幽 々
開戦から数年の歳月が流れていた。戦況は変わらず、砦を挟んでの睨みあいがいまだつづいていた。
そのあいだ、何度も両軍の衝突はあったが、どれも決め手を欠いていた。若きオトゥール王の軍勢は防御に徹することが多かった。ときには砦から、また、柵にある門を開けて左右の両翼から進軍し、遊撃戦を試みることもあったが、王の厳命に背くことなく、砦に常駐したオルトンもトバイアスも、敵に出血を強いることに徹していた。
そうなると、悪知恵の働くクリフォーレ王の軍勢としても打つ手がなかった。敵手に罠も待ち伏せもほとんど意味をもたない、視界のきく平原を戦場として選ばれたのだから。そもそも彼の軍は、常に兵站戦の延伸に悩まされ、大胆な攻勢に出ることができなかったのだ。
居城にあって、寸暇を惜しまぬオトゥール王の施策が功をそうし、兵数や士気の充実が目に見みえてはっきりしてきたのは、開戦から八年が過ぎてからだった。
この頃になると、慢性的な膠着状態に苛立つクリフォーレ王の軍勢の士気はいちじるしく落ちていた。だが王の野望への執念は凄まじく、兵站の維持や軍律が乱れることはなかった。恐怖による支配が隅々にまで行き届いていたからだった。時に居城に戻り、また前線へと姿を見せる、神出鬼没なクリフォーレ王の形相は日増しに鬼神の観を強めていた。
そんなある日、オトゥール王が新たに編成した親衛隊を伴って、数年ぶりに砦へとやってきた。王の光輝に衰えはなかったが、彼の率いる親衛隊の兵たちは、さながら幽鬼のごとき瘴気を漂わせていた。
「あれはまさか、湿原に打ち捨てられていた死者たちではないのか?」
「木乃伊の兵だとでも卿は言うのか!? そんなことはあるまい。我らと等しく、口もきけば食事もするのだからな。人間には違いないだろう」
オルトンにしてもトバイアスにして、その不気味さに後じさりしたくなるほど、親衛隊は不気味で恐怖を湧きおこさせる存在だった。
しかし、王は気にする様子ひとつ見せなかったし、老卿ニアードも変わらず率直で朗らかだった。
砦の一室に集まった諸侯は、緊張しながら王が口を開くのを待った。
「これまでの長きに渡る戦い、よくぞ耐え忍んでくれた。予は心から卿らの忠誠をありがたく思っている。諸卿にも国元の民人たちにも散々な苦労をかけてきた。すままなく思っている。そこでだ、諸卿らもすでに察しているとおり、そろそろこの戦いに決着をつけんと、予は思っている」
「いかなる手がおありですか? まさかあの幽霊のごとき兵たちを?……」
トバイアスの質問は、その場の空気をしばし凍りつかせた。
「……あれか……あれらのことは気にせんで欲しい。予の個人的な警護兵だと思ってほしい」
「と言われますと、王にはいかなる策がおありなのです?」
「ふむ」王はしばらく沈黙した。「予が願うのは、クリフォード王の居場所を知ることにある。したがって全軍によって遊撃戦を挑み、彼の王の居所を掴んでもらいたいのだ」
「では、わが君は、我らを当てにせずと仰るのですか?」
オルトンが切迫したように質問した。
「そうとも言えるが、そうとも言えぬ。予はもはやこれ以上の犠牲を卿らに強いたくないのだ。わかってはくれまいか?」
「しかしそれでは」とトバイアスが声をあげた。「この戦争は何だったのですか? わが君は戦を個人的な遺恨として終わらせると仰せですか!? 小生にはとても納得できかねまずぞ。それでは死んだ部下たちが報われません」
悲痛な声だった。
「オルトン、卿はなぜ黙っている。なぜ意見を言わぬか!」
「トバイアス、それこそ貴卿の遺恨ではないのか?」ニアードが間髪をいれずに叫んだ。「ええ、どうなのじゃ? 部下の云々と言いながら、結局のところその心持ちは卿の胸にある怨嗟ではないのか?」
「なんと申されるか……」
「卿にはわからぬか、わが君が一心にクリフォーレ王の怨みを受けようとしていることが。儂とて猛反対したのじゃ。何度諫めたかも失念したくらいじゃわ。物忘れの多さは、歳のせいかもしれんがな。――しかし困ったお方でのォ、聞く耳をもたれぬのじゃ。所詮は盗賊と傭兵の親玉が殺されたところで、その臣下たちが復讐の念に燃えるとは言えんとな。もっとも、彼の王自身を生かして返したなら、彼奴の怨みは十重にも二十重にもなろうがな……それこそ手に負えぬ存在になろう……」
「であるなら、王の身を守るためにも我らが加勢するのが筋と言うものでございましょうぞ!」
「トバイアス!」ニアードは椅子を蹴りたおしながら、立ち上がり毅然として言った。「卿はなぜわからぬか。儂が王の腰巾着になってまで、身命を賭そうとしておることが。この老いぼれ一人世を去ったとしてもそう悲しむ者もおらん。死は老いたるものの運命のようなものじゃ。しかし、儂のような老いぼれが生き残り、卿ら若い者たちが死んでいったなら国はどうなるのじゃ? ええ、どうなるのじゃ、答えてみよ!」
「……」
「もうよい、ニアード。卿らしくもない。要点は静かに話してやるに限るぞ。だがもはや卿にその気はあるまいが」
そう言うと王は厳かに立ち上がり、ニアードを伴って諸侯をおいて辞去した。
しばらくは誰もが天井を見上げるように、押し黙っていた。開かれた窓から吹きこむ、寒々とした風が思考を冷やして攪拌し、どんよりとさせた。
「遺恨。卿はそれをどうか考えるんだ、トバイアス」
「遺恨は遺恨であろう。そう我らに教えたの王その人ではあろうが」
「それが違うと、老卿は伝えたかったのではあるまいか? 王に遺恨あるは許され、臣下には許されない。なぜそのような微妙な言い回しをされたのだろうか」
オルトンはひとり言のように呟いた。
「どういう意味だ?」
「卿は時と場合が違うとは考えんか?」
「時と場合か……」
一瞬、古い記憶が呼び起こされ、互いに甲冑を貫きあって斃れたる二人の騎士の姿が浮かんだ。
「まさか……」
トバイアスは誰にも聞こえないほどかすかに囁いたあと、必死に不吉な想念を吹き払おうとした。
交わされた議論に納得して席をはらった者はほとんどいなかった。だが彼らオトゥール王の軍勢は積極的に遊撃戦に出て、クリフォーレ王の姿を探し求めたのだった。厳格な論理より、失われたままの平穏を、誰もが取りもどしたがっていたのだ。
戦いがはじまって九度目の霜の季節だった。