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短編

小説家に魔狼

作者: われさら

 玄関のチャイムが鳴ったのは秋が深まりじきに冬の孤独が訪れようとする、11月の第3日曜日午後4時30分のこと。その時俺はアパートの自室に横たわりスマホでダラダラとネット小説を流し読みしていた。


「今日は調子いいんだな」


 玄関のチャイムの話だ。壊れているのか、時々押しても鳴らないことがある。でもここを訪ねてくる奴なんてろくでもない人間ばかりだからと、アパートの大家さんには黙っている。その上アポもなく来る人間なんて確実に会うだけ時間の無駄だ。俺は無視することに決めた。


 すると、またチャイムを押された。中にいるのはわかっているんだぞ、と言わんばかりに、「ピン…ポーーン」とじっくりチャイムのボタンを押している。思わず舌打ちが出た。


「誰だよったく……」


 西日に顔をしかめながら起き上がり、申し訳程度に身なりを整えると俺は玄関へと向かった。


「はいはい、どちら──」


「こんにちは。ようやく会うことができましたね、(さとし)さん」


 まるで旧友に会った喜びを表現するかの如く、そいつはアオッと小さく吠えた。そう、そいつは狼だった。銀色の艷やかな毛並みをして、目はつぶらかなコバルトブルー。姿勢良く座りピンと両耳を立たせた、推定2m近くはあろうかという狼がドアの前にいる。


「こんにち、は……?」


 とりあえず人として最低限の挨拶をして上から下までその狼を眺めると、俺は玄関を閉めた。見間違いか聞き間違いかと思ったのだ。幻覚かもしれない。ドアの陰で深呼吸をしていると、もう一度「ピン…ポーーン」と鳴らされた。


荻原(おぎわら)(さとし)さぁん!あなたに用があってはるばる来たんですよ!智さぁん!開けてくださぁい!!」


 今どきの狼は借金取りかはたまた鬼の編集か。前足でドアを叩く音がする。


「わ、わかった!開けるからドアに爪を立てないでくれっ!」


 途端に静かになったドアをそっと開けると、興奮からか息を荒らげ舌を出している狼と目が合った。


「ハッハッハッ……お久しぶりですね、智さん」


 生憎だが俺には狼の家族も親戚も友人も知人もSNSでフォローした覚えもフォローされた覚えもいない。昔飼っていたペットは猫だったし将来的に狼を飼う予定もない。誰だこいつは。


「あの……どちらさまで?あ……とりあえず入って」


 なんとなく他人に見られるとまずい予感がしたので、俺はこの狼を招き入れドアを閉めた。


「お忘れですか……」


 クゥンと寂しげに鳴くと、そいつはさっきまで俺が寝転がっていた場所に丸まって呟いた。


「私の名前はポチと言います」


「はあ」


 ポチってガラじゃないだろ、お前。……などと舐めた口をきいて噛みつかれては堪らないので、曖昧に応える。


「昔一度お会いしたことがあるのですが……思い出しませんか?」


「いや──」


 俺は首をひねってポチと名乗る狼のことを思い出そうとしたが、何一つ思い出せない。こんな狼に対面したことがあるのなら何か覚えていてもよさそうなものだが、記憶の澱から掬えるものは何もない。だがこいつは「荻原智」と俺の名前を呼んだ。ということは人違いではないのだろう。


「昔っていつ頃?」


「遥か昔です」


 遥か昔と言われても、こちとらまだ30年も生きてないぞ。


「悪いが思い出せないね。どこから来たの」


「どこから──それは難しい質問ですね。そうですね、違う世界から来た、と申しましょうか」


 どうやら俺は、遥かなる昔に異世界へ行ったことがあるらしい。そんなわけないだろ。ツッコミを入れて追い出そうとしたところで俺は思い留まった。もしかするとこの狼は、メシのタネの宝庫となるかもしれない。追い出すのは聞きたいことを聞き出した後でも悪くない。瞬時に現金なことを思いつくと、俺はポチと上手くやっていく方針を模索することにした。


