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まにゅある  作者: 小森 まめ子
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秋も深まってきたある日、わたしは生まれてはじめてインフルエンザにかかった。


のぶたさんと別れたショックで免疫力が下がっていたのかもしれない。


起きようにも起きられないほどの高熱が出て、そうじゃなくても失恋のおかげでいつも以上にきつかったわたしの体は、何の抵抗もなくウイルスにどんどんのまれていった。


最初はそれでもなんとか水やジュースを飲んでいたけれど、しばらくするとそれさえ吐き出してしまい耳鳴りはするし目はぐるぐるまわっていた。



体がぎしぎしとちぎれるように痛くて、熱でさんざん疲れているのにうまく眠れない。



熱い体の中に閉じこめられ、寝返りをうつことさえおっくうで、汗でしめった体のまま着替えもせずにじっとベッドの中にいた。


ただ必死にたえている感じか命を充電しているみたいだった。



こういう時、誰かひとりでもこの体の危機を知ってくれたらどんなに心強いだろうな、とさみしい気持ちになる。



熱のせいで夢みたいな幻も見える。



空中に図形が浮かんで、大きくなったり小さくなったりするのだ。


それが大きいとき不安におそわれ、小さいとき少しだけほっとする。



けれどまたすぐに大きくなって、それらはいつまでもくり返された。







やっとの思いでタクシーを呼び病院へ行けるようになるまでには2日も要した。



医者は「もう少しおそかったら、脱水症状で死ぬところでしたよ」と大げさに怒っていた。


わたしは点滴をしてもらいながら心の中か口の中で「すみません」とあやまった。


医者とか警察もそうだけれど、どうして会話のスタート地点から、裏技を使ったロープレの装備だけ最強みたいな立ち位置なのだろう。



苦手だな、と思った。


けれど点滴が終わる頃には、だいぶ体が楽になって医者だけは許そうという気持ちになれた。


足のふらつきはまだ残っていたものの外にいるという緊張感からか、なんとか人並みに動けた。


すぐにタクシーを探したけれど病院前のタクシーはどこもいっぱいで乗れそうにない。


仕方なくそのままノロノロ歩いていたら、いつの間にか病院をぬけ商店街まで来ていた。


一刻も早くベッドで横になりたいのに、こんな時にかぎってタクシーが見あたらずやきもきした。



よく見るとここではみんな自分の足で用事をたしたり、店のおばちゃんと談笑したり、きちんとそれぞれの目的に向かって歩いていたので、誰もタクシーを求めていないし、タクシーもスタンバイしていなかった。



杖につかまりゆっくり歩いているおばあちゃんでさえ、10分後には違う店に入っていく。



自分の速度をしっかりわかっていて、どんなに遅くても途中でやめたりしない。



そういう人の目は活き活きしていて、なにかを捉えようといつでも準備ができている。


ガラスに映るわたしの目は死んだ魚のようだった。


まるで自分だけがこの世の中でひとり病気になったみたいな気持ちがした。



たとえば今、わたしがここで倒れたら、目の前のおばさんが悲鳴をあげたり、それを聞いたとなりのおじさんがおどおどしながら救急車を呼んだり、異変に気づいた向かいの店主が医者を探したり、一連の時が焦るようなざわめきに人が集まってきたり。


