は違った。何か自分自身でも分からない霊感とでもいえようか、そんな雰囲気が電話の線を伝わって感じられた。
これが、何であるかは知らないが、村山はふと母が昔よく
「哲夫が結婚するまでお母ちゃんは死ねへんでぇ」と言っていたことを思い出した。
自分も母を慰めるために、言い返した。
「何を言うとんのや。俺が二十七歳で結婚するとしても、お母ちゃんはまだ七十歳に届かへんのやでぇ」
もうすぐ二十二歳になる村山は二十七歳まであと五年である。あの時、その年頃の俺になっていたら、もう、裕福な生活を営んで、母を迎えてあげられると思っていた。今は、自分が生きていくだけで精一杯である。母や父までも面倒みられるのはいつのことやら。母が死んでしまったら、どれだけの母への感謝の言辞を尽しても、無駄である。できるのは、今のうちだ。現状は悲惨で厳し過ぎる。
今日という日ほど、甘い自分の生活を反省させられたことはない。母よもうすぐ幸せにするから、もうちょっと我慢して待っていてなぁ。
ついに後期試験はすべて終わってしまった。これで形式上では、春が来たと言える感動的出来事となる。そういうことで、早速、我クラスでも集会を開いて今後のクラスの在り方や活動について討議を行うことになった。
しかし、悲しいように思える我クラスの諸君は例によって、村山の平和と自由の思想を理解しょうとはしない。なぜ村山は嫌われることを理解していながら、平和と自由への闘争を貫かなければならないのか。トムのような偽善的正義主義者が大衆には認められるのは、どうしてなのであるろうか。
先日、淡路の馴染みの古本屋へ立ち寄り、「戦後十年名作選集」(臼井吉見編・光文社)を手に入れた。運命とはこんなものなのか。いつどこでどんな本に出会ったかで、その人の思索の方向、強いては人生を変えることになるかも知れない。
試験前、椎名麟三を知り、その実存主義的で、社会的苦悩を抱える文学というものに啓示された。そして試験後には、その文学や人生を探求すべき読書計画を立てていた。試験中も村山の心をかなりの割合で、この計画が占められていた。
さらに、小野十三郎の「現代詩手帖」の最終編で、戦後文学の始まりを実存的に捉えた幾名かの作家の名前を知ることができた。その中には、安部公房、坂口安吾、野間宏などまでが含まれていることに非常に驚いた。
その中で椎名麟三以外の実存的作家へも目を開くことができた。なんとなく古本屋で見つけた本が、以前、聞き覚えがあった戦後十年名作選集であり、何とかしてその本を手に入れたくて探していたのである。それが、今後、村山の文学へ多大な影響を与えること考えれば、一冊の本との出会い、運命的な出会いが、こうして現実的にあったことが驚愕的に覚える。
ところで、本日、我クラスの規約を作ることになり、難波へと向かった。難波は相変わらず、人生の煩悩から現実逃避をしようという群集がいた。賑やか過ぎる雑踏の中へ、村山たちも解き放たれた。なぜか気分が上向く、この世のうさを晴らすことができそうに思えた。そんな快楽的雰囲気に飲み込まれそうになりながら、村山たちは、近くの「音楽喫茶ウィーン」へと吸い込まれていった。
この音楽喫茶は、クラシック好きの尾西がよく来る店で、良く彼に連れられて来たことがある。難波に来たら、必ず、この店に立ち寄る。有名なクラシック音楽が流れている。芸術的で高尚な気分になってくる。尾西はこの店に来る目的に、この店の年増のウェイトレスに会うためである。年上の女性に惹かれやすいみたいである。尾西は、最近、音楽の勉強をしようとしていると話した。多分のその年増のウェイトレスの気を惹きたいのであろう。わかりやすい人間である。こんなところが彼を憎めない理由である。
我々は、全員で五人だったので、四人掛けが多い喫茶店では一苦労する。仕方がないので、四人掛けのテーブルにもう一つ椅子をくっ付けて無理やり五人座われるようにした。皆先ほど食べた夕食の量が少な過ぎたのか、ここでもまた、トーストやらホットケーキなどを頼んでいる。四人でも狭いテーブルに五人分の皿やコーヒーカップなどが並ぶので、かなり窮屈であった。肩と肩がぶつかったり腕と腕が交差したり厄介で、なかなか落ち着いた気分にはなれなかった。そのうち、八人テーブルが空いたのでそちらの席に移らせてもらった。こちらはゆったりと座れ、テーブルの上にも余裕があり、一安心であった。
ここにきてやっと、本来の話題に入ることになった。トムは国税庁勤めで、もともと落ち着いて人望が厚く、彼の口から発せられる言葉の一つ一つは思いがあり、説得力がある。彼はいつもリーダ的存在で、誰からも信頼されていた。今日も例外ではなく、誰が言うわけでもなく、自然に彼が、議論を進めることになった。
「バイオリン協奏曲」、「新世界より」「冬の旅」など次から次へとクラシック音楽の流れていた。その中で、人の話し声や、コーヒーカップと皿がぶつかる音が時々聞こえていた。今日の議題はいよいよ最後の決議事項を確認するところまで来たところで、川田の反対があり、行き詰ってしまった。あれやこれや試行錯誤の議論を繰り広げた結果、全員が妥協したのは、かなり時間が経ってからである。規約の形に纏め上げられた時には夜九時をはるかに廻っていた。村山は、一呼吸を入れることができた。今日の議論で、村山のクラス会に対する蟠りはかなり消え、懐疑的に思えていたこともすっきりとしたような気がした。不思議なことに何か救われたような気がした。
昨夜は、職場の先輩に誘われて梅田に飲みに行った。夕刻七時頃に出かけて、家に帰ってきたのが十時時過ぎであった。まず景気入れのために、てっちりと日本酒を味わった。ふぐは淡白で優しい味がした。短気で起伏の激しい自分とは性格が異なるように思えた。ひと話しをした後、純喫茶「古城」へ行くことになった。この古城にはさっちゃんと呼ばれている人気のママがいる。先輩はその女を目当てによく来るらしい。先輩の家が十三にあるため、比較的会社帰りに立ち寄るには最適な場所でもある。
ここでは、職場ではお目にかかれない先輩の陽気で愉しそうな姿を見ることができる。毎日の会社勤めの歯車から逃れて、一息入れるためには、ここは重要な憩いの場なんだろう。
今日初めて、大阪市内に雪が降った。余程冷え込んだものと思われる。昨日もそうであった。下宿の婆さんが、風が冷たくなってきたねぇと、いつもの嫌見たらしい言い方ではなく、普通に話し掛けてきた。すぐに窓を開けてみると外はかなり冷え込んでいて、冷気が一気に部屋に入り込んできたので、慌てて窓を閉めた。
軽井沢の赤軍はどうなったのであるろう。大阪とは違い雪国である。テレビに映る雪景色と機動隊と犯人との切羽詰まったやり取りが切なかった。朝八時頃、待ち構えていた機動隊や地元の警察官などが浅間山荘に突入していく姿が映像に映し出されている。装甲車からはこの寒いなか、大量の水が放水されている。それでも赤軍派は立て籠ったまま、なかなか外には出てこない。
それを見た、機動隊側は、大きなクレーン車を引っ張りだしてきた。何をするのかと見ていたら、大きな鉄球をクレーンの先にぶら下げ、その鉄球を、山荘の壁めがけて振り子の原理で、降り始めたのである。大きな振り子が大きく揺れて、山荘の壁に大きな穴をあけ始めた。恐ろしい光景である。その穴からさらに大量の水がぶっ掛けられた。それでもまだ、赤軍派は出てこない。捕まれば、国家権力より大犯罪人として、厳しい取り調べを受け、拷問や死刑も考えられる。いくら時代が進んだとは言え、人間そのものは、昔と同じ、醜い恐ろしい性格を持ち続けているのである。
午後六時十分、最初の一人が捕まえられた。続いて、おかみの泰子さん、そして他の四人が捕まった。この瞬間はなぜかあっけなかった。もっと激しい抵抗があると思えていたからである。もっと天地を揺り動かすような赤軍派による真に人間主義を呼び覚ますような行動を期待していたのである。
インパクトなら、三島由紀夫の割腹自殺の方がはるかに大きかったような気がする。村山のこういう考え方は異常なのであるろうか。極端に権力嫌い、機動隊が殺される時、彼らを秘かに讃えたいぐらいであった。それでいて、極端な平和平等主義者でもある。赤軍派が四人死ねば、機動隊も同じ数死なないと不平等と思ってしまう。やはり村山の考え方は極端すぎる。青春時代にはこのような極端な発想や思考をしてしまうものであるろうか。自殺したり、自暴自棄なゲームに嵌ったり、なにか生きている瞬間だけを重要視しているような、はかなさと虚しさがある。「理由なき反抗」の映画を思い出す。
一月はいく二月は逃げる三月は去るとよくいわれるが、その三月になった。反安保学生会議の学習会に顔を出すことにした。学習会とは言っても、たったの四人だけであったが、政治について討論を行い、マルクスについて勉強をした。今日の昼には、同志の山里君から電話がかかり、昼の食事を一緒にした。彼は、すごく良い奴である。素晴らしい生命力を持ち、その読書力は人並み以上である。自分など、まだまだだと村山は思う。
そもそも反安保の連中と行動を共にするようになったのは、彼の影響によるものである。彼を通じて社会の不正や歪みを見、その矛盾した世の中を、平等で平和なものにしたいと思ったことがきっかけである。彼との出会いがなければ、村山は、ノンセクト、いや、無関心学生として、非難をされていたのであろう。
人生の幸福というものは一体何なのであるろうか。酒場から酒場へと渡り歩き、女の尻を追い求めるような生き方か。真面目な振りをして、会社の中で、自分を殺して生きることか。何の矛盾も気がつかず、気づいても自分には関係ないと、無関心を装い生きることか。偽善者たちのような真似は村山にはできない。
平和とは一体何なんだ。平和であれば幸せなのか。平和な世の中にするためには何をすればいいんだ。非武装中立的な政府を求めることか。神の愛のもとに集い、神の差し伸べる手にすがり、生きることか。一日三度の飯が食えることか。何の苦労もなく飯を食い、何も考えずに平凡に生きることか。
否否否。違う。そんな生き方ではない。人生の幸福とはもっと高尚なものである。人間、素晴らし人類だけが知ることができ、味あうことができる、苦しみながらも、その向こう側にある幸せを知っているから、頑張れるという生き方ができるのは人間だけである。人は苦しめば苦しむほど幸せになることができると信じて生きることができる。単なる欲望だけを追いかける、動物的、本能的な生き方には限界がある。
バイト先の正社員と梅田のパチンコ店で遊んだ。村山は人から誘われると、うまく断れない性格なのである。意志が弱いのでも、主体性に欠けるわけでもない。そこには、誘ってくれた人の好意を傷つけたくはないという、何かその人に対する愛のようなものがある。いわゆる八方美人的で、こういう行動が誤解を生み、最後に自分も苦しみ、人にも迷惑をかけることになる。
こんな曖昧な行動は、合理主義者や個性尊重主義者からは、排除されそうであるが、なかなか改めることはできない。そういう性分なのである。観る前に跳べないのである。なんでも土台がしっかりしているか確かめてからではないと、跳べないのである。
ところで、昨日、我がK大の商学部の学友であり、西日本新聞社大阪支社のバイト仲間である、山里君が村山の下宿にやってきた。山里君は小柄であるが、芯のしっかりとした人間で、顔は身長の割には大きく見えるが、その顔の中心から見つめる冷静な眼力は鋭く、また、肩幅も大きく見える。その姿から醸し出す雰囲気は、まるでギリシャ時代の哲学者ソクラテスを彷彿ともさせる。なにか異様ともいえる不思議な生命力を感じる。彼は、村山に、いろいろなことを教えてくれた、政治、文学、哲学など、その話の一つ一つが、村山の知らない世界のことのように、非常に興味があり、ためになる。
特にその読書好きには驚かされる。村山の好きなカミュはもちろん読んでおり、最近は、司馬遼太郎に凝っているそうである。それより、彼を語る上で、いちばん大事な観点が、彼が反安保学生会議の議長であることである。学内では弁論部の指導委員でもある。彼は「俺は決して政治家のような人間ではない」自分でもよく言っている。しかし、彼の社会に対する鋭い眼とそのシヴィアでクリアな批評は、村山が彼と行動をせざるを得なくするぐらいの天才的な説得力と指導力がある。
その巧みなデベート力から繰り出させる社会に対する彼の話を聞くたびに、自分自身何度も反省させられ、新しい観点から社会を批判せざるを得なくする。さらに、そのデベート力に加え、彼の体全体から感じさせる強い信念と生命力から溢れ出す人間性は、誰もが彼の世界に引き込まれるに違いない。
ちなみに、山里君は東京に出て政治運動をしようとも思ったらしいし、反対にもうこんな矛盾した社会から岡山の田舎に引きこもり隠遁することも考えたらしい。
