第10話 ただいまと、おかえり
家というものは、少しずつ音を覚えていく――床がきしむ音、鍋が揺れる音、リゼルが布巾を絞る音、ティノの笑い声。
そして、ミィナが歩くときの、ぱたぱたという足音。
カイは、それらのすべてを、心のどこかで数えていた。
ここでの生活が『日常』になりつつあることに、まだ戸惑いながら、進んでいく。
▽
「リゼル、今日の夕飯なに?」
「カレー。たぶんだけど、ミィナはまたお米の上に具を全部よけてくると思う」
「ううん、きょうは、にんじんたべる!」
台所に立つリゼルが、エプロン姿で得意げに答え、ミィナはおもちゃのスプーンを手に小さくジャンプしている。
ティノは、さっきからカレーの匂いに鼻をひくひくさせている様子が見られた。
「オレ、もうカレーに感謝しながら生きるね」
「なにそれ」
笑い合う三人の姿を、カイはいつものように壁際で静かに、何事もないかのように見つめている。
この『なにも起こらない穏やかな時間』が、過去の自分は想像できなかったのだが――でも今は、たしかにここにある。
食後、町へ買い物に出かけたのはカイとリゼルだった。
残った二人は家の片付けをしている。
リゼルの提案で、たまには『二手に分かれる』ことになったのだ。
市場で塩と麦粉を買い、ついでに干しりんごを少しだけ手に取ると、リゼルがふいに言った。
「ねえ、カイおじちゃん」
「……なんだ」
「最近、町の人たちの態度、変わってきた気がする」
「……そうか」
「うん。『あのカイさんが小さい子どもたちと暮らしてる』って、ちょっとした噂になってるよ」
それを聞いて、カイは少しだけ眉をひそめた。
「……よくないか?」
「ううん、別に。ちょっとだけ『自慢』になってきたなって思っただけ」
「……『自慢』?」
「そ。私たちの家族って、ちょっと不思議だけど、ちゃんと『家族』だもん」
「……」
「おじちゃんが、私たちの『家族』になって、本当に良かった……」
その言葉に、カイは何も返せなかった。
けれど、胸の奥が、じんわりとあたたかくなるのを感じた。
▽
帰り道。夕暮れの陽が、道を赤く染めていた。
家の前に戻ったとき、ティノが玄関から飛び出してきた。
「おかえりーーっ!」
リゼルが笑って手を振る。
「――ただいま」
ミィナも、少し遅れて、玄関の影からひょこっと顔を出して手を振る。
そして、ティノが、いたずらっぽくこちらに向かって叫んだ。
「ねーねー!カイおじちゃんは、『ただいま』って言わないの?」
「……ん?」
カイは、少しだけまばたきをした。
それは、言われてはじめて気づいた、言葉の穴だった。
いつも、出迎えるばかりだったので、『ただいま』に、返す言葉を――言ったことがなかった。
ほんのわずかな間。
でも、三人の視線が、まっすぐに向けられている。
カイは、ゆっくりと口を開く。
その声は、決して大きくはなかったが、
けれど確かに、彼の中から生まれた。
「……ただいま」
その一言に、ティノが、ミィナが、そしてリゼルまでもが、同時に笑顔を咲かせた。
「やったー!今の、ちゃんと聞いたよー!」
「ただいまって、うれしい」
「ふふ、じゃあ、今度はミィナが言ってあげなきゃね」
「……ミィナ、『おかえり』って、いえるよ」
ミィナがにこにこしながら言うと、カイはそっと目を細めた。
家の扉が開き、明かりが灯る。
ただいま。
おかえり。
その短いやりとりが、家族の真ん中にちゃんと存在することが、どこかくすぐったくて、そして嬉しかった。
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