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夢も現実も男3人彼女さがし  作者: きつねあるき
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第7部、第2章~舞い戻ってきた香水

 翌日の勤務は遅番でした。


 遅番だと、10時過ぎ迄寝ていられるものの、退社するのは閉店時間と一緒でした。


 早番は、9時~18時、遅番は12時~21時でした。


 よって、遅番の勤務は、昼食からのスタートになるのです。


 この現場には、いつも寡黙(かもく)な早野義喜(よしき)さんという先輩もいましたが、ストーリーにはあまり影響しないので触れないでおきます。


 昼前に職場に行くと、現場長の石原忠晴(ただはる)さんは珍しくご機嫌でした。(現場長の石原忠晴(ただはる)さんは、以後は石原さんと表記します)


 剛史「おはようございます」


 石原「おう、やっと来たか」


 剛史「ええまあ…」


 石原「遅いから来ないかと思ったよ」


 剛史「いつも通りの時間ですけど…」


 石原「いいから早く着替えておいで、いい話があるから」


 剛史「分かりました」


 いつもだったら、挨拶(あいさつ)をしたところで見向きもされませんでした。


 または、一旦じろっと(にら)まれてから、すぐに目を()らしてくるかのどちらかなのです。


 それが、この日だけは違ったのです。


 それどころか、仕事の依頼以外は口をきかないのが日常だったのに、(おだ)やかに雑談を始めたのです。


 ぼくは、何事が起きたんだろうと思って足を止めました。


 剛史「あの、何かあったんでしょうか?」


 石原「それは後で話すから」


 剛史「今、聞いてもいいですけど」


 石原「まあ、急ぎではないからさ」


 石原「さあ、早く着替えておいでよ」


 剛史「分かりました」


 石原さんは、ぼくの着替えが終わってから用件を話すと言って来ました。


 ぼくは、無表情のまま作業着を手に取りました。


 何を言ってくるのか定かではないものの、どうせ大した話ではないだろうと思っていました。


「どうせ、“小銭を拾ったから半分やるよ”とかじゃないかな?」


「あの人は、身銭を切るのは嫌がるけど、何枚か硬貨を拾うと分けようとしてくるんだよな」


「ただ、硬貨の表面はえらく汚れているから、大して(うれ)しくはないんだけどね」


「それでも、お金はお金なんだから、自動販売機の投入口にさえ突っ込んでしまえば、気が楽になるんだけどね」


「まあ、(もら)えたらの話だけどね」


 ぼくは、そんな事を思っていました。


 ここで、ぼくはハッとしました。


「もしかして、ぼくが遅番の時に、石原さんのロッカーをピッキングしたのがバレたのかな…」


「期限が迫った仕事をしようにも、どこにも資料が無かったからね」


「あるとしたら、石原さんのロッカーしかないと思ったんだよね」


「そうしたら、案の定、お目当ての資料が隠してあったんだよね」


「これはチャンスだと思ったね」


「この文面さえ頂いてしまえば、石原さんからの嫌がらせが減るんじゃないかと思ったからね」


「あの時は、そんな事を思いながら夢中でコピーをしてたっけ」


「ピッキングは、先々週から練習していたんだけど、鍵を開けるより閉める方が大変だったな」


「先が曲がった2本のクリップを使えば、ピッキングが出来るって聞いた事があったけど、最初のうちは全く開かなかったっけ」


「だけど、根気よく練習していたら、開くには開いたんだけどね」


「ただ、石原さんのロッカーの表面に傷が付いちゃったんだよね…」


「鍵穴の右横に、真新しい傷を付けちゃったから、ピッキングしたのがバレたかな?」


「いやいや、バレていたらあんなに機嫌がいい訳ないじゃないか」


 ぼくは、そんな事を思いながら着替えていました。


 着替えが終わり、石原さんに声を掛けるも、怒っている様子はありませんでした。 


 恐らくは、ロッカーの鍵がちゃんと掛かっていたので、気にも留めなかったのでしょう。


 何か言われたら、とことんまで(とぼ)けようと思っていましたが、どうやら杞憂(きゆう)に終わったようでした。


 しかしながら、石原さんは何を考えているのか分かったもんじゃないので、警戒は(おこた)らないようにしました。


 ここで、現場長の石原さんとはどんな人物なのか、掘り下げてみたいと思います。


 石原さんは、オーナー側の上層部、または本社のお偉方(えらがた)には、これ以上ない笑顔で真摯(しんし)に対応するのですが、それ以外の方々には挨拶すら返しませんでした。