夜九時頃、二人の友人がほんの僅かな時間差で、村山の下宿を訪れた。トムと山里君である。トムはクラス会のことでやって来た。山里君は反安保学生会議の件でやって来た。全く性格も思想も人間性も異なる二人が村山の下宿で出会ったのである。村山の人生に大きく影響すると思える二人が顔を合わせるなんて、奇跡的でもあった。普段なら出会うはずもない二人である。しかし、この二人は大人である。簡単な当たり障りのない話で、その場をしのぎ、表面的には仲良く話をしてくれた、それが、二人の間に立つ村山にとっては、何よりのことであった。
村山の過去は陰惨であった。見るもの聞くもの全てが、ただ虚しく思え前向きに生きる力が出てこなかった。高校時代の日記を見てみると、「虚しい」という語句が頻繁に登場する。ちょうどそのころ、入試の準備と兼ねて読んでいた吉田兼好の『徒然草』の仏教的無常観に、凄く陶酔していた。その無常観は大学に入学した後も、今も続いている。
しかし、世間の一切の事象と自分自身の心の不安定さを、ただ、今考えると、「虚しい」という言葉だけで片付けることは、自分自身が考えているよりずっと容易いことのように思う。今更ながら、高校時代を懐かしみながら振り返ると自分は少しではあるが、年を重ねた分だけ成長しているなとも思える。
さらに、村山は、今もそうであるが、偽善者であった。自分を自分以上に良く見せたり、恰好良く見せようとする癖がある。それが後で、誤解を生み、疎外感を作り、自分を苦しめることになる。職場では小学校の書記補として、学校事務に公務員らしく取り組んでいる。しかし、一旦、大学の門を潜ると別人になる。価値観が変わったのかとも思えるぐらい、おとなしい自分から、派手で明るく振る舞う自分へと変身してしまう。カフカの『変身』を読んだ時も、グレゴールに何か共通の匂いを感じた。
その変身した心は、ただ単に職場の束縛から解放されただけのものでもなく、意識して学生らしく振舞おうというものでもない。偽善者そのものの自分がそこにいるのである。自分という人間は過去、いや、元来真面目過ぎるぐらい真面目な人間で、母まで村山のことを「石部金吉」とよく言っていたぐらいである。それは、他人がそのように思うのと同時に自分もそう思っていたのである。
それが、大学の構内では、人が変わったように自分でも驚くぐらいの人物になる。特に講義の前の自分や、友人たちと駄弁りながらお茶を飲んでいるときの自分は、過去の自分がまじめで石部金吉であったことをすっかり忘れてしまっているみたいである。
このように村山は、過去の自分と職場における自分と大学における自分とは別人のようで、それぞれの立場の時分からそれぞれの自分が阻害されているような変な自分がいることになる。いつか、そんな職場、大学、過去の三重構造の人格から解放されたいと思うようになっていった。
そして、そんな自分を統一された人格にしたいとの思いから、一体本当の時分は度の自分なのかと思いつめた時、結論に至ったのが、大学にいる時の変身した自分が本当の自分だと決めつけてしまったのである。それで、小学校の事務職員は辞め、アルバイト生活に突入した。その後の生活は落ちるところまで落ちている。しかし、そんな中、多くの文学や哲学、思想に出会うことができた。
特に最近では、今の村山が心を寄せ、文学の師匠のように思っている椎名麟三である。彼の実存的な生き方を見習い、自分も人生の荒海に真の自分という自分を乗せて、小舟を漕ぎだそうとしている。
昼休みの空いた時間に山里君と連れだって、中之島中央公会堂の地下にある食堂へ行った。そこで、山里君と「生きる意味」について討論をした。彼は言う。
「生きる意味を考える人間は裕福な人間である。自分は、それすら考えることができない人間が多くいることを憂いている。その人たちのことを考えると、彼らの解放を願わずにはいられなくなる。それが、プロレタリア革命ということなのである。」
きっぱりとした声で、大きな顔の小さな正義感に燃えた目を見開きながら、わたしに向けて発せられる彼の言葉は世界の誰よりも説得力があるように思える。その通りであると思ってしまう。
彼の言うとおり、そういう社会から資本から差別され苦しんでいる大衆を、搾取するそれらの権力者たちから解放させるためにマルクスは共産主義を考えたのである。しかし、時代は進み、資本主義も発展し、昔のような、資本家と労働者の対立的な構造だけをクローズアップさせただけでは、解決できない複雑な問題をたくさん抱える時代へと変化をしている。マルクスやエンゲルスの生まれた時代は、搾取されている労働者を資本家から解放するだけで、社会的正義は達成されるため、それが一番のヒューマニズム的哲学であると思う。
現在はどうだろう。自我に目覚め、資本主義であるが、戦後の困窮した生活からある程度余裕のある生活へと、大衆の生活は変化し、彼らを苦しめる存在であった、憎き資本階級の連中の姿が目の前から遠去かっていくように思える。多くの自由を手に入れ、形の上では自分の好きなことができるという、自由に人生を設計できる権利を得たように思える。 しかし、その分、自由であるが故の悩みも増え、人生を選択することの難しさを痛感している。ある人は、そのはけ口を政治活動に向け、ある人は芸術に向け、ある人は出世に向けることができるが、どこにも向けられずに苦しんでいる大衆が居るのを忘れてはいけない。
そこで、社会の革命を達成したら、果たしてそれらの人間としての悩みや苦しみからも解放されるのであろうか。それは難しいようなきがする、次元が違うのである。マルクスの時代は、唯物史観が最高の哲学であったが、時代が進化し、それの伴い人間の生活や考え方、そして生きる意味や悩みも変化しているように思える。そんな時代は唯物史観だけで、多くの大衆が幸福になる哲学となりうるのかが疑問に残る。
山里君にはそんな村山の日和見的な考えは話せなかった。いつか、また、お互いがもう少し成長して大人なってから話をすることにしよう。
春のお彼岸の連休も終わり、田舎から今日大阪に戻ってきた。約一日の帰省であった。ふと見上げると、見覚えのある二階建ての古い建物が目に飛び込んできた。村山の現実の生活と余りのも癒着していて、切っても切り離せない一心同体とでもいえるのであろうか。懐かしいようで、寂しいような、これから再び始まる大阪での生活を支えてくれる家族のような間借り部屋が、村山の帰りをただ待ち構えていた。
玄関先からすぐに階段があり、その階段を上がる際の軋む様な音は、村山に上へ上がるべきことを許してくれているようであった。また、引き戸を持つ手応えとその際起こる引き摺るような開閉音はまさしく村山の生活の一部となってしまっている。
二階には三部屋あって、その一番手前の部屋には、この家の主である老婆が住んでいた。その老婆に「ただいま!」と声を掛けた自分の声にすこし驚きながらも、これが村山の声なのであると気付かされた。
ところで、この老婆もご多聞に漏れず、細かいことによくぐちぐちと文句をいう老婆である。トイレは和式のトイレで、男子が小便をするにはいささか困難である、まっすぐに飛ばなかったり、勢いが良すぎたりと、どこへと飛ぶかは、やってみないと分からない。それで、少しでも横にそらしたならば、ここぞとばかりに自分を責めてくる。たまったものではない。
この二階にはもう一人住民がいて、中年の女性である。あまりよく話はしたことはないが、会釈ぐらいはする。この人は大人しくて、老婆に怒られることは、滅多にない。また、ロマンスなど生まれるような器でもなく、隣に人が住んでいるというだけの感触しかない。
自分の部屋に入り、入口のカーテンの隙間から見える、村山の部屋の調度品や家具類、本類など、この雰囲気が自分そのものなのである。これが村山の生活である、これが村山の現実の総体である。この部屋の匂い、明るさと隅っこの暗さ、これが自分だと思わず叫んでしまうほどであった。そして、机の前に座った途端、どこからともなく聞こえてきそうな「ボレロ」の軽快な調べに乗せて、体中に自分の存在が蘇ってくるようであった。
それと同時に、一瞬、寂しげな村山の声も聞こえてきた。それは田舎に住んでいる家族への懐かしくも悲しくもある愛情のような気分に自分を誘いこもうとした。村山の苦しみを少しでも和らげ、一緒に苦渋に満ちた辛い道だが進んで行こうと言ってくれているように思えた。家族からの連帯の声であった。
家族だけは、利害の対立もイデオロギーの対立もない。お互い相手を許し合え、欠点を許し合いながら、厳しい現実を乗り越えていこうとする強い連帯感のような絆がある。これは村山の家族だけのことかもしれない。そして、この生活の苦渋から解放された時には新たな対立が生まれるかは分らない。しかし、今はそんなことはどうでもよい。この家族の愛情に包まれた幸せな気分を味わっていたい。現在社会が忘れかけている貴重な精神遺産、日本人の優しさ、情の深さ、家族への愛情、それらの全てが、村山に、これからの人生の大切なことを教えてくれている。
人は、そのあまりにも強い妄想的信仰性があるが故に、なんでも直線的に、短絡的に一気に解決を図ろうとして、良く考えずに、まず飛び込んでしまうところがある。これも日本人らしいかも知れない。そして、一旦、これは不可能であると悟ってしまうと、その不可能の原因を自分ではなく、他人に着せようとする。自分の責任は棚に上げてしまい、出来ないことの理由を他に求めようとして精神の安定、自分の無力さから目を背けようとする。悪い癖である。
この現実逃避的な行為こそ、人間に不幸をもたらす最大の元凶である。日本人は無常なるものに救いを求め、未だ見ぬ「阿弥陀仏」に救いを求める。現実の厳しい生活からの逃避だけを考え、厳しい現実を戦うことを忘れている。
村山は、常に、目の前の現実から目を逸らさずに、一つ一つを大事にしながら、直実に人生を歩み続けたい。人間にとってこのなんでもないような日常生活にこそ、大切なものが多く含まれていることに気が付くべきである。この原点から、更なる飛躍を試みることが大事であろう。
早いものである。小学校の事務職員を辞職してからもう一年が過ぎ去った。思えば、辞める時には、文学を一生の仕事をする決心をし、その強い気持ちに押されて、今勉強しなければ俺の人生は駄目になると思い、真剣に悩み考えた末に辞めたんだ。今となっては、それが良かったのか、悪かったのかは分からない。ただ、あらゆる人生経験を積み、あらゆる文学や哲学を学び、知識を取り込み、新しい人間観、文学観、哲学感を打ち立てようという想い出で、ここまで来ることができた。自分という人間は、どこまでも真実を追い続ける存在である。常にうちに秘めたものを持ちながら頑張ろう。
四月に入ってからすでに一週間が過ぎた。今日もまた、雨だった。昔から春の雨は、細かく優しく降るイメージがあって、あらゆる人々から好かれてきた。春雨は濡れていこうとか言うけれど、やはり、春は晴れていた方が良い。遠くの山々に薄青色の霞が棚引き気持ちを安らかにしてくれる。さらに、あちこちの土手や公園や通り道に咲いている桜の色鮮やかな姿には、美人に出会ったようなうっとりとした気分にしてくれる。
春が来るたびに、この春に雨が降ることを恨めしく思う。子供のころから春は花咲き小鳥が囀る春なのである。雨が降る春のイメージはあまりない。しかし、悲しいことに春に雨が付き、春雨という言葉が生まれた。それだけ、雨も多く降ることがあるのである。春の嵐とかもある。この事実を知らされたとき、村山はかなりのショックを受け、独り寂しく打ちひしがれてしまった。
その春雨についての忌々しい記憶が蘇ってきた。小学校の高学年の春の遠足のときのことである。その前の夜は、母の拵えてくれたお寿司を枕元において布団に入るが、興奮してなかなか寝付かれない。そして、うつうつとしたと思ったらもう朝が来ていた。その眠い目を擦りながら外を見ると、雨が軒先を伝わって落ちていた。この時の村山の落胆した気持ちは、自分を、悲しみのどん底へと突き落とした。楽しい遠足の日に限って、どうして雨になるのである。雨になることは想像もしていなかった。
小学校の五年生の時のことであるが、なぜかその時に初めて春の雨への気持ちの悪さと悲しさを知らされた。その時以来、春には雨がたくさん降ることがあり、楽しい晴れの日ばかりではないことを、村山の人生に刷り込んだのである。とは言っても、春はやはり春なのである。昔の偉い哲学者が、一年を四季に分けて、それにそれぞれの意味を与え、そのうちのひとつがこの春なのである。
