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その日はよく晴れていた。
昨夜降った雨のなごりが道ばたをぱちぱちと光らせている。
脇をゆく川の流れが乱暴にきらめいている。
そういう朝の清々しい感じとは裏腹に、わたしの心は相変わらずのぶたさんのモヤをぶらさげていた。
目では綺麗に認識している景色も心では何かゾッとするところばかりを映したがった。
小学校のころ川の脇で見つけた猫の死体や、雨上がりの青々としげる草の間が虫でいっぱいだったこと、ファーストフードのゴミが汚らしく道路に散っていたこと。
空の色が水に写ってこんなにも綺麗な色を作り出しているというのに、それでも汚い部分はチャラにはならない。
物事は綺麗な面だけではない。
そういうことがその都度、切に響いて何とも冴えなかった。
わたしは真紀夫くんの運転する雪道仕様の4WDにちょこんとすわり、ゆらゆらとそんなことを考えていた。
真紀夫くんとは結局、前回と同じ喫茶店で待ち合わせをして、今度はすんなり朝食をとった。
こういう波長はたぶん偶然と同じたぐいのものだ。
そのお店のモーニングセットは、サンドウィッチにパンプキンスープ、ハムエッグにコーヒーというオーソドックスなものだったけれど、野菜にパン、ソースに至るまで素材や調理法にとてもこだわっていた。
わたしは、なるほどと実感しながらおいしく食べた。
真紀夫くんもとてもいい顔で食べていた。
こういうことは仲の良し悪しに関係なく何も言葉がいらないな、と思う。
ただ、おいしいものは時々お互いの間をぐっと引きよせることがあるものだ。
それはきっと食べ物がすべて、生の犠牲により成り立っているから、それぞれがつい命を結びつけてしまうんじゃないだろうか。
食べ物に命は戻らないけれど、そういう神秘があるのかもしれない。
みんな食べられるために生まれてきたわけじゃない。
そういう矛盾は世界のすべてが平和になりきれないことに似ていた。
切ないことだけれど、せめて大切に生きなければいけないのだと思う。
1時間ほど走ると車は県堺に差しかかった。
真紀夫くんは備え付けのナビに頼ることなく進んでいく。
「真紀夫くん、道くわしいのね」
わたしはいった。
「道というか、地図を見るのが好きなんだ、
子供のころから迷路とかすごく好きだったんだけど、その延長上なんじゃないかな、
見ているうちに行ったような気になって覚えてしまうの」
真紀夫くんはいった。
「ふうん、子供のころの好きなものって案外、将来の種になってたりするんだね、
わたしにもあったかな、そういうの、
子供のころの気持ちって、今どんなに思考をこらしてもなかなかたどりつけないからなー」
わたしはいった。
「何かしらあるんじゃないかな、無意識だったりすることもあるし、
子供は大人よりもずっと神秘的に生きてると思うもん、
子供って待ったり気持ちを区切ったりすることを嫌がるでしょう、
今じゃないとダメとか、もっとずっと遊んでたいとか、
気に入ったものはいつも肌身離さず持ってたいとかさ、
そういうのって、今が一度しかないことを知っているからだと思うんだ、
成長だって、膝がずきずきしたりしてぐんぐん早いから、時が過ぎていくことにすごく敏感なんだよ、
そんな切さみたいなものに子供は目を見開いているんだと思う、
そうやって刻んだことだから、子供のころからずっと続けていることって、なかなかやめられないじゃないかなー」
真紀夫くんはいった。
そういえば、わたしはちいさい時からずっと毛布のはしっこが好きだ。
毛布のはしっこを尖らせてほっぺにこすると落ちつく。
これは理屈ではない、おそらく乳児レベルで体が覚えていることだ。
懐かしい音楽や匂いで当時のことがよみがえったり、自転車の乗り方を忘れていないのと一緒。
アロマやマイナスイオンみたいに大人になってから知ったリラクゼーションもあるけれど、横一列に並べたらいろんな意味で毛布のはしっこが勝つと思う。
