《続編》第7部~不思議な夢はいつからか 第1章~悪夢から目覚めると
「ゴチーン!」
ぼくは日頃から、2段ベッドの下段で寝ているのですが、昨晩からの悪夢の影響で左側の柵に思いっきり頭をぶつけてしまいました。
「痛っ、いったたたた…」
その弾みで、ヘッドボードの前にある宮棚から何かが落ちました。
ただ、その何かがぼくの頭に当たる事はありませんでした。
「ふ~、危ない危ない…」
「頭に落ちてこなくて良かった~」
「何か、固い物が落ちてきたみたいだけど何だろう?」
手探りで拾い上げると、それは埃まみれになった丸っこい物体でした。
「はて?こんな物がいつの間に…」
いつもだったら、そんな物を発見したところで宮棚に戻すだけでしょう。
ただ、この時ばかりは、やけにその物体が気になったのです。
そういう気持ちになったのは、悪夢を見た直後だったからでしょう。
ぼくは、その物体をじっと見詰めました。
「これが何なのか、分からないままでは出勤したくないな…」
その物体を手に取ると、何かの小瓶だという事が分かりました。
ぼくは、その小瓶を洗面台に持って行き、濡れ雑巾で入念に拭き上げました。
すると、埃まみれだった小瓶の正体が判明したのです。
それは、ハートの形をした香水の瓶でした。
汚れが落ちたところで、小瓶に付着した余分な水分を乾いたタオルに吸収させました。
香水の瓶は鮮やかな赤色で、表面にはゴツゴツとした窪みがありました。(この香水は、以後ハートの香水と表記します)
ぼくは、その小瓶を照明の近くに翳しました。
内容量は、底面から2センチ弱といったところでした。
「何だ…、誰かの使い掛けか」
残量を見る限り、ハートの香水は高い頻度で使われていたようでした。
小瓶の形は、いかにも女性が好みそうなデザインでした。
とはいえ、男性が使っていたという可能性もありそうでした。
そこで、どんな香りがしてくるかによって、男性向けか女性向けなのかを判断しようと思いました。
ぼくは、香水の吹き出し口付近を、スッと嗅いでみました。
しかし、どんな匂いなのかは分かりませんでした…。
恐らく、この香水は長い間使われていなかったのでしょう。
それ故、吹き出し口付近の匂いは完全に飛んでいました。
「とりあえず、どんな匂いなのかをチェックしておかないとな」
そこで、ハートの香水を一噴きしてみると、何とも高級感がある芳香がしました。
「もっと甘い香りかと思っていたけど、そうでもなかったな」
「それでも、こんな派手なフォルムの香水は女性向けなんだろうなぁ」
「う~ん、こんな物何処で手に入れたのかな?」
そう思った瞬間、背中の広い範囲でビリッとした電流のようなものを感じました。
「痛って!いててててて…」
ぼくは、机の上に香水を置くと、直ぐ様洗面台に行ってシャツを脱ぎ捨てました。
そして、洗面台にある鏡の前に立ちました。
「クっ…、正面から映してもよく見えないや」
ぼくは、近くにあった手鏡を手に取りました。
背中の痛む箇所に手鏡を翳し、洗面台の鏡に映していくと愕然としました。
「何だよこれは…」
ぼくの背中には、思ったよりも広範囲に創傷がありました。
左肩から腰に向かって、引っ掻き傷のような痕が長々と付いていました。
その傷痕は、皮膚が裂けているという訳ではなく、蚯蚓が這ったような赤黒いアザになっていました。
他には、右側の首筋にもキスマーク形をした赤黒いアザがありました。
いずれのアザも、ズキズキとした痛みが続いていました。
それが、次第に刺すような痛みに変わっていきました。
ぼくは、苦悶の表情を浮かべました。
「あ~、クソっ!」
「何なんだよ、この痛みは…」
「ぼくの背後に、良からぬ物でも取り憑いているんじゃなかろうか」