みんないやいや、面倒なことになっちゃったな、っていうニュアンスでせっせとわたしの命を救おうとする。



ここではきっとそのくらいはまわるだろうな。



みんながみんなそうではないけれど、まだ自分の根をしっかり張りめぐらせている人たちがいる。


相乗効果は良い意味にも悪い意味にも右ならえさせてしまうものだ。


情けないことにわたしは、そういう中に入れない。


そうやって場に居あわせるだけで、いくらでもマイナスは増えた。


こんな大袈裟に物事を悲観したりして、病気は心までどんどん弱らせていってしまうなー、とがっかりした。


そうたずねてきた男の人は、なんとなんとあの数日前にわたしが信号待ちで見入ってしまった人だったのだ。


声をかけられたことは驚いたけれど、この偶然にはなぜかそれほど驚いていない自分がいる。


何より彼の声がとてもすきな感じで、少しのあいだ時間を忘れた。

のぶたさんよりも少し低い、甘い、優しい声。



「とても頑固なオヤジさんが、その道一筋でこけしをつくり続けているらしいんです、


そのこけしがなんと青いこけしなんだそうで、オヤジさんに似合わず例えようのない愛らしさで、


どうしても、なんとしてもひと目見てみたいんです、知りませんか?」


彼はいった。


わたしは、なにか頭でまとまらないことを答えようとしたのだと思う。


けれどそれを言おうとしたら、目のはじっこや真ん中に黒いモヤモヤしたフラッシュが現れて、見えていたものをふさいでいった。


さーっという砂嵐のような音が周りの音を消していく。


どうしよう、どうしようと頭の中がじたばたしていた。



「あ、ちょっと、大丈夫?」



遠くで彼の声がきこえた。


ーー


ーー ー


ー ー




「大丈夫ですか」


どこか店内のような明るい場所にわたしはいた。


「大丈夫?」


彼はもう一度いった。


さっきの彼だった。


わたしはうなずく。


ズキッと頭がいたんだ。


「よかった、いきなりたおれて、熱があるみたいだし、周りの目もあれだったんで、とりあえず近くのネットカフェに運ばせてもらいました」

彼はいった。


見わたすと、高い天井に狭いブース、硬いソファと真ん前にテレビという空間でわたしは毛布にくるまれていた。


おでこには冷たいタオルがのっかっている。


わたしは慌てておきあがり「あの、すみませんでした」と謝った。


その時、ズキズキっと頭に激痛が走りくらくらした。


わたしが思わず頭をおさえると、彼は「無理しなくていいから、熱もあるんだから」とわたしの体を戻し、勢いで落ちたタオルをたらいの氷で冷やして再びおでこにのせた。


最近のネットカフェはサービスが行き届いているなーと感心してよく見ると、たらいだと思っていたものはどんぶりで、おでこのタオルはおしぼりだった。


彼がそこにあるもので一生懸命施してくれた、その少しだけサバイバルなやり方が優しくてあったかくて泣きそうになった。


たぶん弱ってたからっていうのもあると思う。


「ご迷惑おかけしてすみませんでした、

わたしなんかのために時間を取らせてしまってごめんなさい、

ここお金払うのでもう行ってください、

本当になんとお礼をいっていいか、

ありがとうございました」


わたしはいった。


少し落ちついたことで急に申しわけない気持ちがもどってきた。


「いや、ぜんぜんそういうんじゃなくて、なんかほっとけない感じだったし、


それに、


こけし屋さんのことを…」


彼はいった。



「こけし?ですか?」


「うん、たみやって知らない?」


そういえば彼はさっき、わたしにそのこけし屋をたずねてきたのだ。


わたしは少し考えて「わからないです、力になれなくてごめんなさい」と返した。


すると彼はすぐに「いいのいいの、そんな店ないから」といった。


わたしは耳をうたがった。


「あったらいいな、と思って探してただけだし、声をかけたのも、あなたをはじめて見かけた時にすごく気にいってしまって話がしたくて、


じつは全部そういう、

そういう下心につながっていたわけです」


彼はいった。



「なんなんですか?」

わたしがいうと、


「ごめんなさい、突然、ただむしろ告白だと思います」と彼ははずかしそうにいった。



「俺、実はこの3日間あなたのことを見張ってたんです、

昼間だけですけど、


今日も朝から後をつけてました、

だからさっき倒れたときも救急車とか呼ばなかったわけなんだけど、


だって風邪なんでしょう?」


「はい?」


わたしはいった。


「まって、おちついて、

やってることはストーカーと一緒だから、いちおう逃げ道は作っておこうと今も家に連れこんだりせずネットカフェだったり、

こうして今までのことも早い段階で白状してるわけです」


彼はいった。

不思議と怖さはなかった。


ただ彼は何者なのだろう、とひたすら考えなければならなかった。


「3日間見張るとか、それ犯罪だと思うんですけど」


わたしはいった。


「ごめんなさい、あなたにどうしてもまた逢いたくてつい足をはこんだら、あなたがなかなか現れないんで、ずるずる待ってしまった感じなんです、

そもそもあなたの家を知ったのだって、最初にあなたを見た時、今を逃したらもう二度と会えないという気持ちからフラフラ追っかけて家に辿り着いちゃった感じだし、こう見えて悪気があったわけじゃないんだけどな 」