それにしても、雨の降る春は春ではないと今でも思っている。やはり、あると言えば霞棚引き、花咲き乱れでなくてはならない。現実は雨の降る日が多く感じられる。雨の降らない春なんてないと思えてきた。人生の春もそうなのかもしれない。喜び勇む春の裏では、悲しみに打ちひしがれる春がある。美しき春の蔭には、春の嵐が隠れている。なんと意味深長な春なのであろうか。
西中・トンプソンさんに今日出会った。小柄な体から、幼児のような可憐な瞳を輝かせていた。しかし、唇にはピンクの口紅が塗られていた。子供が祭りの時に口紅をつけて、お化粧をした時に似ているように思えた。少し、アンバランスな気がする。子供と大人が半身半獣のように組み合わされたような不思議な感じがした。彼女は村山を見るなり、赤い唇を軽く広げて笑顔を漏らした。村山も咄嗟に、少し強張ったような微笑みを浮かべた。
演劇学概論の授業には、彼女と村山の他、英文科の連中も四、五人は来ていた。どの顔も新学期が始まる新鮮さに好奇心に満ちた顔を見せていた。席についた学生は隣の学生と講義の話や、この講義の教科書の購入についての話をしていた。それだけでも楽しそうな表情を浮かべている。
尼崎市役所勤める、寺山君も来ていた。男はというと、見渡せば、村山と寺山君の二人だけであった。村山は寺山君と仕事のことや、これからのことなど雑談をした。そのうち、先生がなかなか来ないので不思議に思い確認したところ、休講であることが分かった。やむを得ず、教室を出ることにした。
その時、さも親しげに、村山に「ボっちゃん!」と声をかける女性がいた。彼女は満足そうな顔をして、全身優しさに包まれているようであった。彼女の名前は薮田ひとみさんである。田舎から単身で大阪に出てきて、あちこちで苦労しながら働き、この夜の学舎で学んでいる。なかなか成績は優秀な才女である。現在、昼間は市内にある弁護士事務所に勤めている。「ボっちゃん」とは村山の名前の「ボックス」の頭のボに「ちゃん」を加えただけの良くあるパターンのあだ名である。彼女は、そう呼べたことだけで満足したようで、その後は仲間と一緒にどこかへ消えていってしまった。
彼女たちが去ってしまった後、西中さんと寺山君と村山に三人になってしまった。村山達は、講義に内容についての、知っている限りの話をし、単位をどれだけ落としたかなどの取り止めのない話しに夢中になった。西中さんは、英米文学史と他の外国語二教科、そして専門一教科を落としてしまったらしい。
今日の三時限目は「英米文学史」の講義であった。西中さんは今年もこの授業を受けることになっており、村山も、今年の授業に入れていたので、三時限目で会うことを約して、彼女はESSクラブの部室へと消えていった。
三時限目、二人で授業を受けた。彼女は村山にノートを一枚欲しいと言ったのであげた。「桜井は雪が積もって大変だな!」と冗談めかして言ったら、即座に「まぁ!」と頬っぺたを膨らせて村山を睨んできた。村山はその顔がすごく可愛いく見え、思わず吹き出してしまった。講義の後、一緒に帰ろうと考えていたが、その村山の一方的な予定はもろくも消えた。彼女はまた、部室へと消えていってしまった。
村山の履歴書として書いておきたいことがある。それは、村山が子供のころから、夜がひどく怖かったことである。夜、厠へ行くのも、独りで行くことができず、何時も母を起こしてついていってもらった。特に、ラジオやテレビで怪談話しを聞いた時や観たものならば大変である。母が横で寝ているにもかかわらず、怖くてなかなか寝付かれないのである。目を閉じていても、今にも恐ろしい怪物か霊が、村山の布団をはぎとり、血糊の付着した牙を剥き出しにして襲いかかってくるような幻覚に襲われるのである。布団に必死にしがみ付いて、朝まで堪え続けなければならないぐらいであった。早く朝が来いとただ祈るばかりに夜である。
また、夜道を一人で歩いている時も、同じであった。後方から得体の意知れない黒い物体が吐息を荒げながら自分を追いかけてくるような気がして、思わず駈け出してしまうのである。たった二百メートル程度の距離であっても、怖くてそれらの邪気を振り払うように必死で走ることが多かった。特に墓の下を通るときなどは、もう血の気が引くのを、無理やり我慢して、肌が鳥肌になっていることさえ気づかずに一目散に灯かりを目指して走り抜けた。灯りのある場所を目前にしたときは、村山は、嬉しくて思わず自分に「よくやった」と言い聞かせるぐらいであった。
現代思想研究会の勉強会に出席した。講師は、先輩の四回生の古田さんである。参加者の主なメンバーは反安保学生会議と法律研究会の有志である。古田さん自身も社会党系の社青同太田派の活動家である。全員、基本的にはマルクス主義者たちである。
学習会は「共産党宣言」を中心に行われた。しかし、それらの話を聞いていても、なかなかあたまに入って来なかった。村山の頭の中はカミュのことで一杯だったのである。マロニエの樹の下にいるサルトルが浮かび上がってきた。もう駄目だ、どうしょうもない。古田さんのわかりやすい解説も一切受け付けない。どうしたらいいのであるろうか。
ところが、勉強会も終わろうとしたころ、サルトルの実存主義が話題になった。出席者たちも、いま話題の実存主義に興味があるのか、この問題に注目が集まった。古田さんが何をどう喋るのか次の言葉に全員、固唾を飲んで見守った。古田さん曰く「サルトルは観念論者である。ブルジョア思想家である」。この言葉に村山は絶望した。
「いや、マルクスは社会を中心とした、サルトルは人間の精神を中心とした哲学で、その目的はどちらも苦しむ人間の幸福を目出した哲学である」と村山が必死で反論しても、その声は虚しく壁に跳ね返って消えて行った。
夜の街明かりの下を、悔しい想いをしながらも、冗談を飛ばしながら帰って行くことにした。全員、そんな村山を許容してくれた。
雨が突如として降ってきた。当たり前のことだが、昨日まであまりにもよく晴れた
清々しい天気が続いたものなので、不思議にも空を恨めしく思って眺めた。
一時限目は「演劇学概論」であったが自然休講となった。その空いた時間を図書室へと向い、太宰治の「斜陽」を読むことにする。中庭では、学友会執行部の連中がやかましくアジっている。その尼信満の音は四階にある図書室まで聞こえてきていた。その音に搔き乱されたのか、雑念が湧いてくる。睡眠不足のせいもある。頭が重く身もだるく感じる。
第3章 勤労学生の切なさと職場の華やかさ
大学の中庭には有隣館という学生たちが憩ったり、少人数の集会ができる建物がある。村山三郎も大学の施設の中ではこの建物が一番気に入っている。今夜は、そこで大学の軽音楽部による定期演奏会が行われていた。学生が100名ぐらい集まっているようである。会場は暗くしているので、誰がいるのかは判断できない。ただ、サックスの重厚な響きが聴衆である学生たちの心の中の襞に浸み込んでいることは間違いないようであった。その証拠に学生たちの呼吸や雰囲気が音の世界に引きずり込まれたように、リズムをとっているように感じられる。
ときどき目を覚ましたようにドラムの甲高い音が鳴り響くと、暗闇の中でも学生たちが電流でも走ったかのように一瞬ビクッとしたように思えた。衝撃が学生たちの全身に襲いかかっているようにも思える。その衝撃がまだ残っている学生たちに追い討ちでも掛けるようにトランペットの高く唸るような伸びやかな音が加わってくる。学生たちの呼吸はさらに荒々しくなったように感じられる。その底流を心地よいベースのリズムを刻むような低音が流れ、その上を種々の音符が踊りぶつかりながら入り交じり、楽器と楽器が話し合っているように聴こえてくる。これらの哲学者のしゃべくりにも聴こえる音の洪水の中で、学生たちは自分の人生の悲しみや苦しみなどの塵埃がそれらの音の流れの中に洗い流されていくように感じている。すっかり自分の存在が宇宙の中に溶けだしたかのような平安で安穏な気持ちに包まれているようである。
「枯葉」や「テイクファイブ」などの名曲が次から次へと演奏されていく。これらの流れるような音の饗宴の中にどっぷり浸かっていると、村山も政治や社会への怒りもすっかり忘れてしまい、自分の不幸な人生や孤独な心も癒されるように思えた。中でも、村山の心をとらえた曲がある。それはピアノ独奏曲であるショパンの「別れの曲」である。この曲の本当のタイトルは、「エチュード[tcy]10[/tcy]の3ホ長調」という。ポーランドからパリに出て来て、駆け出しであったショパンが、一八三二年に故郷を想い作曲したといわれている。この曲のメロディーは長調にもかかわらず、非常に悲しく哀愁の気持ちが沸き上がる曲である。村山は、この曲を聴くたびに自分の故郷である大塔村を思い出す。子供のころの天真爛漫な自分の姿を思い出し、現在の自分と比較して、どうしてこんな風になったのかと、自責の念に駆られてしまう。
村山は自分という人間が何と自己中心的な変哲な人間かと自分で自分自身を呪っていた。自分は若者らしさがない。子供のころのような開放的で情熱的に生きられないのかと悔しかった。この持て余したような青春の力を、打ち込める何かがないものかと考えた。確かに、文学のなかに青春の悩みや感動や喜びを見出そうとしていることは間違いない。しかし、それは、あまりにも偏りすぎているように思える。この若い力と情熱をぶつけられる体と精神を、ただ弄んでいるだけではないのかと勘繰られるからだ。
今日という今日は、自分が老人のような感情しか持てていなかったのかと、自分を責める以外に心を静める術はなかった。今まで若者としての自覚はなかったのか、その特権を使うことを恐れていたのか、そして、あまりにも将来の自分像に束縛され過ぎていたのではないのかと考えた。
今日もさりげなく日曜日は終わってしまう。昨日のあの悲しくも悔しい懺悔と後悔は去り、いつものような生活が始まる。しかし、いつ再び昨日のような悲痛な日が巡りやってくるかは分からない。それは村山がまだ、己の心の殻を破り脱皮できていないからである。高橋和己のいう「孤立の憂愁」の意義を少しは触れたような気がした。
最近、村山はよく寝る。今日も昨日同様十時間以上も寝てしまった。この眠りによる勉強ができなかったことへの憎悪感はない。孤立した精神状況の中で過ごす、日曜日の憂愁からも少しは遠ざかることができた。できたと能動的に言えるものではなく、慣れたことによる慣性の法則のようなものなのかも知れない。これが生きるということなのか。
そうこう考えているうちに、なぜか寂しさがそこまで近づいてきているように感じる。そして、その寂しさもやがて忘れてしまい、生き続けることになる。
さりげなく生きることに楽しさは知っている。知っているがゆえに反抗したくなる。そういう天の邪鬼的な行動の癖が村山にはあり、その癖が村山を苦しめている。
あれよあれよという間に、月が変わってしまった。月日の流れは光陰矢のごとしである。その速さに悲しみが伴う。一度は決意して大阪へ出てきたが、三か月前仕事と学業の両立ができなくなり田舎へ帰らざるを得なくなって田舎で失意の生活を送った。それから再度決意して、今度こそは仕事と学業の両立をやり切る覚悟で大阪に戻ってきた。それから既に一か月間が過ぎてしまったが、固い決意とは裏腹に、未だ職はなかなか見つからない。そのうえ、何気ないことに不愉快になり、嘔吐を催しそうになることがたくさんあった。その原因はいろいろあるが、最近では、大学の職員や教授や講師たちへの不和感と学友たちに対する不快感がある。
その一例を掲げるならば、この前の土曜日のことであったが、フランス語の教授に対する深い悲しみにも似た失望感を感じた。それはその教師に人間としての広い心が足りないように思えたからである。自己中心的でサラリーマンのようにただ決められたカリキュラムだけをこなしているように感じたのである。多分、この教授の性格はかかなり偏狭であるように伺える。彼は、ただ教授陣や理事長からの評価だけを気にして働いているに違いない。学生の気持ちなどこれっぽっちも理解しようとは思っていない。その脳裏には、学生達の生活や悩みや人生についての知識は一片も無いようにさえ感じる。それどころか、学生を単なる自分の仕事の道具の一つぐらいにしか考えていない。そのフランス語の教授の顔を思い出すだけで、村山は自分の身の毛がよだち、吐きそうになるのである。
早く職に就きたいという焦りと人生に対する不安が入り混じったような精神状態が村山をいらいらさせているのだろうか。村山を苦しませている不快感の正体とは一体何なのか、村山自身にも理解することができなかった。ただ、村山を襲ってくる吐き気だけが、自分の実存を感じさせてくれていることは間違いない。