そんな事を考えながら、後方を目視しようと試みましたが、あまりの痛さの為に断念しました。
ぼくは、しばらくの間、洗面台に両手をついて身体を支えているしかありませんでした…。
ただ、このようなケースは初めてではありませんでした。
悪夢を見る前夜には、このような現象か度々起こったのです。
しかし、朝起きてから上半身の何処かに、アザの様なものが浮き出てきたのは初めてのケースでした。
「ううう…、朝の時間帯だとこんなにも鋭い痛みなのか…」
「幽霊は、大概夜に暗躍するというのに…」
ぼくは、あれこれと思い付いた事を呟きました。
夜遅くに、ぼくの上半身に不可解なアザが浮き出たとしても、10分以内には痛みが緩和するので、それ程気にしていませんでした。
何故なら、30分もすれば痛みと共に赤黒いアザが完全に消滅したからです。
「まあ、朝方にアザが浮き出たとしても、10分もすれば痛みが解消するだろう」
ぼくは、動揺しながらも、そんな事を考えていました。
しばらくすると、引っ掻かき傷を負ったような背中の痛みだけが解消しました。
しかし、その日に限って首筋の痛みだけはいつまでも居座っていました。
ぼくは、洗面台の前で、恨めしそうに首筋のアザを眺めていました。
右の首筋にあるキスマーク形のアザは、かなり目立つ場所にありました。
ぼくは、やきもきしながら消えるのを待ちました。
「どうせなら、こっちのアザが先に消えてくれればいいのに…」
然れども、アザが消えるどころか、薄くなる気配すらありませんでした。
とはいえ、出社時間が差し迫っていたので、何とかするしかありませんでした。
「とにかく、このアザだけは隠して出掛けないと…」
ぼくは、首筋にサロンパスを貼って誤魔化す事にしました。
見た目はさておき、キスマークの様な赤黒いアザを、職場の皆さんに晒すよりはマシだったからです。
しかし、それが見事に裏目に出ました。
あろうことか、サロンパスを貼った事で、首筋に焼けるような痛みが走ったのです…。
ぼくは、激痛に辛抱出来なくなり、慌ててサロンパスを剥がしました。
「もういいや、このまま出社しよう!」
「時間さえ経てば、アザも痛みも消えるだろう」
そう思い直して、ぼくの部屋に戻って急いで着替えていると、後ろ側から視線を感じました。
ふと振り返ると、机の上にハートの香水が置いてありました。
ぼくは、ネクタイを結びながら、ハートの香水をチラッと見ました。
「これって、いつからここに置いてあったんだっけ?」
「う~ん、思い出せないな…」
「何で、あんな所(宮棚の上)に置いたか知らないけれど、香水なんて使わないよな…」
必死に回想してみましたが、考えている時間も無い程出勤時間が迫っていました…。
ぼくは、出掛けにこんな事を思っていました。
「どうも、この香水は薄気味悪いな…」
「早いうちに、何処かで処分をしよう」
そう思い、ビジネスバックの中にハートの香水を押し込んで出社する事にしました。
「よし、この袋に包めば通勤中に割れる事はないだろう」
「とにかく、早く家を出ないと!」
諸々の事情がありましたが、いつも通りの時間に出社する事が出来ました。
不思議な事に、電車に乗っている間はハートの香水の事が全く気になりませんでした。
ただ、職場の最寄り駅に着くと、段々と緊張感が高まってきました。
「今日は午前中が勝負だな」
「その為には、サッサと仕事を終わらせないとな…」
そう思い、ビジネスバックの中身を確認してみました。
袋の中には、あの忌まわしいハートの香水が鎮座していました。
「この香水をどう処分したらいいものか…」
「そうだ!屋上のフェンスを越して地上に落とすのはどうだろうか?」
「いやいや、真下に人がいたら大惨事になるから止めておこう…」
「だったら、機械室の中で叩き割ればいいだろうか?」