 とはいえ、日頃からお偉方と接する機会は数える程しかないので、いつも無愛想で仏頂面(ぶっちょうづら)をしていました。


 石原さんは、今年で54歳でした。


 頭髪は真っ白で、顔中(しわ)だらけなので、実年齢よりかなり老けて見えました。


 石原さんは、30歳の時に中途採用でこの会社に入ったそうです。


 それからは、ずっと同じ現場に配属されていました。


 前任者が定年退職した為、石原さんは45歳で現場長に就任しました。


 当時は、40代で現場長になるのは珍しかったのですが、ここで晴れて石原さんの長期政権が誕生したのです。


 ただ、石原さんの性格の悪さによって、辞めていく同僚は後を絶ちませんでした。


 今までの部下とは、些細(ささい)な事から喧嘩(けんか)になる事が多々あったんだとか。


 売り言葉に買い言葉で収拾がつかなくなると、石原さんは業務をすっ飛ばして本社に駆け込むのです。


 そして、設備部門の赤松芳典(よしのり)部長と直談判をするのです。


 石原さんは、同僚と喧嘩になった経緯を淡々と話してから、赤松部長にこう迫るのです。


「さすがに、彼奴(あいつ)とはやってられない!」


「俺をこの現場に残すか、他に飛ばすか、今すぐに決めてくれ!」


 と、言い放つのです。


 そこで、赤松部長が二の足を踏んでいると、こう(たた)みかけるのです。


「でも、あの現場の事は俺しか分からないけどな」


「どっちを残すかの判断は、大いなる権限がある部長様に任せるから」


「俺はどっちでもいいからさ」


 本来なら、目上の人にこんな失礼な言い方をしたら大問題になるでしょう。


 しかし、辣腕家(らつわんか)の赤松部長といえど、石原さんとは同期入社なものだから、その決断をするのに時間は掛かりませんでした。


 結果的には、石原さんの要求通りに部下を異動させていたのです。


 よって、この現場だけは赤松部長の後ろ盾がある為、いつまでも契約人数に達しなかったのです。


 この現場の、元々の契約人数は2人でした。


 近年に限っては、石原さんと早野さんで卒なくこなしていました。


 しかし、営業時間の延長により契約人数が3人になってからは、人間関係が思うようにいかず、苦労が続いていたのです。


 ぼくが、この会社に入社する直前に、石原さんが常駐(じょうちゅう)している現場のオーナーから、欠員の補充を(うなが)す電話が度々あったそうです。


 この会社には、そんな事情があった為、未経験のぼくでも就職出来たのだと思います。


 ここで、ぼくの就職活動時のエピソードを書いておこうと思います。


 ぼくは、新卒で外食産業に就職しましたが、余りにもキツ過ぎてたった半年で辞めてしまいました。


 その時、ぼくはこんな事を思っていました。


「仕事を辞めた後って、こんなにも気持ちがいいものなんだ」


「人事からあれこれ言われたけど、辞めちまったら関係ないや」


 ただ、辞める時に、次の会社を決めてから辞表を出せば良かったのですが、勢いで辞めてしまったのが災いの元でした。


 新聞に掲載(けいさい)されていた求人に応募しましたが、次の会社がなかなか決まりませんでした。

 

 この当時、新聞の求人欄での応募は、倍率が高くて高嶺の花になっていました。


 なので、それと並行して、毎日の様にハローワークに行っていました。


 ただ、条件が良さそうな求人は、“採用枠が一杯だ”という事を、再三にわたって聞かされるだけでした。


 朝方にあったやる気と希望も、夕方になると意気消沈して帰途につく日々が続きました。


 当時のハローワークの求人は、情報を更新するが遅かったので、募集枠が一杯になってもしばらくの間は掲載していたのです。


 だから、ぼくみたいに窓口で断られ続けている人が数多く見受けられたのです。


 職探しで困っていた時に、ハローワークの職員さんに“最近取得した資格がどこかで生かせないか”と相談したのです。


 すると、“この資格はビル管理業を受ける上で有利だよ”と教えてくれたのです。


 前職を辞めてから、独学でボイラー2級と危険物取扱者乙4の資格を取った事が、功を奏したようでした。


 ただ、仮に入社したとしても、早いうちに第2種電気工事士を取得しないと、リストラ候補になると念を押されました。


 資格の勉強をしている時は、そんな事に時間をかけるより、1社でも多く回った方がいいとも思った事もありましたが、設備関連の資格を履歴書に書いてからは、ハローワークの職員さんから声が掛かる様になりました。


 ぼくは、設備系の資格取得を勧めてくれた高校時代からの友人に感謝をしつつ、次こそは就職しようと心に決めました。


 ただ、心の準備をしている時間はありませんでした。


 午前中にハローワークに行ってから、“今日の午後2時には面接に行かれますか?”と尋ね(たず)られたのです。


 ぼくは、日頃から出掛ける際はスーツ着用だったのと、常に記入済の履歴書を持ち歩いていたので、二つ返事で了承しました。


 ハローワークの職員さんから紹介状を受け取ると、即座に地図に書かれていた会社に向かいました。


 電車を乗り継ぎ、紹介先の会社の入り口を確認すると、面接の時間迄20分しかありませんでした。


「ふぅ~、何事もチャンスを(つか)むには事前の準備が必要だな」


 ぼくは、心の中で(つぶや)きました。


 会社の入り口で身嗜(みだしな)みを整えてから、おずおずと受付けに向かいました。


 剛史「こんにちは」


 剛史「本日の午前中に、ハローワークから紹介されました、鈴木と申します」


 剛史「午後2時からの面接のお約束で参りました」


「はい、お待ちしておりました」


「面接のお時間迄は、こちらの椅子(いす)でお待ち下さいませ」


 剛史「(かしこ)まりました」


 指定されたパイプ椅子に座ろうとしたところ、事務所の奥から中年の男性がのっしのっしと近付いてきました。


「どうも、面接官の小山です」


「こちらへどうぞ」


 面接を担当した方は、人事係長の小山寛次(かんじ)さんで、昔の刑事ドラマの俳優さんみたいな格好をしていました。


 更に言えば、だみ声で眉間(みけん)には深い皺がありました。(以後、係長の小山寛次さんを小山さんと表記します)