村山は、この吐き気から来る実存の苦しみを少しでも安らげようと思い、藁にも縋る気持ちで、一か月前から新しいアルバイトを始めた。先のアルバイトである西日本新聞社を辞めてから丁度一か月が過ぎていた。その新しいアルバイトというのは、大阪の北浜の証券取引所に上場されている株式相場の移動状況を取材する仕事である。この新聞社は日本でも最高峰の経済紙を発行しているN経済新聞社である。その新聞社の大阪支社のビルが北浜にあり、そこの五階に村山が働くことになっている経済部の「証券課」という部門がある。この部門は正社員四名アルバイト三名で構成されている。
ここで、朝出勤するとまず、N新聞の新聞記事を切り抜きスクラップする。それが終わると、昨日の資料を参考にして、今日の株価を取材するための準備をする。主に株価の数字の整理と記録をするが、頭と熟練した経験が要求される仕事である。一日の取引が終わるとすぐに証券取引所に向い、電話回線を使用して、その日の株価を上場順に銘柄ごとにその引け値、気配値などを読み上げていく。それをデスクが電話で受けて、株価表に記入していく。このやり取りが一番緊張する。この数値が翌日のN新聞の証券欄に堂々と掲載されるからである。
社内のデスクにいると、時々、社会部のデスクが、取材記者を怒鳴りつけているシーンにも出会う。現場の生々しいやりとりは、新聞社の仕事の厳しさを教えてくれる。ある時など、日本の総理大臣の交代劇のシーンにも出くわした。新聞社というのは最先端の情報を集め整理し発信するという偉大な使命を持っているマスメディアである。村山はこんな新聞社の仕事に誇りとやりがいを感じた。自分も大学を卒業したらマスコミ界で働きたいと秘かに決意を固めていた。
しかし、最初のうちは数字を扱うのが苦手な村山は、これは大変な仕事を引き受けたと考えた。これは、貰える給料と比較して、分に合わないかなりのきつい仕事だとも思った。早くも村山の心は、逃げに掛ってしまったようで、悪魔のような囁きで、辞めたらどう? と聞かれているような感じがした。しかし、いざ始めてみるとその難しいと思えた仕事もそれほど難しくなく、克服できる見通しがついたというか、出来そうだという可能性の一端が見えてきた。それで、勇気がわいてきた。まったく異なる村山の二つの性格、臆病と脳天気な気質の二つがここではよく現れているようである。
ところで、このN新聞ビルの五階には、経済部のほかに整理部もある。この部でも同じK大のアルバイト生がいた。勝山啓子さんである。彼女はなかなかの美女である。当時女性演歌歌手で人気があった藤圭子にも少し背格好が似ているようにも思えた。その彼女の存在を聞いたのが昨日のことで、村山が日経新聞のアルバイト生として就職することになったことをどう彼女に伝えたら良いのかと、いろいろと思案した。
最初に、彼女と顔を合わす時には、一抹の不安が先だった。しかし、今夜の三時限目の授業の終了後、帰りの電車のなかでばったり彼女に出くわし、話をすることが出来て、不安は消え去った。
このようなつまらないことで悩む小心ものの性格も村山の性格である。最後に一言、最近どういうわけか、自分がモテモテのように感じる村山である。しかし、それも村山の自己都合による妄想であることは明白であるように思えた。
N新聞社での仕事が終わり、下宿で勉強をしているとき、村山はいつも考える。俺はなぜこのように反権力的正義感が強いのかと。何事かの思想上の闘争が起きた時には、まず、反権力的感情が湧いてきてしまう。次にその思想の内容が詳らかになるにつれて、正義的理性面が湧きあがり活躍を始める。子供のころからそうである。弱いものや貧乏な奴の味方になってしまう。持って生まれた判官ビイキともいえる気質、こいつがいつも無意識に顔を出してくる。
そんなことで、野球では巨人のユニホームを着ていても、阪神を応援している村山がいた。クラスでチーム分けをして、ドッジボールの試合をするときも、わざわざ弱いチームに加わり、そこで強いチームと戦う。ずっとそうだった。小学校、中学校、高校、大学、すべてそうであった。高校野球を見ていた時でも、いつも応援するのは、強豪校ではない、地方のチームで、特に北海道や沖縄といった遠い地方のチームや田舎から出てきた部員が少ないチームである。徳島の池田高校が出てきたときなど、最高に応援をした。
こんな反権力的正義感の強い村山を刺激する出来事が今日の夜の学園で起こってしまった。それは、三時限目の授業の英語Ⅲの時間が始まったころである。K大学の中庭では、反代々木系らしい反戦活動家が、アジテーションを始めていた。そのがなり立てるような高圧的な声の響きに、彼らの自己中的な革命エリート的な態度を感じて、村山の判官びいきの心が目を覚ました。
鼻につく彼らの自己陶酔しているようなアジテーションの声に反感を感じた。それで、村山は、彼らの耳障りな声をかき消そうとわざと大きな声で、目の前にある英語Ⅲの教材である教科書を読み始めた。もちろんその声よりも室内でざわめく学友の声の方が大きく、すぐに村山の音読する声はかき消されてしまったが、周囲にいた学生には村山の声が聞こえ、村山を非常識な奴だと想ったに違いない。
その時、教室のドアを開け、いきなり反戦活動家たちがクラスに乱入してきたのだ。ここで政治についての討論会をやろうとけしかけてきた。しかし、我がクラスにも少人数の真面目な学生たちがおり、その真面目グループから、反戦活動たちに向けて、非難の声とも罵声ともいえる声が上がった。その真面目な彼らには、理論的に政治的に反対というだけの理性と知識が何もないようであった。ただ、授業を妨害してほしく村山いう一点で、彼らをそうさせていたのである。
それを見た村山は、今度は、真面目なクラスの連中にも反感を覚えた。いつも常識的にしか行動をしようとしないで、若者らしく社会や国家に対する反抗心が一向にない彼らを見ていると無性に腹がたった。自分だけよかぅたらいいのかと怒鳴りたい衝動にかられた。従順な子羊のような彼らの態度、それでいて、自分たちの権利だけは守ろうとする保守的な卑屈な精神、彼らが、国家を駄目にしているのだと思った。
そこで、今度は逆に、村山は少数の真面目グループの罵声に対して、憤然として立ち向かい反戦活動家の方に味方をすることになった。なおも続くかれらの反対の罵声は村山をますます戦闘態勢へと駆り立てた。
引き下がろうとする反戦活動家達を呼び止め、村山は声援を送り、もっとやれと反戦活動家達を応援するように命令をした。村山の応援に気を良くしたのか、再びアジテーションが始まり、それと同時に室内は静かになった。その間永く感じたが、ほんの十分ぐらいの出来事であった。
その後、一人の学生が立ち上がり「白けた」と怒りをぶちまけた。再び、教室は騒然となった。そして、教室のあちこちから非難の声が飛び交った。その中で、インテリ風の一学生は明晰な思考力で、その非難の罵声を打倒した。村山もそれにはほとほと感心した。その後は二、三の罵声が飛び交ったが、散発でくじけ散ってしまったように静まりかえった。再び授業は開始された。
今日という今日ほど、我がクラスの連中と村山との間が思想上の相違がかなり大きいことを、認めざるを得なかった。まったく「孤立の憂愁の中で」のような気持ちになった。 彼らは、あまりにも政治や国家に対して無知過ぎる。体制に従順過ぎる。しかし、そのような政治馬鹿のような彼らでも村山の友人としては、一生涯、交際を続けていきたい人たちなのでもある。
最近、実に不規則な睡眠が続いていることに村山は気が付いた。一昨日、八時間寝たがまだ寝不足感がある。今日は何と十二時間以上も眠り続けていたことになるが、まだすっきりした感じはない。体の調子も少し悪いのかもしれない。ここのところ朝飯抜きで、昼と夜は外食と決めている。夜は大学の地下の食堂で食べることにしているが、それほどおなか一杯にはならない。たまったものではない。そのせいか、最近五キロも痩せてしまった。
今日はパチンコで千円ばかり勝ったが、ここ三日間で三千円も負けている、結果損をしているのである。日経新聞のアルバイトの給料も安いから、他でもっと稼が村山授業料も払え村山考えるとやきもきしてしまう。実家に頼るのも気が引ける。母と父は細々と洋服仕立と寸法直しの下請けをしていて、仕送りどころではない。自分たちが食べていくので精一杯である。どうしたらよいものかと村山は思案しながら、下宿へと向かっていた。
その帰路の途中、淡路駅前の路上で一人の酔っ払いに出会った。年の頃は四十三か四十四歳ぐらいの色黒のか細い壮年である。一見しただけで日雇い労務者風に見える。ひよっとしたら無職の風来坊かもしれない。その風来坊が何か喋っているので、耳をそばだててよく聴いてみると、「朝鮮人のどこが悪いのか?」と怒鳴っていた。圧政による民衆の苦しみ、資本家たちによる搾取、悲しい戦争の犠牲者たちの人生を考えると、村山はいてもたってもいられなかった。しかし、村山自身も人生に打ちのめされ、どうしたらよいのかわからず、悩み苦しんでいた矢先である。風来坊を助けようと思う勇気もなく、声をかける勇気すら出て来なかった。
下宿に戻り、銭湯に向かって歩いていると、再び先ほどの酔っ払いの風来坊に出くわしてしまった。今度は、その風来坊ほとんど村山の目の前にいた。風来坊は、自分の自転車を路上に止めて、こう叫んでいた。
「朝鮮人がどうした。エタヒニンを見ろ。部落民を見ろ。指が足りないぞう。」
村山の心は痛んだ。まだ、こんな差別表現をする奴が日本にはいるんだと思うと、悔しくて、悲しくて、怒鳴り返してやりたい気持ちになった。しかし、ここで、感情に支配されて、こんな低レベルの人間と言い争いをしても何も始まるはずもないことは百も承知していた。そんなことをしても時間の無駄だ。もっと大きな根幹的な問題を解決するしか術はない。資本家階級、支配者階級の奴らと話をつけ村山どうにもなら村山村山は自分に言い聞かせた。そして、次に大きく深呼吸をしてから無視することを決めて風来坊の横を黙って通り過ぎていった。後ろから、風来坊の叫ぶ声がまだ聞こえていた。
冷たい小雨が降り続いていた。低レベルな野郎は雨の中を自転車を重たそうに押しながら、今度は「歩兵は進む」と軍歌を歌いながら、重い足を引き摺るようにしながら、村山から遠く離れていきやがて姿を消していった。
冷静になって、後からよくよく考えてみると、このような風景は、ある意味、その怒鳴っている男にもどこか深い心の傷や闇があるようにも思えてくる。低レベルな風来坊野郎はどんな人生をたどりどのように生きてきたのだろうか、抑圧や差別や人並み以上の苦労もあったかもしれない。そうだ、並大抵の人生ではなかったはずだ。
日本人は昔からよく差別をしたり、人を妬んだりする傾向が強い。それは、社会、文化や政治がそうさせているのだろうか。人間的には比較的穏やかな民族にも見えるが、ひとたび火が付くと手が付けられないぐらい暴走してしまうところもある。特に明治から昭和にかけての軍部政治の台頭と、一億総玉砕へと進んでいく姿は象徴的である。日本人の恐さを見る想いがする。
それは、今の時代も同じではないのか。今の時代でも要領よく出世街道を行く人もいれば、不器用で失敗ばかりを繰り返しながら生きている人もいる。反対の意見も言えずに従順に生きることが正しい生き方であるかのような錯覚をしている人もいる。反対の意見を言うことが間違いのような空気がある。だから、社会や政治に対しても、ノーが言えないのだ。自分が正しいという正義の道を誰に気を遣うこともなく、はっきりと主張できるような日本人になら村山いけない。
そうし村山、これからの国際社会の中で日本人だけが、誤解され、損をすることになる。革命に対しても、共産主義に対しても同じだ。自分が正しいと思うならその道を真っすぐに進むべきだ。何も他人の目や世間の目を気にして、自分の信念や主張を覆すことは、自分自身に対しても不誠実だ。
だから、村山は自分に誠実に生きようといつも思う。自分の信念と主張を曲げずに戦いたいと思う。そういう生き方が誠実な生き方であり、後悔しない生き方でもあると心に深く決意している。こういう時に決まって聴こえてくるのが。あのシベリウスの力強い民衆闘争の曲「フィンランディア」であった。この曲は、悩んでいるときや悲しいときに勇気や希望を与えてくれる。厳しい冬から暖かい春を予感させてくれる。さあ前進だ、苦悩に沈む民衆たちよいざや立ち上がれと鼓舞してくれているように感じるのだ。村山にとっては人生の応援歌とも思える曲で、近頃この曲にはまっている。
そもそも村山三郎が初めて大阪にできたのは、今から二年前の一九七〇年の春のことであった。村山は奈良県の南部の寒村、大塔村生まれである。大塔村とは言っても本当は、吉野郡大塔村赤谷という奈良県最南部の十津川村の一つ手前の村である。昭和二十五年に父茂と母澄江の間に村山家の三男として生まれた。