「いいや、そんな事をして不自然に匂いが残ってしまったら、現場長に怒られるんじゃないかな…」
「何かいい方法はないものかな」
ぼくは、会社に着く迄の間にそんな事ばかり考えていました。
しかし、これといっていい案は思い浮かびませんでした。
ぼくは、大型スーパーで設備管理の仕事をしています。
この日の勤務は早番でした。
早番は、出社するとすぐに水道メーターの検針をするのですが、昨晩からの悪夢と今朝のアザの一件がずっと心の奥底で引っ掛かっていました。
ぼくは、出社するや否や、自分の机の引き出しの中にハートの香水を入れました。
その後、作業着に着替えてから一息つくと、設備共通キーをジャラジャラさせながら水道検針に向かいました。
水道検針が終わり、そそくさと中央監視室に戻ると、共用の古いパソコンを立ち上げました。
フォルダを開いて、そこに読み値を入力すると自動計算されたものが右側に表示されました。
どうやら、水道の使用量において異常は見当たりませんでした。
ぼくは、一先ずホッとしました。
次の仕事は、午前中の巡回点検でした。
早番の仕事は、この時間帯が一番重要でした。
開店時間は10時なので、お客様が入店する前に如何に不具合箇所を見付けるかが重要でした。
ぼくは、直ぐ様巡回に出ました。
とはいえ、設備を点検をするというよりかは、宮棚から落ちて来た気色悪いハートの香水を処分する事で頭が一杯でした。
ぼくは、屋内外を問わず歩き回りました。
朝の巡回時は流す感じで点検しましたが、幸いにも不具合箇所は見付かりませんでした。
これで、ハートの香水を処分する場所を探すだけに集中出来そうでした。
「どこかに、捨てられる場所はないものか?」
建物の外周を回っていると、駐車場の右隅に廃材置き場があるのを思い出しました。
「確か、来週中には産廃業者が回収に来るんだよな」
「それまでに、他のゴミと混ぜてしまおう」
ぼくは、香水の瓶を混ぜても悪目立ちしないゴミを探しました。
すると、お誂え向きな袋が置いてあったのです。
その袋の中には、化粧品コーナーで試供品として置かれていたコロンや香水が、何十個も入っていたのです。
それらのゴミは、目立たない様に半透明のビニール袋に詰め込まれて捨ててあったのです。
どうやら、これらの試供品は、新商品の発売の度に入れ替えているようでした。
ビニール袋を開けてみると、内容量の半分以上が使われたオードパルファンやオーデコロン等が、30個以上も入っていました。
大手スーパーの化粧品コーナーは、百貨店よりは入りやすいし、合コンやお見合いパーティーの前に試供品をタダで利用していく人も多いのだとか。
それに、どうせなら高級な香水を付けようと思う人が多いのでしょう。
故に、高級そうな香水は完全に空になっている物が複数ありました。
「よし!この中に混ぜてしまおう」
ぼくは、一旦中央監視室に戻り、ハートの香水を引き出しから取り出しました。
香水の小瓶を蛍光灯の下に翳すと、キラキラと輝いて見えました。
「そういえば、この香水っていつからあるんだっけ?」
ふと疑問に思いました。
思い出せなくてモヤモヤしたので、熱いお茶を淹れて飲みながら考えてみました。
「あっ、そうだ!」
「この香水は、半年以上前の反省会の帰り道に、誠司君から貰ったものだ」
「確か、あの時は、池袋のお見合いパーティーに行ったんだっけ?」
「誠司君が、パイプ椅子の下に落ちていた香水を拾い上げたんだよな」
「それを、一番近くにいた女性に届けてあげたんだけど、その人の香水じゃなかったって言ってたっけ」
ぼくは、残りのお茶を飲みながら、その先の事も思い起こしました。
「誠司君は、上着のポケットに香水を入れたまま、会場を出ちゃったとか言ってたな」
