第01話 無口な冒険者と静かな町
――その男は、喋らない。
笑わないし、怒鳴りもしない。怒ることすらないように見えた。
ただ――顔にある、深い傷だけが語る。
眉間から頬にかけて、右目をかすめて走る一筋の古傷。鋭利な刃で抉られたその痕は、既に癒えて久しく、けれど癒えたからといって、見る者の目に威圧感を与えるのは変わらなかった。
カイという名の男は、静かな町に住んでいた。
森に囲まれた辺境のこの町は、危険な魔物も少なく、ギルドの依頼もさほど難易度の高いものはない。彼にとって、それは好都合だった。
冒険者としてはB級――いや、実力的にはA級にも劣らない。
だが今の彼にとって、評価も、名声も、金すらも、どうでもよかった。
朝は誰よりも早く起き、最低限の支度だけしてギルドへ向かう。
依頼を確認し、黙って受付に書類を差し出すと、すぐに町を出る。
依頼の遂行、報酬の受け取り、そして帰宅。
必要最低限の言葉と行動だけで一日が終わる。
「おはようございまーす……あ、カイさん」
ギルドの受付嬢ルナが、慣れた笑みを浮かべる。
「本日もご依頼ですか?こちらの小型魔猪の討伐、まだ残ってますよ」
彼は無言で一瞥しただけで、書類に印を押す。
「……行く」
「は、はいっ。あ、あまり無理はしないでくださいね」
ルナは少し緊張した笑みを浮かべながら、彼の背中を見送り──町では、カイのことを『無愛想な男』『近づきがたい存在』と呼ぶ者もいた。
だが、それでも彼は確実に仕事をこなす。住民の間でも、「頼めばやってくれる」という安心感はあった。
誰もが、彼の本当の性格を知らないだけだった。
無口であることは、時として盾になる。
言葉を紡がなければ、心を晒さずに済む。
それは彼にとって、己を守る術であり、罰でもあった。
町外れの森で、小型の魔猪を仕留めるのは簡単だった。
呼吸の音も立てずに忍び寄り、わずか一閃で首を落とす。
血が飛び散る中、彼はその場に跪き、証拠となる牙を抜き取った。
「……終わりだ」
そしてまた町に戻る。
人の多い昼時を避け、裏道を選んでギルドへ向かう。すれ違う人々の視線に、彼は何も感じていないようだった。けれど、たまに子どもが彼を見て怯えたように母の背に隠れると、ほんの少しだけ歩みを遅める。
――傷のせいか。それとも、俺自身のせいか。
答えの出ない問いは、もう何年も胸の奥にある。
そのままギルドへと戻り、ルナに牙を手渡す。
「『魔猪の牙』、確認しました。討伐成功です!今日もありがとうございます」
「……報酬は?」
「こちらです。はい、どうぞ」
袋に入った銀貨数枚。
それを無言で受け取ると、彼は小さく頷いてギルドを出た。
陽の傾いた町を歩きながら、静かに帰路につく。
無口な彼のまわりには、いつも空気のような沈黙がまとわりついていた。
(……静かだな)
それを好んでいた。誰とも関わらず、何も背負わずに済む日々。
そうやって、過去を閉ざして生きていくと決めていた。
──そのはずだった。
帰宅し、軋む扉を開け、わずかに埃の香る部屋に入る。
ぼろぼろの郵便箱には、ほとんど何も入っていない。だがその日、見慣れない封筒が一通、無造作に置かれていた。
「……ん?」
紙の縁は雨に濡れ、少しだけ滲んでいる。
宛名を見るまでもなく、彼は直感した。差出人の筆跡を、知っていた。
『カイへ』
手紙は、たった数行で始まり、たった数行で終わっていた。
――カイへ
これを読んでいるということは、私はもうこの世にいないでしょう。
本当にごめんなさい。だけど……私の子どもたちを、お願い。
あなたしか、頼めないの。
――ライナ
息が止まるほどの静寂が、部屋に広がった。
手紙を持つ指先が、わずかに震える。
「……ライナ」
数年ぶりに声にしたその名前。
あの日から、封じた記憶。目を閉じれば、赤毛の彼女が笑っていた。
賑やかで、陽気で、誰にでも優しくて。
唯一、俺の沈黙を咎めなかった女。
そして――もういない。
重く沈んだ胸の奥に、じわりと痛みが広がる。
喉が熱い。けれど、泣くこともできない。男は、ずっとそうだった。
ただ一言、かすれるような声で呟いた。
「……バカだ」