「さっき、すべては下心につながってるって」


わたしはいった。


「あはは、まあ結局そんなとこ」


と彼は笑った。


「でも、いいわけをいわせてもらうと、

いたって真面目に生きている途中で誰かを見かけてもっと話したいとき、世の中はいじわるで最初はなんでも偶然じゃないといけないでしょ、

意図的だったらひくでしょ、

まあ、ひかないとしても下心くらいは疑うよね、

学校とかバイト先が同じじゃないと声もかけちゃ駄目な感じ、


だけど人は毎日どこかでいろんな人にあったりするし、

理由もわからないうちに誰かを求めてしまうことだってあると思うんだけどな」


彼は目を細めていった。


「もし、あなたがいやなら、

少しずつあきらめていこうと思います、


だからそれまでの間、名前とか連絡先を教えてください」


彼はいった。


こういう押して引くようないい方も彼がいう逃げ道がちゃんと入っている感じがして、わたしはそれほど嫌ではなかった。



なんとなく譲ったとでもいうんだろうか、もしくは少し負けたような、だけど悔しいわけではない、そういう感覚だった。


「名前は山下(やました) 百美子(もみこ)、これが携帯で、アドレス 、


つきあうとかじゃないなら、はいどうぞ」


そういってわたしは、軽々しくも近くにあったボールペンでなぐり書いたメモを彼にわたした。


「いいです、いいです、片思いで」


彼はそういって、

「俺は」


といいながらメモに名前と連絡先を書いてくれた。


名前は菊池(きくち) 真紀夫(まきお)と丁寧な字で書いてある。



まだ心が完全でないところに彼を入れて大丈夫ではないけれど、何をしていたって失ってできた穴が塞がるわけではないのだからあがいていよう、と思えた。



前に、のぶたさんがいっていた。


友達の彼が浮気してるのを目撃して、それを友達に告げるか悩んでいた時に「迷って動けないなら何もしなくていいんじゃないかな、

もみ子ちゃんが何かしようと思えるまで、


例えばずっと何もしないなら、それも正しいと思う、


もみこちゃんは止まってるわけじゃなくて、悩んだり迷ったり常にちゃんと準備をしてるの、だから大丈夫だよ」と。


わたしは考えた末、友達に告げた。


最初は泣いてわめいて大騒ぎだったけれど、彼女はちゃんと良い風に立ちなおって、今は違う彼と幸せに暮らしている。



本当はこんな風じゃなくて、いつかのぶたさんがめっきり出てこなくなればいいなと思う。



思い出が割りこんだりしない日々がきたらいいと、そう願う。


真紀夫くんは「とりあえず今日はゆっくり休みなよ」とすんなり家まで送ってくれ、わたしはようやくベッドで横になることができた。


よく考えてみると、熱のせいでしばらくお風呂に入っていない、お化粧もしていない、髪も無造作な自分に叫びたくなった。


せめてシャワーだけでも浴びておくんだった。


そう思えるくらい体は回復していたのかもしれない。



曖昧な感じだけれど、わたしにとって治癒は、昨日よりもこころもち楽になってきている、という程度しかわからないことだ。



けれど心と体は、頭でわかっている以上に連携をとりあっていて、どちらかが駄目になると、その影響で、もう片方も駄目になったりする。



体が病気だといつの間にか心も病んでくるし、精神的なことで体は簡単に病気になってしまう、そういう感じだ。



そんな「人」という漢字みたいな仕組みが、体の中でせっせと築かれてるのを健康だったころのわたしは知らない。




自分の体が菌におかされて熱を出し、菌と戦い、負けたり挽回したりしながら少しずつ割が良くなって、汗と一緒に悪いものが出ていき治っていく。


そういう流れを思い出すと、その中にあった苦しみこそ生きている証なのだと思えた。