第二次世界大戦中、父茂と母澄江、そして長男利二は姫路、明石、播磨などの軍需工場の宿舎で生活をし、父はそこで働いていた。そして、戦争が終わると、元のさやに納まるかのように、奈良県南部の山奥の村の大塔村に戻ってきた。そのあとの生活は戦時中よりひどく食べるものがほとんどなく、米もなかなか手に入りませんでした。母は宵闇にまぎれて、ヤミ米を買うために、一〇キロも離れた隣村へよくでかけました。夜道を歩く恐怖も、家族のためと思えば吹き飛んでいました。しかし、ヤミ米販売を取り締まる官憲につかまったこともあり、想像を絶する苦労があった。
そもそも、父は神戸と縁があり、尋常小学校を卒業すると、すぐに神戸の丸金という洋服屋さんに丁稚奉公に出された。奉公先では、ほとんど休みもなく朝の早くから夜遅くまで働き、洋服仕立ての技術を身に着けた。その技術は予想以上に高く、丁稚奉公を終えて戻ってきた故郷、大塔村では、腕利きの洋服仕立人として大変評判になった。これがなかなかうまくいき、一月のうち一週間程度働けば、十分楽な生活ができるぐらいであった。
一方、母は父が住んでいた大塔村から北東へ一〇キロ程度入ったところにある、天川村生まれで、父は村の助役を務めたこともあり、その頭の良さは「そろばんで川の流れも止めることができる」と評されるほどであったそうであった。それで「イトちゃん」といわれて、お誕生日には村の役員が勢ぞろいしてお祝いの品を届けに来たそうで、何不自由のないお嬢様育ちの母でした。しかし、戦時中は村には誰一人結婚適齢期の若い男性はいなく、困り果てた、母の父や兄は、隣村に父がいることを聞き、母に勧めたらしい。母はもちろん断りましたが、娘が適齢期を過ぎても、家にいるのは、家の恥のように言われた時代でもあり、無理やり父のもとに嫁がせました。そして、確かに戦争が始まる前は、長男も生まれ、結構気楽に過ごせたのですが、ひとたび戦争がはじまると、その生活は一転してしまう事態になった。
体の小さかった父は、兵隊としての徴収は免除されたが、軍需工場の徴用に出ることになった。それが、姫路や明石の軍需工場だったのです。二度も故郷を離れた父は、終戦後も再び大塔村に帰ってきた。なぜ大塔村かとの疑問もある。それは神戸や大阪にとどまることもできたのだが、帰趨本能でも働いたのだろうか。しかし、それからが大変な生活の始まりであった。戦後の食糧難でもあり、食うものもろくになく、ほとんどの食糧品、衣料品や日常品は配給制であった。とくにお米や魚などの主要食料品は手に入れることが難しかった。
ご飯といっても、ほとんど茶粥にして、漬物と一緒に食べるのが日常であった。そんな中、次男秋治が生まれ、長女恵子が生まれ、一郎が生まれた。見える景色は川と山がすべてで、民家も少なく、橋ですらしばらく歩かないと見当たらないほどである。長男と次男は八キロの道を歩いて一時間かかる小学校に通った。ある時は、台風で川の水が増水していて、長男と次男は川に流されたこともあったそうである。その時それを聞いた母はもうだめだと肚を括ったそうだが、まず長男が見つかり、次男もかなり離れたところで見つかり、二人とも、奇跡的に無事であったが、母の心臓も止まりそうになったとよく話をしていた。
そんなことで兄達は学校通ったり勉強したりもできず、親達は仕方がないので同じ村のなかでも、村役場があるむらの中心部落である辻堂というところに引っ越すことにした。ここなら小学校まで歩いて十五分ぐらいで着くことができる。長兄や次兄、そして姉は大変喜んだそうだ。この辻堂で九年間すごし、村山三郎は山や川の大自然の中で、野生児として、のびのびと育った。家は貧乏で、毎日、お粥と漬物でご飯を澄ましていたが、そのことに対する不満はなく、楽しい毎日の生活が送れた。ただ、冬は雪も降り、暖房といえば火鉢ぐらいしかなく、いつも火鉢から離れられなかった。しばらくして、電気炬燵が復旧してからは、いつもその炬燵に入ったままなかなか出ようとはしなかった。それより、厳しく思えた寒さは、朝の洗顔と歯磨きである。水汲み場といって、風呂桶ぐらいの大きさのコンクリートで四角に囲われた桶の中に、山から自然に湧いてきた水をためる場所が、家の外にあったのだ。その水汲み場まで、毎朝、道路を横切ってわたり、顔を洗い、歯を磨くのだ。これは非常につらかった。たまに水が凍っているときもあり、その氷を割って中から水を掬い出すのだ。手は赤くはれ寒くてはじかんで感覚がなくても朝は、毎日の習慣をこなさなければならなかった。
しかし、村山が小学校を卒業するとき、姉も五條高校へ進学することが決まっており、そのことを契機に人口五百人程度の大塔村から人口三万人強の五條市へ引っ越すことになった。村山三郎は、辻堂小学校の多くの友達や村の大自然と別れるのがつらくて反対したが、家族の合意で自分一人が反対したところでどうにもならなかった。五條市へやってきた当初は友達もできずに一人でいることが多かった。その寂しさを晴らしたいために、よく母に文句を言った。どうして大塔村の大塔中学校に通わしてくれなかったのかと母をなじった。しかし、学校は始まり五條中学に通わざるを得なくなった。五條での生活は、暖房は石油ストーブに替わり、洗顔所も台所も一応家の中にあり、辻堂でのあの朝の極寒の洗顔と歯磨きはせずに済んだことだけは、ただ一つ五條市に出てきて良かったと思えたことである。文明の力を少しずつだが感じられるようになってきた。かといって、家は相変わらずの貧乏で、下請けの洋服仕立てを一家総出で行い、やっと食事にありつけるというぐらい貧乏ではあった。
貧しくともどうにかこうにか姉は五条高校を卒業し、村山は五條中学校を卒業し、今度は吉野町にある高校に通う羽目になった。これも語れば長くなるのだが、一言でいえば、家庭の経済状況で、高校を卒業すればすぐに就職できる高校を選んだためだ。通学時間が一時間半もかかり、本当につらい高校生生活であったが、その反動からか、必ず大学へ進学して、中学校の先生や同級生に見返してやろうと決意し、周りがほとんど就職していく中で、自分一人が受験勉強に没頭することになった。
そして、ラジオの大学受験講座や通信制の全国模擬試験などで、勉強をしてK大学のⅡ部に合格できたのである。その大学受験を考え始めた時とほとんど同じぐらいに、小説家にもなりたいという気持ちが急に溢れてきた。それで、そのためには、まず日記を綴ることが一番と考え、大学を卒業するまで日記を書き続けた。
ところで、その後「平成の大合併」があり大塔村も五條市に組み込まれ、今では結局、五條市大塔町になってしまった。そのため、村山は自分の出生を語るとき、いつも吉野の山奥生まれと語ってきたが、それ以後は合併後の話も必要となり、すこし手間がかかるので、すべてを解説すると時間がかかるので、ただ「吉野の出身」だけ答えるようにしている。
そうして、一九七〇年の春に、村山はK大学へ通いながら自分で働いて生活と学費を払える場所を求めて公務員試験を受けた結果、吹田市の北千里にあった小学校の事務職員として採用された。こうして働きながらK大学Ⅱ部で勉強するという二束の草鞋を履いた勤労学生としての生活がスタートした。
就職先の吹田市古江台小学校は、北千里の人口増加に伴いこの春から新設された小学校である。この小学校には多くの若い先生方が多く採用されていた。特に女性教師が占める割合は高く八割程度であった。それらの若い先生達とも交わりながら、児童からは「村山先生」と呼ばれ、運動会に準備や遠足などの行事にも参加させてもらった。生徒からも、「村山先生は柔道をやっているんですか」と聞かれたり、いろいろ生徒たちからも興味を持たれたりした。そんなことで思ったより、仕事には不満はなかった。しかしながら一年近く務め続けていると、もっと自由に勉強がしたい、もっと時間が欲しいという欲望に近い気持ちが強くなってきて、結局この小学校を辞めることになった。まったく無鉄砲とも思えるこの決断に賛成した学友、上司、家族は誰一人もいなかった。
就職してから1年近くたった月曜日のことである。村山は朝から憂鬱になるぐらい机の上には住居届に関する書類が積み上げられていた。村山は思った。人間とはよくよく自己愛が強い動物なのだと思えた。ここの小学校の先生方ときたら、その書類の提出にはまるで反対でもしているかのように、住居届を提出すことに協力しようとしない。その反面その書類を提出した後の利益だけは当然のように求めている。しかし、その事実を素直に認めようとはしない。逆にプライドが高いのか、はぐらかそうとするぐらいである。それがまた皮肉にも皮肉、一見ええ格好をしたいとでもいうのか、自からその利益を放棄してもよいという風な態度を取ってくる。結局、それらの届出書を村山にすべて任せて放り出してしまう。これは教育者というよりまず人間としてどうなのかと思えてきて悲しくなってくる村山であった。
今日は、そんな雑務に振り廻されながら、昼過ぎまで時間を潰してしまった。昼の一時半から始まる職員会議があったので、その会議を避けるかのように村山は大阪府教育委員会三島地方出張所へと出掛けることにした。会議で雑用を言い付けられることが分かっていたので、村山は自分の時間がなくなるのを避けるためにとったあえてとった回避行動といえる。
夕方、三島地方出張所での仕事も一段落が付きかけたころ、大阪府庁に勤めている尾西くんから電話がかかり、一緒に夕食でもしようということであった。待ち合わせ場所の大阪府庁のある天満橋駅へと向かった。駅は帰宅を急ぐサラリーマンと夜の街へ繰り出していくサラリーマンたちでざわめきごった返していた。そこへ中森がやって来た。三人揃った所で、近くマーチャンダイズビルの地下にある焼肉店へ入り込んだ。
文明は発達したものだと田舎者の村山は思った。そこで初めて下に網を敷きその上に肉を置いて、その上から熱線を当てて肉を焼く方法を知ったのだ。大阪の方々には、当たり前でも、村山にはすべてが新鮮に見える。友人たちに良くからかわれて、「村山の着ている服はアカシアで買ったものばかりみたいやな」言われた。村山にとってみればアカシアは最近流行のファッションを展示している総合店舗であったが、大阪で長く住んでいる連中から見たら、それは田舎者臭い安物のファッションらしい。そんなこととはつゆ知らず、村山は自分が格好いいものとばかり思い込んでいた。そのことに気が付いた時には、あまりにも恥ずかしくて、それを誤魔化すためにあえてギャグにして、自分でこういうことにした。
「この服もアカシアで買った最新流行の服やでぇ。どうや、ええやろう」
目の前の肉が激しく音を立てて焼けるのを面白そうにじっと眺めていたら、肉が真っ黒に焼け焦げてしまった。焦げた肉もまた香ばしくて美味しい。次から次へと肉を焼きながら、村山たち三人は、新たな革命組織づくりの話を始めた。それは、既成の組織ではなく村山たちで新たな組織を立ち上げようということである。その組織の名前は、「緑の会アビック支部」を創ることである。その名前の由来も意味合いもしらない。尾西が思いついた名前らしい。村山にとってネーミングなどはどちらでもよく、あまりこだわりはなかったので、批判はしなかった。問題なのはどうして多くの同士を結集し、革命へと結びつけていけるかだと思った。それで、いろいろ組織の運営方法や立ち上げ方なども話しあったが、なかなかうまくまとまらなかった。とにかく、組織の基礎作りから始めようということで三人の意見が一致したところで、解散することにした。
その帰路の地下鉄東梅田まで行きそこで阪急電車に乗り換え、淡路へ向かう電車の中で、昨夜来考えているロマンチシズムの小説がどうしたら書けるのかを、村山はいろいろ思索を繰り返していた。淡路駅で降りてからも、下宿へと向かう道の途中にある商店街の本屋に立ち寄ることにした。何か村山の求める小説にヒントを与えてくれる本でもないのかと覗いてみることにした。小さな古本屋さんだが、村山が興味を引きそうな本が並んでいる。自分の本棚を眺めているような気分になってくる。その中に「純愛記」という小説を見つけた。この本は医学博士が書いたものだ。しかし、村山の求めるものではなかった。店仕舞いをし始めた店主に促されるように、その本屋では何も買わずに後にしたが、少し不満足に思い、裏通りの路地にある古本屋にも立ち寄った。夜も遅いので、店の主の顔色を伺いながら、恐る恐る、村山の求める本を探してみたが、こちらの本屋さんでも結局見つからなかった。