「──それで、何の用?」


 そこら辺に脱ぎ散らかしていた、学生時代から着ているグレーのジャージの臭いを嗅いでいるポチに向かって俺は問うた。


「しばらくここに住まわせてほしいのです」


「ここペット不可だよ」


 俺の即答にポチはアオンと鳴いて前足で顔を撫でた。


「ペットではありません、友としてです」


 俺にポチという名の友はいない。利己的な目的のためにこの狼を手元に置こうとしているだけだ。ただ、こいつと共同生活を送るのもちょっと楽しそうではある。


「……一体、どれくらいここに居座るつもり。それによっては考えてあげてもいい」


 遙か未来まで、と言い出したら蹴っ飛ばしてでも追い出そうと思ったが、ポチの返答は意外にも現実的な期間だった。


「およそ1ヶ月ほどと考えてます」


 それならまあ、悪くないかもな。


***


 「おお、今はこれで智さんの世界が紡がれているわけですね」


 俺の作業用PCのキーボードをポチはまじまじと覗き込んで、感心したように呟いた。ふんふん、とキーボードやモニターを嗅いで勝手に頷いている。


「大げさだな、ていうか俺が小説家だって知っているのか」


 本当は「小説家」の一つ手前に「売れない」とか「人気ない」とかつけなきゃいけないんだろうが、俺にだって新たな友人に対して見栄を張るくらいのプライドがある。


「ええ、もちろんですとも。ご高名はかねがね」


「なんだそれ、恥ずかしいな」


 俺は苦笑しながらいつものコーヒーとチョコ一欠片ともにデスクの前に座った。安いインスタント・ソースのパスタとこれらが今夜の飯だ。いつもの飯だ。当初ポチが増えた分の飯も用意しなければな、と考えていたのだが、幸いなことにポチの飯は不要だった。


「周囲から力を貰っているので」


 とのことだったが、俺にはよくわからない。だが飯代がかからないとわかっただけで充分だ。


「──じゃあさっき言った通り、俺がポチの世界のことについて適当に質問するから答えてくれよ。わからなかったり答えられないなら、それでいいからさ」


「その質問に答える代わりにここに住んでもよい、と。ギブアップテープというやつですね」


「ギブアンドテイクな」


 アオン。ポチは恥ずかしそうに頭を抱えて丸まり耳まで丸めると、小さな声で「何でも聞いてください」と呟いた。


***


 異世界。ファンタジー。メルヘン。魔法と不思議が紡ぐカラフルな物語。あるいは悪意のレクイエム。誰しも一度はファンタジー世界の物語に触れたことがあるだろう。ご多分に漏れず俺にだってそれくらいの経験はある。むしろ小さな頃の俺はそんな空想の世界が好きだった。現実にはないアイテム、文化、そして直接見ることは叶わない多種多様な生き物たち。沢山の言葉とわずかの挿絵から想像する世界にただ浴する喜び。俺が今小説家としてなんとか糊口をしのいでいられるのも、幼少期に活字文化に多く触れていたからだと言っても過言ではないだろう。その頃の俺の読書の中心はファンタジーものだった。


 だが大人になるにつれファンタジーな世界観を持つものとは少し距離を置くようになっていた。現実にはない世界を想像してそれを読んだり書いたりすることへの抵抗が俺の中に生じてきたのだ。それはいつ頃からだったのだろう──。


 ──今流行りのファンタジーもの、書いてみませんか。


 昨日、久々の対面での新作に向けた打ち合わせ中のこと。俺がひねり出してきた素案を遠回しに否定して、そう呟いたのは担当編集の堀田(ほった)さんだった。それを言われた瞬間、きっと俺はとんでもない顔をしていたのだと思う。社会性の薄い人間のせいか、感情がすぐに顔に出るのだ。


──いえ別に荻原先生のアイデアを全否定するつもりはないんですよ。ただ、今の流行に荻原節を乗っけたら面白いものができるんじゃないかな、と。読者も喜びますし。


 俺に「節」がつくほど文体に独自性も独創性もないことくらい、書いている俺自身が一番よくわかっている。二流三流底流の淀みに沈む俺の如き人間がない頭を絞って書いた文章(ものがたり)なんて、誰も興味がない。俺だって。むしろ駄文をこねくり回して歪にしているせいで読者がつかないきらいすらある。


──媚を売るって話じゃないんじゃないんです。むしろ先生には流行を乗り回すくらいの気持ちで書いてほしいんですよ。


 何を書いても売れないならせめて流行に便乗しろ、と。


──今流行ってるジャンルご存知ですか。ほら、こういうのが今人気あるんですよ。ね?


