第7章 ライブラ王国と天秤の上の少年少女 4話
コブラが目を覚ますと、見覚えのある路地裏だった。
しかし、かなり昔のような気がする。コブラはゆっくりと起きて、その路地裏を歩いていく。光のある方へ、大通りの方へ。
大通りを出た時、彼は驚きで目を見開いた。
上空には巨大な壁。レンガ作りの家々が並んでいる。
「なんで、オフィックスにいるんだよ……俺」
コブラの独り言に誰も反応しない。それどころか盗人であるコブラが現れたというのに誰一人コブラに視線すら向けない。まるでそこに彼など存在していないかのように――。
「何かがおかしい」
コブラはそのままオフィックスの町を歩く。やはり誰もコブラを見ない。彼は果物屋から林檎を盗ろうとしたが、全て触れることが出来ずに通り抜けてしまう。
「これが試練の一つってことか?」
コブラは腕を組んで唸る。
そう判断しても、彼にはこの後やるべきことが見えない。何気なく町中を歩く。空を見ながら歩く。それでも人とぶつかることはない。人も全部すり抜けてしまうのだから。
「とりあえず行く場所、行く場所」
コブラは堂々と大通りを通りながら気に入っている茶屋を向かう。扉を開いて入ろうとしたけれど、扉を開こうにもドアノブを開けず、困っていると、そもそも扉を通り抜けれることを気づいて通る。
コブラは中に入ると、そこで働いている女性を見て安堵の息を漏らす。
きびきびとしていて、可憐さを持っているが、とても強かな女性である。
――今日もモルカでいいですか?
コブラはオフィックスでの日々を思い出す。
変装していても、きっとみすぼらしさは隠せていなかっただろうに、この店のお嬢さんはとても明るい笑顔で接してくれていた。コブラはその女性を
今の自分の身体では、モルカを飲むこともできない。
「お姉さーん!」
その時、扉が開く。小さな子どもが入ってきたのだ。その手にはヘラクロスの冒険を抱きかかえている。
「あら、また来たの。いらっしゃい」
「僕、いつものね! おにいちゃんと一緒の!」
「はいはい」
女性がクスクスと微笑みながら少年に暖かいモルカを出す。
少年は本を開きながらモルカを口に運ぶ。
「本当にモルカ好きね」
「うん。お兄ちゃんがいっつも飲んいでたから」
「ふふ、そうね」
女性がそう答えた後、自分の仕事に戻る。少年も本をじっくりと読み込みながら時々モルカを飲む。
その様子をコブラは呆然と見守るしかない。
「ここは、俺がいなくなってからのオフィックスか?」
コブラはひらめいたと同時に驚いて目を疑う。なぜ、自分が自分の知らない夢を見ることが出来るのか。
「なんだい? あの小僧の話しているのかい?」
茶屋にいた他の男が少年と女性の間に割ってはいる。
「あの小僧は可愛げがあったんだけどねぇ。ここでしかいえねぇが」
「そうですね。この町じゃあ一応ならず者でしたものねぇ」
男の言葉に相槌を打ちながら店主の女性はグラスを拭いている。
男もコブラの顔見知りだった。この茶屋の常連で、自分がいると、必ずいた。
他にも店にいた者たちが口々にコブラの話をする。コブラは、あの店の者達にも皆バレていたと思うと、なんとも恥ずかしい感情に襲われた。
「いつ、戻ってくるのでしょうね」
グラスを拭き終えた店主の女性は物憂げな声で答えた。その表情に皆が静まる。
「僕、お兄ちゃんが戻ってくるまでにこの本読み終わるんだ。家にいたら勉強しなさいって言われるから、ここで読むの」
「そうね。私ももっと美味しいモルカ用意できるようにしなくっちゃ」
男の子の言葉に明るく返す店主にコブラの心は満たされた。
「お兄様はああいった女性が好みなのですか?」
「っ!?」