それは本能的なものというか、母の胎内でもらったものと同じ、代替えのきかないものだからじゃないかな、そう思う。
改めて真紀夫くんの言葉を思い返すと、なるほどわたしがさんざん忘れたり無くしたりしてきたことをよく知っているなあ、と思った。
真紀夫くんは道も詳しかったけれど、運転もうまかった。
男の人特有の大胆なドライビングだったが運転に慣れていて不安がなかった。
車窓からは途中、海が見えたり山が見えたりした。
秋の海は濃いブルーの広がりと雲からもれる金の筋でふちどられている。
山は色とりどりの木々や葉っぱが良い連携をとりながら山肌を飾っている。
自分さえ白く光って空気に溶けていきそうなこういう景色で、自然という生き物をただ眺めたとき、人はつい、いつも隣にいた人を思い出してしまうだろう。
自分にいちばん近かった他人のことを思わずにはいられないだろう。
隣にいるのがのぶたさんだったら、何もかもが単純で簡単でいいのに、と勝手な希望を抱いている。
ちっとも懲りていなくて呆れてしまう。
けれど隣にいるのが、のぶたさんでないならせめて真紀夫くんでもいい、と少なからず思っている自分がいて驚いた。
いつのまにか真紀夫くんが狭くて偏屈な許容範囲の中におさまっている。
真紀夫くんの技量なのか、わたしの努力なのか、時間の慈悲なのかわからないけど、どれでもいい、すごいなと思えた。
「ここから道が細くなって曲がりくねっているから、少し揺れるかもしれないけど、もうすぐ着くよ」
真紀夫くんはいった。
進んでいくにつれて繁華街だった街並みが住宅街に変わっていく。
そしてその住宅も少しずつ減っていき、ぽつりぽつりあるくらいのところまで来た。
「おそらくこのあたりだと思うんだけどな」
真紀夫くんはそういってスピードをおとし、きょろきょろ周りを見回している。
しばらく徐行を続けた後、そこから10メートルほど左に入ったところで真紀夫くんは車を停めた。
目の前には茶色い塀に囲まれた1階建ての黄色い小さな家があった。
両隣とは20メートル以上離れていたせいか、建っているというより置いてあるといった印象だった。
塀と外壁の配色がどこかモダンな雰囲気を漂わせている。
「住所でいくとここのはずなんだけど」
真紀夫くんはその黄色い家を指していった。
庭もほとんどない、正方形に近いその家の真ん中には2段ほどの階段があって、登りきったところにチョコレート型の白いドアがついていた。
取っ手の上には鍵穴がある。
人の気配がなく静まりかえっていたけれど特に怖い感じはしなかった。
ただ本当に複雑感のないつるんとした小さな家だった。
「人が住んでいる気配は感じられないけど、
もみこちゃん、どう?
いっしょに入るとか、行けそう?」
真紀夫くんはいった。
「うん、行く、平気だよ、嫌な感じはないし」
わたしはいった。
無理はしていない。
怖いというよりは、がらんどうのような淋しい感じがした。
持ち主である真紀夫くんのお父さんが死んでしまったからではない。
死んでしまって殺風景になる淋しさではなく、何かこう、会えなくなってしまったつらさ、という類の乾いた悲しい感じがそこに漂っていた。
「ありがとう」
真紀夫くんはそういって車のエンジンを切った。
そしてすぐに、
「それじゃあ、俺が先に行って鍵が合うかどうか見てくる」
と車を降りた。
白いドアへ向かう真紀夫くんの背中をじっと見つめる。
きっと、お父さんを亡くして真紀夫くんつらかっただろうな。
人が死ぬなんて慣れるものではない。
生きていた頃のことが拷問みたいによみがえって、やり残したことが山のようにあふれて。
何ができただろうとか、もっと何かしたかったという気持ちを止めることができない。
けれどそれ以上に死は既に違うベクトルの中にあって誰にも止められない。
だから、あがくのだ。
受け入れるために。