 ぼくは、こぢんまりとした個室に通されました。


 小山「どうぞお座り下さい」


 剛史「失礼します」


 ぼくは、緊張しながら椅子を引き、浅く腰掛けました。


 重々しい雰囲気の中で、小山さんはぼくの履歴書を見るなり、(ひど)くこき下ろしてきました。


 小山「君~、よくこんなんでうちに来たね」


 小山「資格だって最近取ったばっかりじゃん」


 剛史「ええ、まあ…」


 小山「君に、うちの仕事が出来るかって言うとね」


 剛史「はい」


 小山「はっきり言って、難しいとしか言いようがないよ」


 小山「うちが募集しているのは、即戦力の有資格者だけだから」


 剛史「そうなんですか…」


 小山「悪い事は言わない、他を当たりな!」


 ハローワークの職員さんからは、“この会社ならきっといい話が聞ける”と言われていたので、予想外の反応に面食らいました。


 面接官の判断として、設備業界での経験が無いのと、資格が少ないのが気に食わなかったようでした。


「その辺の事情については、ハローワークの職員さんが電話で説明していたんだけどな…」


「それで、すぐに面接に行って欲しいと言われたんだけどね…」


「しかし、実際のところ、面接官の価値観なんだろうな…」


 ぼくの額には、脂汗(あぶらあせ)(にじ)み出てきました。


 ですが、やっとここまで辿(たど)り着いたというのに、簡単には諦められませんでした。


 剛史「あ、あの、ハローワークで募集していた現場は、もう埋まってしまったのでしょうか?」


 小山「あ、そんなの答える義理は無いな」


 剛史「この会社がダメなら、下請けでも何でもいいので紹介して頂けませんか?」


 ぼくは、ダメで元々だとは思いましたが、最後の最後に悪足掻(わるあが)きをしてみたのです。


 小山「ダメだ!」


 小山「こっちも忙しいんだから帰った帰った!」


 小山さんは、語調を強めてそう言いました。


 剛史「そ、そうですか…」


 全てを諦めかけた時に、個室のドアをノックしてくる方がいたのです。


 その方は、設備部門の神田憲仁(のりひと)課長でした。(以後、課長の神田憲仁さんを神田さんと表記します)


 神田「おいおい何だよ、何を()めてんだよ~」


 小山「いえ、大した事ではありませんよ」


 神田「そんな事あるかよ、外まで丸聞こえだぞ!」


 小山「それは失礼しました」


 神田「で、何なの?さっきの強い口調は?」


 小山「俺は不合格を出したつもりなんだが、鈴木君が粘るからさ」


 神田「まあまあ、小山君は厳し過ぎるんだよ」


 小山「いやいや、俺の目に狂いはないから」


 神田「分かった分かった」


 小山「そういう事だから、君もサッサと帰りたまえ」


 剛史「は、はい…」


 神田「小山君、ちょっと面接を変わってくれないかな」


 小山「それは構いませんが、何も話す事は無いと思いますよ」


 神田「いいから、君は言われた通りにすればいいんだよ!」


 小山「分かりました…」


 小山係長は、急いで神田課長と席を交代し、個室から出て行きました。


 ぼくは、何事が起きたのだろうと固唾(かたず)を呑みました。


 神田「やれやれ、やっと行ったか」


 神田「とりあえず、履歴書を見せてくれるかい?」


 剛史「はいどうぞ」


 神田「君がハローワークから来た人だろ?」


 剛史「はいそうです」


 神田「本当は私が面接する予定だったんだよ」


 剛史「そうでいらっしゃいましたか」


 神田「午後2時迄、受付けで待つように言われなかった?」


 剛史「ええ、ですがすぐに案内されましたよ」


 神田「そうか、どうりで来なかった訳だ」


 神田「どうやら、君は他の採用と間違えられたようだな」


 剛史「そうですか、早く着き過ぎましたかね」


 神田「いやいや、そんな事はないと思うよ」


 剛史「あの、先程は失礼しました」


 剛史「不合格なのに、お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした」


 神田「そんなの気にしなくていいからさ」


 神田「それに、さっきまでとは違う話があるからさ」


 剛史「と、申しますと」


 神田「なあに、君に紹介したい現場があるんだけどね」


 剛史「本当ですか」


 神田「話だけでも聞いてみるかい?」


 剛史「はい、お願いします」


 その時に、神田課長から、“(いわ)く付きの人物がいる現場でいいなら紹介出来るよ”と言われたのです。


 ぼくは、一抹(いちまつ)の不安を覚えました。


 ただ、せっかくのチャンスを、ふいにする訳にはいきませんでした。


 なので、神田課長のお話に乗る事にしました。


 ここまでが、就職活動時の出来事になります。


 次に、ぼくの入社時の逸話(いつわ)を記述していこうと思います。


 ぼくが、初めて今の現場に(おもむ)いた時は、本社の設備部門の担当者と一緒でした。


 現場に行く前に、本社に寄って作業着を頂いてからだったので、初日からえらい大荷物になってしまいました。


 本社を出て、勤め先の最寄駅に着いたのは10時30分過ぎでした。


 そこで、現場担当者の佐野光弥(みつや)さんが、近くの公園に寄ってから行こうと提案してきました。(以後、本社の担当者を佐野さんと表記します)


