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山下 百美子、
24歳、10月26日生まれ、O型
写真は半年ほど前のもの。
現在は若干髪がのびている。
3度目の尾行で決行。
信号待ちで対面、横断中にわざと携帯を落とす。
【予備】
商店街付近、わからない場所の道を聞く。
浴槽
ぬるま湯
ナイフ
(服を着るか着ないか非常に悩む。
悩むくらいならとりあえず着ておく。)
あとは手首を深めに切ってちゃぽんとつかってればいい。
すきだったのにな。
なんでわたしじゃ駄目だったんだろう。
あんなに笑ってたし、いつも空がきれいで、なーんだ、じゃあずっとこのまま永遠に続けばそんな人生もいいんじゃないかな、深く考えなくっても、と思っていた。
たとえ駄目になっちゃっても、それも運命とか。
温かさに守られていて、美しいものの中で醜いことを考える自由があった。
けれどいざ駄目になったらぜんぜん違う。
ちょっと思い出すと、最もいい場面の最もニコニコした顔が浮かんできて泣いてしまう。
記憶ばっかり近くてすぐ拾えるのに、そんな場所が無いみたいに遠くて、その記憶がすてきであればあるほどきらきら光って悲しかった。
思い出の懐かしい感じがほわっとなるのに、あ、でももう駄目なんだ、終わったんだ、って思ったら内臓がうずくみたいにかーっと熱くなって髪の毛を全部むしり取ってしまいたいくらい苦しくなった。
人がいなくなるって、どういうことだろう。
もう会えなくなる
触れなくなる
体がなくなる
何が救いになるだろう。
時間か
鈍さか
新しいことか
どれもしっくりこないのは自分だけがひとりポツンとまだここにいるからだ。
つらいなあ、
悲しみがぱんぱんでどこへもいけない。
ナイフを片手にいつまでも迷って、そのうち時間がたちすぎてナイフを落として、拾って、また迷って‥
途中で寒くなってお風呂につかったら、もう一生このままでいい、死ぬまで動けない、絶対に歩きだせない、そう思った。
けれどしばらくしてわたしの体は、のぼせてあついということに気づいたのか、のろのろ立ちあがり勝手に湯船から出ていった。
落としたナイフが、湯船の底をひらひら泳いでいく。
先週の火曜日か水曜日に8年付きあった彼と別れた。
火曜日はポストを見なかったから、火曜か水曜かわからないけれど、彼が来て手紙をポストに入れていったのだ。
彼との関係に別れの出来事があったなんて、わたしはちっとも知ろうとしない。
少しずつ押しこんでも、すぐ戻されて飲み込んでくれない。
そうこうしているうちに彼が毎週泊まりにきていた金曜日になって、もう二度と来ることはないのに、同じテレビ番組を見て、同じスーパーで同じような材料を買って同じようなものを作ってひとりで食べた。
同じパジャマをきてひとりで布団にはいった。
ふたりで予約した映画のDVDが今ごろ届いて、それをからっぽの心で見ていたら、予約したときの楽しい雰囲気が亡霊のように立ちのぼってきた。
いが栗をのむような現実が体の芯から押しよせてくる。
矢を刺して生きるカモの感じが今なら少しだけわかる気がする。
痛みを考えないよう息を殺し、逃げるようにそうっとそうっと生きている感じ。
夕方まで寝てしまって目覚めると、ああ金曜日か、彼がもうすぐ来るから何を食べに行こうか、と薄ぼんやり考えている。