ガチャガチャという金属音と同時に真紀夫くんの「あいた」という声がきこえた。
わたしは、ゆっくりと歩きながら真紀夫くんのところまで行った。
真紀夫くんはわたしがたどりつくのを待ってドアを開けた。
油のないぎしぎしという音が蝶番から聞こえてくる。
ドアの向こうには半畳ほどのちいさな四角い玄関があった。
入ったとき、多少ホコリっぽい中にも懐かしい古い布のような優しい匂いがした。
「なんか、知らないおうちに入るってどろぼうみたいね」
わたしはいった。
「たしかに心境は似てる、
でも泥棒は鍵なんてもってないから、
そういう意味で俺たちはちがうよね」
真紀夫くんはそういってから
「汚れているだろうから靴は履いたままの方がいいよ」とつけくわえた。
この家がどれくらい放置されていたのかわからないけれど、まだ土足で上がりこむほどに汚れてはいない感じがした。
というより真紀夫くんのお父さんが少し前まで手をかけて管理していた場所に土足であがるなんて失礼なんじゃないか、という気持ちの方が大きかったのだと思う。
だからせめて精一杯、靴の汚れを玄関で落とした。
玄関をあがると2メートルほどの廊下がつづいて、その先にまたドアがある。
わたしはドアを開け奥へ行く真紀夫くんのうしろにくっついて歩いた。
その先には、白い壁に囲まれた四角い部屋があった。
部屋の真ん中に丸いテーブルが置いてある。
テーブルにかかる藍染めされたクロスがホコリで白くなっている。
その他にはちいさな小窓がひとつと奥につながるドアがひとつ、それ以外本当に何もない。
四角い箱の中という感じだ。
入口わきのスイッチを押してみたけれど通電はされていないようだった。
わたしたちは小窓の明かりをたよりに部屋のすみずみを見回した。
「あ、もみこちゃんこれ」
突然、真紀夫くんが声をかけたのでわたしは体をこわばらせた。
心臓がびっくりするほどドキドキしている。
「手紙かな、封筒になにか入っている」
真紀夫くんはそういって藍染のテーブルクロスを指さした。
見るとクロスの間に薄くてくたびれた茶封筒が無造作に置いてある。
「手紙?」
なんとなくわたしはいった。
真紀夫くんは答えずに封筒をひろって「父の字だ」といった。
部屋が薄暗いことさえ気にせず中の手紙を見つめている。
しばらく真紀夫くんが固まってしまったので、わたしは何かとても切ない気持ちがした。
真紀夫くんから悲しみが滲んできそうなくらい表情は暗い。
渦の中で嵐か過ぎていくのをじっと踏んばって待っているそんな顔だ。
わたしは真紀夫くんの眉間によったしわを見つめることしかできない。
しばらくすると真紀夫くんは、わたしにそれを渡してきた。
受けとっていいものかすごく迷ってから、それを見ない理由がないことに気づいて受けとった。
そこには細長い字でこう書かれていた。
【あの日、お父さんをえらんでくれてありがとう。
どうかこの先、事故や病気で死なないで。
お父さんがつくったこんなおもちゃでは、なにひとつたりないけれど、
いつまでも元気でしあわせに。】
わたしは、手紙を最初あったのと同じようにたたんで真紀夫くんに返した。
真紀夫くんは手紙を受けとるともう一度開いて今度は目を閉じた。
「うちの両親、俺がちいさい頃に離婚したんだ、
原因は父の女グセって聞いた、
俺、父のことなんてえらんだ記憶ないんだよな、
記憶にないくらいの頃に家庭崩壊をつきつけられて、子供にえらべるわけないよね、
ありがとうとか、勝手だよな、
死んでしまえば今更どうしようもないけどさ」
真紀夫くんはいった。
わたしはそのとき真紀夫くんがお父さんのことをちっとも恨んでいないと、なぜか思った。
なんの邪念も妨げにならずわかるというような独特な感じだった。
真紀夫くんには悲しみと切なさはあったけれど憎しみはない。
それは長い月日がお父さんの存在を良い方向に挽回していったのとは違う、最初からとがめていない真っさらなもののような気がした。