こんなに遅くまで店を開けてくれていた店主へのお礼の意味も込めて、村山は「現在日本文学史」を購入することにした。日本文学の中には、村山の求めるロマンチシズムの小説はあるのかを見極めたかったからだ。下宿に帰るや否やまず浪漫主義のページを捲ってみたが、見つからなかった。それで次には、その他の文学の中にはないのかも探ってみた。しかし日本の文学の中には村山結論をせざるを得なかった。それならばということで、外国の文学には村山の求めるロマンチシズムはないのかと思い、それも探ることにした。
そうこうしているうちに夜も更け、深夜十二時近くになったところで、村山は、不意に思い出したのが、先ほどの浪漫主義の文学者のなかに堀辰雄という小説家がいたということである。彼は「風立ちぬ」が主要作であることに気づき、その作品を少し読み始めてみると、なんだかその柔らかいタッチの文章の中に村山の求める文学があるように思えてきた。とにかく少し気持ちも安らいできたので、その夜は休むことにした。
翌日、起きると村山は昨夜考えた予定を思い出していた。その予定では、今日は大学の図書室へ行って、外国の浪漫主義について調べるつもりであった。ところが、その予定を覆すように朝早く中森から電話があり、本日午後から扇町公園で、インドネシア問題の集会があるから、尾西と三人で参加しようと誘われた。革命の同士からの誘いでもあり、やむを得ず図書室生きは止めざるを得なくなった。扇町公園は三月九日とはいっても、まだ寒く、身を氷らせるような寒さであった。その寒風の中、寒風にはためく夥しい数の赤い旗を眺めながら、二時間ほドアジテーションをする声を聞き続けた。アジテーターのがなりたてるようなスピーカの音を聞きながら、そのやかましいような音が、かえって、反戦活動や革命運動に参加しているような、満足感を与えてくれる。特に集会の時には決まって歌うことになる、「インターナショナル」の歌は、村山は好きであった。「起て飢えたる者よ今ぞ日は近し 醒めよ我が同胞暁は来ぬ」との歌い出しから始まり「ああ インターナショナル われらが者・・・」で終わる歌詞も気に入っていた。村山が革命家になったような雰囲気を醸し出してくれる曲で、ふと口ずさむこともあった。
そうは言っても、実際のところは、寒さだけが堪えた集会となった。尾西と中森はどうだったのか聞かなかった。聞くのが野暮に思えたからだ。それで何も聞かずに帰ることにした。しかし、ここまで来たのだから、図書室へ行かずに来た甲斐が村山思い直し、何か意義を見つけようとして、三人で、天六商店街の中の「館」という喫茶店へ入った。その店はその名前の通り、中世の館風に仕上げた建物で、なかなかの洒落た雰囲気を持っていた。尾西はその店で、民主青年同盟的雄弁さを発揮した。同じ所に停滞して先に進まない尾西の革命論に少し苛立ちを覚えた。
尾西の革命論は、「弁証法的唯物論」という物で、高橋庄治の著作などを参考にしているようだが、それほど弁証法に詳しくはなく、革命的というには甘いというぐらい、庶民的でサークル的な発想で、とにかくみんなで仲良く、労働者中心の体制を作ろうというものだ。しかしそのことを実現するためには、今は選挙しか方法が村山いう。まだるく覚える話だ。革命を起こすなら、もっと打つべき手が他にもあるだろう。もちろん選挙も大事だと思うが、もっと若者らしく、過激に熱烈にやるべきことはないのか、なにか何十年先のことなど、遠い未来のことのようで、到底、尾西の悠長な話にはついていけなかった。
そんな夢か何かわからない得体のしれない革命論を聞けば聞くほど、いや増して、村山の求める、ロマンチシズム的ユートピアの方に興味が向う。尾西はそんな村山の心の中を知ってか知らないでかは分らないが、村山の論理だけが正論であるかの様に村山に話してくる。あれやこれやと尾西が知っている知識と理論のすべてを使って喋りまくってくる。村山はもう全然何も頭に入らなくなっていた。
「友を友 話弾まぬ 浪漫主義」とかなんとか頭に思い浮かべながら、結局、社会主義や共産主義はリアリズムなのだと思った。村山の求めるのは理想主義なのだ。浪漫主義なのだと心の中で叫んでいた。
昨日、インドネシア問題の集会に参加したので、文学の勉強はできていない。今日こそ、ロマンチシズムの美を追求しようと村山は決めていた。それで、今日こそはK大の図書室へ向かうことにした。誰にも邪魔されずに行けた。あまり思ったほどには調べられず結果は出なかったが、ただ一つ分かったことは、村山が求めるロマンチシズムはなかったということだけである。
いつものように、講義が行われていないK大の天六学舎は、なぜかもの寂しい影に包まれているようであった。だが、K大の図書室に行く通路だけが明かりが灯されていた。図書室では、「名詩訳集」を借りて出た。その本を帰りの電車の中で読んだ。時々電車のドアに映る村山の姿が非常に物憂く感じられて、仕方がなかった。
まっすぐに下宿には帰らず、途中にあるパチンコ屋に立ち寄ったので、下宿に辿り着いたのは十時過ぎであった。村山の探しているロマンチシズムが見当たらない悲しみと焦りが村山を襲ってきた。でもふと寝ころんで考えたことがある。それは、人間性を万民に自覚させ発展させるとういうことである。その基盤に立った真の人間性に満ちた文学を求めるという方向である。すなわち、「山のあなたに」の『幸せ』に到達しようということである。
そこで、村山の文学は、ロマンチシズムではなくてはならない。リアリティな構成だが、その中身はロマンチシズムがある、そのような折衷とも思える手法である。あたかも、雪国の銀世界のなかにある一軒の山小屋の軒先から氷柱がぶら下がり、その氷柱が、太陽に照らされて一滴一滴時間をかけて雫を大地に落としていく。その雫が太陽を含んで映るとき、本物の金以上に光り輝く瞬間がある。その瞬間にきっと出会える。その雫のような美学が村山の求める美学のような気がした。
真の文学とは何か、それはその人の多角的な個性が発揮されて、文章として書きしたためられた芸術作品であるということか。最近村山は、この個性を求めているのである。この個性を掴んだ時に、村山の真の文学活動は始まるような気がする。少なくとも今はそう思える。
一昨晩には、堀辰雄の「風立ちぬ」を一気に読み終えていた。とはいっても精読ではなく斜めに流し読みしただけである。しかし、その文体や雰囲気は村山を懐かしい気持ちにさせる何かがあった。恥ずかしながら、少し前に一度は少しさらりと読みかけてみたが、あまり何も感じなかったので、一旦中断していたのだ。それを昨夜は最後まで目を通したのである。
その懐かしい気持ちが何であるのかは、良く分からないが、近世ヨーロッパ、特にスイス風の牧歌的な感じがした。文体は一センテンスが結構長いようだが、それが気にならないぐらい、流れるように読めて、読み易かった。これがプロの文体なのか、学ばねばなら村山思った。
美しい文体から、自然の風の騒ぐ音や、葉っぱと葉っぱが擦れるような音が聞こえてきそうで、それでいて、哀愁に満ちた文体である。そして、その自然のなかに、ちっぽけそうに見える一人の小さな人間の生命が、大きな純粋愛に包まれているように感じた。
今日は、堀辰雄の別の作品も読んでみたいと思い、集英社の「堀辰雄集」を購入した。最初にその解説部分を読んでみたが、その中に、村山は一大発見をした。それは、第一に、堀辰雄ですら、いやすべての作家に共通したことと言えるかもしれないが、世界中のいろいろと文学を渉猟したようなところがあることである。驚いたのは、堀辰雄の文学にあのラディゲが含まれていたことである。ラディゲと言えば、三島由紀夫を心酔させた作家である。そのラディゲを堀辰雄も読んで影響を受けていたということである。堀辰雄と三島由紀夫との接点は何なのか、ものすごく興味が湧いてきた。
この関係性を明確にできれば、そこに何か村山の求める新しい文学が見えてきそうに思える。今の村山の悩みを解決してくれる何かが、その二人に影響を与えたラディゲその人が、村山自身にも大きな影響を与えてくれるような気がした。村山の心にこんな詩が浮かんでいた。
心多く 個性解らず ギターつまびく
探すべく 捜し求めて 今日ラディゲのなぞを掴みぬ
不安の蟠る中、煙草を買いに淡路駅構内の売店まで出かけて行った。その途中、独文を専攻している知人のスタイン・ドルトルにばったり出会った。二人でそのまま近くの商店街の喫茶店に立ち寄ることにした。二人で交わす雑談のなかで、彼に何かを慰められるような安心感を覚え、村山の悩める心は一時的にも楽しい気持ちになった。
悩みというのは、職場の辛さを告白し退職するかどうか―−実はもう退職をすることを決めていたが・・・・・。
実は、昨日、吹田市教育委員会の課長から直々にとどまるように言われていて、すごく迷っていたのだ。
それを知らないスタインは、村山の真剣な悩みに応えようと一生懸命話をしてくれたのだ。本当の辞める理由は、職場の辛さではない。学問と仕事、小説を書く時間が欲しいという悩みだ。そこで、仕事を軽くしてその時間を作りたかったのだ。
スタインは、村山が勤労学生である理由を、宿命であるという。よってその宿命の中で、不可能なことは不可能だから辞めるのは意味が村山いうのである。その宿命と向かい合い、勤労学生にならざるを得ないし、そんな環境でも公務員は最適の環境である。職場の皆んなも応援してくれるし、時間的にも他の職種、民間企業などに勤めている人たちよりはかなり優遇されているというのだ。彼も村山も公務員なのだ。
特に、村山はその公務員の中でも最優遇されている好適の小学校の事務職員なのに、それを辞めるのは勿体ない、絶対辞めてはだめだと彼は言い張った。実際、アルバイトに切り替えて時間が増えたとしても、そう簡単には、この厳しい時代の社会の中で生きていくのは大変だ。だから、今の仕事を続けるのが一番と言ってくれた。
しかし、今まで、誰に相談しても、みんな同じ理屈で村山を説得してくる。それで、山田の理屈も同じなので、辟易するところだが、今日はなぜかあまり反発しようとは思わなかった。なぜか、不思議にも快く聞くことができた。
とはいっても、不安とか葛藤とかは、一つが解決に近付けば、他の問題まで明るくなってくるような気がする。今村山は、少し気が晴れてきたように思い、嬉しくなった。
三月もお彼岸ともなると、斜めに差し込む太陽の光が、村山の部屋にも春の土と草の香りを運んで来てくれるようになる。その眩しさと温かさが逆に村山の寂しさを一層際立たせているように思える。思えば、昨年の今頃といえば、村山は奈良の田舎町の五條市からここ大阪市北部の東淀川区への旅たちに胸を膨らませていたころである。確かにそれと同時に一抹の不安と寂ししさがあったことは否定できない事実である。この表裏一体する心が村山の心でもある。
あたりの景色や人々はすべて、長い冬からの解放を喜んでいるように見える。風によって運ばれてくる埃の匂いですら春らしい匂いがする。そして、その匂いにはなぜかどこか遠くの国の悲しい思い出も感じられて、村山は一人孤独を感じられた。また、どこからともなくショパンの「別れの曲」のもの悲しい長調の旋律が聞こえてくるようにも感じられた。
ああ時の流れの立つ悲しさは、年を経るごとに増し、わが身のあてもない漂流も旅は、どこまで続くのか。時は進めど我は身は一向に進まじで、なにか苛立ちにも似た気持ちが村山に襲いかかってくる。
なぜ、人は流浪の旅をあえて続けようとするのか。この世のどこに人生の価値があるというのか。流浪の旅を続ける理由は本能なのか。本能以外の理由では人は生きてはいけないのか。人間は自分の生存を全うするために生きるのか。本当に人はパンのためのみに生きる存在ではないのか。村山が好きなように生きては駄目なのか。これ以上の生命の存在の価値というのは何なのだ。
下宿の先輩の谷山さんの部屋でイギリス映画「わが谷は緑なりき」を観た。その映画を観ているとき、次のような言葉が頭の中でぐるぐる回っていた。無意識にそんな事を考えながら最後までテレビを、谷山さんと一緒に最後まで観た。
思い出、それは淡く美しいものである。
思い出、それは限りなく悲しいものである。
でも人は、それを思い出してはいけません。
心から湧き出る希望を強く持ち前へ前へと進まねばならない。
そこには思いでよりも美しい、そして強いものがある。
人はきっとそれを見つけることができる。
映画が終わると、村山は谷山さんに礼を言って部屋を出て自分の部屋へ戻った。一人になると急に寂しくなってきた。その時、また、あのショパンのピアノ曲「別れの曲」の悲しい旋律が聞こえてくるように感じた。故郷から、仕事と学業の両立させることを決意して大阪に出てきたのに、自分は一体何をしているのかと悲しくなってきた。親や兄弟にも申し訳村山いう気持ちが一杯になり、胸が詰まる想いであった。