 ぼくは、重い荷物を持ったままだったので、早く現場に行きたかったのですが、


 佐野「公園のベンチで休んでから行こうぜ」


 佐野「重たい荷物も下せるからさ」


 と、言われ、その提案を受け入れる事にしました。


 佐野「な~に、焦って行く事はないさ」


 佐野「先方には、昼前には現場に着くって言ってあるからさ」


 佐野「それに、君には言っておかないとならない事もあるからさ」


 剛史「現場長の(うわさ)なら神田課長から聞いてますけど…」


 佐野「何だ、もう知ってたのか」


 剛史「詳しくは教えてもらえませんでしたが…」


 佐野「で、課長は何て言ってたんだ?」


 剛史「とにかく、“あの現場では人が居着かない”って事と、“なるべく現場長のご機嫌を取る様に心掛けてくれ”と仰っていました」


 佐野「そうかそうか」


 佐野「やっぱ、課長あたりだとその程度の説明で誤魔化すんだな」


 剛史「他にも何かあるのでしょうか?」


 佐野「そりゃそうだよ」


 剛史「それで寄り道をしたのでしょうか?」


 佐野「察しがいいな」


 佐野「でも、俺が言ったってチクるんじゃないぞ」


 剛史「はい、分かりました」


 佐野「それなら、これから俺が言う事をよ~く聞いておくんだぞ」


 剛史「はい、是非聞かせて下さい」


 公園のベンチに座っていた時間は、1時間弱だったと思います。


 その間、現場担当者の佐野さんが、悪名高い石原さんの話をしてきたのです。


 佐野「いいか、あの親父は部下に仕事を教えないからな」


 佐野「仕事を覚えたきゃ、自分で資料を(あさ)って勉強するしかならないからな」


 剛史「それは聞いていませんでした…」


 佐野「でもな、今まで常駐していた奴らが口を(そろ)えて言うには、その肝心な資料ってのが何処(どこ)にあるかが分からないんだってさ」


 剛史「それは酷いですね…」


 佐野「それと、クレーム対応は自分の力だけで動き回らないとダメだぞ」


 剛史「そ、そんな…、いきなりは無理ですって」


 佐野「なあに、マジで切羽詰まったら俺に電話してこいよ」


 佐野「こう見えて、現場の知識なら君よりはあるからさ」


 剛史「ありがとうございます」


 佐野「とにかく、仕事を覚えるのと、資格の勉強は貪欲(どんよく)に取り組む事!」


 剛史「分かりました」


 佐野「まあ、最初は大変だろうけど、1つでも2つでも得意分野を作っておくと、後々身を助けるからさ」


 剛史「はい、肝に銘じておきます」


 佐野「あとさ、入社から3ヶ月もすると、あの親父は無理難題を押し付けてくるんだよ」


 剛史「それは厳しいですね」


 佐野「だろう?」


 佐野「親父の口癖(くちぐせ)が、“お前、この現場に来てどれくらい経つんだっけ?”だからな」


 剛史「ぼくに勤まりますかね?」


 佐野「それは心配するなよ」


 剛史「と、言いますと…」


 佐野「スキルがある連中は、即戦力で使えるんだけど、すぐに出しゃばるだろう?」


 剛史「ええ、まあそうですね」


 佐野「あの親父は、そういう態度が気に食わないんだよ」


 佐野「だから、長年勤務してないと知り得ない事を質問して対抗してくるんだよ」


 剛史「結構、陰湿(いんしつ)ですね」


 佐野「だから、あの親父と衝突(しょうとつ)したくなきゃ、バカなふりをしていた方が利口なんだよ」


 剛史「貴重なご意見ありがとうございます」


 佐野「今までは、海千山千の奴らばかりを入れてきたから、うまくいかなかったんだよ」


 佐野「そこで、白羽の矢が立ったのが君だったんだよ」


 剛史「そうだったんですか」


 佐野「あの親父だって、親子程の歳の差がある部下だったら、そこまでツンケンしないんじゃないかな」


 剛史「だと、いいんですけどね」


 佐野「まあ、せいぜい頑張ってくれよ」


 剛史「ええ、まあ…」


 佐野「俺の中では、この現場は半年もてば御の字だと思っているから」


 剛史「ぼくは、半年以上は頑張りますよ」


 佐野「だといいけどな」


 剛史「職探しも大変でしたからね」


 佐野「おいおい、君の年で就職難かよ」


 剛史「はい、どこの会社でも人が足りていると言われまして…」


 佐野「世の中イカれてるな」


 剛史「この会社に入るのだって、本当に大変でしたから」


 佐野「そうかそうか」


 佐野「まあ、いろいろあると思うけど、多少の困難は君の若さで乗り気ってくれよ」


 剛史「はい、元気だけは取り柄ですから」


 佐野「ははは、君が持ちこたえてくれれば俺も助かるんだけどな」


 佐野「君さ、ここだけの話だけど、誰にも言わないと約束出来るか?」


 剛史「はい、勿論(もちろん)です」


 佐野「あのな、これから行く現場なんだけど、あの親父が居座っているお陰で我が社の評判が良くないんだよ」


 剛史「そうだったんですね」


 佐野「そうだよ!たった半年間で何人連れてきゃ気が済むんだよ!」


 剛史「(ちな)みに、今迄で一番早く辞めた人ってどのくらいの期間だったんですか?」


 佐野「確か、数ヶ月前に4日って奴がいたっけな?」


 佐野「うん、最短だと4日だったな」


 剛史「そんなに早くですか?」


 佐野「だから、こっちも困ってるんだよ…」


 剛史「何か、自信無くしちゃいますね」


 佐野「まあ、腐らずにやっていけば何とかなるさ」


 佐野「こっちとしては、あの親父の後継者問題もあるんだからな」


 剛史「はい、出来る限り頑張ります」


 佐野「小山係長は、海千山千の奴らを入れたかったみたいだけどな」


 佐野「だけど、そんな奴らを入れたって同じ事の繰り返しだしな」


 佐野「だから、神田課長は方向性を変えたって訳さ」


 佐野「だから、君には期待しているんだよ」 


 佐野「あとさ、先に言っとくけど、他の現場に逃げようたって無理な話だぞ」


 佐野「他は、どこにも空きが無いからな」


 佐野「ここでダメなら、必然的に会社を辞める事になると思っていて間違いないから」


 佐野さんが伝えたかったのは、今しがた畳み掛けるように言ってきた事なのでしょう。


 この時ばかりは、佐野さんの表情に一切の余裕はありませんでした。


 そんな事を言われて、ぼくは尚更緊張してしまいました。


 佐野さんは、1本だけ煙草を吸うと、(おもむろ)に立ち上がりました。


 佐野「よ~し、そろそろ行くか~」


 剛史「はい、お願いします」


 佐野さんは、心配そうにしているぼくを連れて現場に向かいました。


 現場に着くなり、佐野さんは元気よく挨拶をしました。


 佐野「ど~も~、こんにちは~!」


 佐野「おう、元気にやってるか?」


 石原「何だ、あんたか」


 佐野「久し振り~、ってほどでもないか」

 