その言葉に込められたのは、彼女への怒りか、自分への嘆きか。
誰にも聞かれることのない、声だった。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がった。
その目は、静かに前を見ている。
長い沈黙を破って、再び“人と向き合う『時が来たのだと』――彼の本能が告げていた。
▽
手紙に記されていた住所は、町の北端――旧教会跡に建てられた、小さな木造の家だった。
かつてライナが『静かなところで子育てがしたい』と話していたのを思い出す。
誰にも見られない場所で、ひっそりと暮らしていたのだろう。
カイは迷いもせず、無言のままその家の扉を叩いた。
――コン、コン。
静かな音。すぐには返事がない。
だが、数秒ののち――ギギィ、と音を立てて扉が開く。
「……どなたですか?」
出てきたのは、一人の少女だった。
肩までのくすんだ茶髪。少し警戒を含んだ眼差しと、年齢以上に大人びた口調。
ライナの長女、リゼル。手紙に名前があった。
「……カイ、だ」
「……カイ、おじちゃん……?」
彼女の眉が、わずかに動く。
その名に覚えがあるのだろう。だが、すぐには扉を開け放たない。
「……ほんとに、『あの』カイおじちゃん……?」
「ああ」
それだけの返事に、リゼルはしばらく沈黙した。
「……あの……お母さんは、その……亡くなりました」
その言葉は、まるで何かを試すように投げられた。
カイは目を逸らさず、ただ頷いた。
「……ああ、知ってる……手紙を、受け取った」
リゼルは、黙って立ち尽くすカイをしばらく見つめて――そして、ようやく扉を開いた。
「……入って、弟たちも中にいるから」
家の中に入ると、草木の香りがした。
手入れはされていないが、どこか温かい気配が残っている。ライナの気配だった。
「ねえねえ、誰ー?」
走ってきた少年がひとり。リゼルより年下の、元気な少年だ。
母親に似た栗色の髪と、人懐っこい笑顔。
ティノ。長男。年齢は九つ。
「わっ、すごい!顔に線が入ってる!おじちゃん、それどうしたの!?魔物?剣?火?」
「ティノ、失礼よ!」
「い、いいじゃん!ねえねえ、すごく強そう!」
カイは何も言わなかった。ただ、視線だけをそっと向ける。
「……斬られた」
「やっぱりー!!かっこいー!!」
満面の笑みで抱きつこうとしてきた少年を、リゼルが引き戻した。
「やめなさい、もう……ほんとに……」
そのとき、カイの足元に、小さな影が近づいてきた。
年端もいかぬ幼児。柔らかな髪、丸い頬。まだ言葉もたどたどしい女の子。
『ミィナ』――三人きょうだいの末っ子だ。
彼女は無言で、カイのマントの裾を、ぎゅっと握った。
その目は、怯えているようでいて、どこか安堵も含んでいる。
誰かを待っていたような――そんな、少し寂しい瞳。
「……おじ……ちゃん……?」
かすれた声で呼ばれたカイは、わずかにしゃがみ、視線を合わせた。
そして、ごく小さく、けれど確かに――頷いた。
「……ああ」
それだけで、ミィナはにこっと笑った。
心から、安心したような、無垢な笑顔だった。
「……ふふ」
「……」
カイは、何も言わず。その笑顔を、ただ見つめていた。
それは、かつてライナが浮かべた笑みに、どこか似ていた。
▽
その日の夜、リゼルがぽつりと声をかけた。
「おじちゃん……これから、どうするの?」
「……さあな」
「……うちは、あんまり裕福じゃないし、ちっちゃいし。迷惑だと思うなら、別に……」
「……住む」
その言葉に、リゼルは目を見開いた。
「お前たちが、ここにいるなら……俺も、いる」
「……そんな、理由だけで……」
「理由は、それで十分だ」
低く、短く、だが確かに響いたその言葉に、リゼルは何も返せなかった。
その日の夜、三人の子どもたちは、同じ部屋で眠った。
カイの布団にミィナが潜り込み、ティノは枕元で寝息を立てていた。
リゼルは起きていたが、なにも言わなかった。
そしてカイもまた、目を閉じた。
――静かな夜で、でも、どこかに微かな光があった。
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