どうして突然そんなふうに思ったのか自分でも不思議だった。
長年の勘のようでもあったし、妄想のようでもあったので実態は曖昧だ。
人を見てると気付く男の子らしいとか女の子特有とか、雰囲気でにじみ出てわかる感覚に近いのかもしれない。
決めつけてしまっている錯覚のようなもので、自分の中では妙に説得力のある思い込みのようなもの。
「とにかく部屋はもうひとつあるみたいだから見てみよう」
真紀夫くんはそういって奥のドアに手をかけた。
わたしもそれに続いた。
鍵はかかっていないようでドアはすんなり開いた。
うす暗さに目が慣れていたせいか、ドアの向こうからまぶしい光がさして目がくらんだ。
「こっちの部屋は明るいのね」
わたしがいうと真紀夫くんはドアの入口に立ったまま「うん、こっちの部屋にはこういうものを置くために、わざと明るい間取りをえらんだんだろうな、
この家、電気が通ってないみたいだから」といった。
のぞくとそこには色とりどりのおもちゃがベンチみたいなテーブルに順序よく並べられていた。
ブリキのトラックやバス、木製のスロープに電車やレール、飛行機やロケットの模型など、細々した部品も含めると全部で10個以上はありそうだ。
ホコリや日射しのせいか色は変色したり褪せたりしていたけれど、どのおもちゃも明るい部屋の中で生き生きと何かを待っているようだった。
よく見るとどのおもちゃにも全て“tetuo”というアルファベットが書かれている。
「てつお?」
わたしがつぶやくと「父の名前だよ」と真紀夫くんはいった。
なるほど、これらはすべて手作りなのだと納得した。
丁寧な作りの中にも機械を使わない手作り特有の粗さみたいな温かさが、ひとつひとつを愛情深いものにしている。
物というものは、こんなにも作り手の思いや心を宿せたりするものなのかと驚いた。
見ているだけで胸がいっぱいになって目の周りや頬が、かぁーっと熱くなっていく。
わたしは思わず「すてきね」とつぶやいていた。
ホコリをかぶりながら、
時や陽に色を削られながら今、おもちゃたちは喜んでいる。
「もみこちゃんどうした?
なんで泣いてるの?」
真紀夫くんはいった。
「え?」
泣いてなんかいないよ、と言おうとして泣いていることに気づく。
「本当だ」
わたしはそういって「心を込めて作ったんだと思うな、これ」とハンカチで涙をふいた。
それ以上は声がゆがんでしまいそうでしゃべれなかった。
なんとなくこんなふうに泣きたかったのかなと思うくらい、どこかに入れすぎていた力が抜けていく。
「もみこちゃん泣かないで、
こんな父のおもちゃなんかで泣いちゃ駄目だ、
どうせならもっとすてきなことで泣かないと」
真紀夫くんはいった。
「じゅうぶんすてきだよ、こんなにすてきな思いじゃない、
真紀夫くん、本当に大切にされていた、そういうものでしょう、これは」
わたしはいった。
「うーん、どうかな、
だって俺、これと同じもの前にもらったことある、
父に」
真紀夫くんはいった。
「えっ」
わたしは驚いていった。
「このブリキのやつはよく覚えてないけど、たぶん一番最初にもらった、
それからその次がこれで、そのまた次がこれじゃないかな」
そういいながら真紀夫くんはおもちゃを順番に指さしていく。
「どれも全部、誕生日にもらったんだ、
今になってはもう壊れたり無くしたりしてほとんど残ってない」
「じゃあ、お父さんは同じものをもうひとつ作っていたの?」
わたしは聞いた。
「おそらく」
真紀夫くんはいった。
「どうしてだろう」
「わかんない」
「この家は思い出とかコレクションてきなものだったのかな、
アルバムに写真をはっておくみたいな感じで」
わたしはいった。
「どうだろう、
ただよく見ると俺がもらった物で、この中にない物もあるよ」
「それどんなの?」
「木でできた青いこぶたのおもちゃ、
背中にネジがついていて回すと腕と足が動いて歩く感じなの、