どんな痛みも無駄ではない、どんな経験もそうなのと同じで。



体は、こんなわたしなんかにも惜しみなく働いて、わたし以上にしっかり日々わたしを支えている。


病気になって初めてわかる健康のありがたみだ。



そうやって得たものを本来ならもっと最初から、ずっといつまでも忘れないでいたいけれど、それも上書きのように少しずつ薄れていくのだろうな。



そしてまた、体をないがしろにして病気になって、また気づいて。


まるで懲りない恋愛のようだけれど、それもいい。


悲しいことだってそれと同じ要領で浄化されていくと思えば決して悪いことではないから。



結局わたしは、その都度、体が教えてくれることに苦しんだり楽になったり反応していくことしかできないのだ。



そしてそれもまた、隙間を塞いだり開けたりの新陳代謝みたいに人生をつくっていくものなのだろう。



真紀夫くんとの別れぎわ、わたしは「わたしに彼がいるかもしれない、とは思わなかったの?」とたずねた。



すると真紀夫くんは「じゃあ、どうしてもみこちゃんはあんな淋しそうな顔をしていたの?」といった。


「もし付き合っている彼がいた上であんな顔してるなら、それはもうどう転んでもいんじゃないかなって思ったんだ、


涙は嬉しいときも出るけど、ああいう顔は悲しいときだけだよ」


真紀夫くんはいった。



「悲しそうにしている人を見た時のボランティアな気持ち?」


わたしはいった。


通りすがりではないことを求める嫌なセリフ。


にもかかわらず彼は

「うーん、どうかな、

やっぱりすきになったからじゃないかな、


だからつい、よく見ちゃって淋しげなところを見つけてしまったんだろうと思うな」

といった。


薄っぺらだったけれど丸みのある優しい言い方だった。



体が弱っていると、普段はなんてことのない些細なことも支えにすり替わって気持ちにはいってくる。



まるで瀕死の植物が水や栄養をぐんぐんすっていくみたいに。


あの乾いた土にしみるミシミシっていう音が植物の息づく音にきこえる。


その生命力は生への執着だ。


植物はそうやって地球に義理を返しているのかもしれない。



わたしもそうありたい、いさぎよく生きたい、とそう思えた。




明日にはすっかり気持ちが変わっているかもしれないけれど、それでもこんなふうに生を感じることができたのは久しぶりのことだった。


真紀夫くんが現れたことも良い意味で一役かっているのかもしれない。


くわしい素性を何もきいてこなかったのも、次の約束がないまま別れたのも良かったのだと思う。


その後、何日も真紀夫くんからの連絡はなかった。


こちらが、どうしたのかな、っていう気持ちになってしまうほどけっこうな時間があいた。



ただ自分から先に連絡をとるということだけは我慢した。


そういうことを一度でも許してしまったら、そこからやっかいな恋がはじまってしまう。


自然に生み出された恋ではなくて、お腹がペコペコで、自分が落ちていくことに気づきたくない、その人以外では救われない苦しい恋。


いつもどんより不幸で、時々うんとしあわせになる浮き沈みのはげしい恋だ。


そんな面倒なことはよそう、恋なんて時の刻みを凝視するようなこと、疲れて仕方ないだけだ。



そうひとり先走っていたある日、真紀夫くんから1本の電話がかかってきた。




「もみこちゃんに頼みがあるんだ」


真紀夫くんはわたしが電話に出るなりそういった。


その会話の中にいながらもなんだか夢を見ているようで、キッチンの窓に躍る外の日射しをまるで生き物を見るように眺めていた。



「頼みってなに?」


わたしはいった。