その翌日、日も長くなりめっきり日差しも強くなってきていた。白き雲の流れはゆっくりと遠くの山は霞んでいる。電車の窓から見える、団地の林立はその白さを際立たされている。村山は、次の駅の南千里で降りた。その胸は職を辞すと思えど、甘くない世間の重圧に苦しんでいた。脈拍がドスンドスンと響き渡るような緊張感があった。駅の階段を降りる度に、その速さが増してくるように思えた。そうこうしている間に、不調和な村山の体は、市教委のドアの前まで来てしまっていた。
ドキドキしながら、部屋に入ると、全体的に明るい光が入り込み、明るすぎるぐらいに思えた。また、どの机もピカピカに光って見える。その中で働いている職員も活気に満ちて働いているように見える。その中を、村山は学事課に向かって真っすぐ進んだ。そして、まず、知り合いでもあり、先輩でもあり、友人でもある土居さんに挨拶をして、村山の辞意を伝えた。そんなに背は高くないががっちりとした体はスポーツマンに見える。
「こんにちは」
村山の心は、この一言で落ち着きを取り戻した。
「やあ」と気のなさそうな返事が返ってきた。そして、土居さんは
「何しに来たのか」と分かっていながら敢えて村山に聞いてきた。
「退職届の用紙を貰いにきた」と告げた。
「それなら、向こうの部屋の係長さんの所へ行ってくれ」と冷たく突き放すように言われた。
でもそれは突然のことで想定内の範囲の態度である。村山もなぜか当然のごとく、係長の部屋へと、胸の高鳴りと一緒に向かった。主任である元山さんが、村山の来庁を知らせる挨拶の後、ちょこんと係長の前にうつむいて座っている村山の顔の手を翳すようにしながら
「また、そんな顔をしとるな」と声をかけてくれた。しばらく待っていると、係長が急に立ち上がり怖い顔をして村山に聞いた。
「どうなった?」
「退職します」
「・・・・・・・・」
実は、今まで僕は、この件について多くの先輩、友人や知人などに相談をしていた。そして彼らの意見にかなり惑わされていた。一体村山は何をしたいのか何をしようとしているのか、わからなくなっていた。昨夜もある先生に相談したところ、説教をされ、本当に困っていた。しかし、そのことが皮肉にも逆に、村山の決意に刺激を与えてくれた。そして一晩考えた挙句の末、前々から勉強をもっとしたい、学問に打ち込みたいと思い続けていたことで、今回こうならざるを得なかったことを、係長に伝えた。
さらに、大学の先生や、村山の両親や村山の保証人の方々とも相談をして決めたと、嘘をいった。この尤もらしい説明に、係長は、しばらくの沈黙した後言った。
「他に言うことはないか」
「はい! ありません!」
「そうか。ようわかった。実は村山もその言葉を待っていたのだ。」といって、土居さんに退職届を持ってくるように言った。
なぜか、わたしの目から涙が出ていた。最初はこういう場合には、泣いた方がその場に相応しいように思い、泣くことにしたのだが、そ
れが、本当の涙に変わってしまったのである。それをみた係長はこう言って、慰めてくれた
「何も泣くことはない。その涙を良い涙にしてくれ」
村山は、再々お詫びとお礼を言いながら、係長の部屋を出た。教育委員会の建物を出た時には、外は夕暮れで、帰宅を急ぐサラリーマンや買い物帰りの人々で、混雑していた。その中をまだ興奮気味の顔をした村山が、とにかく新たな一歩を進み始めたことの喜びと不安を同時に感じながら、人ごみをかき分けるように駅へ向って歩いて行った。
そして、南千里から十分程度で、ほとんど落ち着いて考える今もないまま、淡路の駅につき、そのまま淡路本町商店街の方へと足を運んでいた。その足取りは意外に重かった。 ただ、呆然としながら足だけが商店街をまっすぐ歩き続けていた昨夜の村山とは、今日は違っていた。今日は何か大きな罪を犯してしまった罪人のような気持であった。なにかきが滅入りそうに思えた。
同じ小学校の産休の臨時教員の吉田先生のお宅に、差額給与を届けるために、向かうことを思い出し、吉田先生の家へ二十分程度歩いて行った。留守だったので仕方がなく、郵便受けに放り込むことにした。危険そうだが、先生の承諾済みの行動である。そして下宿へと帰ることにした。ところが、夜の九時半ごろ突然の電話で、その差額がまだ届いていないということであった。どうやら、村山が、吉田先生の家を間違え、別の同性の吉田さんの家の郵便受けに誤って入れてしまったようだ。
慌てて、現場に戻り、別の吉田さんにお詫びと御礼をいって、差額金を返却してもらうことができた。
村山は、神が自分を守ってくれたと確信した、こんなところにも神の子ヘレナがいたのである。村山が何度もお礼を言おうとすると「村山たちは大人なんです」といって、姿を消した。村山は神の子です。その方はたぶんこう言いたかったのだろう。
「村山は神の子なんです。キリストの教えのまま愛を恵んだのです」
この日は、不思議にもこの件と、教育委員会でと二度も涙を流したことになる。
ところで、辞表を提出してからの帰り道、村山が秘かに慕っている藤田先生の姿を見た。藤田先生の年齢は二十四歳だが、既に結婚もしているし子供もいる。藤田先生は、南千里のスーパーでほっぺきんきんの赤ちゃんを抱いて野菜の品定めをしたり、お肉の選別をしたりしていた。その隣には、一見銀行マン風のご主人が一緒にいたので、声を掛けられることはしなかった。なぜか、村山は、失恋に似た気持ちになった。自分が彼女をプラトニック的に愛していたのかと思えた。もう小学校を辞めてしまうので藤田先生にもあまり会えなくなると少しセンチメンタルにもなった。
辞表を出した安堵感と寂しさに包まれながら下宿へ戻ってきた村山は、その日はなぜか無性に酒が飲みたくなりいつもよりかなり多目の酒を飲んだ。もともとアルコールが弱かったので、翌朝の目覚めはあまり良くなかった。アルコールの匂いが胃袋の中にまだ残っているような気がした。しかし、窓の外から入り込んで来る強い太陽の光が、村山の目を覚ましてくれた。その光は春の喜びを伝えてくれているようで、なんだか心が軽くなるのを感じた。外の路地では、春の到来を喜ぶかのような子供や大人の甲高い声が響き渡っていた。
こんな明るい日には部屋の中で燻ぶっているのは、あまりにも勿体ない気持ちになる。村山は、そのはやる気持を抑えながら朝の読書を終えた。その後、同じ下宿人の谷山さんと、梅田の旭屋書店に出かけた。梅田はさすがに大阪の中心街と言えるだけあり、人、人、人でごった返していた。それだけでも大都会に来たような気持になった。
阪急百貨店と阪神百貨店とを結ぶ陸橋の上にも、橋がたわむぐらい春を楽しむ人が多く群れていていた。旭屋では念入りに書物を点検し、価値判断を行い、本を買った。旭屋の中にある喫茶店で軽食をとり、その後もう一度、本を漁った。
帰りの電車のなかは三月とは思えないぐらい蒸し暑く、梅田から淡路までの間がすごく長く感じられた。
買った本のうちの一冊は、波多野完治著の「新文章入門」という本で、すぐに読み切った。その本から、村山の求める文体の道しるべともなるヒントを与えられたような気がした。この本には、村山が大事に考えている心理学的要素も加味されているので、その興味は尽きなかった。
どの顔も 陽炎見たしと 外に出て 陽の強きことに 驚くばかり
この「新文章入門」を教科書にして、自分の文体はいかにすべきかを村山は考えていた。今までに書き続けてきた文体、そして、今の村山の文体を日記など文章と比較研究しながら、丹念に分析を行った。おおむね十センテンス程度の文章をその文字数を調べてみる。そして、そのトータルとアベレージをはじき出す。次に、それを、「新文章入門」の各形態の文章と照らし合わせてみる。それを五回程度繰り返し行った。その結果、どうやら、意的情文体であることが判明した。つまり、大仏次郎先生とよく似た文体ということになる。今度は大仏先生の活動指数がバランスのとれたものであるところから、村山の活動指数もはじき出してみた。この数値もよく似ていた。
用心深い村山には、まだ確信が持てない。そこで、他の文章も似ていないかどうか調べてみた。果たして、意的文体を持つ留岡山晴男先生にも似ていることが分かってきた。それでもやはり中心的文体は「情」の文体であると思った。
結果、村山の文体は「大仏先生」+α、「留岡山先生」+α、「加山先生」の「意的情」の文体であると思った。ここから、少し、発展させて、村山が、」夏目漱石先生の文体を好んでいることから、彼の文体も研究したところ、どうやら、その発想法や感覚が似ているように思うし、性質も似ているところを多く持っていることが分かった。
退職も認められて、いよいよ明日で小学校の事務職員を辞する運びとなった。高校を卒業するときもそうであったが、明日で終わるという気がしない。まだまだ今の生活がずっと続くのではないかと思う。しかし、現実的には明日で小学校事務職を辞するという事実が横たわっている。高校を卒業したときのことがまだ昨日のことのように思い出される。高校も嫌で嫌でたまらなかったものである。早く卒業したいと思い続けていた。いや卒業の日がくるのが今か今かと首を長くして待っていたという方が正確である。今回の辞職も同様な思いがあったことはあったのだが、何か少し寂しい気がする。未練も残る。これは仕事に対するものではない。多分人、同僚や先生方に対するもののようである。
この一年間、誰を傷つけることもなく、仕事に関係するあらゆる人たちと接してきたつもりである。そして、今回の大きな違いは、自分と美しい人間関係を築いてくれた先生方、特に若い女性教師たちである。
その中でも、この間ばったり出会った藤田先生が一番初めに好きになった先生だが、他にもたくさん好きな先生がいる。その中の一人に、足立先生がいる。この先生は、小学校のなかでもそのうぶさと純粋さに関してはナンバーワンと思われる先生である。村山は、なぜか、足立先生と駅前の書店で出会いそうな予感があった。それは、村山の期待感でもあった。村山は、足立先生が帰るのを確かめてから、その姿を追うように帰路についた。しかし、彼女と出くわさなかった。やはり、そううまくことは進まないのかと、半分諦めかけていた。しかし、諦めることもできず淡い期待に胸を膨らませて、浸々堂書店へと入ることにした。
この書店はさすが千里ニュータウンの中心北千里の駅前にあるだけあった。なかは清潔感があり美しい本屋である。規模は梅田の紀伊国屋や旭屋などに比べればかなり狭い。しかし本の探しやすさは、この店が一番探しやすかった。村山の求める文体や文学知識関連の書物を捜すには打ってつけで、すぐに見つけることができた。大仏次郎の本を眺めてみたり、他に面白そうな本がないか探しながら、本を漁っていると、その目線の先に、ラディゲの本が角川文庫から出ていることを見つけた。その翻訳者は花岡大學であることもわかり、大変満足した。
その満足をしている、村山を横から指先で突っ突く人がいた。最初は知らないふりをしていたが、あまりしつこくつついてくるので、横を振り向くと、なんと村山が会いたかった足立先生がそこにいた。藤田先生とは違う乙女のような純粋な心を持っている足立先生には、村山も年上とは思えない親しみを感じていた。なんという偶然か、なんというドラマチックな出会いかと村山は運命のいたずらに感謝した。まるでドラマの主人公にでもなったような気がした。
足立先生も年甲斐もなく、はにかむ様な、照れくさそうな顔を村山に向けていた。村山も恥ずかしさに一見村山を避けようとする先生を追いかけて、話をした。
「先生! たくさんの買い物をして~!」
「うっふ。そうなの。今日は村山が夕食の支度をしなければならない日なの! それでねぇ。いつもしてもらっているから、春休みぐらいは村山がしなければなら村山いうことなの」
村山は、笑いながら、あまり身を入れずに本を眺めながら、話を続けた。
「毎日出勤しているの?」
「そう」
「春休みはあるんですね」
「うん。でもねぇ。仕事がたまっているの」
村山は、まだ誰にも村山が学校を辞めることを伝えていない。でも足立先生には出会ったらすぐ話そうと思っていたので、躊躇せずにいった。
「実はねぇ。僕、学校辞めることにしたのです。」
というと、一瞬驚いたような顔をした後すぐにその目を普段通りに戻しながら
「寂しくなるねぇ」とだけ言った。
そして、次にもう一度繰り返すように話を続けた。
「村山さんみたいに、人一倍賑やかな人がいなくなると本当に寂しくなるねぇ。」
その心がこもったやさしいことば使いに感動を覚えた。そして村山の存在を認めてくれていたことに、嬉しさを覚えた。
「寂しいのは、僕のほうですよ。あんないやな仕事でしたけれど、今思うと楽しかったと思います。」
