第 話 ポエット・タケミ
「えーと……」
時計の針が二時五十分を指す。俺にとって悪魔の時間。
鼻の下に鉛筆を乗せ、くるりと上唇で支える。足で机を踏み、四足ある椅子の足は今は二足だけ床に接している。あと少しでも力を加えれば、重力と俺の足は共謀して俺の身体を地面へと叩きつける。そのスリルがいい。
午前二時五十分と午後二時五十分のどちらが正式な二時五十分かと言えば、普通に暮らしていれば午後二時五十分の方が圧倒的に親しみ深いだろうが、十四時五十分とも言えてしまう以上、午前の方が正式と言うべきだろう。今はその正式な方。
実際には正式とかそういう区別はない。
いずれにしても、この俺、ポエット・タケミにとって二時五十分は悪魔の時間で。それはもう過去の話だ。
何故悪魔の時間のかはだいたい察しが付くだろうが、流石に二十代後半にも差し掛かろうという人間にそんな冷やかしをするサムい奴はいない。
だいたいがそもそも俺は竹見ではなく武巳なのだ!――と、昔の俺は言ったとさ。その訂正は今でもよくする。
「正式」か「非正式」か。その区別が矢鱈と気になってしまうのも、この経験からなのかもしれない。
二通り、あるいはもっと多くの、とにかく複数の解があったとき、最終的に人は知名度や印象、記憶、好みなどを使ってそのうちのどれかを選ぶ。
タケミ――ときて武巳を選ぶ人間は少ない。とても少ない。
あの禿のせいだ。
くそ、禿げめ。
まぁいいけど。
とにかく世の中にはいろいろな「正式」と「非正式」があって、俺はどちらかと言えば「非正式」の方に肩入れしたくなる。だから今の時間が少し恨めしい。
でも午後二時五十分は、それはそれでなんだか明るい印象でいけ好かないし、過去のとはいえ悪魔の時間だったのだから、ざまぁみろ、という感じもする。乙女心は複雑なのだ。
ともかくそんなエクス・パロット――もとい元・悪魔の時間に俺が何をしているのかと言えば――何もしていない。
ポエットと言うからには俺は小説なのだろうけど――なのだろうけど。今の俺を小説だとは俺はあまり呼びたくない。
詩を詠むから小説なんであって、詩を詠めないでぐだぐだと深夜二時五十分までうだうだしている武巳を、小説と呼ぶことを俺は許さない。戯曲なら許す。
そもそもこの俺が小説であったことなどあっただろうか? ただ韻を踏むのが好きで、言葉を掛けるのだけが好きで、それも日常的にやってるわけではなく、ふと思い出したように、おじいちゃんの発作のように韻を踏むこの俺が、小説だと? それはちょっと了見が甘すぎるんじゃないのか。
そもそも「ポエット」を名乗ったのだって「武巳」と掛けたかっただけだろう。それが「竹見」としか呼ばれないなら、最初から駄洒落としても成立していない。
やばい、アイデンティティの危機だ。
アイアンメイデン・クライストだ。
ん?
やはり調子が悪いようだ。
俺の中のポエット器官という器官が多分あって、今は少し塩分不足でへそを曲げているのだろう。塩を飲もう塩を飲んだ。
「うのーうのー、俺はなんでこんなに苦しいの」
「塩を飲んだからだ」と“うのー”が言った気がする。なんと猫のうのーはときどき喋った気がするのだ。
鬱陶しげに、安眠の邪魔をした飼い主もとい奴隷を睨み、一瞬のちに儚く宙に霧散してしまう視線。「うのーうのー、ポエット器官を直すために塩を飲んだのはポカリスエットからの着想なんだよ、うのーうのー」威嚇番目の喉が鳴る。
「ちぇ、じゃあポカリスエットを飲めばいいのにね」と、俺はUNOとのコニムケースンをあきらめる。
ベッドに飛び込む。
どうしてなんだろ……と呟く。
どうして猫は小説に入れなかったのか。どうして午後ではなく午前なのか。どうして武巳ではなく竹見なのか。どうして俺はこんなに苦しいのか。
すべてがある一つの原則によって無惨に吐き捨てられた吐瀉物というこの感じ――。
――多分それは「正式」あるいは『選択』という原則。
寝転がる俺の視界に転がり込む一通の本。
背表紙に焦げ付いたタイトルは今はぼやけて読めない。でも、覚えている。
あのとき、一世を風靡した、詩人・ポエット・タケミの処女作にして、現在唯一の著作。
どうして、どれか一つだけなのだろうか?
どうして、十二なのだろうか?
どうして、選ばれなければならないのだろうか?
今、俺が、あるいは他の誰かが思いつくすべての可能性、それらすべてが 『選択』され、「実現」されない理由。
可能性のままではいられない理由。
なによりこの世界の仕組みそのものが俺は憎い。
ふと立ちあがってうのーを撫でに行こうと踏み出したその時、
たまたま目が合った姿見に映る自分の顔を見て、表情は驚愕の表情を浮かべた。
「お前……女だったのか」
と、中田朱美はおどけて言った。涙は乾いた。