でもすぐに冷えきった部屋の匂いや重いカーテンの揺れが現実をひっぱってきて、わたしはどうしようもなく寂しい、歯がゆい気持ちに落っことされた。
わたししかいないこの場所に彼の思い出はいらないほどあふれていた。
マンションの階段を手をつないで降りるとき、今日はゆっくりおいしい物を食べていっしょに眠れる、と夕焼け空ににやにやした。
ネギのとび出た買い物袋をつり下げ、並んで歩く帰り道には商店街から安っぽい音楽がきこえてコロッケ屋さんから揚げ物のいいにおいがして、お腹がすいてわけもなくうきうきした。
暑い海に出かけていって鮮やかな水や波の音をいつまでもきいて、夜になってつないだ手に波が来て海が生暖かくて港の明りが宝石みたいに光っていて、空には満天の星があった。
8年の中に、そういう瞬間が何度もあったからわたしはなにも焦っていなかったのだと思う。
遠まわりすることも寄り道することも平気で、いつまでも歩いていられた。
今思うと、時は色を濃くにじませながら着実にすり減っていたのだ。
7年でも9年でもない、8年ちょっきりという根っこを張りながら。
長さというものはそれ自体がひとつの生命を持つような感じで、いつの間にか思わぬ大きさにふくれあがっている。
それを背負うことはとても疲れる。
深い肩こりがなかなかとれないぐらいは疲れて、何かにつけて同じことばかりぐるぐる考えていたので、どんどん頭も悪くなってしまったようだった。
拝啓もみこちゃんへ
病気になってしまった、
過敏性腸症候群というらしい、
もうこれ以上きみに迷惑はかけられないよ、
さようなら
のぶたより
たったこれだけの文章を何度も何度も繰り返し読んだ。
読んでいく度にだんだんわからなくなって、彼の手紙にあった過敏性腸症候群が、癌や白血病のような深刻な病気みたいに思えた。
何度電話をしてもつながらなかった時には手が震えた。
どうしてそんな冗談みたいな手紙で、すっぱり終わってしまったのか、かいもく見当もつかなかった。
ああ、女か、といちばん手っとり早い答えをはめ込んで、これが現実なんだ、というところまで自分をとり戻すのにはとても時間がかかった。
そういう糸口を少しずつあきらめながら過ごしていたある日、ふと非通知設定で彼のところに電話をした。
忘れていたことを思いだしたような衝動でわたしはそうしていたのだ。
出るとは思っていなくて彼の「だあれ?」というひどい鼻声が闇の中からきこえたときには、びっくりして電話を落した。
「の、のぶたさん?」
わたしはやっとの思いでいった。
「もしかして、もみこちゃん、なの」
彼の声は震えていたけれど、わたしにはそれでさえも甘い酸素のように心地よく、体の重みがすぅーととけていくような感じがした。
「どうして?」
わたしはいった。
「ええと、手紙のことだよね、それは過敏性の、
… …
つまり申しわけないんだけど、もみこちゃんの他にもうひとり付きあっている人がいて」
彼の声は途中から大きくなっていった。
「それで、もみこちゃんとのことがバレて、彼女が病気になってしまったの、
だからこのまま、もみこちゃんと付きあっていくわけにはいかなくなったんだ、うん」
大きくなった彼の声は再び殻に戻るように小さくなっていった。
「もみこちゃんね、こんな最低な俺とのことはもう忘れて、だれかいい人と幸せになりなよ」
のぶたさんはいった。
親身になって心配しているようなとても優しい口調だった。
「いや!