「うん、実はいっしょに来てほしいところがあるの、

ひとりではどうしても行く気になれなくて、


もみこちゃんとなら何か、つり橋効果みたいなことがおこったらいいな、っていう期待も希望も持てる気がする」


真紀夫くんはいった。


「どこなのそれは、つり橋みたいに危ないところ?」


わたしはいった。


「くわしくは、あった時に話すよ、


そういうわけで近くあえないかな、


行くか行かないかはそれからゆっくり決めればいいし」




真紀夫くんの言っていることは、真ん中が空欄でちっとも伝わってこなかった。



ただ、それでもじゃあ行こうと思えるから不思議だ。


人助けが少しと好奇心が少しと、あと真紀夫くんがほんの少し。


残りは流れにまかせよう、とそう思えた。


3日後の夕方、わたしは真紀夫くんと商店街の中にある小さな喫茶店で待ち合わせをした。


すこし早くついたわたしは、とりあえず中で待つことにした。


店内は時間帯のせいかすいていて、店主がディナーの準備にはげんでいる。


肉の焼けた香ばしいいい匂いや、デミグラスソースのスパイシーな香りが空間に満ちている。


それだけで温かいような落ちついた気持になる。


安らぐとお腹も減る。


だからおいしい食べ物にはとってもいい匂いがする。




わたしはいちばん奥のテーブル席を選んで座り、ミルクティを頼んだ。




少ししてカランカランという音とともに真紀夫くんがやってきた。


真紀夫くんは、きょろきょろしてすぐにわたしを見つけると手をあげた。



「ごめんね、待った?」


真紀夫くんはいった。


「たまたま仕事が少しだけ早く終わったの、

だけどそんなに待ってはいないよ」


わたしはいった。



真紀夫くんは椅子に腰かけると机のはしに立てかけてあるメニューをパラパラっと見てブレンドコーヒーを頼んだ。



いい匂いがしてついメニューを見てしまったけれど、わたしたちの関係はまだ水たまりのように浅くて、それできっと結局コーヒーなんだ、とそう思った。



真紀夫くんは急がないやり方が本当にうまい。


ズルいともいうのかもしれないけれど、それがまたしても嫌ではない。


すごく自然にそういうことをこなしてくる。



そして、それを天然か意図的かはかる手段もまた、浅すぎてわからないことだった。



真紀夫くんのコーヒーのカップに添えられた男の子らしい骨ばった指の形が、窓の外の夕日やあと少しで寒さに傾く街並とよく似合って見とれてしまう。


コーヒーを送り出す形の良い喉仏に心打たれる。


その瞬間、わたしは懲りてないと思い知らされるのだ。






「それで話というのは」


わたしはきいた。


「うん、


父のことなんだ、俺の」


真紀夫くんはいった。


「お父さん?」


わたしはいった。


「うん、先日父が癌で亡くなって、


それで一段落して父の遺品を整理していたら、こんなものが出てきたの」


そういって真紀夫くんはポケットから何かを取りだした。


「かぎ?」


わたしはいった。


細長くて持ち手の丸い鍵だった。


「でも家の中のどこを探しても合わないんだ、

それでまた遺品の中をあれこれ探してたら紙切れが出てきて、


これなんだけど、どう思う?」


真紀夫くんは少しシワになった紙をわたしに渡した。

どこかの住所が走り書きされている。


「これ」


わたしがいうと、


「そう、ここ、同じでしょ」


と真紀夫くんはいった。



鍵についている417281という品番が紙切れに書かれている数字と同じだった。


「この住所に行ったら何かわかりそうな感じだよね、

そういうしるしでしょう、これ」


真紀夫くんはいった。



「そんなわけなんで、良かったら一緒に行かない?