一つの座席の方から声がする。反応したのはコブラだけであった。二人用の空席のところにリブラが座っている。巫女としての恰好をしている。客の誰も、リブラの方を見ない。彼女もまたコブラ以外には見えていない様子であった。
「どうぞ、お兄様。座ってください。ここなら貴方でも座れますよ」
リブラに言われるがまま、コブラはリブラの向かい側に座る。
リブラの夜空のような両目が美しくも不気味でコブラは恐れながらでなければ彼女の両目をじっと見つめることは出来なかった。
「ここはなんだ?」
「オフィックス王国ですよ。お兄様がいなくなった後の」
「なんでそんなものを見せることが出来る」
「こう見えても神子なので」
「あのシャマシュってガキも言っていたな。なんだ。神子ってのは」
コブラが睨みつける。リブラはそんなコブラに畏れなど抱かず、長い髪を指先でもてあそんでいる。
「文字通りですよ。神の子です」
「神だ?」
「えぇ。天上におわします神が子を成した。その存在が私です」
「だからこんな芸当が出来るってのか? これは儀式の一環か?」
「そうですね。ですが、どちらかと言えば、私がお兄様と話したかったからこそ用意した舞台と言っておきましょうか」
リブラはクスリと笑った後、店主の女性の方に視線を動かす。
「彼女、少しシスターに似ているのかもしれないですね」
「シスター?」
「えぇ、私たちの面倒を看てくれた女性。まぁ、シスターはもう少しお歳を召していましたが、見た目がと言うよりは……雰囲気が」
リブラの話はあっちこっちに脱線していくので、コブラからすれば全貌が掴めずなんとも居心地の悪いものであった。
「リブラ」
「なんでしょう? お兄様」
リブラは嬉しそうに笑顔を弾けさせてコブラの方へ身を乗り出す。
この無邪気さもどこか恐ろしさを抱いてしまい、コブラは戸惑う。
「他の連中はどうなった?」
リブラは求めていた答えではなかったのか、不服そうに座り直した。
「申し訳ございません。私も知りません。と言っても、最後まで孤児だったのは私と貴方ぐらいではないですか」
「そうだったっけか?」
「酷いです。昔のことはてんで忘れているのですね」
コブラは気まずそうに目を反らした。
コブラはオフィックスで生き抜くために、過去のことは意図的に忘れようとしていた。
だからこそ、リブラの姿も見るまで思い出すことすらなかった。
「さて、お兄様」
リブラが指を鳴らす。リブラがなんの躊躇いもなく指を鳴らせることにコブラは少し嫉妬して彼女の手を睨む。コブラはまだ恐る恐るしかならせない。
すると、お嬢さんが虚ろな目になり、コブラとリブラの元にモルカを置いてくれる。
「えっ」
「さあ飲みましょう」
リブラは当たり前のようにモルカを飲むとその美味しさに喜びの声をあげる。
「んー、これがお兄様の好きなお飲み物ですか。美味しいです」
コブラも恐る恐る口に運ぶ。確かにこれは、自分が愛してやまなかったモルカの味であった。
久しぶりの好物はコブラの五臓六腑に染みわたり、思わず安堵の息が漏れた。
「なんでこんなことが出来る?」
「ここは実際に世界ではないからです。実際は、お兄様の知識から想像された世界」
「夢の世界ってことか?」
「それとも少し違います。まぁ、この辺りはあまり考えない方がよろしいかと」
要領のえないリブラの言葉にコブラは少しずつ苛立ちをを覚えた。
しかし、目の前のモルカの美味しさにリブラのことを許す。
「それで? なんで俺がここにいる? 試練か?」
「ここは私がお兄様と話すために接続した場所です。試練などではございません。本当はお兄様を捕らえたかったのですが、逃げられてしまいまして」
「逃げられた?」
「えぇ、一人で貴方を背負って逃げていきましたわ。今テミスたちが追っております」
コブラはリブラを睨みつける。リブラはそんな彼の目を見て微笑む。