気に入っていつも遊んでたからよく覚えてる」
真紀夫くんはいった。
「子ブタのおもちゃだけが無いって、何か意味あるのかな、
手紙のこともそうだけど、真紀夫くん受け取った記憶ある?」
わたしはいった。
「記憶無い、俺が覚えてる限りは、
案外、意味なんてないのかもなー、
この家自体さ、父が自己満でつくっただけかもしれないし、
例えばアトリエにしてたけど、そのうちどうでもよくなってすっぽり忘れさられちゃったとかさ、
手紙にしても気まぐれで俺あてに書いてはみたけど、こそばゆくなって渡しそびれたとかさ、
まあ、そんなんだったら、こんなところまでもみこちゃんに来てもらったのにつまんないオチで申し訳ないけど」
「いいの、わたしは、
素敵なおもちゃ見れたし、
だって謎の鍵とか、残された家とか、
本当はもっと怖いこと想像してたから正直ほっとしたよ」
わたしは言った。
「吊り橋効果かあ、
そういうのあった方が良かったよね」
真紀夫くんは言った。
「あはは、その点は残念だったね」
「なにそれ、
もみこちゃん気をつかってくれてるの、
それともそうなりたかったの」
「気をつかってるの、
でもわたし的に気分転換にはなったかな」
わたしはいった。
「そっか、それはよかった」
真紀夫くんはそういって笑った。
その表情がここでもわたしの逃げ道になっていた。
本気で攻めてるんじゃない。
からかうことで空気を軽くしているだけ、そういう笑顔だった。
「これ以上は何もなさそうだし、そろそろ帰ろうか」
しばらくうろうろしたあと真紀夫くんはいった。
「変なことに突き合わせちゃったお詫びになんでも好きなものおごるよ、
お腹すいたでしょう」
「うん」
わたしはいった。
真紀夫くんのいう通り、この家はそれだけだった。
四角い部屋かふたつだけ。
収納もお風呂もトイレもない。
本当は意味なんてない方が平和なのかもしれないと思う。
意味なんてくっつけて強く刻んだって、消すのが大変なだけだ。
何かを知るなんて、今を変えなければいけないことばかりだ。
知ってしまったら、その瞬間から引越しするみたいにたくさんの労力を使って何かに取りかからなければいけなくなる。
面倒くさすぎる。
けれどそう思いながらどこかでは意味を探している。
小骨が引っかかったみたいに無視できないでいる。
どんなに後回しにしても知らない中にある事実は消えないという変な正義がでしゃばっている。
楽ばかりしていては良いことも楽の色にのまれてしまうとか、痛みや苦しみがつくるダークの中でしか輝けない皮肉を忘れてはいけないと。
遺品の鍵
通電のない家
わたしそびれた手紙
手作りおもちゃ(ひとつだけ無い)
並べてはみたけれど、考えれば考えるほど意味なんてないような気がした。
ちょうど、さまよう蚊を見つけては見失うことに似ている。
見つけては消えるので、しだいに意地になっていく。
そこには賄賂を受けたわけでもないのに他の虫は殺さない、でも蚊は殺すという理不尽が作用していた。
自分サイドでしか見ない、そういう視点でわたしは小骨の引っかかる意味を探した。
けれど結局、何もつかめないまま、わたしたちは中途半端なその気持ちをちいさく折りたたむようにしてその場所をあとにしたのだった。
「もみこちゃん、なに食べたい?」
帰り道、運転に集中していた真紀夫くんがいった。
「わたし今なら何でも食べたい」
まるでハイになってるような言い方だと思った。
真紀夫くんと今という慣れない時間の中にいると、いつもとちがう分、体がほどよく無理をして一時的にいろいろなことを忘れていられた。
ただそれは必ずツケがまわってくる片手落ちの状態だ。
本当はどこまで忘れていて、どこまでまだ残っているのかなんて気にしないようにしていたけれど、忍び込むように寂しさはいつもそこにあった。
大量の宿題を後回しにしている、そういう感じだ。
「うーん、そうだなー、
じゃあハンバーグなんてどう?