 石原「ふん、バカが!」

 

 佐野「はっはっはっ、そう言うなよ」


 石原「それより何だよ!遅いじゃないか!」


 佐野「そ~か~、気のせいじゃないのか?」


 石原「あんまり遅いから、さっき本社に電話を入れたところだよ」


 石原「そうしたら、とっくに出たって言うじゃないか!」


 佐野「へへっ、まあ、その辺は役得って事で」


 石原「チッ、いい加減な奴だなぁ」


 佐野「いやいや、俺だってやるときゃやるよ~」


 石原「フン!今日は来ないかと思ったよ」


 佐野「まあまあ、そうツンケンするなよ~」


 石原「こっちは、これでも抑えているんだぞ!」


 佐野「そりゃ、どうも」


 佐野「それよりさ、今度は若い人を連れて来たからさ」


 石原「チッ、お前はいつも調子いいんだから」


 佐野「じゃ、俺は次があるからこれで失礼するよ」


 石原「おいおい、どうせ飯時だろ!」


 石原「もうちょっと話せるだろうが」


 佐野「それが、そうはいかないんだよ」


 石原「何だよ、来るのは遅いけど帰るのだけは早いな」


 佐野「ははは…、まあ、そういう事でよろしく!」


 石原「ちょっと待てよ!先週出した見積りはまだかよ?」


 佐野「ああ、あれね」


 佐野「その件は荒井君に頼んであるから」


 石原「何だよ、ついでに持って来たんじゃないのかよ!」


 佐野「残念ながら、そんなお使いは頼まれなかったよ」


 石原「何だよ、気が利かないなぁ」


 佐野「まあ、今日は別件で来たんだから、悪く思わないでくれよな」


 佐野「そんじゃ、さいなら~」


 石原「御託(ごたく)はいいから、仕事しやがれよ!」


 佐野「俺は、最小限の働きで最大限の給料を貰うんだからいいんだよ」


 佐野「だから、俺に期待すんなよなー」


 石原「クソっ、このバカ野郎がぁ!」


 佐野さんは、罵声(ばせい)を浴びせられながらも、そそくさと帰って行きました。


 石原さんは、本社の担当者にもこんな口調で話していました。


 ぼくは、しばらく事務所の入り口で唖然(あぜん)としていました。


 噂には聞いていましたが、石原さんが(くせ)のある人物だという事を、初っ端から見せ付けられたのです。


 なので、現場に配属されたばかりの頃は、どうなる事かと不安で一杯でした。


 ここまでが、ぼくの入社時の出来事になります。


 ぼくが、この現場に配属されてからは、以下のような感じでした。


 各所への挨拶周りが終わると、各機械室を案内されました。


 最後に、監視室から一番近い機械室に行ったのですが、そこで、この現場の現実を突き付けられたのです。


 その機械室には、以前に辞めた方の作業着が、大量に放り込まれていました。


 なので、ぼくが最初に行った作業は、1ヵ月掛けて作業着の分類と処分をする事でした。


 パッと見で、作業着に塗料やボンドが付着している物は、事務所のゴミに混ぜて少しずつ捨てていきました。


 その他の作業着は、再利用する為に洗濯をしていました。


 それが、何故1ヵ月も掛かったのかというと、この現場には洗濯機が無かったので、一枚一枚手洗いしていたからでした。


 それに、干場も無かった為、機械室の奥にあるスペースにロープを張ったのです。


 外に干せる場所が無かったのもあり、かなりの時間を要しましたが、何とか洗濯を終える事が出来ました。


 それらを、紙袋に詰めて本社に持って行くと、事務員の方が申し訳なさそうに受け取りました。


 その後は、いよいよ本格的な仕事になるのだと思っていました。


 ところが、当日の作業予定表を確認すると、定期的な作業があるのは1週間に1回程度でした。


 あとは、1日に1回の巡回だけでした。


 現場長の石原さんとは、親子程の年齢が離れているし、話が合うとも思いませんでした。


 ただ、しばらく経ってから思った事は、


「石原さんは意地悪だけど、仕事は楽だからいっか」


 という事でした。


 それに、お互いに競馬好きだったのも好都合でした。


 土日出勤の際は、競馬のメインレースだけはテレビをつけても大目に見てくれました。


 ただ、重要度が高い仕事はろくすっぽ教えてくれませんでした。


 それに、郵便物や書類のほとんどは石原さん宛なので、勝手に見る訳にはいきませんでした。


 石原さんの机の右端には、白い箱が置いてあるのですが、その中に毎日の様に届く郵便物や書類が重ねてありました。


 従って、ぼくの役割りといえば、届いた書類や印刷物を白い箱に入れるだけでした。


 恐らくは、今迄の諸先輩方も、ずっとそうやってきたのでしょう。


 だから、何年居ても、石原さんが抱えている仕事は、覚えようがなかったんだと思います。


 ぼくも、事務仕事に関しては、何も考えず白い箱の中に書類等を入れるだけの存在になっていました。


 “何とかしなければといけない”とは思っていましたが、どうにもなりませんでした。


 こういう局面に遭遇(そうぐう)した場合、何とかして事務仕事を覚える、または、事務仕事以外に専念する、というのがありますが、多くは後者を選び資格の勉強を始めるのです。