いやだ、そんなの」
わたしは泣きながらいった。
「ごめん、
だけどもう君と続けていくことはすっかりあきらめたんだ」
「どうして、
なんでひとりであきらめるの」
「だって、そんなこといったって彼女を放っておけないし、
仕方がないよ
もう、いいじゃないか、
俺はこっちをとるって決めたんだ、これ以上いわせないでくれ」
そういったあと、電話は一方的に切れてしまった。
最後、彼は泣いているみたいだった。
もしかしたら、彼もつらかったのかもしれない。
なんの前触れもなく切りだされた別れの唐突さは、そのまま彼のつらさの重みを表しているように思えた。
わたしは大粒の涙をたれ流しながら何度もリダイヤルしたけれど、彼が再び電話に出ることはなかった。
リダイヤルするたびコール音は深くなって、彼とわたしを隔てる壁がどんどん膨らんだ。
せっかく声がきけたのに、彼の存在が前よりもずっといやな感じで離れていく。
最後にくれた手紙だって、今までのことだって、全部全部うそだったんじゃないか、とザラザラした白い壁を見ながらじっと思っていた。
病気になった人の方がつらいなんて誰が決めたのだろう。
病気にならず、泣かず、ちゃんとご飯を食べたりしてる人の方がつらいということもあるかもしれないと、なぜ彼は思わなかったのだろう。
そう嘆いてはみたけれど、彼を恨む気持ちはなかった。
流れ流れてここまでやってきてしまったのだから、どういうふうに理屈をつけても同じだと思った。
ただ彼がわたしよりも他の誰かをとると決めたことなのだ。
それでも、いつか彼がわたしのもとへ戻ってきてくれたらうれしいと懲りもせずに願っている。
ずっと待っていてもいいと思っている。
おばあちゃんになったっていい、とさえ。
だから例えば彼がわたしのもとへ戻ってきても一度はわたしよりも他の誰かを本気でえらんだ事実は消えないのだ、とばかな人になにかをいい含めるように何度も自分に説明しなければならなかった。
そんなとき、ふと見あげた写真の中で過去の彼がぼんやりと笑っていた。
こうなってしまった今、そのほほえみは痛みでしかないけれど、この痛みの分、彼はわたしを幸せにしていたということもまた、すうっと入ってくる事実だった。
そんなこんなでふやけてしまうくらい悲しみ漬けの毎日だったけれど、半分ヤケクソになりながらも仕事だけはきちんと行った。
けれどそれ以外は常に魂が抜かれたような状態だった。
働いて気をまぎらわせようというもくろみも、手を止めてはふと記憶の重みがおそってきて、生きる日々というのは思い出という名の牢獄だ、というところに連れもどされる。
休みの日には、よせばいいのにふたりで行った山や川や海の景色をひとりで眺めた。
手をつないで行った銭湯にひとりで行って、いつも待ち合わせた大広間に誰も待っていないのをじっと見つめた。
何か少しでもあのころの残り香を求めていたのに、あるのは「これまでと違う」という空白だけだった。
彼と歩いた散歩道をひとりで歩きながら、工事現場の横をわざとゆっくり通りすぎてビルの上から何か落ちてこないかな、なんて思っていた。
加害者が出てしまうのは気の毒だから、できるだけ隕石や落雷によって、さらっと死ねたらいいな、なんてことも考えた。
ナイフを持参してお風呂に入ることもしょっちゅうだった。
わたしはもう、その時、のぶたさんにふられた元恋人でもなく、失恋におぼれもがいている敗者でもなく、まるっきり何もないただのろくでなしだった。
過去にすがるしかすることがない自分というものをはじめて味わった。
彼がらみの場所でなければ、行くところすら見つけられない依存の怖さを痛感した。
それは大自然の強者にとらえられ、むしゃむしゃ食べられはじめているというのに、まだよくわからず足や体をゆっくり動かしている弱者のような感じだった。
生きたいのではない。
ただ、どうしていいのかわからない。
そういう感じの、後には終わりしか待っていない切ない黒さが、じわじわ時間をかけてわたしの体を乗っ取ろうとしている気がした。
過去の暮らしの中をさまよっているわたしの体がいつの間にかその中から出られなくなったみたいに。
ある日、そういう世にもさえない宙ぶらりんな日々の中で、わたしはその人を見かけた。
秋が透きとおるような高い空を広げた午後だった。
