影の如く
海老名市には相模川という大きな川が流れていて、俺はよくそこに行っていた。無職だったからだ。何のやる事もなく、俺はただ巨大な川の風景を見て心を休めていた。
一度、とても風が強い日があった。その日も俺は川べりに出かけて、自堕落な事に、ベンチで缶チューハイを開けていた。こうだけはなるまい、と子供の頃に誓った姿に今や俺はなっていた。俺は年を取っていた。腐っていた。なのに、俺は生きていた。
俺は…生きていた。道徳を固守し、さしたる犯罪も犯さず、世の中に正しい抗議の行動も起こさずに。何故なのかはわからない。俺は、自分でもわからなかった。本来であれば、社会の秩序を守る側であれ、破壊する側であれ、俺は俺の信念に沿った行動をすべきだった。
俺が無職だった頃、俺と同じような無為の青年が、元首相を殺した。事件は大きくメディアで報道された。青年はある宗教団体に人生を破壊され、その宗教団体は、元首相が懇意にしていたらしい。そんな繋がりで、元首相は殺された。
世間はいろいろな見方をした。同情論であるとか、許されざるべき暴力行為だとか。俺は、世間とは違う見方をした。青年に対して羨望したのだ。青年は、少なくとも自分の人生をかけてやるべき事を見出し、それを遂行した。もちろん、逆だっていい。その青年を捕まえ、死刑にする事に自分の正義を感じる人だっているだろう。それはそれで「正しい」情熱だ。だが、俺には何一つしたい事はなかったし、世間並みの正義とか、道徳とか、あるいは反道徳に対しても情熱を覚えなかった。
つまり、これは理性が働いていたという事で、俺の理性は俺自身を含めたあらゆる現象に対して「それはくだらない事ではないか?」と疑問を投げかけた。色々、あるだろう。金とか、地位とか、酒とか、女とか、暴力行為、趣味に凝るとか、あるいはアイドルになる夢だとか。様々な目的があり、様々な人間がいて、様々な幻想があり、様々な行為がある。だがそれらは全てに、俺の理性は絶えず疑問を投げかけた。「それに何の意味があるのか?」 俺はそれに答えられなかった。彼はいつも正しかった。俺はついにこいつをやりこめる事ができなかった。
俺は人生に何の情熱も感じられなかった。社会的に言えば、どんな行為をしようが、消費資本主義に組み込まれてしまうから、やる気が起こらなかった、と言い訳できたのかもしれない。実際、元首相を殺した青年の存在はメディアと大衆の消費される対象になった。彼は無名の存在から一気に有名になった。彼は一身を賭して、馬鹿げた事をして、ついには一個の商品となった。この社会では、人間とか、人間の人生という商品はメディアを通じて人々に配給される。
俺は人々の商品になりたくなかった。だが、これは俺が俺に対してつけた都合のいい言い訳に過ぎない。俺は、それを知っていた。俺は、何者にもなりたくなかった。何者でもない者にもなりたくなかった。全てにノーを突きつけた後、「あなたは全てにノーを突きつけているんですね」と言ってくる奴には世界を堂々と、まるごと肯定してみせたかった。
…さて、そんなわけで俺は無為に陥っていた。ああ…忘れていたな。そう、あれは、風の強い日だった。いや、これは大したエピソードじゃない。ただの冗談話だ。
その日は風が強かった。俺はチューハイを飲んだ後、風に吹かれながら、川べりをじっと歩いてみた。あまりに風が強すぎて、川の流れが逆流していた。(そんな事もあるのか)と俺は思った。俺は、世界で一人だけの発見をしたように思った。
俺は、見たのだった。何を? …いや、大したものじゃない。ただの白鷺だ。真っ白な白鷺だ。
鷺は、驚いた事に、この強風の中を飛んでいた。風に逆らって飛んでいた。白鷺の飛行スピードはずいぶん遅かった。のろまな動きだった。だが、この風だぞ? 70キロある俺ですら、飛ばされるのではないかと思うぐらいの強風だ。鷺は風に逆らって、川上を飛んでいた。そうしてバサバサと、ついに俺の前を過ぎ去っていった。
俺は何だか、その姿に感動してしまった。人間とは違う、真面目な奴らに感動してしまった。俺は、大人になってから人間に感動する事は一切なくなった。人間というものが腐ってしまったからかもしれない。俺を筆頭に。確かに、馬鹿共が言うように、社会は豊かになった。生活は豊かになった。