 そして、有意義な資格を取ったら、条件のいい会社に転職するのです。


 同僚の早野さんは、典型的な後者のタイプでした。


 なので、早野さんとは、資格の勉強のついて話し合う事が多々あったと記憶しています。


 結局のところ、いつまでもこんな現場にいるよりも、資格を取って条件のいい会社に行った方が将来性があるのでしょう。


 ここで、本題に戻ろうと思います。


 石原「鈴木君、これ見てよ!」


 石原「こんなにいっぱい香水が捨ててあったんだよ」


 石原「こんなのだって、まだまだ使えるよ!」


 石原「ほれ、鈴木君も持って行きなよ」


 と、言ってきました。


「そういえば、この人は何でも拾ってくるんだったな…」


 ぼくは、何としてでも、ハートの香水を持って帰る事だけは避けようと画策しました。


 そこで、残量が多そうなオーデコロンを3個ばかり選びました。


 剛史「ぼくはこれで充分です」


 そう言って、ぼくはその場を()り過ごそうとしました。


 すると、石原さんが、


 石原「この赤いハートの香水なんて洒落(しゃれ)てていいんじゃないか?」


 石原「これも持っていきなよ」


 と、上機嫌で言ってきました。


 なので、ぼくは即座に、


 剛史「いえいえ、自立しない香水なんて要りませんよ」


 と、よく分からない事を言って断りました。


 すると、石原さんは、


 石原「じゃあ、この香水は娘の未沙(みさ)にでも持っていこうかな」


 石原「最近は、娘と会話をしなくなったからな…」


 と、言って、ハートの香水をカバンの中にしまいました。


 剛史「こういったデザインは、女性の方が喜ぶと思いますよ」


 石原「そうだな、話のネタにくらいはなるかな…」


 確か、石原さんの娘はぼくと同い年だったかな。


 それに、未沙さんは1人っ子だから、親子での会話が無いと味気ないんだろうな…。


 それ故、石原さんは娘さんに、面白可笑しいことを言って笑わせようと尽力していたようです。


 ぼくからしたら、何とかして娘さんの気を引こうとしている姿は大人気ないように思えました。


 やはり、世代間の趣味嗜好(しこう)が違うだろうから、お互いに好きな事をしていればいいのに、と思っていました。


 石原さんは、自宅のリビングの一番目立つ所に、赤いハート型の香水を置いたそうです。


 すると、娘の未沙さんがハートの香水を見て興味を示したんだとか。(以後、石原さんの一人娘を未沙さんと表記します)


 未沙「ねえ、お父さん、この香水どうしたの?」


 石原「これは、化粧品コーナーから廃棄された香水だよ」


 石原「部下の鈴木君も何個か持って帰ったよ」


 未沙「お父さんがこんな物を持ってくるなんて珍しいね」


 石原「何か、これだけ目立っていたんだよな」


 未沙「ちょっと付けてみていい?」


 石原「お好きにどうぞ」


 未沙「うん、これかなりいいよ!」


 石原「そうか、それは良かった」


 未沙「こういうのって、まだあったりするの?」


 石原「さすがに、もう無いと思うよ」


 未沙「これって、どんなタイミングで廃棄されるの?」


 石原「新作が出た時は、一斉に入れ替えているよ」


 石原「あとは、残量が少なくなった頃に定期的に入れ替えてるみたいだよ」


 未沙「へ~」


 石原「他のは安っぽかったけど、これだけは異彩を放っていたんだよね」


 夕食時、未沙さんはハートの香水をご機嫌で眺めていたそうです。


 未沙「じゃあ、これ貰っていくね」


 石原「おう、良いのがあったらまた持ってくるから」


 未沙「お父さん、ありがとね」


 石原「おう、喜んでくれて良かったよ」


 石原さんは、久々の父娘の会話に浮かれていました。


 未沙さんは、赤いハート型の香水を、寝室の小物入れに収納したそうです。


 すると、その日を境に未沙さんは悪夢を見る様になったのです。


 悪夢の内容は、失恋した時のほろ苦い思い出でした。


 それも、連日同じ夢に苦しんだそうです。


 そこで、未沙さんはこう考えた訳です。


「思い返せば、この香水を寝室に持ち込んでから、悪夢を見るようになったのよね…」


「忘れたい過去なのに…」


「もう、精神的に耐えられないわ」


「早く手放さなきゃ…」


 数日後、未沙さんはハートの香水を持ち出して、


 未沙「この香水を貰ってから、高い確率で悪夢を見るのよね」


 未沙「何か、気味が悪いんで返すから…」


  と言って、石原さんに返してきたそうです。


 石原さんは、複雑な気持ちでハートの香水を受け取りました。

  