 人気小説のガワを真似たコピー品を作れ、と。


 「考えてみます」と答えてはみたものの、今ウケているものの模倣品のファンタジー小説を書く、と考えてみただけで俺のやる気はがくりと地に落ちていた。元より二階のベランダくらいのやる気しか持ち合わせていないから、怪我などしなかったけれど。


 そうして、ささくれ立った気持ちで人気のネット小説をザッピングに読んでいたところに現れたのがポチだった。これは僥倖。今の俺にファンタジー小説への情熱もアイデアもないのなら、ポチの世界から借用すればいい。ポチはこちらの世界については知識が浅いものの、自分がいた世界についてはとてもよく知っていて、俺の質問によどみなく答えてくれた。スマートアシスタントならぬ「ヘイ、ポチ」というわけだ。


「魔法の仕組みって?」


「世界にあまねく存在する精霊の力を借りるのです。呪文であったり紋様であったり時には遺物であったり……。精霊と繋がる方法は様々ですね。私はそのような媒介や仲介を必要とせず、精霊と直接交渉できます。なので私、結構強力な魔狼なのですよ」


 得意気にポチは答える。結構やり手の狼らしい。


「じゃあその精霊はどういう存在なんだ?」


「ふむ。精霊というのはつまり事象の意志です」


「意志?ポチの世界には物事に意思が宿るのか?」


 俺はパソコンのモニターを睨みながら設定を並べていく。


「ええ。火には火の、水には水の精霊がおります。先程飯はいらぬと言いましたね。精霊と直接交渉して、この世界で言うところのエネルギーというやつを彼らから貰っているから食事はいらぬのです」


 横に座り俺の質問に答えているポチをチラリと見た。


「この世界にも精霊がいるんだ?」


「ええ、もちろん。私のいた世界とは少し違いますが、智さんが気がつかぬだけで偏在しております」


 俺に魔法が使えるか?と聞いてみようかとも思ったが、そんなのは後回しだ。今は次に書く物語の土台作り。大事な時だ。


***


 ポチのおかげで俺の物語の土台は堅牢なものになりつつあるように感じた。なにせ俺が質問を投げれば即座に返事がもらえるのだ。もし無事この作品が刊行された暁にはポチに対する謝辞を載せなければな、と思うと独りでニヤけた。「ポチへ」と書かれても読者には何のことやらだろう。


「移動手段は」「暦は」「歴史」「言葉」「芸術」「社会」「政治機構」「食事」「文字」「魔法と学問の関わり」「人間以外の知性のある生き物」「ドラゴン」エトセトラ、エトセトラ……。


 俺はポチに何でも訊いた。俺がこの世界のことについて訊ねられても答えられないようなものまで。それでもポチはただ淡々と俺の質問に答え、「わからない」と言ったことはなかった。


「ポチ、お前何でも知っているんだなあ」


「……ええ」


 そうやって物語の土台をこしらえ始めて3日経った頃、堀田さんからメッセージが届いた。


──あれから、どうですか。ファンタジーの件進めてもらえているでしょうか。


 ふふふ、こいつめ。どうせ俺がろくに準備もできていないだろうと催促をかけておるな。俺は「準備、めちゃくちゃ進んでますよ!ファンタジーサイコー!」と返事をし用意した設定のうち確実に使うであろう幾つかを堀田さんに送った。


 堀田さんからの返事は早く、そして短いものだった。


──で?


 「で?」


──多少古い雰囲気だとは思いましたが舞台はわかりました。それで、どういうキャラがどんな目的でどう活躍するんでしょうか?


