Ⅰ
今日は学校だ。だから朝から学校へ行き、そして午前中である今は授業を受けている。昨日のように化け物が出たからと何かをするつもりはなく、席に座り、黒板に書いてある文字をノートに書き写すだけの、単調な作業が繰り返されていた。
私はいつも通りの不愛想で、席についている。周囲の人間の視線なんて気にしない。こうして学校に来てみると、自分の日常が少しだけ取り戻せたかのように感じる。まあ、これが私のまごうことなき日常なんだけど。
だれも私のことを気にしないし、私もだれも気にしない。それが私の日常だ。それ以上もそれ以下もない。良好な友人関係というものを結ぶ願望もないし、もちろん険悪な人間関係を構築するつもりだってない。
だけど、あの化け物に関しては考えずにはいられなかった。
あの化け物。ジャックがとびかかったときは楽に勝てるかと思ってしまったが、実際はそんなことなかった。ただの色が変わるだけのスライムだろ? と思っていたが……まさかその色が、戦闘中に変わってしまうだなんて。一応、私も化け物に対して何らかの行動をすることができる――化け物を引き寄せる能力で――けれど、直接的に攻撃を加えることはできない。私自身にも、戦闘能力なんてものはない。もともとの動物に備わっている闘争本能なんてものもない。
あるのは臆病者の逃走本能だ。
……なんて、うまいこと言えていないんだけど。
さて、授業中はやはり暇だ……とくにこの授業は。分かっていることを延々に繰り返す。まるで私の日常のような授業をする。そりゃあ退屈になるか。
でも退屈でいいんだと思う。
私の日常に、非日常は要らない。そうだろう?
だから、おとなしく、じっとしていてくれればいいのに。
そう思って、私は少し大きな息をする。
そのとき、廊下をだれかが走る音が聞こえる。クラスのみんなの視線が廊下側の窓に向かう。その足音は私の教室の前まで来て。
ガラガラ、という効果音はあまりふさわしくないような音を立てて、私たちの教室の扉は開いた。開いた扉のほうは誰も興味を示さない。開けた本人。茶髪のショートヘア―。息が上がっている。顔を見ると――
「……紗那?」
突然教室に入ってきたのは紗那だった。授業を抜け出してきたのだろうか? そんな想像をめぐらせる間もなく――
「はあっ、はぁっ……先生、さとりさんに、外からのお客さんです」
有無を言わせないような強い口調で、紗那は言った。私にお客さん? 何の用だろうか。授業をしていた先生――名前は忘れた――は、ああそうか、それじゃあ行ってきなさいと私を促した。私は一応、「失礼します」と席を立ち、クラス中の視線に晒されながらドアへと向かった。見るなよ。普段見ていないんだから。
何があったのだろう。私に外部からのお客さん? ルートさんだろうか? ルートさんでも、わざわざ学校に来るなんて珍しい。まあ、一度学校に来ていたからそんなにおかしい話でもないのか。でも、学校が終わるのを待たずにこうして呼び出す理由は?
……もしくは、ルートさん以外の来客とか?
「失礼します!」
紗那は私をぐいと引き、廊下へと引き込んだ。扉をばん! と閉める。その挙動で、何か起きたことは明白だった。急いで、と言わんばかりに手を引いて、走りだす。私のついていけない速さではないので、ちゃんと紗那と並走することができる。
「……何か、あったの?」
「化け物が出た」
「……ああ、そういうこと」
「場所は例の裏路地。急ぐよ」
淡々とした話し方で私を急かす。その様子には普段の明るい感じや、間の抜けた雰囲気は少しも感じられなかった。
「急ぐって、どうやって」
「直線で行く――まだ試したことはないんだけどね」
「直線?」
どういうことだろう。最短経路で行くということだろうか。まあ、確かに数学でも最短距離を求めなさいといわれたら直線で結ぶ。でも、それが化け物とどういう関係が――じゃなくて、もしかして。
紗那と私は階段を下り、階段を下り、そのまた先の廊下を駆けて、昇降口へ来た。靴を履き替える。本当はそんなことをする時間は押しむべきであるのだろうけれど、さすがに戻ってきたときに汚れたシューズでは不審がられる。そういうところ、紗那は頭が回るのであった。
「履き替えた? じゃあ行くよ!?」
「行くって、だからどうやって――」
「はぁぁぁぁぁああああ!! 幻像創造!」
そう叫びつつ、紗那は空中へ飛び出す。いや、飛び出しているのは空中ではない。紗那の生み出した、見えない物体だ――幻像。紗那は幻像の上に乗っているのだ。
「行くよ! さとり!」
「え、えええ!? これに乗っていくの?」
「乗っていくというか、橋にしてね。立方体だけれど、それを積み重ねて結構大きな物体も作り出せるみたいだから、このやり方が一番早いと思うんだ!」
だからって、透明な橋に好き好んで乗るやつがいるか。子供のころはだれでも空が飛べたらという妄想をしたりするとは思うが、一歩間違えれば空中から地表へ落下しかねない危険性を伴ったものであることを自覚しなければならない。もう高校生、そのくらいの分別はついているし、足元のない恐怖を感じないわけない。
しかし、紗那は手招いている。私にもこの見えない橋に乗れと言っている。
ええいままよ! と私は紗那に引き続いて、空気の上に乗る。かん、と不可視物体と私の靴底が当たる音。案外しっかりした足場であるようだ。紗那は私が乗った様子を見てうなずき、もう一度私の手を引いた。
「離さないで。私の後ろをついてきて。わき道にそれたら、そのまま転落するからね!」
「う、うん!」
性急な要請に、こちらも返事をする。有無を言わせない――なるほど、紗那は一度決めたことにはこういう風に真剣に向かうのか。褒められた性格だ。私とは大違いだ。
紗那は駆けだす。同時に私も駆けだす。見えない足場を。紗那の駆けているその道をたどるように。
はじめは上り坂のようで、どんどんどんどん地面からは遠ざかっていった。学校も遠ざかっている。直線距離で向かっている、というのが分かるほど、その方向は考えつくされていた。しかし高度が上がるほど、足場は少しずつぐらぐらしてきた。見えない足場がぐらつく。これほど恐ろしいこともあるまい。
「駆け抜けてね! ちょっとでもモタついたら本当に落ちるから! 駆け抜けている間は大丈夫だから!」
恐ろしいほどの恐ろしさに身を震わせて、それでも走るしかないから走る。ひょっとすると化け物と直接対峙するよりも怖いことかもしれない。
化け物を真正面から見た時も、これほどまでの命の危険を感じたことはなかったぞ。ジャックとの空中浮遊と、いや、あれは空中飛行か。それと同じくらいの怖さだ。悲鳴を上げることがなくなったというのが、私の成長というものだろうか。
……なんか、そこで成長しちゃうのか。
あの化け物と。
あの化け物で、私は成長してしまうのか。あの、私の日常を奪っていった略奪者が、私の今までも壊してしまうのか。成長すること自体は悪いことだとは思わない。けれど、何か変化することが、とにかく私は嫌だった。
化け物がいるというだけで、私はこうして怖い思いをして、化け物に向かわなければならないのだろうか。私の日常である授業を、こうして中断させなければならないのか。別に授業に思い入れを抱いているわけではないが、やはり化け物のことを、恨めしく思わないわけにはいかなかった。
私の日常を、邪魔しやがって。
そして、もう一つ。
私がこれから化け物のところへ向かったとして、その行為が、化け物の足止めにつながるとして。
私にできることは、何一つないのだ。