ここから少し走ったところに、学生の頃よく行った洋食屋さんがあるんだ、
キッチンまめぞうって知ってる?
安いし盛りもよくておいしいの」
真紀夫くんはいった。
「わかんない、
でもハンバーグいいね」
「じゃ、きまりで」
と真紀夫くんはちらっとこっちを向いて笑った。
なんかいいな、こういうの、と思った。
こんな瞬間から人は恋がはじまって、少しずつ少しずつ気持ちが地面から離れてふわふわ浮いていく。
いろんなものがいつもと違うふうに見えて色とか形だとか音楽がぎゅっと濃くなって心に入ってくる。
陽炎みたいにゆれる甘っちょろい湯の中で心がのぼせていく感じ。
小さな幸せか素敵に光って、むず痒いような苦しみも一緒についてきて、価値観がでたらめな感じでごちゃ混ぜになるんだけど、どうしても大切で無視できなくて。
そういう感情が、やっかいで仕方ないのにどこか無性に気に入っている。
恋をするだけで片思いだろうが両想いだろうが、無条件でそういうところに行ける。
星が瞬いたり木々が清い酸素の中で揺れたり、蕾から朝露がこぼれ落ちたりするのをふんだんに感じとれる世界。
いびき、歯ぎしり、寝言、爪や髪が伸び、涙や鼻水が出て、吹出物ができたり、食べて排出したりすることとは真逆に位置している世界。
そんな恋の入口に立てたらいいな、心がうまく切り替わってくれるといいのにな、と思う。
リアルではないけれどこんな胡散臭いことが、振り返ったときには案外良い感じのところに片付けられていたりする。
恋ができる人はみんな、まだ自分を捨てきれない。
どんなに自分が嫌いで痛めつけている人も、時々はきちんと向き合っている、そういう証拠みたいなこと。
真紀夫くんのいう洋食屋さんは、海岸近くのゆるやかな坂に立ち並ぶ建物のはしっこにあった。
木でできた看板に“キッチンまめぞう”と可愛らしいタッチで彫られている赤い屋根のおしゃれなお店だ。
ドアを開けるとオレンジライトや、北欧の雑貨があたたかい感じで店内を彩っている。
マスターは小柄で人の良さそうなおじさんだった。
真紀夫くんが頭を下げると「おおーいらっしゃい、しばらくぶりじゃない」と懐かしそうにいった。
わたしたちは奥のテーブルについた。
席に座ったとたん、疲れていたわけではないのに妙に落ちついて、おしりに根が生えたみたいに動きたくなくなった。
店内のいい雰囲気や美味しそうな匂いが体をほぐしていく。
それは寒い日のシチューや雨の日のホットミルクみたいにどこまでも許してくれるたわやかな癒しだった。
真紀夫くんのすすめもありメニューの写真も良かったので、わたしはハンバーグAランチを頼んだ。
真紀夫くんは男の子らしく同じAランチのライス大盛りだ。
「真紀夫くん、彼女はいないの?」
ハンバーグを待つあいだ、わたしは聞いてみた。
「彼女、いないよ」
「そういうウソ平気でつく人いるけど」
「いや本当、別れたんだ、少し前に」
「真紀夫くん、まだ好きなんだ」
わたしはいった。
そんな感じがした。
だけどそのことを言うつもりなんかなかったのに言い出した自分に驚いた。
わたしは何がしたいのだ。
こんな回りくどいヤキモチをやいてどうしようというのだろう。
真紀夫くんに気でもあるならまだしも、これでは単なる八つ当たりとか駄々でしかない。
「好きか嫌いかっていったら嫌いではないから好きになるのかな、
でも別れたっていう意味がお互いの間に成立したら、もう終わりだよ、
例えば、俺や彼女のどちらかが納得してなきゃ別れてないわけでしょ」
真紀夫くんはいった。
わたしは納得なんてできなかった。
それでも納得するしかなかったのは、のぶたさんに嫌われたくなかったからだ。