 堀田さんに言われて俺はドキリとした。金魚のいない砂利もない水槽。生徒も教師もいない学校。人の住んでいない大都会。気がつくと俺の作っていた世界には主要なキャラがいなかった。誰もいない。俺の作った世界には登場人物がおらず、設定だけが羅列されている空間だったのだ。


「……ポチ」


「はい」


「物語の主人公をできるような人、知らないか」


「わかりません」


 即答だった。言い淀むこともなく、きっぱりとポチは答えた。


「そ、そんなことはないだろう。ポチは歴史だって何だって知ってるのに」


「それでも、私にはわからぬのです」


 申し訳ありません、とポチは俯いた。


 土台なら、ある。広々とした土台が。大陸と点在する島々と山に海。砂漠も森もある。人々の住む街並み。木も草も枯れた土地。雲よりも高い霊峰の神殿だってある。海よりも深く地の底へ潜れば不死の七つ目族。大陸の西の果ての渓谷には鳥人(バード・マン)だっている。異なる周期で満ち欠けを繰り返す双月。その二つの月が揃って新月になるときに吹く、荒廃をもたらす風(ハデス・ウィンド)。まだ設定は不完全だが国もある。隣国同士いがみ合う国々が。宗教で結び合う国々が。闘争と簒奪と疲弊のあとにようやく勃興した国々が。


 それなのに、なぜだ。なぜ主要な登場人物が出てこない。閃かない。全能の主人公が爽快に活躍するのもいいじゃないか。苦難の主人公が知恵と勇気で未来を切り拓く物語でもいいじゃないか。相棒が出てきて意気投合する。恋人が出てきてロマンスの風が吹く。いいじゃないか。


 でも俺の頭をどれだけひねって振って捩っても、主人公像がこぼれ落ちてこない。主人公が産まれてこないことには物語が動き出さない。これでは土台は、ただの土くれだ。


 ──で?


 そこにいるのは、誰なんだろう。


「わかりません」


***


 堀田さんへの返事を保留して一日が経過した。


 その間俺はデスクの前でうめいて嘆いてもんどり打って、一歩も進めずにいた。ポチはそんな俺のそばにいて、悲しげな顔でじっと何かを待つようにあらぬ方向を見つめていた。


「あーもう!だめだだめだだめだ!散歩行ってくるわ!」


「私もお供します」


 大型の狼と出歩いて大丈夫かな、と心配したけれど、すれ違う街の人にはリードをつけていない大型犬を散歩しているように見えるらしい。


「わんわんだーっ!」


 昼間の公園では近くの保育園の子たちが遊んでいて、ポチに気がつくとすぐ駆け寄ってきて好き勝手に撫で回している。


「噛んだり突き飛ばしたりするなよ」


「無論です」


 引率の先生も駆け寄ってきて、園児たちをポチから引き剥がそうとしている。まあ平日の昼間からいい歳した一人の男がリードもつけず犬を連れ歩くなんて、ちょっと変かもな。たしかに俺はろくでもない人間だがポチはまあ悪い奴じゃない。こいつは無害ですよと伝えておかねばと、俺は先生に声をかけた。


「リードをつけていませんけれど、とてもよくしつけられている犬ですから噛むようなことは絶対ありませんよ」


「いやでも──」


「ねーねー、お名前なんていうの?」


 一人の男の子が俺のズボンの裾を引っ張り、俺を見上げていた。


「ん、ああ。荻原智だよ」


「ちがう!わんわんの!」


 横で引率の先生がフフッと吹き出した気配がするが負けないぞ俺は。


「……ああ、ポチっていうんだ」


「ポチー!」


 名前を知ると、男の子はポチに向かって突進していった。


 公園で遊ぶ彼らを遠くから眺めながら、ぼんやりと俺は書こうとしている物語の主人公像をこねくり回していた。いっそ幼児が主人公でもいいかもな。魔法を万能に使える幼児。でも幼児だからできないこと、困難が沢山あって、それを周囲の協力と共に乗り越えるみたいな。


