あべこべの世界
朝目ざるとそこは全てが真逆の世界だった。
『ピッ!ピピッ!ピピピピッ!ピピピピ!』
知沙の耳に目覚まし時計のアラームが響く。
「(ん…もう6時か…起きないと…)」
知沙はまだまだ重たい目を瞑ったまま手探りだけで、今後さらに五月蝿くなってゆく目覚まし時計を探し右手を伸ばした。
『ドン!(え?壁?)』
普段あるはずの場所に手を伸ばしたはずだったが、逆側の壁に手をぶつけた。
「(そうか、上下逆さまに寝ているんだ。こっちか…)」
今度は左足で足元にあるチェストの上の時計をガサツに探りに行く。
しかし伸ばした足はチェストにかすることもなく空を切り、床にトスンっと着地する。
その間もアラームは強く響き渡り、知沙を急かす。
「あーもう!!」
知沙はガバッと身を起こし足元のチェストの上の時計目指して手を伸ばした。
「え!」
身を起こした知沙は目の前の光景を観て自分の目を疑った。
違っている。部屋の家具の配置が変わっている。
いや、それだけではない、部屋のありとあらゆる物の配置が真逆になっていた。
「え、なに?違う人の部屋に…」
しかし家具や小物は知沙の持ち物と同じだ。
「なに…これ…」
目覚まし時計のアラームが最大級で部屋に響き渡る。
意味不明な状況に知沙の鼓動がアラームの音を追い越していく。
家具も、衣装タンスも、キッチンに繋がる扉の位置も全てが真逆の状況に眠気は一気に吹き飛んだ。
「どうなってるの!」
知沙はとりあえずベッドに座り直し、五月蝿いアラームを止めようと時計に手を伸ばした。
時計の文字盤が裏返しで、針も逆向きに進んでいる。
知沙はパニックになりそうな気持ちを抑えるように甲高く響くアラームを切った。
一瞬にしてシーンと静まり返った部屋を見渡す。
「(えっと…冷静になれ私。深呼吸して落ち着けるのよ、これはどういう事?)」
それから数分間あれやこれやと考えてみたが、答えは無さそうだった。
「と、とりあえず服を着替えて落ち着こう。うん。」
知沙は平常心を装って立ち上がると、衣装タンスへと向かう
「(衣装タンスに以前着ていた私服があるはず、まずはそれを着て…)」
衣装タンスを引き出した知沙はその中身に絶句した。
ゴスロリの服だ。
黒を基調とした白いフリルがついた、いかにもな服が丁寧に畳まれて入っている。
知沙は焦りつつ他の引き出しも開けてみた。
しかしどこを開けてもロリータ服しかない。
そうだ、考えてみればいつも壁にハンガーでかけているビジネススーツもこの部屋にはなかった。
普段着を入れているはずの引き出しも、冬服も夏服も全てがロリータファッション一色になっていた。
「なんなのよこれ!!なにかのイタズラ?ドッキリ?!」
と、その時、チェストに載っているスマホに着信音が鳴り出した。
知沙はすぐさまスマホ画面を見る。
最悪だ…会社のあの上司からだ。
しかしこの状況下ではとりあえず出るしかない。
状況を把握するためには必要な事に思えたからだ。
「もしもし…」
「あ、知沙様ですか。朝早くに電話して申し訳ないです。」
「(知沙サマ?あの上司が知沙様って…)」
「その…午前中に仕事で使うあのプレゼン資料、あれじゃ全然ダ…ダメだったのね。
あ、で、それで、出社したら直してもらえると嬉しいのだけど…」
上司の声だが、微妙に敬語だし、しかも背筋がゾッとするくらい気持ちわるい。
「あの…木崎課長…」
「ひっ!?なんだかこそばゆいその言い方。それとも今日は調子悪いのかな?休む?休んでも良いんだよ。」
「あ、いえ。行きます。それより私の服がその…」
「あ、いつも着てきているロリータ服に何か一大事?」
「いや、そうではなくて。(え、いつも着てきている?ロリータ服を?会社で??)」
「そ…とにかく、仕事よろしくお願い致します。」
上司はそう言うと何かに怯えるように早々に電話を切った。
「(あれはなんだ?!凄まじく気持ちわるかったけど、私が何かした?怯えていた?ってかロリータ服で出勤してるの私?)」
知沙は着信履歴を見直すと上司の名前の隣に(万年ブタ野郎)と追記されている。
「(上司にブタ野郎って私は何をしている!それにこの状況はなんだ!ゴスロリ服しかないとか!)」
知沙はしばらくその場で考えていたが、行動を開始した。
「仕方ない…アレ、着るか…」
数分後、部屋にはゴスロリ知沙が爆誕していた。
「(あぁァァァァァァ!!着てしまった。)」
洗面所の姿鏡の前でゴスロリ服でフル装備した自分が映り込む。
「……お、お帰りなさいませご主人様。」
猫撫で声でポーズも決めてみたが、凄まじく恥ずかしい。
「(やってしまった。ついやってしまった。憧れのあのポーズ)」
「(いや、マジで恥ずかしい!!けど似合ってる。かも。)」
その後の知沙は何かが吹っ切れたかのように平然と行動した。
いや、正確にはその選択肢しか残っていなかったので半ばやけくそだった。
玄関をでて、足早にマンションのエレベーターに駆け込む。
「(お願い!誰とも会わないで!!)」