 ここで、未沙さんが苦悩した、過去の失恋について述べたいと思います。


 未沙さんの悪夢とは、石原さんと飲み会をした際に語っていた事でしょう。


 日頃の勤務では、石原さんと一緒に退勤する事はありませんでした。


 ですが、店休日には業者の立会いがある為、設備管理員は全員出社だったのです。


 それで、帰り掛けに飲みに誘われたのです。


 その日は、特に予定も無かったので、1時間程度付き合う事にしました。


 石原さんは、酔っ払ったタイミングで、1人娘の未沙さんの話をしてきたのです。


 ぼくは、その話にひたすら相づちを打っていました。


 未沙さんが大学2年の時に、新宿会場のお見合いパーティーに行ったのですが、その時に知り合った彼と、付き合うようになったそうです。


 お相手の男性は、3つ年上の社会人の方でした。


 ただ、付き合い始めた時こそ熱愛状態だったものの、長くは続かなかったようです。


 多くの場合、お見合いパーティーで結ばれた者同士だと、こんな事を思うのではないでしょうか。


「お相手の方は、私の目を盗んではお見合いパーティーに行き続けているのかな?」


「だとしたら、早々に食い止めないとね」


 男性の場合、お見合いパーティーでカップルになれる人は、そう多くはありません。


 なので、女性からしたら、他の女の影を匂わせる男性には、細心の注意を払う事になるのでしょう。


 出会いのスタイルはどうあれ、お相手に夢中になればなるほど、疑心暗鬼に(おちい)ってしまうケースもあるでしょう。


 しかしながら、あんまりお相手を疑ってしまうと、いい顔はされないでしょう。


 このような時、至って大切なのは、お相手に過度な期待はしないという事なのかもしれません。


 ここで、本題に戻ります。


 未沙さんは、当時付き合った彼に、手酷くフラれた時の事柄が鮮明に夢に出て来たそうです。


 以下が、未沙さんの夢の内容になります。


 未沙さんが20才の時、当時付き合っていた彼とドライブデートに行った時の事でした。


 TVで、日光の紅葉は今が見頃だと放送していたので、そこに行く事になったのです。


 すると、高速道路で長い渋滞にはまってしまい、運転席の彼はイライラし始めたんだそうです。


 彼は、先を急ぐあまり、2人で前々から決めておいた休憩(きゅうけい)ポイントを無視して、勝手にどんどん進んで行ってしまったのです。


 それに、未沙さんが腹を立てて口論になったとか…。


 未沙「何よ!そこのPAに寄るんじゃなかったの!」


「いいや、このまま目的地迄最速で行くぞ!」


 未沙「はあ?あんたイカれてんじゃないの?」


「バーカ、この判断はベストだから」


 未沙「あー、あー、あー、もう、最悪…」


「こういう時は、状況判断なんだよ!」


 未沙「だけど、黙って約束を破るのは卑怯(ひきょう)じゃない?」


「分かったよ…、これからはちゃんと予定通りに行くからさ」


 未沙「最初からそう言えばいいものを」


 渋滞はしていたものの、途中のインターから降りる車も多く、流れるようにはなってきました。


 その後、何とか現地に辿り着くと、2人は綺麗な紅葉を満喫しました。


 フォトスポットでは、写真を撮りまくりました。


 ただ、目的は達成されたものの、2人の間には不穏な空気が漂っていたのです。


 文句を言われて不快になった彼は、帰りに寄ったPAで良からぬ事を企てました。


 それは、“強制的にお別れしよう”という事でした。


 彼は、どこかで未沙さんを置き去りにするタイミングを見計らっていました。


「そうだ!計画通りに休憩をとるふりをすればいいじゃないか」


「よし、次のタイミングで、このムカつく女を()いてやろう!」


 次に寄ったSAで、未沙さんがトイレに行って戻って来ると、彼の車は跡形もなく消え去っていたそうです。


 未沙さんは、帰り道が分からなくなり途方に暮れたそうです。


 いっそのこと、誰かの車に乗せてもらう事も考えましたが、精神的にそんな余裕はなかったようです。


 そこで、未沙さんは携帯電話を取り出し、自宅に連絡をしました。


 すると、たまたま休みだった石原さんが電話に出ました。


 その時、石原さんは、“今夜は一泊してくる”という電話だと思っていたそうです。


 心配ではあったものの、娘も成人したし、一報さえもらえば寛容な態度でいるつもりでした。


 相手は社会人だし、このまま数年後に結婚なんてのも悪くないかな。


 それに、いつかは孫を見たい、という気持ちもあったそうです。


 そこで、話も聞かずに、


「分かってる、分かってる、今日は戻らなくてもいいから」


 と、答えたそうです。 


 ですが、内容を聞いて愕然(がくぜん)としたんだとか。


 石原さんは、全ての予定をすっ飛ばして、3時間以上車を走らせて未沙さんを迎えに行ったそうです。


 その間、未沙さんはずっと携帯電話をいじっていたんだとか。


 日が沈んだ頃に、石原さんの車がSAに着いたものの、妙に緊張したそうです。


 それでも、気を落ち着かせて待ち合わせ場所に行くと、取り乱した未沙さんに泣きながら感謝されたんだとか。


 それを、“俺は正義のヒーローみたいだろ!”って、得意げに言ってたっけ。


 だけど、それからの振る舞いがいけなかったんだよな…。


 石原さんは、未沙さんと付き合う男性に、あれこれと口を出すようになったんだとか。


 その内容が、不適切だったんでしょう。


 何を言ったかは知らないけれど、娘の為を思っての事でも、度が過ぎるとこうなるんだろうな…。


 最近では、付き合いの浅い男性に向かって、“お前は娘と結婚する気があるのか!”と、問い質したとかなんとか…。


 その男性は、石原さんの圧力に屈して、そそくさと逃げ出してしまったそうです。


 後に、この一件が引き金となって、すっかり嫌われてしまったって言ってたな…。


 それからは、石原さんが交際相手に余計な口出しをするのを控えるようになったそうです。


 しかしながら、時既に遅しだったのです。


 その後、未沙さんは、真剣交際に発展するようなお相手には巡り合わなかったそうです。


 結局のところ、本人が希望するような男性や女性に出逢うのは、なかなか難しいのでしょう。


 それが、人によって、早い時期なのか遅い時期なのか、はたまた自由度があるのか無いのか、それぞれなんだと思います。