 あるいは子どもたちを養い育てている親たち世代が主人公。俺としてはこっちの方が合っているか。子どもたちの平穏な生活を守るために戦う大人たち。


 そういう設定(・・)は思いを巡らせればぽつぽつ産まれる。メインキャラクターの影を捕まえられそうな気になる。でも、具体的な人物像を想像しようとすると、途端にその影が雲散霧消していく。まるで朝もやが晴れた後のように。気がつけば俺は空っぽの世界を遠くから眺めているのだ。


 公園から去っていく園児たちに手を振ると、俺たちも家路についた。


「疲れたろ、ポチ。子どもっていうのは遠慮を知らないからな」


「いえいえ。それがいいのですよ。私も久しぶりにはしゃぎまわりました。それで、どうでしょう。何か──誰か閃きましたか」


「出てきそうだったんだけど、駄目だった」


 俺が唸って返事をすると、ポチは「そうですか……」と寂しげに尻尾を振っていた。秋を終えようとしている街路樹も寂しげで、足元からは冬の気配が漂っている。


 部屋に戻り一息入れていると、突然、ポチが切なそうに鳴いた。


「どうかした?」


「すみません。無理をしすぎたみたいで──予定が早まったようです」


 思いがけないポチの言葉にぎょっとしてポチを見た。西日に照らされたポチの体は半透明に透けていて、部屋の向こう側がぼんやりと見える。


「なんで今……」


「ちょっと魔力を使いすぎたみたいです。私はあなたともう一度──」


 声までどこか遠くに消えつつある。


「おい、待てよポチ!まだお前に手伝ってもらいたいこともあるんだよ!」


「──まだ、わからないの?」


 俺の背後から唐突に、若い女の声がした。


***


 振り向くと、その声の主は如何にも「女神様」という格好の少女だった。そいつは純白のドレープで、手には学生が使うような、一冊のノートを抱えている。断りもなくいつの間にか俺の部屋にいた少女は、項垂れて消えかけているポチのそばに立った。


「久しぶりね。何度もチャイムを鳴らしたのだけど、聞かなかったでしょう」


 俺はポチを愛おしげに撫でるその女の顔と声に見覚えと聞き覚えがある。いや、たった今思い出した。この子は──。


「その間抜け面は思い出したって顔ね。じゃあ、このノートも何かわかるでしょ」


 少女は抱えていたノートを俺の足元へと投げた。ノートの表紙にはヘタクソな字で『ダンゼルガルド物語』と書いてある。中学生の頃の俺の字だ。


「見なさい」


「……嫌だ」


「開きなさいよ」


 俺の部屋はいつしか学校の──俺の母校の教室になっており、少女はセーラー服を着ていた。俺が座る席の周囲には、悪意と冷やかしと嘲笑の同級生たちが立ちはだかっている。


「主人公がサトーって。自分登場小説とかキッツ」


「この女神の名前、2組の佐々木じゃん」


「何、お前佐々木のことそういう目で見てるの?」


「アリサ女神様~~」


 哄笑する同級生たちの群れの向こうで、このノートを持ってきた少女の口元が「キ」「モ」と動いている。その目はとても冷ややかで、俺の心臓をキュッと締めるように捩じ上げる。彼女が──他人が俺を蔑む顔なんて、もう見たくはなかったのに。


「やめてくれよ……やめろ!」


 俺がそう叫ぶと、すべてが静止した。静まり返った教室の片隅で、半透明のポチがゆっくり語りだした。


「思い出されましたか、私たちを。私はサトーの友として、アリサ様は女神として存在しておりました。ですが……私たちは最早ただの設定なのです」


「未練よ」


「サトー……智さんは物語の序盤を書いたところでこの世界を閉じられました。サトーは世界から姿を消し、物語の登場人物たちも次々と……ですが役割(ちから)が大きかった我々はそこにあり続けたのです」


「もうじき滅びるけどね」


 そうだ、思い出した。俺は中学生時代、ファンタジー小説としてこの『ダンゼルガルド物語』をこっそりと書き溜めていたのだ。ある日それを書いていたノートを同級生に見つけられ、からかわれた。俺は俯いて涙をこらえて、ただひたすら彼らが俺をあざ笑うのに飽きるのを待った。だが何よりも、