一階についてエレベーターのドアが開いた。
すると同じマンションに住んでいるお婆さんが運悪く眼の前に立っていた。
「あら?お仕事?」
「…は、はぃ。」
「いつも可愛らしい格好してるわね。いってらっしゃい」
お婆さんは笑顔でそう言ってくれたが、知沙は挨拶もそこそこにお婆さんの脇を駆け足で通り過ぎる。
「(み。観られてしまった!!あぁぁぁ!!)」
お婆さんはまだ知沙の方を観ている、そんな気がした。
足早にかけながら知沙は思った。
「(確かあのお婆さんはスピリチュアルな人だったはず…そうだ!近所でも有名なおかしなお婆さんだ!よりによってあんな人に観られてしまうとは!もう帰宅する勇気すらないかもしれない。)」
知沙はそれでも足を会社に向けた。
帰巣本能というのだろうか、哀しい事だが長年出勤を繰り返していると、別の事を考えながらでも足は勝手に進んでゆく。
歩きながら周りを見る余裕なんて当然ない。
何かの罰ゲームみたいに感じた。
「(早く職場について!)」
駅の改札を素早く抜けてエスカレータに乗る。
「(あ、スカート…)」
知沙は思わず両手でお尻をおさえた。
ホームに着くと、タイミングよく電車が滑り込んできた。
知沙はできるだけ目立たない壁際に身を縮めて誰とも視線を合わせないようにする。
「(後は会社の最寄り駅で…)」そう思った時、流れる車窓に違和感を覚える。
それは全てが逆だというだけではなかった。
乗り込んだ電車の行き先ですら逆になっていたのだ。
「あ!」思わず声が出る。
知沙は次の駅で降りると、逆のホームに停まっている電車に素早く乗り込む。
「(コレで良いはず…)」
知沙はこの状況に戸惑いながらも、さっきよりは幾分か落ち着き始めていた。
さっきの失敗で完全に吹っ切れたのかもしれなかった。
冷静になってゆくにつれ、車内の様子に目がいくようになった。
おそらく、いつも乗っている電車と同じであろう事が判ったのは、自宅の最寄り駅に再び着いた時だった。
朝、よく見かける人が車両に乗り込んで来たからだ。
「(確かこの人、いつも同じ電車で会う人…でもなんだか雰囲気が…)」
普段ならビジネススーツを着ているはずの人が、今日はカジュアルな服装だった。
今日はオフの日なのだろうか。
さらに周りの人を観ると、いつも新聞を四つ折りにして読みながら出勤してくる中年のおじさんも変だった。
なんだか今日は胸が異常に膨らんでいる。
ワイシャツが透けて、ピンクの何かがうっすら視えている。
「(まさか…ブラジャー!?あのいつもなら寡黙に真面目に新聞読んでる人がブラジャーを着けている?!)」
知沙は何が何だか判らなかった。
その時だった、フラッシュバックするように鏡の向こうで包丁で首を刺された自分の情景が思い浮かんだ。
「(あれ…あれって夢?悪夢?それならコレも夢?)」
知沙は思いっきり自分の腕をツネッてみた。
痛かった。確かに痛いし、腕に爪の跡もちゃんと残っている。
夢ではない、しかしココは何かおかしい。
「(まさかココは鏡の中なの?)」
見るもの全てが逆になっているこの情景が、ココが鏡の向こう側である事を証明していた。
「(これは確認するしかない。まずは知り合いから情報を聞き出す必要がある…そのためにもまずは職場の同僚に会わなければ。)」
職場に着いたのは仕事開始前に全員でする朝礼の最中だった。
「あ、知沙先輩!」
オフィスに入るなり、後輩の成美に声をかけられた。
朝礼でそれぞれの席の前で立っている同僚の注目が一瞬で知沙に集まる。
「すみません遅れまし…た…」
知沙はそう言いながら同僚達の姿に絶句した。
誰一人としてビジネススーツを着込んでいる人が居なかった。
声を掛けてきた後輩の成美に至ってはまるで女王様かなような黒いラバーで身を包んでいる。
知沙がそんな異風景に固まって立っていると、奥の席にいる上司の声が響いた。
「知沙様、おはようございます。」
上司が気持ちわるい程丁寧な挨拶をしてきた。
いや、実際気持ちわるい格好をしていた。
ワイシャツは着ていたが、下着をつけておらず、代わりに亀甲縛り状態だった。
あの憎たらしい上司が壊れていた。
「おぃ!木崎!勝手に知沙様に話しかけんな!」
後輩の成美がどこで手に入れていたのか、無数に枝分かれしたふさふさの鞭をデスクに打ち付けて威嚇する。
「ひ!すいません女王様ぁ。」
上司がひどく怯えながら後輩の成美にペコペコ頭を下げている。
余りの状況に知沙が成美を止めに入る。
「成美。それはちょっと…」
「え、知沙先輩。こんなクソ豚に慈悲なんていりませんよ。そうだよな!木崎!」
「は、はぃ!!女王様」
「ね?」
にこやかに笑いかける成美に、知沙は怖さを感じたが、上司の顔が嬉しそうにしていたので、それ以上何も言えなかった。
その日、知沙は仕事が手につかなかった。
定時間際には知沙の気持ちは限界ぎりぎりだった。
とにかく、どこかで一度落ち着きたかった。
知沙は職場を逃げるように立ち去ると、カフェに立ち寄った。
後2日分。