第7章 ライブラ王国と天秤の上の少年少女 12話
リザベラはすぐにでも逃げたかった。しかし、リブラの目が彼女をじっととらえている。彼女がまだ幼い頃からあの銀河の瞳をしていた。
「そう逃げ腰にならないでくださいな。シスター」
「私は貴方たちを救うことが出来なかった。恨んでいるだろう」
「いいえ。いいえシスター。貴方のおかげで、私は自分の道を見つけたのです。感謝しております」
リブラは胸の前で両手を祈るように握る。目をじっと閉じた彼女はただの無垢な少女にも見える。
「私は嬉しいのですよ? あの時、リコリス……でしたっけ? 彼女を庇った時、貴方の動きを見て、もしかしたら? と思ったのです。 こうして再会できたこと。神に感謝ですね」
ニッコリと笑うリブラの表情を見ても、リザベラは彼女を睨む。
「だからどうして睨むのですか? あの頃は優しく見つめてくれたじゃあないですか」
「あんた、少し変わったかい?」
「そうですか? ふふっ、猫になっちゃったシスターに言われると可笑しくなりますね」
「あんたは、コブラをどうするつもりだい?」
「どうする……ですか? もちろん。星巡りの使者として丁重にもてなしているだけです」
「違う。あんたの目には、何か企んでいる」
リザベラの言葉にリブラは何も言い返さない。先ほどまでのにこやかな表情から一変真顔になる。
「私の方こそお聞きしたいです。なぜシスターがお兄様とご一緒に?」
その言葉にリザベラは閉口した。彼女自身の中で小さな答えがあるが、それを口に出すのは憚られた。
「……成り行きさ」
リザベラは誤魔化すように目線を反らす。
その態度にリブラはこれ以上情報を引き出せないだろうと、諦念の溜息を付き、話題を切り替える。
「せっかくです。シスターは私が何か企んでいると仰っていましたね。いいでしょう。お教えしましょう」
リブラは仰々しく両腕を天に上げて、空を見上げた。まるで何かを称えるような動きである。
「この試練にお兄様が達成できなければ、お兄様はこの国で私と共に神になっていただこうかと。よろしければシスター? 貴方も天使の依代として、私に仕えませんか?」
彼女の言葉は冗談などではなかった。彼女の目がそれを物語っている。リザベラはその目を見て思わず微笑んだ。
「やっぱりあんたはそういう子だよ。意外と強情で、自分の欲しいものは絶対に欲しいと諦めない。我が強くていつもコブラを困らせていた」
リザベラはリブラに対しての恐怖心が薄れていく。彼女の中に幼い日の少女の面影を見たからだ。思わず笑みがこぼれてしまう。
「さて、リブラ。私の答えを教えるわ。もう一度あんたと一緒になれるのは魅力的だけどね。既に仕えているものがいるんだ。悪いね」
リザベラの脳裏にはリコリスの顔が浮かんでいた。リザベラはリリスとの約束のため、そして夢と将来のある大きな少女のためにこの二度目の生を使うと決めていたのだ。
「そしてもう一つ。リブラ。コブラもきっと、あんたの言う通りにはならない」
リブラは露骨に不機嫌な表情になり、キッとリザベラを睨む。
「どうしてですか?」
「あんたとコブラは似ているからさ。あんたが強情なら、コブラは頑固だ。似た者同士なんだよあんたらは。どっちかがどっちかを縛ることは出来ないだろうさ」
ニヤニヤと笑うリザベラの言葉にリブラは頬を膨らませる。
「だからこそ、私は気になるね。リブラ。あんたがなんで神様なんかの言いなりになってんのか」
「私は…………神の子なのです。誰がなんと言おうと、この銀河の瞳が、この国の民が、私を神となる者と見定める以上、私は神なのです」
「そうかい。まぁ、コブラが試練を達成すればあんたの企みも全部水の泡さ。それまで優雅に散歩でもしてな。あたしも別で散歩していることにするよ」
リザベラはそう言い残すと、ひょいっと屋根から降りていった。リブラはすぐに追おうとしたが、猫ならば降りられる屋根も、人の足では降りることが出来ない。リザベラは振り返り、小馬鹿にしたような表情でにんまり笑い、そのままリブラに背を向けて去っていった。
「あの顏、やっぱりシスターですね」
リブラは幼い頃に見ていたお婆さんの表情と目の前の黒猫の表情が重なった。
「探しましたよ。リブラ様? テミスが心配しておりました。今のは、星巡りの使者一行の飼い猫でしょうか?」
リブラは屋根から降りて去っていくリザベラの背中から声がする。リブラは安心するその優しい声に心を穏やかにして振り返る。
「バランスですか。どうしたのですか?」
「ですから、テミスが貴方を探しておりましたよ? と。彼も心配性ですよねぇー。自分の神殿にも帰らず、貴方の傍ばかり」
バランスという名の男は所作の全てが丁寧で、両手を後ろに組んでピンと立ってニコニコと笑顔を絶やさずにリブラを見つめる。その様子にリブラも思わず微笑み返す。
「貴方は逆に自分の神殿を大事にしすぎですよ? たまにはこうして会いにきてください」
リブラはそう言いながら、今自分が散歩しているところが西部。バランスの管轄の場所であることを理解した。
「そうですねぇ。私は四大天使の中でも古株の老人ですからねぇ。若いものたちに任せようかと」
そう答えているが、その容姿は、幼子を依代にしているシャマシュを除けばだれよりも若く見える。若い見た目から放たれる老人のような落ち着きは少し不気味であった。