「面白いだろ」


 と言い返せない自分が悔しく、己の机を睨みながら歯噛みしていた。


 そうして俺はこのノートを実家の物置に封印して、以降ファンタジーから遠のいていたのだ。ポチが語ってくれた設定も全部、当時の俺がない頭を絞って作っていたものだ。なんてことはない、ここ数日の俺は、過去の俺に自問自答していたようなものだった。


「……もうじき滅びるってどういうことだ」


「私たちはあなたの空想の中でしか実在できないから……。わかるでしょう?あなたが中学生の頃に考えた設定なんて、今じゃとうにカビが生えてるものだって。あなたが新しいファンタジー世界を書くにせよ、書かないにせよ、私たちの居場所はもうあなたの頭の中にはないの。……ううん、いちゃいけないのよ」


 「古い設定なんか、捨てちゃいなさい」と寂しそうに自嘲して彼女は空いていた席に座った。


「そんなことはありません!智さんがこの『ダンゼルガルド物語』を再び書き出すことで、サトーの世界、私たちの世界は、滅びを回避できます。きっと皆、戻ってくるのです!」


「諦めが悪いわよ、ゲリ」


 そうだ。ゲリという名は下痢を連想するからと、ポチと名付けたのはサトーだ。「私を飼育するつもりか!?」と憤るポチをサトーは「友人(ダチ)同士で呼び合うあだ名みたいなもんさ」と微笑んだのだった。


「ポチの体が透けたのもそのせいか」


「ええ。元々ゆっくり消えていくだけだったのに、無理して空想の世界を飛び出して現実に出るものだから、時期を早めちゃったのよ。いくら魔力があったって、現実に敵うわけないのにね」


 教室前方の黒板はまるで新品のように綺麗で、チョークも黒板消しも一度も使われていないようだった。


「……俺はどうしたらいいんだ?」


「私にもわからないわ。だって私もあなただから」


 女神はそう言うと、おもむろに席を立った。


「でも一つだけ……。あなたが心の底からよく考えて下した決断ならば、私もゲリもそれを喜んで受け入れる」


 ポチに「ゲリ、さあ行きましょう」と女神は呼びかける。ポチはここを離れたくないように、いやいやと首を横に振っていたが、女神が改めて「時間よ」と言うと、ノロノロと起き上がった。二人は並んで教室から出ようとしている。


「智さん、お元気で。最後にお会いできて私は嬉しかったです」


「さようなら。私もお別れができてよかった」


「待ってくれ!」


 席から立ち上がった俺に西日が眩しく差し込んだかと思うと、再び自室のデスクの前に立ちすくんでいた。独りぼっちで。


***


 現実では結局のところ俺は売れない小説家であり、寝食忘れて空想の世界を遊び回るわけにも仕事を放棄して現実逃避をするわけにもいかなかった。


──どうですか?


 編集の堀田さんからのメッセージはいよいよ静かな怒りを秘めたものになっており、これ以上放置すると俺の居場所は他の誰かに譲らざるを得なくなるだろう。俺のような零細作家の代わりなどいくらでもいるのだ。


 だが『ダンゼルガルド物語』の設定そのままで読者ウケの良い物語を書くなんて、俺には無理だ。改めて設定を眺めてみれば破綻しているもの、これ以上広げようのないもので溢れている。中学生の時の俺が物語を投げたのは、きっとからかわれたからだけではなかった。きっかけの一つにすぎなかったのだ。同級生たちにからかわれ深く傷ついたのは事実だが、大人になった今冷静な目で見ると、サトーの物語は先に進めることそのものが難しい代物のように思える。


 一方で現在の俺がネタに困っているのも事実。──ではどうするか。どうするべきか。


「……結局俺に出来ることなんて、書くことだけだしなあ」


 その日の晩、堀田さんにアイデアを改めたとメッセージを送り、即席の、だが自分なりに練ったつもりのプロットを提出した。


「悪く思わないでくれよ、ポチ」


***


 玄関のチャイムが鳴ったのは本格的に冬が始まった12月の第2火曜日午後4時30分のことだった。その時俺はデスクに向かって新作の小説を執筆していたので、多分間違いない。