 ただ、この人とゴールインしたい!と思った矢先に、身内から邪魔が入って破局をしようもんなら、怒りや悲しみも相当なものだったのでしょう。


 やはり、過去の失態については、いつまでも引き()らず、切り替えていく事が大切なのでしょう。


 ここで、本題に戻りたいと思います。


 久々に、父娘の会話を交わしたという矢先に、ハートの香水を返されたのは、不本意だったに違いありません。


 何故なら、ハートの香水を引き合いに出して、会話が出来なくもなかったからです。


 それなのに、こんなに派手で女性向けの香水を返されたところで、使い道が無くて困った事でしょう。


 あとは、未沙さんから聞かされていた、ハートの香水を寝室に置くと悪夢を見る、という話も引っ掛かっていたようです。


 以上の理由から、石原さんは勿体(もったい)ないとは思いつつも、ハートの香水を手離す事にしたのです。


 もしも、このような出来事があったとしたら、皆さんならどう対処するでしょうか。


 恐らく、多くの場合では、捨てるという選択をするのではないでしょうか。


 いいところ、自宅付近のゴミ置き場に出すか、駅のゴミ箱に捨てるかだけの違いではないでしょうか。


 ただ、石原さんの場合は違ったのです。


 香水の処分に困った石原さんは、あろうことかぼくの事務机の引き出しに入れてきたのです。


 ぼくは、それを見るなり怒りが()いてきましたが、しばらくして冷静になりました。


「まあまあ、こんな事でいちいち腹を立てていたら、苦労して就職した甲斐(かい)がないじゃないか」


「石原さんはそういう人だしね」


「それにしても、態々(わざわざ)職場に持ってくる事はないだろうに」


「そうだ!とりあえず受け取るフリをしておけば、丸く収まるんじゃないかな」


「それで済むのなら、ぼくからはこの話題に触れるのはやめよう」


 ぼくは、気付かないふりをして沈黙(ちんもく)する事にしました。


 すると、次の勤務時に、石原さんは悪びれる様子もなく話し掛けてきたのです。


 石原「君の机の引き出しに香水を入れておいたよ」


 石原「あれはいい物だよ」


 意地悪な石原さんは、ぼくが嫌な顔をすると思ったに違いありません。


 しかし、ぼくは冷静沈着に受け流す事にしました。


 剛史「そうですか、要らないのなら頂きます」


 石原「そうかそうか、その方がいいよ」


 石原さんとの会話は、これで終わりでした。


 どうやら、波風を立てずに素直に受け取ったのが、最良の判断だったのでしょう。


 ですが、ぼくはどうも釈然としませんでした…。


「他にも何個か香水を持って帰ったというのに、何でハートの香水だけを職場に戻したのだろうか?」


「やはり、あの香水を持ち帰った後に、何かあったに違いない」


「という事は、石原家でも悪夢を見たって事か…」


「もしかして、ハートの香水には持ち主の残留思念があるのだろうか?」


「あるとすれば、恋愛に関する(やみ)で間違いないだろうな…」


 ここで、ぼくはある決意をしました。


「この香水は、他の誰かに渡してはならない!」


「負の連鎖はここで断ち切ろう!」


 ぼくは、ハートの香水が再び誰かの手に渡る事がないよう、自らの手で処分する事を決意しました。


 いっそ、(びん)ごと(たた)き割ってしまおうとも考えましたが、片付けるのが大変なので思い止まりました。


 そこで、香水の中身を使い切ってしまえば解決するのではないか、と結論付けました。


 ぼくは、ハートの香水をズボンのポケットに押し込みました。


 それと、2本の団扇(うちわ)を引き出しから取り出し、ビニール袋に詰め込みました。


 そして、(はや)る気持ちを抑えつつ屋上に向かいました。


 屋上には、設備管理員またはその関係者だけが入れる場所がありました。


 そこには、キュービクル受変電設備と室外機が並んでいるのですが、その裏側は一般人から見て死角になっていました。


 ぼくは、金網門扉(もんぴ)の南京錠を開けると、振り向きもせず入り込みました。


 そして、内側から施錠をした事を確認すると、そそくさとキュービクルの裏側に回り込みました。


 そのまま、一番端のスペース迄行くと、ズボンのポケットからハートの香水を引っ張り出しました。


 ぼくはそこで、ハートの香水のスプレー部分を、地面に向けて何度も何度もプッシュしました。


 数分後、遂にアトマイザーの中身を空になりました。(アトマイザーとは香水噴霧器のことです)


 それからは、香水の匂いを拡散させる為、2本の団扇を使って絶え間なく(あお)いだのです。


 緻密(ちみつ)な作戦が功を奏したのか、ぼくが退勤する迄の間に、近隣住民からの異臭騒動に発展することはありませんでした。


 ぼくの体には、香水の匂いが付いてしまったものの、職場の人達には“試してみたくなったので”と言って、その場を切り抜けました。


 それは置いておいても、ぼくには想像以上の達成感がありました。


 それに、空になったアトマイザーなんて、いくらなんでも誰も拾わないでしょう。


 念の為、香水の空瓶は、自宅近くのゴミ置き場に捨てる事にしました。


 更には、瓶ゴミの奥深くに混ぜておいたので、今度こそ悪夢から解放されると思っていました。


 ただ、帰宅してから懸念(けねん)を感じた事がありました。


 それは、香水を一気に噴射(ふんしゃ)した為、その匂いが体中に染み付いてしまった事でした。


 ぼくは、風呂場で入念に体を洗いましたが、香水の匂いは落としきれませんでした。


 特に、スプレー部分を押し続けた、右手の人差し指と手首に残った匂いが強烈でした。


 今回に関しては、右手の残り香がトリガーになったのでしょう。


 ぼくは、寝しなに嫌な予感がしました。


「あ~、あの時に、ちゃんとゴム手袋をすればよかったな…」


 そう悔やんだものの、後の祭りでした。


 その直後、ぼくは強い睡魔(すいま)(おそ)われました…。


「もう、面倒な事は全部明日考えよう…」


 そう思った時、直感的に理解した事がありました。


「ああ、この局面は悪夢を見る前兆じゃないのか?」


「だとしても、同じ場所にトリップするなら心の準備が出来そうだけどね」


「どうか、少しでも穏やかな夢でありますように」


 不安要素はあったものの、ぼくの意識レベルは急激に低下していきました。


 案の定、ぼくはその日の晩に不思議な夢を見ました。

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