「それで、反省会の帰りにぼくを呼び止めてこう言ったんだっけ」
誠司「この赤いハート型の香水は、ずっしりしてるから高級品かもよ」
誠司「それに、こうやって照明に当てるとキラキラと輝いて綺麗だろ」
誠司「でも、こうやってこの香水を見ていると、何だか奇怪な空間に引き込まれそうな気分になるんだよ」
剛史「えっ?」
誠司「嘘だよ、そんな事ある訳ないじゃん!」
剛史「ふっ、なんだよ~」
誠司「それを、お前にやるよ」
そう言って、ぼくに強引に持たせたんだっけ。
剛史「香水なんて使い道がないから要らないよ!」
って断ったら、誠司君は強引にぼくの上着のポケットに入れてきたんだっけ。
誠司「この香水を、次のパーティーで付けてきたらモテるかもよ」
誠司「それにほら、どっかに飾るだけでもお洒落だと思わない?」
ぼくは、これ以上不毛な議論をしたくなかったから、そのまま持ち帰ったんだっけ。
ただ、酔っ払ってベッドの宮棚に置いてからは、完全に記憶から抜けてしまったんだよな。
「そういえば、この香水を枕元に置くようになってから、変な夢を見るようになったような…」
「まさか、この香水が…」
「何か気味が悪いな…」
「早く廃材置き場に捨てに行こう…」
ハートの香水を、作業ズボンのポケットに捻じ込むと、早足で廃材置き場に向かいました。
その間、誰かに声を掛けられないかとびくびくしていました。
何故なら、誰かと会うと何かしらの仕事を依頼される事が多いからです。
ただ、運良く誰とも会わずに廃材置き場に到着しました。
ぼくは、辺りを見回してから、化粧品コーナーから出たゴミを物色する事にしました。
半透明のビニール袋を開けると、“試供品”というシールが貼られた香水の瓶が、所狭しと詰め込まれていました。
その中に、ハートの香水を捻じ込もうとした瞬間に、ぼくの右耳の横を生暖かい風がヒューっと吹き抜けました。
その風に乗って、
「捨てないで…」
という、悲し気な女性の声がしたのです。
ぼくは、少しの間茫然自失になりました。
そのタイミングで、開店5分前を知らせるアナウンスが流れました。
ぼくは、ハッと我に返りました。
そして、今回の一連の事象を理解しました。
「何だ…、悪夢の原因はこれだったのか」
「前から、おかしいとは思っていたんだよな…」
ぼくは、“やっぱりな”と思いながら、持っていたハートの香水を半透明のゴミ袋の奥底に突っ込みました。
そして、袋の口を強めに結んでから、何重にも結び目を作りました。
「ふぅ~、これでやっと悪夢から解放されるだろう」
ぼくは、何だか清々しい気分になりました。
それから、ぼくは何食わぬ顔をしながら通常業務に戻りました。
背中にあった引っ搔いたような跡と、首筋にあったキスマークのようなアザは、昼頃になるとすっかり消えてなくなっていました。
そこで、ぼくは考えました。
「朝方から長々と続いた痛みとアザは、ハートの香水を処分したお陰で改善したのだろうか?」
「だとしたら、ぼくはとんでもない物を持っていたのかも知れないな…」
そういえば、次の産廃(産業廃棄物)の回収は何時だっけかな?
「何だ、次は3日後か~」
「は~」
「出来れば、今日持って行ってくればいいのになぁ…」
ぼくは、産廃業者の作業予定表を見ながら、独り言と溜め息を漏らしました。
中央監視室に戻って、本日分の点検表を用意していると、直感的に感じた事がありました。
「どうせなら、通勤中に駅のゴミ箱に捨ててくれば、こんな手間はかからなかったんじゃないだろうか?」
「そうすれば、完全にぼくの手から離れたのに…」
ぼくは、何だか悪い予感がしました。
そんな事を思ったものの、
「いやいや、今回のぼくの行動はベストだったんじゃないかな」
と、思い直す事にしました。