 誰からも訪問の連絡は入っていない。どうせまた訪問販売か何かだろうと俺が画面に向き合っていると、ドアを勝手に開け誰かが入ってくる気配がした。その気配は一度感じたことのあるものだ。


「お前か」


「はい」


 そいつは銀色の艷やかな毛並みをして、目はつぶらかなコバルトブルー。そいつは姿勢良く俺の隣に腰を下ろした。


「なんとなくこうなる気はしていました」


「お前も俺だもんな。そうさ。物語を書くっていうのは結局そうなんだ。笑われても気持ち悪がられても呆れられても……俺は俺の世界を誰かと共有しなければならないんだ。いやそれを止められないんだ」


 俺は苦笑するとクロウ(・・・)に向き直った。


「お前の望んでいた『ダンゼルガルド物語』を作品にすることはできなかったけど、たくさんある設定から使えそうなものだけを改変して取り出した。本当は、あの頃いっぱい考えて詰め込んだ設定をすべて使いたかった。これで満足している、と言えば嘘になる。でも、俺が読者と共有したいのは設定じゃない。お前たちの物語なんだ」


「はい」


「俺の頭の中だけにいたお前たちが文字の海を渡り読者の胸に届く時、彼らの胸の内にもクロウ、お前が宿るだろう。物語が終わり幕が閉じ、やがて俺の人生の帳が降りたとしても、誰かが俺の作品を読んでくれている限り、読者の中でお前は在り続ける。いや、読者の中だけじゃない。あらゆる物語は書き手により多様に継承され引用され、在り続ける。滅びる世界なんて、どこにもないんだよ。クロウ」


「紡がれ続けるかぎりは」


 クロウはフッと姿を消し、俺の部屋はまた一人だけの世界になった。ただ俺がキーボードを打ち込む打鍵音だけが、部屋に小さく響く。外では時折車が通り過ぎ、カラスが鳴き、下校する児童の歓声があがる。


「あ、しまった」


 一つ、クロウに尋ねるのを忘れていたことがある。クロウはこの世界にも精霊がいると言っていた。だがそれは俺が書いた『ダンゼルガルド物語』にはない設定だ。俺が作っていた設定は、あの世界の中だけのもので現実には何も言及などしていなかった。ならばクロウのあの発言の意図は何なのか。勢いで出たでまかせなのか、それとも──。


 俺は作業を中断し、右手人差し指の先に力を込めると、デスクの上のスマートフォンに向けた。


「引き寄せろ!ハンドパワー!」


 どうやら俺が精霊から力を借りれるようになるのは、まだ先のことらしい。


***


 俺はただひたすら文字を打ち文章とし、それらを繋げ言葉を並べる。言葉は自ずから運動し波という物語を作りだし、うねりを紡ぐ。そのうねりを読者は巧みに乗りこなし、時に飲み込まれながら航海へと乗り出していく。俺はいわば波止場の主だ。旅立つ彼らの背中を見送り、彼らの旅路を遠くから楽しみに見守る灯台守だ。


「それがあなたの選択なんだね」


 少女の声だけが聞こえた。彼女は今書いている小説の主人公で、いわゆるチートキャラの人格破綻者。魔法で人を吹っ飛ばすのが趣味の彼女は、吹っ飛ばしても文句が出にくい悪人を捜して世界のほうぼうを旅しているのだ。銀狼の相棒、クロウと共に。彼女たちは行く先々で問題を起こし、解決し、出会う人々と物語を紡いでいく……予定だ。


 悪人に向かって活き活きと魔法を放つ彼女が魅力的になるように。そんな彼女を時に諌め時に悪ノリするクロウが魅力的になるように。この世界の一人ひとりが魅力的になるように。ただ俺は物語を書き続ける。それで充分だろう。


 少女の呟きに返事をする代わりに、俺はエンターキーを押し込んだ。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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