そして、人目も気にしながら、こんなところで長話もいけ村山思い話を切り替えた。
「何か面白い本はありましたか」
「ううん。北杜夫なんか面白そうねぇ」
「どくとるクンですねぇ」
「そう」
そして、松本清張の「点と線」を指さしながら、「この本もおもしろそうねぇ」と言った。
「推理小説が好きなんですか?」
「そう」
「僕はあまり推理小説を読んだことがないですが、さぞ面白いのでしょうねぇ」とだけ言った。
そして、次に別のコーナーに廻り込みながら、あまり、本屋に長居するのも気が引けるので、レイモン・ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」だけをすばやく購入して外へ出ることにした。村山が出ると同時に足立先生も一緒に出てきた。それを見た村山は、コーヒーでも飲んで帰りませんかと言おうと思っていたところ、彼女の方か「お別れにお茶でも飲みませんか」と恥ずかしそうに村山を誘ってくれた。その言葉に躊躇することもなく二つ返事でお茶に行くことにした。
喫茶店の中では、村山の惜別の話やら、文学の話などに話題が進み、最後は、お互いの夢の話まで進んだ。彼女は実は、児童文学に興味があり司書にでもなって、そちらの道にも進みたいと言った。村山も、負けじと作家になりたいんですと村山の夢を語った。そうしたら、彼女は村山に「村山さんって、本当に若くっていいよねぇ」と感嘆ともため息ともとれる音で言ってきた。そうこうしていると一時間も過ぎてきたのと、話が停滞しかけてきたのをきっかけに、店を出ることにした。
辞職も受理されことでもあり、小学校にも一度は別れを告げ、もう小学校へは行く必要もなかったが、まだ残務整理と引継ぎが残っていたため通い続けることになった。また、藤田先生や足立先生等とも会えると思ったことも、事実である。どんな理由があるかもしれないが、しばらくは小学校へ通うことができることができるので、別れの寂しさは軽減された。
ここのところ三日間雨が降り続いている。じめじめした梅雨の雨は嫌いだが、春雨は少し冷たいが好きである。雨はこの大都会の無味乾燥した大阪に、自然の匂いをもたらしてくれているように思える。雨の中、朝十一時に小学校へと向かった。電車の中は傘から滴り落ちる水滴でじめじめしていた。七人がけの座席の一番端に座り、傘を横の手すりにかけた。ほとんど毎日のように村山は電車の中では本を読む。そうでないときは、ボーっと外の景色を見つめながら、いろいろ心に浮かぶ些細なことを考えている。今日は、アルベール・カミュの「ペスト」を少し読んだ。カミュの作品の多くからは、いつも太陽が照り続けている常夏のような風土を感じらされる。この作品もまさにそう思う。しかし、じめじめした車内、雨の景色の中では、かなり不釣り合いの作品にも思えた。
北千里駅を降りると、浸々堂書店が目に飛び込んできた。そして、昨日の足立先生との語らいが思い出された。今この場に彼女が現れそうにも感じた。もう一度会いたいようにも思えた。しかし、今会えば、昨日の惜別の辞が嘘になりそうで怖かった。
学校に着いてからも、彼女が村山の机の前に座っているような錯覚を覚えた。現実には彼女は今日学校には来ていない。
代わりに今日は、PTAの保険係の方が村山を待ち構えていた。もう昼ではあったが、あさの挨拶をして、部屋に入った。そして、夕方の六時まで最後の事務の整理や雑務を処理していると、明日からもうこの学校でこの仕事をしないことになることが嘘のように思えてきた。確かに明日も仕事の引き継ぎに来ることにしていた。
すべての仕事を終え、北千里駅へと向かう千里ニュータウンの灯は寂しく雨に濡れている。昨日はこんな状況でも足立先生を探していたが、今日は全くの一人ぼっちである。そんな時、またあのショパンの「別れの曲」がどこからともなく悲しいメロディを響かせながら聴こえてくるように感じられた。
千里の灯とも今日でお別れかと思うと涙が滲んできた。とぼとぼと歩きながら、足立先生が現れないかと期待もした。一方で、気まずくなりそうで現れない方がよいとも思えた。その不安とも恐怖ともいえない気持ちと会いたいという気持ちのまま、駅に近付いていた。そして、気がつけば、改札をくぐりぬけていた。もうこれで彼女とも会えると思った。電車はすぐに動きはじめ、村山は複雑な気持ちを抑えようと、カミュの「ペスト」を取り出したが、一行も読めなかった。これでもう足立先生とは会えないと思うと一人電車のなかで、気が遠くなりかけていた、そして、恍惚の中に村山が吸い込まれていくように思えた。
下宿に戻った後、自分の変で傷心を慰めようと音楽でも聴こうとしていたら、同じ下宿に住む大学の先輩でワンダーホーゲル部の奥田さんが突然、村山の部屋に入り込んできそのまま寝込んでしまった。そのため村山もごろ寝を余儀なくされた。朝十時ごろに目を覚ましたが、まだ夢の途中のようなすっきりしない気分が続き、二度寝をしてしまう羽目になった。一時的に昨夜止んでいた雨が、寝着くころに再び激しく振り出していたのがわかった。雨は今朝になってもまだ降り続いていた。寝とぼけた顔をカルキ臭さが抜けていない水道水で洗い、無理やり目を覚ますと、村山は、今日も古江台小学校へと向かった。小学校には新任の先生方の事務手続きのガイダンスを教え、そのやり方を指導する必要があった。新任の先生が何時頃小学校に来るのかは聞いていなかったため、遅れてしまったかなと思いつつ、急いで電車に飛び乗った。北千里の駅前では、ボーイスカウトの少年達が、緑化運動の募金を呼び掛けていた。その声も聞こえなかったかのような顔をして知らないそぶりで彼らの前を通り過ぎ小学校へと向かった。
幸いにも、村山が小学校に着いたころには、まだ誰も来られていなかった。その十分ぐらい後からやっと新任の先生方がやってきた。新任の先生方は興味深そうにあたりをキョロキョロ見渡しながら職員室へ入ってきた。村山にも好奇の視線を送ってきた。ちょうど一年前、村山も、初めての就職に胸躍らせつつも一抹の不安を同時に抱きながら、この学校にやって来た時のことを思い出していた。今こうして、冷静に振り返ってみると、あの当時の村山が客観的に見えてくると同時に今の自分が何かみじめに思え、可哀想になった。
ともかく揃えるべき書類は揃えていたので、それらの書類を一つ一つ説明しながら、新任の先生方へその書類への記入方法を教えた。
村山は、昨年この小学校に来た時、PTAの新聞に自己紹介するページがあり、そこに書いた文章の中に「大海に浮かぶ小舟のようにどこへ流されるか分からない自分ですが、一生懸命頑張ります。」と書いたことを思い出した。その当時から、村山は根なし草のような人間だったのか。決して今に始まったことではないことがわかる。
時の経つ悲しさに、人間とは何なのかとふと考えてしまった。そうするとまた、あのショパンの「別れの曲」が聴こえてきそうに感じた。そして、村山は一体自分はどこへ向かって走っているのか、何をしようとしているのかと自問自答を繰り返した。一年経っても、自分はあまり進化していないように思われた。そして、あの最初に淡い恋心を抱いた佐々木和美先生との思い出も甦ってくるとともに、足立先生と別れてからもう四日間が過ぎたことが嘘のように思えた。時は人と人の間の距離も離していくものなのか、日が経つにつれて村山の心からも彼女が離れていくように思えて寂しさが込み上げてきた。
人は、社会や世間の慣習から外れたことをするのを嫌う。特に日本人はそういう風潮があるように思える。でも、本当にその行動がその人にとって重要なものであり、結果幸せに繋がるものならば許されるべきものだろう。少なくとも村山は、その目的が純真で、その人のためになるのならば認めようと考えている。社会がどんな制裁を彼に充てようとも。
一人の男が、年上の女性を愛することも、世間の目から見たならば、あまりお行儀のよいことではない。社会の規範からも外れているように見えるだろう。でも、当の本人が真剣で、愛し合っているのならば、それもいいと思う。真剣にという場合、なぜか不安も同居するが、それが産みの苦しみともなるのである。
今こうして、一日のほとんどの時間を、彼女を脳裏に思い浮かべることで費やされる。彼女が村山を見つけた時に恥じらいをもちながらも、村山にその存在を気付かせてくれたこと。たくさんの買い物をして、両手でそれを抱えている彼女の姿。
ああ、なぜ彼女に告白できなかったのか、彼女の気持ちを確かめる術があるのなら、こんなに苦しみを覚えることもなかったのに。彼女ともっと話しがしたい。もしもう一度会えたら、彼女の言っていた児童文学の話、図書室司書の話、青春の話、愛の話、人生の話がいっぱいできるのにと次から次へと後悔の念と愛おしさが混じり合うように村山を攻めてくるようであった。
そんなこんなの傷心と葛藤に苦しむ日々を送っていた村山は、その日の夕方から同じ下宿に住んでいる一番のインテリ系法学部四回生の田淵信二さんと梅田に出かけることになった。この田淵さんとは、哲学とか文学とか人生とかなどこの世の万般の事象について、一番真剣に話をした人である。
人生とは何かとか、正義とは何かとか、政治とは何かとか、村山が問いを発することが多かったが、その一つ一つに田淵先輩は、丁寧に自分の考えや主張を村山にしてくれた。真面目すぎるぐらい真面目で、変哲なぐらい頑固な人でもある。たまには女性の話もしたが、非常に真面目で理論派であり、あまり下手なくだらない話を持ち出すと、即退去を求められたこともある。うかつには近づけない人物でもあるが、一旦、壺に入ると話は論理的に長々と続くことになる。非常に気を遣う人でもある。その分、村山は、理論的思想や哲学、文学などについて彼からの影響を多く受けることができた。ところでこの田淵信二さんは、このときは、貧乏学生だってが、その後NP通信社に現役で入社を果たしたエリートでもある。こんな素晴らしい人物と、悩み多き十代最後の青年時代に出会えたことは、村山にとって奇跡ともいえる人生最大の幸甚であったといえる。
夕方の梅田へと向かう電車が淀川鉄橋の上に差し掛かったとき、橙色の大きな夕陽を見た。今にも沈もうとしていた。その夕陽が、ムンクの絵のように淀川の水面に映り、何ともいえない哀愁を感じさせた。ほんのさっきまで、田淵さんと下宿で酒を飲んでいたため、村山の顔も夕陽のように赤らんでいた。普段よりはかなり陽気になっていた。しかし、田淵さんは一向に顔には出ず、普通の顔をして電車に乗っていた。その姿がまた、凄く偉大な人物であるように見えるから不思議である。
二十分ほどで梅田についた。先週には同じ下宿の谷山さんと梅田に来たが、その時にも感じたが、この界隈には変わり者が多く歩いているように思えた。マンボウズボンのようにその裾を絞って尻のあたりはだぶだぶしているものを穿いているお兄さん。かなり暖かくなり汗ばむ季節にかかわらず、まだマキシム風のワンピースを着てだらだら歩いているお姉さん。そのほか、長髪ブームで、女性か男性か分かりにくい若者たちなどもあちこちに多く屯していた。
そういう風景や人物を無ながら歩いていると、丁度お腹も空いてきていたので、近くの鮨屋に入ることにした。その店は非常に混んでいたので、あとからもう一度来ることにして、再びその界隈をうろつくことにした。日曜日とあって、多くの店がビルもシャッターも閉まっていた。その中のとあるビルに急に田淵先輩は入っていった。そのビルのトイレで用をたすためであった。田淵先輩が戻ってくるまでの間に、そのトイレで不思議な人物を見かけた。その人物はトイレの手洗い場に、いつまでたっても出てこない中年のおっさんがいた。一体何をしているのか野次馬的興味が湧いてきたので、もう少し良く見えるところまで近づいて見た、すると何とその人物はそこで洗濯をしていたのである。水道代もばかにならいとでもいうのか、この道路に面したビルのトイレを利用して洗濯をしていたことが確認できた。そうこうしているうちに時間が過ぎ、田淵先輩も戻ってきたので、一緒にもう一度先程の鮨屋へ行くことにした。この鮨屋で田淵先輩はビールのジョッキを注文してから、次から次へと、大将に鮨の注文を出した。マグロ、アナゴ、イクラ、トロ、サバ、エビなどを食べ、最後はお吸い物を飲み、その店を出た。
夜の梅田界隈はさらに人が増えたようにどちらへ向かっても、人と人とがぶつかりそうになりながら歩かざるを得ない。中には意識的にぶつかってくるような奴もいる。田淵先輩とその人混みを縫うように歩いて駅へ向かって歩いた。丁度、京都行の急行が止まっていたので、その電車に乗った。淡路駅には特急以外は京都行だろうが北千里行だろうがすべて停車するので、便利である。最近は特急も止まるようになり、さらに便利になっている。