しかしそれとは逆に人間は堕ちた。みすぼらしくなった。ここにはマルクスやフォイエルバッハの疎外論が当てはまるのではないか。過去においては、神が豊かに、巨大になるにつれて、神の奴隷たる人間はどんどん貧しい存在となっていった。人間はその中身を全て吸い取られた。神はそれを吸って、ますます大きくなった。それが中世にあった事だ。
…今は違う。今は、社会が豊かになるにつれ、人間は貧しくなっている。まわりを見てみろ。どいつもこいつも馬鹿ばかりだ。インターネットに書き込んでいる意見を見てみろ。全員馬鹿の集まりじゃないか。だが、仕方ない。この社会はあまりにも豊かになった。考える事さえも機械がやってくれる。俺達の中身を吸い取って、この世界は大きくなった。俺達はただの抜け殻、絞りカスであって、出汁を取り終わった後の鰹節みたいなもんだ。中身ゼロの馬鹿ばかり。でも、それでいいんだ。馬鹿でも生きていける社会を人間は作ったんだから、馬鹿が量産されるのは必然なんだ。
話を戻そう。俺は白鷺が風に逆らって飛んでいるのに、妙に感動した。人間は豊かさになれて、順風に乗る事ばかり考えている。俺は白鷺の姿に希望を見出した。つまり、人類が消滅した後も、生命はそれはそれでひとりでやっていくだろうという希望を。俺はその日は安堵して、家へ帰った。珍しく、気分のいい日だった。
※
それが俺の思った事だ。もちろん、この思惟にはどんな意味もない。
あくる日ーー風が強かったのとは別の日だがーーもまた、俺は相模川の川べりにいた。俺はビールを開けて飲んでいた。浮浪者もいい所だ。
俺はいつもの風景をぼうっと見ていた。いつもの風景。確かに、川の流れを整えたり、その上に鉄橋を掛けるのは人間の仕事だろう。しかし、川そのものは、川が流れていくという事象そのものは、人間の行為する仕事ではないだろう。俺がその風景に爽快感を感じていたのは、人間というものが生み出すものとは違った時の流れを感じていた為だった。
それを「自然」と人は名付けた。だが、もううんざりだった。自然を守るだの、自然を壊すななどと言っている馬鹿共が。俺達人間も自然の一部に過ぎない。全ては流れ、うねり、遠く彼方へ消え去っていく。人間もまた自然の一部として、流れ去っていく。その果てを人間理性が、カントの方法であれ、ニュートンの方法であれ、極められるという傲慢…ああ、しかし、その傲慢を指摘するのは俺自身の傲慢に過ぎない…俺は…口を噤もう。
俺は俺自身の消滅を感じていた。どうしようもない事だった。気持ちの良い天気だった。空は晴れていた。まるで宇宙開闢以来、ずっとこの星は晴れ渡っているかのようだった。
俺は立ち上がった。歩き出した。生まれたての子鹿みたいに、よちよちと。俺は川べりに近づいた。俺は、歩いた。川の流れに逆らって。
世界は…平静だった。いや、右手には橋が見え、車やトラックが列を成している。一体、どこへ行くのやら。俺にはもうさっぱり理解ができなかった。
その時、ポトポトという音が聞こえた。俺は何気なく足元を見た。足元には、ソフトボールが転がっていた。俺は反射的にボールを拾い上げた。
ボールがやってきた方を見ると、学生服の女が二人いた。一人が手を振っていた。手前側の女だ。
見た目からは中学生らしく見えた。ほっぺたが赤くて、「田舎のかわいい中学生」という感じだった。俺はボールを思い切りその子に向かって投げた。ボールは、綺麗に彼女のグラブに収まった。彼女はぺこりと頭を下げて、またキャッチボールを始めた。
(そういえば、妹はソフトボール部だったな)と俺は思い出した。俺には妹がいた。今、どうしているかは全くわからない。
俺は明るい日差しの中、コンクリートの階段に座り込んだ。水面は足元すぐ先だ。俺はじっと水面を見つめた。
一昨日、強い雨が振った。そのせいだろう、水嵩さは増していた。本来ならば、ここにこうして座っている事もよくないのだろう。俺は、光を反射する美しい水面をじって眺めた。水面はどれくらい深いだろうか? 人が一人溺れるくらい深いだろうか?