というより、ついてきてください、こわいから、


もし、この場所が幽霊屋敷みたいなところだったら寄らずに通りすぎるだけでもいいから」


真紀夫くんはそういって頭を下げた。



わたしは真紀夫くんの癖のない髪がさらさら揺れるのをじっと見ていた。


真紀夫くんの手の中には、さっきの鍵がぎゅっと握られている。


“こわいから”という真紀夫くんが何だか可愛らしく見えた。


そういう得が、真紀夫くんの中には如才なく存在している。


不安がないといったら嘘になるけれど、そのどれを天秤にかけても行かない理由にはなりえなかった。



たぶん真紀夫くんから電話をもらった時に決めていたのかもしれない。


だからわたしが行くことによって、もし何か危険なことがあるなら、それはもう変えられない未来の道のりでしかないと結論づけた。


「いいよ、行くよ」とわたしは答えた。


真紀夫くんは、「よかった、ありがとう、ほんっとうにありがとう」といって、わたしの手をとり鍵と一緒に握りしめた。


鍵が温まっている、真紀夫くんの手と同じ温度。


こういうのも悪くない、という気持ちからいつかの淡い気持ちが舞い戻ってきて心をふわふわにしていく。



そんな易々と、という思いに打ちのめされながらも体は楽な方へ逃げていくのだった。


たぶん色んな部分が時を消化することに付きっきりで、間に合ってないのだ。


だから、ちゃんと吟味したり、もっと注意深く用心したりできない。



無謀なことだけれど半分以上運に任せている部分もある。



自分には運ではなく運命といいわけしている。




心はとにかく安心して刻めるところを求めていたし、窒息しそうな悲しい瞬間があるたび、急いでもがいたり、慌ててとりあえずの入口に入りたがるので引っ剥がすのが大変だった。


近道は遠回りなんて知っていたけど、そうじゃない奇跡をすんなり信じていた。


こんなにも悲しみを貯金してきたのだからと。



なんとか立っているのは、そのおかげだ。



困っている人の力になろうなんて、できもしないことに気持ちだけ弾ませたりしているのもそのせい。



ただ救いなのは失恋当初はそれすらなかったということだ。


今、真紀夫くんを目の前にして、茶番みたいに助けたいなんて思えたのは嘘じゃない。







「いつにしようか?


すこし遠いけど泊まらないようにするね、

いろいろと心配でしょうから」


真紀夫くんはいった。



心配なんて命の分くらいだろうな、とわたしは思った。


そんな最低限の戒めしか余裕がない、今は。




でも例えば本当に何か命からがらの危険にあえば、命ともっとたくさんの色んな後悔をするのかもしれない。


在るという感情は馴染むのが早くてすぐに隠れてしまうから、いつの間にか在ることを忘れてしまう。


けれど、今はこの程度の立ち位置でないと何一つ手につかなくなるから単純にしておこう、とそう思う。





「できれば週末の方が良いかなぁ、今週でも来週でも」


わたしはいった。



真紀夫くんは「じゃあ、来週あたり、

また待ち合わせをしよう、

もしなら迎に行ってもいいし」といった。


「うん、まかせるよ」


わたしはいった。


喫茶店を出て、そのまま真紀夫くんと別れた。


お腹は減っていたけれど、真紀夫くんがごはんを誘ってくることはなかった。


わたしも誘ったりしていない。


たぶん真紀夫くんが、どこか食べに行こうよ、と誘ってくれても断っていた。


誘われたらどう断ろうとひとり考えあぐねていたことも、無駄足だった。



たまたまということもあるけれど、わたしの心理を真紀夫くんに読まれているような気になる。



こんな偏屈に折れまがった心境のわたしに間違ってぶつかったり触れたりすることがまるでないのだ。



まだ、日も浅いのに、言葉も少ないのに。



わからない思いはぐるぐる回った。



帰宅してからずっとそんなことばかり考えていた。


わたしはいつしか疲れて眠っていた。


そして夢を見た。





わたしは空をじっと見ている。


どこか高いところから。


流れる雲に手を伸ばしていた。


雲はまだ遠い。



誰かがわたしのとなりにいる。


同じ空をながめて、わたしの伸ばした手を捕まえようとしている。



わたしはわけもなく切ない気持ちで空ばかり見ている。



空は次第に雲をしたがえたまま、地上に降りようとしていた。


空がみるみる近づいてくる。


雲に呑みこまれそうなわたしの手を、となりにいた誰かがぎゅっと強くにぎった。


そこではっきりと目が覚めた。


心臓がドキドキしていて、手首がじんじんしている。



外はまだ夜明け前だった。


ガラスのような硬い素材でできている明確な濃い青空が帯をなしている。



冷えた涙が頬を伝った。


のどの奥は泣いたあとと同じ、何か詰まったような苦しさが残っている。



切なさが意味を失って重みだけになっている。



とても大切なものをなくしたような、失恋の悲しいのとは少し違う、淋しいような切なさが体を回っていた。


眠りの中まで人は強くいられない、そういう気持ちがした。









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