「テミスが探しておりますので、アストラ神殿にお戻りください。それに、コブラ殿も既に二つほど神殿を踏破したとか……。再びアストラへ向かわれるのも時間の問題。色々と準備がいるのではないでしょうか? リブラ様」
微笑みかけるリブラの言葉の意図を汲み取ったのか、リブラは少し頬を赤らめた。
「揶揄わないでください。しかし、確かに貴方の言う通りです。ライブラ王国の神子として、責務を果たすべく。私は神殿へ向かいます。わざわざご足労ありがとうございます。バランス」
「いえいえ、我々は貴方の忠実なしもべ。これくらい当然です」
リブラはそう答えると、バランスに背を向けて、アストラ神殿を目指して歩いていった。
バランスはそんなリブラの背中が遠くなるまでその場にとどまりじっと彼女の背を見つめる。
少し足取りが軽い。よほどコブラという少年を気に入っているのであろう。その背中は、神になる器である神聖な者ではなく、一人の少女のように見える。
「さて、私も戻りましょうか。まもなく、彼女が目を覚ますでしょうし」
バランスはそういって屋根からひょいっと飛び上がる。
西部にある神殿は他に比べてえらく質素であった。この町の老人たちが住む穏やかな土地にある神殿横には静かに流れる水路がある。
バランスはその神殿の階段をゆっくりと上がり、神殿内へと入る。
時刻は既に夕日が出る時刻。この時間になると自分の神殿を訪れるものはほとんどいない。
バランスにとって一番ゆったりと過ごすことの出来る時間である。
普段ならば、信者が奉納してくれるレオ帝国の茶葉から作る緑茶を啜るのだが、今日はそう行かなかった。
聖堂の扉を開く。バランスのいる神殿は他と違い、部屋の最奥部に大きな天秤が置かれている。
その天秤の下には完全に隔離された部屋が二つ。中に入ってしまえばだれにも見えない。
懺悔室であった。
正義を司るライブラ王国。国内にある五つの神殿の中で、唯一罪人でも入ることが許されている神殿。罪を告白し、洗う神殿。それが西部の神殿であった。
バランスは右側の部屋に人の気配を感じる。
倒れていた彼女の意識が回復した証拠だろうと、バランスは安堵の息を漏らす。
それでも彼女は部屋から出てこない。バランスは反対の左側の部屋へ入った。
「こんにちは。赤い髪の姫様」
バランスが懺悔室内にある。筒に向かって話しかける。
この部屋の声は、部屋の上部にある天秤を使って、反対側の部屋に届く。それは向こうも同じである。姿形を見ぬまま、中で誰が話しているかわからないまま、会話が出来るのだ。
目を覚ました少女は警戒しているのか、しばらく返事をしてこない。
「なぜ私が姫だとわかるの?」
ようやく答えた彼女の言葉にバランスは納得したように頷いた。
「気品が溢れておりましたので」
「あっそう」
バランスの調子のいい言葉に少女――キヨは適当な返事をした。
「それで? 私はさっき何をされたの?」
キヨの言うさっきと言うのはアストラ神殿で光に貫かれた瞬間のことである。
バランスはすぐに答えた。
「キヨ様は、冥界に行かれましたか?」
「えぇ。星巡りで」
「でしたら説明が早い。あの光線は、星術の力で貴方たちの魂を神殿に捕らえるものなのです。儀式のためのものなのです。貴方はこの西部の神殿に囚われていると言うことです」
「じゃあ、私は動けないの?」
「えぇ、この部屋からは基本出れないはずです」
キヨは実際に部屋から出ようかと試みることすらしなかった。部屋の中に充満する圧力が行動が無意味だと突きつけている。キヨはバランスとの会話を続ける。
「じゃあ、私はコブラが助けに来るまで黙って待っていたらいいの?」
「それでもよろしいのですが、私としては、貴方に挑戦してほしいのです。そのために、貴方を目覚めさせました」
「私に?」
「えぇ、その赤い髪。三十年前にお会いしたヤクモさま。さらに70年前にお会いしたオロチ様。さらには800年前のキシュウ様も同じ色の髪でした。貴方がオフィックス王国の正式な後継者、本来の星巡りの使者。なのではないでしょうか?」
キヨは声しかしないバランスの優しくも、確信のついた言葉に閉口した。バランスの言葉に驚く。キヨが幼い頃に聞かされていた父の父。すなわち祖父の名も、さらには教養で教えられた先祖の名も告げられたからだ。
「貴方、なぜそこまで知っているの?」
「それは、私がアストラ様の横で天使をしていた物であるからです。そしてリブラ様が神子であると同時に、オフィックスからやってきた少女なのです。次期国王として、貴方は、見ておいたほうが良いのではないかと、老婆心ながら思うです。いかがでしょうか?」
キヨはバランスの提案にしばらく熟考した。キヨが光線を喰らう直前のコブラの表情を思い出す。両目が銀河の少女。コブラの左目も同じものへと変わった日を思い出す。コブラと少女は知り合いであるのは明白であった。
キヨは気になった。コブラと、あの少女にどんな関係があったのか。そして何より、自分が平和に過ごしていたあの頃、コブラは、あの少女はどう過ごしていたのだろうか。
「いいよ、その試練とやら、私に課してよ。絶対に達成してみせるから」
キヨの覚悟のこもった声にバランスは思わず口角が上がる。
「えぇ、そうおっしゃっていただけると思いました。では、ゆっくり、お眠りください」
バランスの優しい声に、キヨの視界はうとうとと微睡み始める。
そして肩をがくっと下げて、座ったまま眠りについてしまった――。