いや、待て、と俺は考えた。溺れて死ぬのに、そんなに深さはいらないはずだ。深くなくても、とにかく水に沈んで死ねばいいんだ。その気になれば、洗面器一杯の水に溺れ死ぬ事だってできる。そうだ、やる気になれば、人にはなんでもできるんだ。
俺は水面をじっと見つめた。その時に、ふと考えた。(ここで俺が死んだら、さっきソフトボールを返したあの子はなんと思うんだろう?) 彼女は警察に話すだろうか? 「亡くなったおじさんは死ぬ前に私に元気そうにソフトボールを返してくれました。自殺するなんて少しも思いませんでした」 そう言うだろうか? …いや、何も言わないだろうか。多分、彼女は気にしないだろう。白鷺のように勝手気ままに、俺の屍を越えて自由に生きていくだろう。
俺はそういう光景を頭に浮かべて、ふっと笑ってしまった。可笑しくなったのだった。俺の土左衛門の横で、誰かがソフトボールを投げている。俺は死んで、青白い体つきで、白目を向いているが、その隣では未来ある若者がソフトボールを投げている。
彼らの「未来」が虚飾にすぎないのはもちろんだったし、彼らはあらゆる未来というものが虚飾であるという一事を知る為にも生きなければならないのは確かだったがそれでもーーその光景のイメージは俺に笑みをもたらすのに十分だった。俺はふっと笑ってしまった。
何が面白いというのではない。ただ、俺の想像した俺の死体、その生々しさは、多分俺の生きた全人生、全思考よりもはるかにリアルで、生々しいものなのだろう、と思っただけだ。人はそれを笑う事ができる。
俺は、じっと水面を見つめた。川の流れは孔子の頃からずっと変わっていないのだろうか。政治家としては失敗した孔子は弟子と共に川の流れを見て、何を思っただろうか。その時の流れは、二十一世紀初頭を生きているくだらない東洋人のこの俺まで続いているのだろうか。
俺はなんとなくと後ろを振り返った。すると、もうそこにはソフトボールを投げている二人の少女はいなくなっていた。(ああ、そうだ) 俺は思った。(彼女たちは最初からこの世に存在しなかったんだ)
気づくと、まわりには誰も人がいなかった。それで、俺は相模川の風景を独り占めした。まわりに人がいないと、そこは最初からそういう惑星、人が誰もいない、ただ風景が地球のどこかと似ているだけの不思議な星であるように感じられた。俺はその風景をじっと眺めた。俺は靴を脱いで、靴下も脱いで、裸足になり、川の水をちょっと親指で触ってみた。水は恐ろしく冷たかった。俺は足を引っ込めた。
…どうやら、俺が自殺するにはまだ早いようだった。俺は、そんな冷たい川には入りたくないと思ったのだ。俺は苦労して、靴下を履いて、靴も履いて、立ち上がり、歩き出した。川の風景。俺は川べりをいつものように歩き出した。そうして歩いているうちに、自分が人間でないような気がした。やがて、この世界という幕は閉じて、神様だとか誰かが、実はこれらは全て壮大な茶番だったと告げ知らせてくるのではないか。俺はそんな事を思った。俺は川べりを歩き続けた。俺は自分の思考が途切れるまで、歩き続けた。しかし思考は俺の歩みそっくり、影の如く、俺という存在にまとわりついているくるのだった。いつまでもいつまでも。影の如く。