少し肌寒くなった風の中には、木の燃えたような香ばしい秋特有のいいにおいが混じっていた。
その人は道路のむこう側からこちらの方へ渡ってくるところだった。
わたしは、はっとした。
背がひょろりと高く、きりっとした顔で、どこかのぶたさんに似ている気がした。
のぶたさんを求める心がそんな風に見せたのかもしれない。
いつだってのぶたさんを探していたし、のぶたさん以外の人からはなんとかのぶたさんのかけらを探していたからだ。
わたしは白昼夢をみているかのようにぼんやりとした目で彼を見た。
そして不思議なことに彼も同じような感じでわたしを見ていた。
運命を感じるとか、顔が好みだとか、そういうことではない。
ただ、のぶたさんのことが断ち切れないのと同じ感覚で彼から目をそらすことができなかった。
これだけじっと瞬きもしないで誰かに見られたらどう思うのだろうな、とわたしは思った。
信号が青に変わる。
ここで何かあれば、よくある陳腐なラブストーリーのはじまりだったのかもしれないけれど、声をかける余力がわたしにはなかった。
わたしは、彼が渡ってくるより前にあわててその場を去った。
さみしいと、ときどき誰でもいいと思うときがある。
けれどそういう妥協は吹っ切れてない限り悲しいことにしかならないし、時間以外のものに癒されるのも嫌だったから、ただ親切にしてくれる男の人をひたすら避けていた。
だからわたしに誰かと出逢う隙間なんてないはずだった。
それなのに彼に目を止めてしまったのは、またしてものぶたさんの痕跡なのだろう。
何かあるはずもなく何もないのは当然のことだったけれど、わたしの中にのぶたさん以外の人が入る可能性を垣間見た気がした。
何かを手放すということは、その隙間に何かしら入ってくるということだ。
それが新陳代謝というものなのかもしれない。
たとえ、今見つめあったばかりの彼ともう二度とあえなくても、彼がわたしの中にある隙間を教えてくれたということがすてきだった。
そうか、知らない間に体ががんばってくれていたんだ。
わたしがとっくにあきらめ投げだしていた日々を、ちいさなかけらをコツコツ拾うような段取りで築いてくれていたのだ。
そんな体のことをわたしは、不慮の事故か何かでいつでも殺そうと考えていたというのに、としんみり思う。
澄んだ空の下、やりきれない気持ちを引きずりながら歩いた。
道ばたで横歩きしている枯れた葉っぱのシルエットが濃く切りぬかれて、肌寒い風が吹きわたっていく。
射すような西日が頭にくい込んてくる。
まわりにいる人たちの足取りが少しずつあわただしくなって、ながい影があちこちでぶつかりはじめる。
秋の夕方は、高いところにある山吹色が空気にまでしみて道行く人の顔をあかるく縁どったりするので本当は大好きなものだったけれど、今はまぶしすぎてちくちくした。
美しいものや綺麗なものがいつでも変わらずにそう見えるわけではない。
時々、にくたらしいものや、痛いものに見えることもある。
わたしは醜いから、自分がしあわせでないと、いろいろ駄目になってしまう。
部屋の観葉植物が枯れたり。
道におちている土に還らなそうなゴミを、なんの罪悪もなく知らんぷりしたり。
悲しんでる友達の悩みが、うまくきこえてこなかったり。
結局、しあわせのおすそ分けみたいな形でしか良い歯車をまわせない。
おなかいっぱいの時にしか保てない優しさや思いやりが、わたしの箱のなかに時々はいってきて、それをもともと備わっていたものみたいなそぶりで誰かに分けあたえる。
作りものの偽善。
ものすごく自分勝手なもの。
けれど、のぶたさんは言っていた。
「自分じゃない人の心なんてわからないんだから、偽善でもいんだよ、
どんな優しさだってその人の中から削り出されたものだもの、
それが本物か偽物かは受け取った人が決めることだし、
優しさらしきものを真似て作ってあげるしかこちら側からはできないんだから、
作るか作らないか、じゃないのかな」
わたしはその言葉を信じ当時すぐに作りだせた優しさをすんなり振り撒くことができた。
作れなくなってしまった今、のぶたさんのいう“身を削って作る”という意味が痛いほどにわかる。
ああ、しあわせというものはなんて麻薬だろう。
空気みたいだったものが、なくなった途端、はかりしれない大きさの致命的なものになってしまう。
まったく同じにするには、どんな代わりも補えない。