「お兄様の左目に映る。その銀河と私の目に映る銀河が意識をつなげているのです。理屈は考えないでください。私もよくわかっていないので」
不敵に笑みを浮かべるリブラに対してコブラはまだ警戒心を解くことが出来ず、腕を組んでリブラを睨みつける。
「とりあえず、あんたたちは俺たちに敵意をむき出したってことでいいのか?」
「いいえ、ただ、我が国では神の前で嘘をつくことは死罪に等しい大罪なのです。試練もそれ相応に難易度が上がります」
リブラが残念そうに溜息を漏らす。コブラはいまだに彼女の真意がわからずに首を傾げながら彼女を見つめる。
「さて、楽しい談笑を続けたいのですが、お兄様は私とのお話をあまり楽しんでくださらない様子。テミスたちも彼女を逃がしてしまったようですし」
そう言いながらリブラは席を立ちあがり、コブラを見下ろす。
「お兄様。貴方はこれからどこかで目を覚ますでしょう。貴方が偽りを言ったせいで、貴方の仲間4人の命は囚われました。救いたくば、東西南北にある神殿を巡ってくださいませ。ですが、私としては、お兄様はこれ以上旅をせずに、私と共にあることを選んでほしいですが、ではまたお会いしましょう」
そういうとリブラは普通に店を出ていった。
コブラはいまだに全貌を掴めずにただその場で呆然としていた。
「おかわりはいりますか?」
すると突然茶屋の娘がこちらに話しかけてきた。コブラはあまりに突然のことだったので慌てふためいて思わずカップを倒してしまう。
中はもう何も入っていなかったからこぼれることはなかったが、コブラは自身の動揺に恥ずかしくなった。
「大丈夫ですか?」
「え、えぇ」
「カップ下げさせてもらいますね。おかわりはどうしますか?」
「お、お願いします」
「ふふっ、そういうと思いました。お待ちください」
コブラの言葉などわかっていたかのように娘はほほ笑んでカップを下げた後、少ししてすぐにモルカを持ってきた。
「あ、あの」
コブラは思わず娘さんに声をかけた。
なぜ彼女が自分と会話出来ているのかも不思議でならなかったが、そんなことよりも、今こうして堂々と彼女と話せている事実に言葉が先に出てしまった。
「なんでしょう?」
「お、お名前を聞いても?」
娘は不思議そうに首を傾げたが、しばらくしてコクリと頷いた。
「私の名前はコブラと言います。女なのになんかゴツゴツした名前でしょう? なので、常連の方も、気を使って呼んでくださいませんが、これでも気にはいっているんですよ? 強そうで」
その時、コブラは目を丸くした。自分があの時ヤマトに名乗った名前は彼女の名だったのかと驚きを隠せなかった。
きっと、図鑑で見た蛇の名前であることと、いつも通っていた店のお姉さんの名前を一度二度聞いて、印象的だったからなのだ。
その事実を知ると、なんだかおかしくなって思わず吹き出してしまう。
「なるほど。そりゃ俺がこの名を名乗ったら嘘になっちまうか」
突然コブラが噴き出すので、娘は不思議そうに首を傾げた。コブラは席から立ち上がる。
「悪いねお嬢さん。じゃあ、帰るわ」
「えぇ、いつでもお待ちしておりますよ」
娘は優しく微笑みかけた。これは都合の良い夢かもしれない。リブラの言っていたこの空間の詳細はコブラには何ひとつ理解できなかった。
それでも、彼女が、本来コブラと言う名の少女が自分に対して問いかけてくれている気がして思わず嬉しくて頬が緩む。
そしてコブラは店を出る。すると、まばゆい光に包まれて、コブラは目を閉じ、暗転する。
目を覚ますと、息も絶え絶えになっているリコリスと、猫のリザベラが自分に寄り添うように眠っている。
コブラは知らないベッドで眠っていた――。
キヨたち四人の姿は、どこにもなかった。