もう二度と会うことがないかもしれない人に嫌われたくないなんておかしいけれど、それくらい好きだったっていうのは、やっぱりただの綺麗ごとなんだろうか。
相手にどうしても気がなくて、これ以上何をどうしたって好きになってもらえない、もうどうしようもないとき、あがけば繋がっていられたのならあがいた。
それでずっといられるなら何だってしたかもしれない。
「ごめん、やっぱり違うね、
別れる理由に納得なんて違うね、
これはもう運命なんだろうな、
そういう言い方、なんとでもなるみたいでズルいけど、
それが一番しっくりくる」
真紀夫くんはしばらく黙ったあと、そう言い直した。
それを聞いて、やっぱりそうか、ダメなものはダメなんだ、と勝手に打ちのめされた。
もしかしたら真紀夫くんも迷ったり戸惑ったり、定まらない体に振りまわされたりしていたのかもしれない。
わたしよりずっとクールに心の濃いモヤと戦っていたのかもしれない。
「真紀夫くんて、つよいね」
「そうかな、そうでもないよ、
もみこちゃんの知らないところでは、弱虫だったりしてるもん、
つよいなんてつくれるもんじゃないよ、
あれはもって生まれた才能でしょ、
俺にはそういうのないし」
真紀夫くんはそういってテーブルに置いた車のキーをカチャっと鳴らした。
ちゃりんと鍵の重なる音がする。
その瞬間わたしは、はっとした。
真紀夫くんのさりげないその行動が無性に引っかかった。
車の鍵?
違う、あの家の鍵だ。
ただの偶然だろうか。
こういう変換は、使ってる人しかなかなかピンと来ないものだ。
最初に見たときは何も気づかなかったのに、どうして今このタイミングで気がついたのだろう。
「真紀夫くん、メールとか文字入力のとき、ツータッチで打ってない?」
わたしは聞いた。
「ああ、ベル打ちってやつ、
そうだけど、いきなりなんで?」
「ねえ、その、
あの家の鍵もういっかい見せて」
「うん… 、いいけど 」
真紀夫くんが真顔になって、わたしの胸はいよいよモヤモヤでいっぱいになった。
「もみこちゃん、まさか気づいちゃった?
すごいじゃないか、きみ」
そういうと真紀夫くんはゆっくり鍵を手渡した。
鍵には417281という品番が刻まれている。
「これでしょう、
文字にするとタミヤってなるよね、
前に探していたこけし屋さんの」
わたしはいった。
真紀夫くんがタミヤという言葉を口にしたのは、ずっと最初の頃だ。
これが偶然でないとしたら、その時にはもうこの鍵のことを知っていたことになる。
真紀夫くんはいたずらが見つかった子供みたいな顔で
「しかし、よくおぼえてたね、こけし屋のはなしなんて、
あの日もみこちゃん具合が悪かったのに、
やっぱり神様がそうしろって言っているのかもしれないな」
といった。
「なに、どういう意味?」
「これは、俺の中での賭けだったんだ、
あの家に君を誘ったのは君との仲を深めるためだったの、
でも俺の中でどうしても納得できなくて、
父のことをずっと見てきたから、
それで途中からちょっと変更して、もみこちゃんに見破られたら全部話そうって思ったんだ、
こけし屋の話には、もうひとつ細工してあるんだ、
そこにたどりついたらそのを全部話すよ」
「ちょっと待って、
なんだか話しがみえなくなったんだけど」
わたしはいった。
真紀夫くんが急にどんどん先へ進んで、わたしひとり取り残された気分だった。
この人、本当はどういう人なのか。
今まで見てきた真紀夫くんの本質がはかり知れないものになっている。
「じゃあ、“青こけし”っていってもわかんないかな」
真紀夫くんはいった。
次々に運ばれてくるハンバーグAランチが、走馬灯のように通り過ぎていく。
洋食屋さんのいい匂いも、空腹も、肉のジュウジュウする音も何もわからなくなっていく。
青こけし